キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第44章

44章2節

ヨセフは家の管理者に命じて言った。「私の杯、あの銀の杯を一番年下の者の袋の口に、穀物の代金といっしょに入れておけ。」

ユダの息子たちがほろ酔い気分の頃、ある「企み」が進んでいました。前回と同様、穀物を入れた袋に、彼らの持ってきた銀がそのまま入れられました。さらに、ベニヤミンの袋には、ヨセフの銀の杯も入れられました。

ヨセフは、ベニヤミンを愛し、五倍の御馳走でも足らず、彼が持ってきた銀の何百倍も価値ある自分の銀の杯を与え、愛を示そうとしたのでしょうか。その後の記事からそうでないことがわかります。

ベニヤミンは、兄たちのようにヨセフ事件には関わっていませんが、兄たちと同じ罪がないからといって天国に入れるわけではありません。彼も兄たち同様、生まれながらの「罪人」です。

これという大きな罪意識も持たないベニヤミン的人に、生まれながら罪人であることを知らせることは難しいものです。ヨセフは、ベニヤミンの自覚できない罪をあらわにしようと、銀の杯を彼の袋に忍ばせました。

友よ。身に覚えのない理不尽なことに出会うとき、「原罪」の原点まで戻って物事を見てください。すると、もう少し納得できるものです。

44章4節

さあ、あの人々のあとを終え、追いついたら彼らに、『なぜ、あなたがたは悪をもって善に報いるのか。』」

シメオンもベニヤミンも一緒にいます。袋に食糧を一杯詰め、足取りも軽く帰る彼らに、ヨセフの召使が追いつき、「なぜ、あなたがたは悪をもって善に報いるのか」と荒々しく尋問します。ここでも身に覚えのない出来事が起こります。

人は、とくに神に対して、「悪をもって善に報い」ているものです。罪の赦しはまさにそうで、人が神の恵みである罪の赦し(神の善)を求めることは、自分の罪の代価を主に負わせることですから、主を十字架に架けることになります。

これは、寛大な人の恵みを利用して、自分の借金を何度でも肩代わりさせることと同じで、「悪をもって善に報いている」ことになります。ただ、人間同士が寛容に許し合う関係は、いつまでも続くことはありません。

しかし、神の愛に限界はありません。神が「人の悪(罪)」を御自分に引き受けて「善(赦し)」に変え続けるのは、「昇天」した神だからです。昇天は、「サタン・罪・死」に対する完全な勝利でした。完全な勝利者だから限界なく赦し続けます。

友よ。パウロのように「私は神の恵みを無にはしません」(ガラ2章21節)と、神の愛に応えたいものです。

44章5節

「『私の主人が、これで飲み、またこれでいつもまじないをしておられるのではないか。あなたがたのしたことは悪らつだ』と言うのだ。」

「悪らつだ」とまで言わせたヨセフです。彼が今まで兄たちにした親切は建前で、本音は憎しみだったのか。いいえ、彼は正しい家族をつくるためにこの行動を起こしています。

人間関係で難しいのは親子、夫婦、兄弟です。近いほど、相手を思い通り動かし、自分の幸福をつくるための「偶像」に仕立てようとします。それが、家族で互いの遠慮がなくなる時、さらに難しくなります。

ヨセフは肉親の家族でなく、神の家族を造ろうとしています。母たちが憎しみ争う姿から、自分たち異母兄弟たちも骨肉の争いをする体験をしました。それを根本から変えるのは、肉による家族から、霊の家族になる以外ありません。

友よ。聖書で一番厳しい言葉、「…自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は…弟子となれない」(ルカ14章26節)の真意を知ってください。

「憎む」とは、「家族を神以上に自分の救いにすることを『憎む』」ことで、「神を家族や人々よりも愛する」ことのメッセージです。家族が、血のつながりを超え、神の霊によってつながる神の家族となれるように祈りましょう。

44章7節

彼らは言った。「なぜそのようなことを…。しもべどもがそんなことをするなどとは、とんでもないことです。」

またもや不可解な事が起こりました。主人の大事な杯をなぜ盗んだのかと、ヨセフの家の管理者が責めます。それに対し、兄たちは精一杯、自分たちの正しさを強調します。

「あなたが心の中で、『なぜ、こんなことが、私の身に起こったのか。』」と問うのに対して神は、「それは、あなたの多くの咎のため」(エレ13章22節)だと言います。また、「ひょうがその斑点(はんてん)を、変えることができようか」(同23節)と加えられます。これは、罪人は自分が罪人であることを変えられないということです。

