キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第2章

2章1節 ①

「ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。

かつてヨシュア自身がカナンの地に偵察に行ったことがありました。そこで見たものは強い敵でしたが、ヨシュアは神御自身が敵よりも大きいと見て、帰って報告しました。

「二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰を据えて考えてみないだろうか」(ルカ14章31節)とあるように、戦いを始める前に、敵と自分を比較せねばなりません。「わたしたちの戦いは血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の霊を相手にする…」(エフェ6章12節)ものですから、さらに相手の戦略も知る必要があります。

サタンは天使として創造されましたが、自分が神の座に着こうとして反逆し、地に落とされました(イザ14章12節~参照)。サタンは神と直接戦っても勝てないので、神の子たちを狙います。その目的は「人を神から離れさせる」ことであり、そのためにサタンが用いる武器は「偽り」です。 

サタンを恐れる友よ。より深くサタンとその策略を知ることも必要ですが、より積極的な対抗手段は、神に依存することに全力を注ぐことです。「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申6章5節・口語訳)。サタンに勝つ力とは、神に強く依存する信仰です。

2章1節 ②

「ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。

ヨシュアはヨルダン川を渡る前に、二人のスパイを送り出しました。彼は、「あなた方の領土となる」(1章4節)という神の約束の言葉を信じることができない不信仰者だったのでしょうか?

みことばを信じるだけでよいのであれば、その後の祈りは不要です。しかし聖書は、「常に祈れ」と命じます。神のみことばは信じなければなりませんが、字義通り信じればそのまま成就するとは限りません。むしろ、神を愛し隣人を愛することがテーマの「十戒」も、神の子の生き方を教える「主の祈り」も、真摯に向き合えば向き合うほど、それが実行不可能であることを思い知らされます。

それが分かった時、ルカ11章のあるたとえ話に導かれます。ある人が、真夜中に自分を訪ねてきた友人に出すパンがないので、別の友人にパンを借りに行きます。パンとは、神の子として生きる命を表し、真夜中にパンを貸してくれる人こそ、主イエスです。そこで与えられるパン(良い物)とは、「助け主の聖霊」です(ルカ11章1~13節参照)。 

友よ。あなたはみことばの約束の事実を確かめるために、命がけのスパイを送り出したことはありますか。みことばを信じれば信じるほど自分の無力を知らされますが、それは恵みです。その時、みことばはあなたを主イエスへの祈りに導きます。なぜ、あなたは祈れないのですか。それは、命がけのスパイを送っていない(神の言葉の真実を確かめようとしていない)からではありませんか。

2章2節

「ところでエリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があった…、

エリコの王は、町にイスラエル人の斥候が忍び込んだという噂を聞き、必死に探します。斥候を探すために、追っ手にヨルダン川の渡し場まで行かせる姿から、彼の恐れの大きさが分かります。エリコの人々は堅固な城壁に囲われていましたが、その内側は恐れに支配されていました。

神から離れ、自然界の中に身を隠した罪人は、お金・健康・家族・能力などの城壁で自分を囲いますが、恐れがなくなることはありません。さらに、政治力・経済力・軍事力・諸宗教やイデオロギーも取り入れ、さらに堅固な城壁にしますが、同じことです。

この底無しの恐れはなぜ生まれるのでしょうか。それは、有限で弱い「人」が、全能の神から離れてしまったために、自分で自分を守らねばならないからです。それらを称して、「罪で囲った城壁」と言うことができます。そして、罪の城壁はやがて必ず崩される定めがあるので、なおさら恐れます。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9章27節)。

友よ。エリコの人々の異常な恐れは、敵の武力への恐れではなく、神の使者が来たという霊的な恐れでした。九節の「おじけづいて」は、原語では「溶ける・消える」の意だと聞きます。神の使者は不信仰者の罪を示し、罪の裁きを告げるので、恐れられます。裁きによって、罪を城壁とする者が「溶かされ、消される」からです。しかしあなたには、十字架と復活の主が共におられます。

2章3~4節

「王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」女は急いで二人をかくまい…、

「エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備え、城門を堅く閉ざしたのでだれも出入りできなかった」(6章1節)とあるように、エリコは主の使いを恐れています。

同じように、個人のエリコも、民主主義・独裁主義・全体主義といったエリコも、城壁に囲われ城門を固く閉ざしながら、恐れおびえます。罪に支配された者は、神に対して心の戸を閉ざします。

