キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第17章

17章3~4節

彼には息子がなく、娘だけであった。…彼女たちは…「主は私たちにも親族の間に嗣業の土地を与えるように、既にモーセに命じておられます」と申し立てた。

マナセ族のツェロハドには息子がなく、娘たちは嗣業の地を受け取ることができません。そこで娘たちは指導者たちの前に出て、自分の家族にも嗣業を与えてほしいと申し出ました。

世界のキリスト教会を見ると、女性の聖職者や牧師やメッセンジャーを認めない所、女性が聖餐式や洗礼式などの聖礼典を行うことを認めない所も多くあります。その判断は、各自の信仰に任せる以外ありません。

ただし、この箇所の「嗣業を受け取る」ことにおいては、男女の区別はありません。男性は仕事や物に命を見い出しがちですが、女性は子をお腹で産み、胸で育てるように、より多く深く「命」にかかわる賜物を与えられています。「三つ子の魂百まで」とは人の成育における事実であり、三才までの母親の存在はその子のその後の人生を左右します。何よりも、神に子供の魂の救いを求めることは、ツェロハドの娘たちのように、神に嗣業を要求することです。

友よ。救世軍のウイリアム・ブース大将の母は、「あなたが大きくなるのを、全世界が待っている」と赤ちゃんのブースに語りかけて育てたと聞きます。神の言葉を語り、祈り、十字架の血潮を受け取り、復活の命を求めることは、だれでもどこでも立場を超えて、人目をはばからずに自分の命を賭けてでもするべき大事です。これこそ、神の国(嗣業)と神の義を求めることです。

17章15節

ヨシュアは答えた。「あなたの民の数が多くて、エフライムの山地が手狭なら、森林地帯に入って行き、ペリジ人やレファイム人の地域を開拓するがよい。」

ヨセフの子孫のマナセ族とエフライム族は、割り当てられた土地が狭いと不満を述べました。ヨシュアは、「狭ければ森林を開拓せよ」と答えます。彼らの不満の真意とは?

「イズレエル平野の住民も皆、鉄の戦車を持っています」(16節)と言っているように、彼らは、土地を得るためには強い敵と戦わねばならないことが不満でした。それに対し神は、敵は打ち破ればよい(18節)と答えます。彼らはもっと安楽な嗣業を願っていました。

時代・民族・両親・性別・能力などは、まさに「くじ」であり、神からの「嗣業」です。多くの神の子たちは、ヨセフの子孫のように、それを神から受け取ってはいても、不満も持っています。すると、神を信じつつも、「狭い」「敵がいる」と、問題に囚われます。そうすると、喜びも力もない、弱い神の子に成り下がります。パウロは過酷な環境の中で、「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と言い、そうできたのは、「私を強くしてくださる方のお蔭で、私にはすべてが可能です」(フィリ4章11~13節)とも言いました。

友よ。神の嗣業は、納得できないことであっても受け入れてください。受け入れるならば、「森林を開拓し、敵を打ち破る」力が添えられます。神はすでにそれらに勝利しているからこそ、あなたにその嗣業を与えたのです。

17章18節 ①

「山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。」

ヨシュアは、怖気づいたヨセフの子孫らに、「山地の森林を開拓せよ、敵がどんなに強くても追い出すことができる」と励まします。彼の言葉は空論ではなく、体験から来たものでした。

「……37年ほど前、妻が赤子を胎に宿している若夫婦に、神は開拓伝道を命じました。彼らは、それまでメッセージを語ったことも、神学校で学んだ経験もありません。他からのサポートもなく信者もいません。トタン壁の古い家を借り、生活の糧を得る仕事をしつつ、必死の伝道。十年が過ぎた頃、教会は成長し、伝道所まで与えられ、さらに成長していきました……」。

以前の日本には、上述のような人々が興されていましたが、最近はそのような証しを聞きません。もちろん、神学校を出て、按手礼を受け、生活サポートを得て伝道するのも素晴らしいことですが、それ以上に必要なことは、「山地を開拓して自分のものとしなさい。鉄の戦車を持つ者をも追い出すことができる」とのみことばに命を賭ける、主のしもべとなることです。

友よ。ペトロが主イエスに、「この人(ヨハネ)はどうなるのでしょうか」と聞いたとき、「あなたになんの関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハ21章20~22節)と主イエスは答えました。そうです、あの教会は、あの牧師は、あの長老は……ではなく、「あなたは開拓し、敵を追い出すことができる」との言葉に自分を賭けてください。

17章18節 ②

「山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。」

ヨシュアの言葉を厳しい命令と捉えるか、それとも愛の励ましと捉えるかはその人次第ですが、ここに試練の本質のさらなる一端を見ることができます。

まず、試練と困難に対する正しい考えを持つ必要があります。試練と困難にはそれを乗り越えた時の喜びや充実感が伴い、神の生きて働かれる現実を見ることにより信仰が強められます。それとともに、神は、さらなる恵みをゆだねるために試練と困難を与えられることを知るべきです。

神の御心は、「この敵(試練・困難)を打ち破ったら(乗り越えたら)、次の恵みを与えよう。なぜなら、この敵を打ち破ったなら、もっと大きな業と使命をゆだねるに十分な者であると分かるから」というものです。したがって、各自に与えられた、逃れられない人間関係や出来事は、今現在のことを超えて将来にかかわるものです。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(ヤコ1章12節)

友よ。試練や困難から目を背け、他者の環境や存在をうらやんで不平ばかり言っている者は、むしろその試練から逃れられず、いつまでもそこにとどまることになります。「開拓し、戦う」ことが、一時も早くそこから逃れる道であり、将来を切り開く方法です。主がそばにいるのですから、恐れず進んでください。

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