人はいつも、自分の基準で善と悪を判断しますが、善悪の基準は神にあります。そして神の基準で善悪を理解できるようになるのは、人が自分で犯していないのに負っている罪、「原罪」があるという事実に気づく時です。

そこに気づくと、一つひとつの自分の行動に納得がいきます(ロマ7章19・20節参照)。人生の一コマ一コマが、不可解でなく、神によって納得できるようになります。不安の出所は、問題の原因がわからないところにあるからです。

44章9節

「しもべどものだれからでも、それが見つかった者は殺してください。そして私たちもまた、ご主人の奴隷となりましょう。」

兄たちは、大胆にも上のように言い返しました。確かに盗んではいませんが、銀の杯は末弟の袋の中にある事実を彼らは知らないでいます。自分の正しさを主張すればするほど、さらに罪を深くするとは、これぞ人の本質です。ヨセフはこの罪に立ち向かっています。

神は、「わたしの目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない」(エレ16章17節)と自分を無罪と主張する者に言われました。見えない罪が作る最たるものこそ、「私は正しい」とする、「自己義認」で、その裏側には「神を神としない」があります。

人の原罪とは、「神を神としないで、自分を神とする(自己中心)」ことです。神は、それを人に気づかせるために、「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行ないの結ぶ実によって報い」(同・17章10節)られます。

愛する友よ。赤ちゃんは自分のおむつの中のウンチを、自分で洗う必要はありませんし、できません。親の前に全身を差し出し、親の手を待てば、親がすべてを解決します。あなたのすることは、そのように神に任せることです。

44章12節 ①

彼は年長の者から調べ始めて年下の者で終わった。ところがその杯はベニヤミンの袋から見つかった。

ヨセフ事件を企てた兄たちは、「弟のことで罪がある」と罪意識を持っていますが、加担しないベニヤミンに罪意識はありません。罪意識のない彼の袋から銀の杯が見つかったことが、「ベニヤミンの袋の杯」=「原罪」を表すメッセージとなっています。

原罪とは、「ベニヤミンは絶対に自分で入れていませんが、確かに袋にあった」というものです。それは、生後入った病原菌でなく、母の胎に宿る前、両親の遺伝子の中にあったウイルスのようです。あまりにも、「自分自身のいのち」なので、それが悪性のウイルス(罪)だと気づきません。

それがわかるのは、神に接し、自分の姿を知り、なんとか御心にかなう人になろうとしても、神の御心にかなえない自分を知る時です(ロマ書七章七節以降のみことばは、それを教える最高のテキストです)。だからこそ、解決は、一度死んで生まれ変わる、主イエスの十字架と復活にあずかる以外にありません。

友よ。罪を軽く見て、福音は喜び、笑い、解決済み、などという安価な恵み主義に陥らず、しっかりと罪をみつめてください。貴い恵みがわかります。

44章12節 ②

その杯はベニヤミンの袋から見つかった。

「盗んでないのに、『盗んだ』とされた罪」は、「原罪」を表しました。かつて意識しなかった原罪について、今思い浮かべることができます。

  1. 神によって造られたのに、自分を神として生きることは、まことの神の存在を「盗んだ」ことになる
  2. 神によって与えられた人生なのに、神に従わない自己中心の人生として生きることは、神からの人生を「盗んだ」ことになる
  3. 人が生きるために、神が備えてくださった様々な賜物や物質的な物を、自分のものとし、自分のためだけに使うなら、それらを「盗んだ」ことになる

神のものを自分のものにするのが盗みなら、福音を信じたことも盗み?でしょうか。しかし主は、「私の肉をたべ、血を飲め」(マタイ26章26~)と福音をただで受け取ることを喜ばれます(イザヤ55章1節参照)。

友よ。神のものを自分のものにした第一の盗み。神の恵みを受けた第二の祝福された盗み。しかし、第三の盗み「恵みを感謝しない盗み」があることを忘れずに!「主に感謝せよ…×二十六回」(詩136)。

44章13節

そこで彼らは着物を引き裂き、おのおのろばに荷を負わせて町に引き返した。

ヨセフの計略に兄たちは引き戻されます。聖書はヨセフの杯を、「まじない」(5節)、「占いに用いる」(口語訳)と記します。「ヨセフがまじない?」とはどういう意味でしょうか。もちろん、彼の今までの歩みから、彼は神の人ですから、偶像やサタンの手下にはなりません。