ある人が、「誰もが、悪いと全く思わないで行っている悪いこと」を三つ指摘しました。
  • 信じたいことだけを信じて、信じたくないことを信じない。 
  • 聞きたいことだけを聞いて、聞きたくないことを聞かない。
  • 見たいことだけを見て、見たくないことを見ない。

「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない」(ヨハ3章20節)と主も言われました。このようなところに、「これが真理だ」などと言う人が出てくると、「探して引き渡せ」と皆が叫び出します。

友よ。あなたも主に遣わされた者です。ひるまず、以下のみことばに堅く立ってください。「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことできよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてある…」(ロマ10章)。 

2章4節

「女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。

神は、城門を堅く閉ざしたエリコの中に、ラハブという女性を備えていました。彼女は斥候を受け入れ、亜麻布の束の中に隠して王の兵士からかくまい、窓からつり降ろして逃がしました。

今日、伝道・牧会の困難が叫ばれています。教会から子供や若者の声が小さくなり、伝道集会やセミナーの言葉も消えかけています。そのようなこの世なるエリコの中で、一人の女の心は開かれていました。それは、「あなたたち(イスラエル人)がエジプトを出たとき、…主が葦の海の水を干上がらせたこと」(10節)を聞いていたからでした。彼女の心を捉えていたのは、イスラエル民族の武勇ではなく、「主がイスラエルに行われた御業」でした。

現代はあらゆる情報が飛び交い、海外の出来事も実況中継で入ってきます。パソコンの画面を開くだけで、一日中情報を取り入れ、自分の興味を満たすことが可能です。しかし人々は、世間の情報を得ることでさらに不安を募らせおびえています。

すでに福音を受け取った友よ。あなたが来るのを心の戸を開けて待っているラハブがいます。世の情報ではなく、本当に真実な方からの情報……すなわち、命を得、命を満たす「真理」という情報……を待っている人がいます。あなたでなければ入ることのできない家(人)があります。さあ、勇気を出してラハブの家を訪ねてください。ラハブはあなたが来るのを待っています。

2章10節

あなたたちがエジプトを出たとき、…主が葦の海の水を干上がらせたことや、…シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。

ラハブは、神とイスラエルの関係を聞いていました。今日の多くの人々も、聖書や歴史や教会を通して主イエスについて聞いていますが、どうしてラハブのような人が現れないのでしょうか。

今日の教会は、伝道の困難を感じ、あれもこれも実行してみたが、残ったのは無力感と絶望感だけ……となっていないでしょうか。何が問題だったのでしょうか。ラハブが聞いていた神は、生きて働く神でした。だから彼女は神に畏れを持ち、信じたいと願っていました。 

生きて働く神はどこに見ることができるのでしょうか。病気のいやしや死者の蘇りなどの奇跡に神を見るのではありません。一人の人が神に造り変えられ、キリストの弟子となっている姿、これこそが、神の働きの最も力強い現実的な証明です。それは、エジプト(権力、価値観、物欲、競争・自己中心……)から解放され、霊の導き(愛・喜び・平和、寛容、親切、善意……)に従って生きる、罪から自由になった人の姿です(ガラ5章19~25節参照)。 

友よ。ラハブはそのような人(イスラエル)を知っていたので、彼女も神を待ち望んでいました。今日、病のいやしも死者の蘇生(死ぬほどの病・負傷から回復させる)も、神の賜物なる医学によって行われています。しかし、自己中心に生きる罪人を造り変えることはできません。それができるのは、まことの神だけです。 

2章11節

…聞いた時、わたしたちの心は挫け、…立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。

二人の斥候をかくまった女は「ラハブという遊女」(1節)である、と聖書は隠さず記します。「聖書が、ラハブが何者であったかを隠さないのは、神はどのような人をも造り変えて祝福する力を持っているからだ」とある人が言いました。然り、アーメンです。ある故人いわく、「人に必要な本当の情報を持つのは貧しい人だ」と。遊女ラハブこそ、実にその人でした。

  • 健康な人は、人の外側を教えてくれるが、弱く貧しい人は、人の内側を見せて教えてくれる
  • 弱く貧しい人は、人生の敗れを経験しているので、何が人の本当の救いであるかを知っている
  • 弱く貧しい人は、神を受け入れる心を持っている
  • 弱く貧しい人は、命を賭けることができる