「原罪」を認めた者は、杯を神に返すべきです。それは、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩37・5)お方に委ねることです。 

神のご計画に戸惑う友よ。神があなたの杯を取り上げるのは、自己中心な人生設計を取り上げ、神の御心の人生へ導くためです。天の父のご計画は、あなたへの愛から立案されています。恐れずに「町(ヨセフの支配)」に引き返し、「袋(魂と心)」を開けてください。その時、ヨセフなる主イエスの本質と愛を、さらに深く知ることができます。

44章16節 ①

「私たちはあなたさまに何を申せましょう。何の申し開きができましょう。また何と言って弁解することができましょう。」

事実の力が彼らをへりくだらせました。私たちが心開いて事実を受け入れるなら、本当のことが見えてきます。パウロは、「神について知られることは彼らに明らかです」と言い、その理由を「それは神が明らかにされたのです」(ロマ1章19節)と言いました。自然界も人間世界も神の事実であふれています。

なぜ人は、自分が罪人である事実、弱い事実、自己中心である事実…を認めないのでしょうか。それは、事実を、とくに罪を認めると、「罪の価は死」であることを受け取れません。それを避けるため、他者を批判し、強がり、罪を指摘するまことの神を否定し、自己弁護と我欲を満たす偶像に逃げます。

友よ。私たちには、ヨセフのような主イエスがおられます。自己弁護の震源地である罪には十字架がありますから、恐れる必要はありません。むしろ、出来事の事実を否定し隠すことを恐れてください。神の明らかにされた事実の前に、「何も言いません。弁解しません」と兄たちのように主の前で言いましょう。すべての現実を認め、そこから自分でも他者でもなく、神に向かっていきましょう。

44章16節 ②

「神がしもべどもの咎をあばかれたのです。今このとおり、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたさまの奴隷となりましょう。」

ヨセフは、「あなたの奴隷となります」と兄たちに告白させるために工作してきました。それは、彼らを奴隷にすることで、神にある本当の自由人とするためでした。

人の真の自由は、自分の思い通りに何でもできることではなく、神の願う人、「主の奴隷」になることです。そのためには、自分の罪と神の愛の二つがわかることです。

パウロは、「主のしもべ(奴隷)パウロ」と自己紹介し、主の奴隷であることを何よりの誇りとしていました。彼は、自分が「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1章15節)であることと、神の愛がわかり「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(Ⅱコリ5章14節)と叫びました。

なぜ主の奴隷が自由人なのでしょう。それは、主人だけが奴隷を自由にできる権限を持つからです。主イエスは、人を「罪・死・サタン・この世・肉」の奴隷から解放することのできる唯一のお方です。さらに、神のいのちは、主のしもべとして生きる者に注がれるからです。「主の霊のあるところには、自由がある」(Ⅱコリ3章17節)。

44章17節

「杯を持っているのを見つかった者だけが、私の奴隷となればよい。」

ヨセフの兄弟たちは無条件降伏し、奴隷になりますと自ら申し出ますが、杯を持っていた者だけを奴隷にするとヨセフは答えます。

罪は、二つに分けることができます。パウロがローマ書五章までに扱っている単数としての「罪=原罪」と、六章から扱う複数の「罪々」です。

「原罪」は神を信じない死に至る罪ですが、「罪々」は神を信じつつもイエスを主として歩まず、自分の思いで生きるために神との交わりを阻害する罪です。

魂の救いは、罪(原罪)が赦されることです。「この世」と生まれながらの「肉(自己中心)」からの聖別は、「罪々」からきよめられることです。罪(原罪)を赦され神の子となり、罪々からきよめられてこそ、神の子として勝利の生活を送ることができます(ロマ6章5節参照)。

ヨセフの言うように、「杯(原罪)」を持つ者だけが、「死と地獄の奴隷」になります。しかし、そこから解放されたあなたが、赦された恵みにあぐらをかいてはなりません。あなたの周りにいる多くのベニヤミンを救い出すには、イエスを主とし、生き生きと生きるあなた自身の聖別にかかっているのです。

44章18節

すると、ユダが彼に近づいて言った。「あなたさま。どうかあなたのしもべの申し上げることに耳を貸してください。」

奇怪な出来事にたまりかね、ユダが進み出て、これまでのこと、とりわけエジプトの宰相と自分たちの間の出来事について順を追って話し始めました。同時に、自分たちの家族のことも説明しました(18節~34節)。

ユダの態度は、ヨセフの機嫌を損ねるどころか、彼の心を感動させ、本音を引き出す結果になります。神は人に向かって、「さあ、来たれ。論じ合おう」(イザヤ1章18節)と言われ、御前に出るのを待っておられます。主が論じたいことは、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白く」(同節)すること、罪を赦し神の子とすることです。

ヨセフが兄弟たちをいじめていたように見えたのは、彼らが建前を捨て、本音で自分に立ち向かって来るのを待っていたのです。

友よ。ユダがヨセフに迫ったように、主ににじり寄ってください。自分の中の悲観論と自己憐憫と自己弁護の堂々巡りを止め、「私の主よ」と近づいてください。その時、ヨセフが泣いたように(45章2節)主イエスも泣いて自分の本心を告げます。「わが兄弟よ。私はだれよりもあなたを愛している」と。

44章27節

「すると、あなたのしもべである私の父が言いました。『あなたがたも知っているように、私の妻はふたりの子を産んだ。』」

この家族の混乱は、父ヤコブが複数の妻を持ったことでした。その妻たちから生まれた腹違いの子どもたちは争い、不幸でした。

ある人は神を知らず、この世的にも最悪の親の元に生まれます。またある人は、信仰深い親の元に生まれ、神と親の両方の愛を受けて育ちます。そこで、前者の人生は「呪われ」、後者の人生は「祝福」されるのでしょうか。

勿論、大きな影響を受けます。しかし聖書は、人の祝福と呪いは、「主の命令に聞き従うなら、祝福を…。主の命令に聞き従わず…離れるなら…のろいを与える」(申命記11章27~28節参照)と断言します。人の幸、不幸は、親や周りに影響されますが、それをはるかに超え、その人自身が神を信じ、従うか否かです。

環境に満ち足りていながら、神を求めない人がおり、満たされないので、「心(霊)の貧しい者・悲しむ者・飢え渇く者…」(マタイ5章)になって、神を求める者がいます。

友よ。幸福と不幸は、周りと自分の条件を超え、神にかかっています。だからこそ、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マコ15章16節)と主は言われます。

44章28節

「ひとりは私のところから出て行ったきりだ。確かに裂き殺されてしまったのだ、と私は言った。そして、それ以来、今まで私は彼を見ない。」

ユダは、父のことや死んだ弟のことなど、家族状況を丁寧に説明しました。ヨセフは、自分が居なくなってからの家族が、どれほど苦しんでいたかを知ることができました。

罪の結果は、加害者も、被害者も、その家族も含め皆が苦しまねばなりません。兄たちが、ヨセフ殺害を企てたのは、「ねたみはよみのように激しいからです」(雅歌8章6節)とある、ヨセフへの妬みと、父への反抗でした。

しかし、根本的原因は、長い間、神を信じていながら、神を「主」とせず生きてきた結果です。家長ヤコブがイスラエルとなって後、神によって家族を一つにしようと気づいた時は、子どもたちは大人になり、影響力を及ぼせませんでした。彼は、ベテルで神と出会った後、神中心でなく、自己中心に生きた神不在の年月を、どれほど後悔したことでしょうか。

友よ。あなたは神を信じていますか。それでは、神を「主」としていますか。信じているだけなら、自己中心に負けていたヤコブです。神を「主」としているなら、神に支配されているイスラエルです。家族のためにも、あなたが神を主として生きてください。

44章29節

「あなたがたがこの子をも私から取ってしまって、この子に災いが起こるなら、あなたがたは、しらが頭の私を、くるしみながらよみに下らせることになるのだ。」

小さい子どもの時は「両親に従え」、成長してからは「父と母を敬え」が親を愛することになります。しかし、子が親を敬い、親が子を愛することは簡単ではありません。 

親子が互いに愛するのは、尊敬できる親、いい子だから、ではなく神の命令です(エペ6章1~4節)。さらに、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません」(Ⅰヨハ5章3節)と続きます。

親が子を、子が親を愛する難しい戒めも、神を愛する者には、「重荷とはならない」と言います。すると、親子が愛し合う努力の第一歩は、神を愛すること、となります。

ヤコブは、子たちの親不孝を嘆いていますが、息子たちの不服従は心に神がなく、ヤコブもある時期まで神を愛していなかったからでした。

友よ。誰でも、主観的には親や子を百パーセント愛していますが、客観的にみると違うものです。その客観こそ、「主にあって」親子が愛し合えるという真理です。ヤコブの家族は今、主観(自分の思い)から、客観(神の法則)に移行させられている最中です。