二人の斥候がラハブの家に入れたのは、彼女の人生の城壁がすでに崩れ去っていたからです。ラハブは自分で自分を救えないことを知り、救いを外に求めていました。彼女は、イスラエルの歴史の中に働かれた神の御業を聞き、それが自分の人生に成就することを待ち望んでいたのです。

友よ。「心の貧しい者(霊の貧しい人)、悲しむ者(罪に悲しむ人)は幸いです」(マタ5章3~4節)。これこそ、人が祝福を受け取る初めです。神の介入を受け入れることから人の幸いは始まります。神が訪れることのできる人、その人こそラハブです。

2章12節

「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。

ラハブは二人の斥候をかくまい、彼らを城壁から吊り降ろす前に、彼らに約束させました。 使徒ヤコブは、信仰と行いの関係について語りました。彼は、「行いによって救われるのではないが、本物の信仰には行いが伴うものだ。行いが伴わないならば、あなたの信仰が本物か否かを見つめ直しなさい」と教えます。(ヤコ2章14~22節参照)。

主は、種を蒔く人のたとえ話で、道端・石地・茨の間・良い地のそれぞれに落ちた種について語りました。最初の三つの土地では「みことばを聞くと」とあり、良い地には「みことばを聞いて悟る」と記されます。

「聞く」と「聞いて悟る」の違いが、実を結ぶか否かを分けました。みことばを「聞く」人とは、自分がみことばを判断する人です。みことばを「聞いて悟る」人とは、みことばに自分を判断させる人です。ラハブは、主がイスラエルに行われたことを聞き、その主に自分をゆだねました。彼女はみことばを「聞いて悟った」人でした(マタ13章参照)。

みことばを聞いている友よ。聖書を読むだけでは信仰とは言えません。みことばに自分を判断させ、罪の指摘を悲しみとともに受け入れ、赦しの宣言を喜んで受け取り、主に自分を支配していただく決意をしてください。それが、みことばに自分をゆだねるということです。その時、神のみことばが命に変えられていることに気づきます。

2章12~13節

「「私はあなたたちに誠意を示したのですから、…主の前で私に誓ってください。そして、確かな証拠をください。…父も母も、兄弟姉妹も…救ってください。」

ラハブが斥候をかくまうことは命がけです。もし彼女が自分の汚れた生活から脱出したいだけなら、斥候を王に突き出す方が得策なはずですが、そうはしませんでした。彼女の命がけの行動は、自分と自分の家族の魂の救いのためでした。

人は命のためならあらゆるものを犠牲にします。聖書はそれを、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マコ8章36節)と言います。そのみことばの前に、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(34~35節)ともあります。ラハブは、神にある永遠の命を得るために、身の安全も、優位な立場を得るチャンスも、すべてを捨てています。

友よ。あなたにとって命の定義は明確ですか。命とは、だれかとの「継がりと交わり」のことです。人と人の「継がりと交わり」は「人の命」を造りますが、それでは不十分です。三位一体の神との「継がりと交わり」こそ、人の永遠(神)の命です。それを得るために、他者との継がりを捨てねばならない時もあります。それは、福音のために、人との関係で造る「人の命」を捨てることです。ラハブは、今それをしていました。

2章14節

「二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」

ラハブは、「私と家族を救ってください」と斥候にお願いしました。それに対して彼らは、「我々のことをだれにも漏らさないなら」と条件を付けました。

ラハブが彼らのことをだれにも漏らさないとは、斥候の言葉に自分を賭けることであって、家族以外のエリコの人々を捨てることになります。彼女の立場は、やがて滅びるエリコ(この世界)の中で、後に再臨される神の国を待ち望んでいる神の子たちの立場でもあります。

神の子たちは、生活がかかる現実のエリコと、少し先にある神の国の間で揺れ動きます。それゆえに神は、「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない」(申25章13~14節)と忠告しました。 

ある人いわく、「神の子の中に、羊(神の子)と狼(肉の人)が住んでいる。しかし、エサを羊に与えるか、狼に与えるかを決めるのはその人だ」と。

神と世、霊と肉の間に迷う友よ。ラハブは羊にエサをやる決意をしました。その者が受ける祝福は、「あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができる」(同15節)と書いてあるとおりです。あなたは羊と狼のどちらにエサをやりますか。斥候を遣わされた神と、エリコの王、どちらを選びますか。

2章17~18節

「二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。」

ラハブが二人を窓からつり降ろして逃がそうとする時、彼らはラハブに約束させました。それは、家族全員を家に集めること、もしだれかが戸口の外に出た場合、その血の責任は自分たちにはないこと、さらに、赤いひもを窓に結びつけることでした。 

聖書における旧約・新約の「約」とは契約の「約」であり、「神と人との契約」を表します。神は御自分に似せて人を造りましたが、神と人のいちばん似たところは、「人(神)格=自由意志」を持つことです。あらゆる被造物の中で人間だけが、神に対して「否」と言える存在です。 

それゆえに、神はエデンの園の中央(霊的世界)に「善悪の知識の木」を置かれました。これは人の「善(命・正しいこと)と悪(罪・正しくないこと)」を示す、人の「生きる基準」、すなわち十戒に代表される「戒め」でした。人の善とは「神に継がり交わって生きる」ことであり、悪とは「神から離れ断絶し、神以外のもの(自分も含む)で生きる」ことです。 

しかし友よ。神と人の契約は、互いの合意による契約ではなく、神が計画し神が実行する、一方的な契約です。遺言状に対する受け手の態度は、受けるか拒むかの二択しかありません。

ラハブに対する二人の斥候の言葉は、あなたに対する神の救いと守りの愛の言葉です。しかし、あなたが「アーメン」と言わないと、約束は実現されません。「御心が私に行われますように」と祈りましょう。 

2章18~21節

「我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。…彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓につけた。」

イスラエルが攻め込んで来た時、赤いひもを目印にして、ラハブと家族を救う、との「赤いひも契約」が結ばれました。この契約は今日も変わらず存在します。

聖書は神と人との契約書でした。その契約の中心こそ、「赤いひも契約」、すなわち神の御子イエス・キリストの十字架による罪の贖いの契約です。

アダムとエバがエデンから追放された時、神は二人に「皮の衣」を用意しました。それは、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブ9章22節)ゆえに行われた動物犠牲でした。彼らの子供アベルが神に受け入れられ、カインが退けられたのも、アベルは羊(動物犠牲=赤いひも契約)を献げたが、カインは献げなかったからでした。

エジプトで神がイスラエル人に命じたこと……「さあ、家族ごとに羊を取り、過ぎ越しの犠牲を屠りなさい…。鴨居と入口の二本の柱に鉢の中の血を塗り…翌朝までだれも家の入口から出てはならない。…滅ぼす者が家に入って…撃つことのないように」(出12章21~23節)。これも、「赤いひも契約」でした。

赤いひもを渡された友よ。「わが子よ、父の戒め…母の教えをおろそかにするな。それをいつもあなたの心に結びつけ、首に巻きつけよ」(6章20~21節)とあります。心に結び、首に巻きつけるものこそ、赤いひもである主の十字架です。あなたの全身全霊がいつも主の血潮に覆われますように。

2章24節

「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています。」

二人の斥候は三日間山中に隠れ、その後ヨシュアのもとに帰り、右のように報告しました。

エリコの人々が城門を閉じていたのは、「主がこの土地を(9節)…主が葦の海を(10節)…あなたたちの神、主こそ(11節)」と、イスラエルの上に働く神の力を恐れていたからでした。

アブラハムをウルからカナンに連れ出し、その子孫を四百年間エジプトに置いて一つの民族に成長させ、ファラオの力を破ってエジプトから脱出させたのはヤーヴェ(主)・エロヒーム(神)です。 

神は、エジプト脱出の時には、神自ら贖いの血を流して民を罪の裁きから守り、荒れ野での四十年間も、母が子を胸に抱えるように、反抗する民を導きました。

そして、「サルモンはラハブ(エリコの遊女)によってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデを…このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタ1章5節~)と聖書は記します。どのような罪人であっても造り変えてしまう力、それは愛以外の何物でもありません。 

友よ。力ある神の本質は「愛」です。エリコの住民は、力ある全能の神を知っていましたが、「愛の神」としては知らなかったので、恐れて城門を閉ざしました。しかしあなたは、心の城門を広く神に開けてください。神は、人が「恐れる」神ではなく「畏れる」神、愛なる神です。

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