44章31節

「あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。そして、しもべどもが、あなたのしもべである白髪の父を、悲しみながら、よみに下らせることになります。」

ユダは、宰相がヨセフと知らずに、必死に家族のことを説明します。その中で、彼がなによりも強調しているのが、父への愛です。

人を「好き」になるのは、生来の気質でできます。「愛する」ことは、訓練されなければできません。好きになるのは、相手が自分の欲求を満たしてくれるからです。しかし、愛することは、自分が相手に仕えることです。「好き」は自己中心の範囲内でできますが、「愛する」には自己犠牲が必要です。

以前のユダは、父に受け入れられようとして、ヨセフを亡き者にしようとしました。しかし今の彼は、自分の願いより、父の思いを実現させようとしています。彼は、「好き」から、「愛する」人に変えられました。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15章13節)と言われた主は、自ら十字架で実践されました。この真実さに、愛のない者はたじろぐだけですが、主は私たちが愛せない人だからこそ、十字架にかかられたのです。

友よ。ユダが父の心を思ったように、私たちも十字架の主の心を思いましょう。そこからの出発です。

44章32節

「このしもべは私の父に、『もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者となります。』と言って…。」

上のユダの言葉は、後にモーセが民の偶像礼拝の罪を許していただくために山に登り、「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。…今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものならばー。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになった…書物から、私の名を消し去ってください」(出32章31~32節)と言ったのと重なります。

親が子の罪の身代わりに地獄に行き、信仰のゆえに子が天国に行くことはできませんが、「愛は多くの罪をおおう」(Ⅰペテロ4章8節)ものです。さらに、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」とあります(Ⅰコリ13章13節)。

ユダの行動は、愛から出ていました。愛は、神のものですから、だれかを愛する愛は主イエスに直結します。すると主は、愛の行動に対して沈黙せず、御自分で直接介入されます。それが、執り成し祈る相手が救われ、災いから守られるなどの要因をつくります。

友よ。主御自身が、「あの子(私たち)を連れ戻すために、私が罪ある者となります」と言って、十字架に行かれたお方なのです。

44章33節

「どうか今、しもべを、あの子の代わりにあなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」

ユダが、自分の命をかけて嘆願する姿に、鳥肌が立ち身震いします。聖書は、「いのち」に対する「いのち」の世界です。いのちが「いのち」を造り、いのちで「いのち」を保ち養います。さらに、「いのち」の償いは「いのち」によってです(レビ記17章11節参照)。

主イエスが、肉体をとって世に来られたのは、人々に御自分を現わすのに都合がよい以上に、罪人の命を贖うためには、「いのちにはいのち、目には目、歯には歯」(申19章21節)の等価の償いが必要だったからです。しかも、いのちの贖いには、「罪の無い、いのち(義人)」が必要でした。

そして主は、『父よ。彼らをお赦しください』(ルカ23章34節)」と十字架上で叫ばれましたが、その前に、「私が人々の代わりに罰を受けますから」が込められていました。

友よ。「私には、ユダの心はありません」と告白する他ありません。しかし、なお、友よ。いのちの道は、この道以外ありませんから、苦しくても自分を失う道を選びましょう。それによって失った分は、主が必ず返してくださいます(ルカ6章38節参照)。

44章34節

「あの子が私といっしょでなくて、どうして私は父のところへ帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません。」

後にユダは、イスラエル十二部族のリーダーに選ばれます。神の選びは、神の一方通行ではありません。それは、神から始まりますが、人が応えることで成就します。

神の働きが行われるために選ばれる人の特徴は、能力や性格などよりも、神を愛している人です。それは、父なる神の思い「一人も滅びないで、永遠の命を得ること」(ヨハネ3章16節)を共有する人です。

自分の願いを遂げたい人でなく、父の御心の成就を願う人です。ユダが、自分を省みず、父の悲しみと願いを自分の悲しみと願いにしていたように…です。

主イエスは、自分だけが天の父の子であることに満足せず、罪人を救い、天の父の子にするために、世に来て十字架につかれました。それは、「あの子(あなた)が一緒でなくて、どうして天の父のところへ帰れましょう」との固い決意からでした。

友よ。主イエスの心を知った私たちですから、「主よ。私を連れて行ってください」と答えましょう。さらに、「家族も、あの人も一緒にお願いいたします」と執り成して祈りましょう。そのとき、一番喜ばれるのは、天の父なる神です。

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