キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第16章

16章1節

サムソンはガザに行き、一人の遊女がいるのを見て、彼女のもとに入った。

悔い改めて士師として民を裁いていたかに見えたサムソンですが、ある時からガザの遊女へ通い、次にソレクの谷のデリラへ…と堕落の道を進んでいます。

欠点は、出生や成育過程で得たもので罪とまでは言えません。しかし、それに気づきながら修正せずに進むと罪になり、時いたって芽が出て罪の実を結びます。  

彼がここに至るまで持った欠点は多くありましたが、修正せずにいたために罪となって行きました。

ナジル人としての自覚
ナジル人が恵みであることが分からず、親の聖別の歩みが彼の重荷となり反発心を起こさせた可能性も。
弱点の克服を怠った
ペリシテの娘へ・遊女へ・デリラへ…と止まりません。その場しのぎの悔い改めではなく、もっと根本的な悔い改めが必要。
与えられた賜物と人格の混同
自分の罪から危機を招いたが、そのつど主の霊に救われた恵みが、いつの間にか自分の力と正しさであると勘違いする。

一方ダビデについては、「…武将たちは尋ねた。『このヘブライ人らは何者だ。』…サウルの僕…ダビデだ。彼はこの一、二年、私のもとにいるが…今日まで…彼に何の欠点も見いだせない」(サム上29章3節)と。

友よ。サムソンは悔い改めず罪を犯し続け、ダビデに欠点がないのは悔い改めの連続だったからでは!

16章4節

彼はソレクの谷にいるデリラという女を愛するようになった。…領主たちは来て言った「サムソンのその怪力はどこに秘められているのか…。」

40年間支配していたイスラエルなのに、サムソン一人に苦しめられていたペリシテは何とかしてサムソンを殺そうとします。「サタンは人格から崩す」と言われるように、同族の女デリラに恋するサムソンの人格的弱さを利用してその機会を狙っていました。

彼の力は彼自身ではなく神がお持ちです。「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(Ⅱコリ4章7節)。 

神の力だからこそ、最悪の時にはさらにその力を知れます。それが、「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(同8~9節)。神の力が出てくるための条件があります。それは、「イエスの死を体にまとっている」のみことばです。

友よ。神はサムソンを選びましたが、サムソンは神を主とせず、自分を主とし続けました。「イエスの死を体にまとう」とは、イエスを主として服従し続ける姿勢です。「我生きるにあらず、キリスト我が内に生きる」こそ、人の怪力の秘密です。

16章6節

デリラはサムソンに言った。「あなたの怪力がどこに秘められているのか、教えてください。あなたを縛り上げて苦しめるにはどうすればいいのでしょう。」

敵に唆されたデリラは、「あなたの怪力はどこに?」と悪魔的に探ります。しかし、「あなたの力はどこに」と良い質問を受けるならば嬉しいことです。

それは、能力の力ではなく人格から出る力への質問です。サムソンは能力の力で驚かせましたが、全ての神の子たちは人格の力による驚きを与えられます。

迫害下の中で生きた初代教会の人々は、313年には公認に、380年には国教に導きました。その力は、「人はみな上に立つ権威に従うべきです」を始め、神のみことばに忠実に命をかけて従ったからでした。ただし、ローマ帝国は皇帝崇拝を求めましたがそれには従いませんでした。しかし、彼らは神に従いました。それは、「汝の敵を愛せよ」に従い、だれもローマ皇帝を倒そうとはせず、「イエスを主と信じる者は死罪」の命に服して死んで行きました。彼の力は、神の恵みと賜物以外の何ものでもないが、人々の驚きと称賛を受け続けるうちに、彼自身が自分の能力がどこから来ているかを忘れたようです。

彼らは、「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」(マタ5章41節)に従ったゆえに力を得ました。

神の子の友よ。肉に死に霊に生きる者には、御霊の満たしによる力が与えられます。それは、愛する力です。神を愛し、自分を愛し(神の子の存在)、隣人を愛する力です。「その中で最も大いなるものは、愛です」。

16章7節

サムソンは、「乾いていない新しい弓弦七本で縛ればいい。そうすればわたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう」と答えた。

サムソンは、デリラの探りに「新しい弓弦七本で…」と、次には「新しい縄で…」、さらに「髪の毛七房を機の縦糸と共に織り込めば…」と言っては弄んでいます。しかしそれでも彼は、いまだにペリシテに捕らえられず見事に逃れ続けます(7~15節)。

キリスト者とは、「キリストの教えを守る者・キリストをまねて、愛、清さに生きる者・キリストのような行いをする者」と考えてしまいがちですが、それらは結果であって本質ではありません。結果が大事になると律法主義に陥ります。

キリスト者の本質は、「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている」(ヨハ15章)とある、キリスト御自身(神格)につながり続ける謙遜な者以上でも以下でもありません。つながり続ける結果が、愛、喜び、平和、寛容、親切、節制…などの実です。

友よ。「御霊の実には謙遜がない。それは、謙遜は実ではなく御霊の実を盛る器だから」とは、アンドリュー・マレー師の言葉です。神の力や知恵や知識があっても、謙遜がなければこぼれ落ちて失われます。

16章13節

「デリラはサムソンに言った。「あなたは今度も私を侮り、うそをついたでしょう。あなたを縛り上げるにはどうすればいいのか教えてください。」

これでもかと迫るデリラに、サムソンの心が引き込まれて行きます。デリラはサタンの使いのようです。 サタンの武器は偽りです。

以前霊能者であって今は神の人となっている方が、「悪霊が具体的に先祖の事やこれから先のことを語るのはほんの僅かです。悪霊が語る一番のメッセージは、『嘘をついてもいいよ』ということでした」と告白。

エデンの園では、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るようになる」と言い、主イエスには「私を拝むなら、これをみんな与えよう」と偽りをもって誘惑しました。サタンの働きは制限されているので、誘惑で相手を動かします。サタンがアダムとエバに罪を与えたのでなく、彼らの決断が罪を受け取ったのです。

ある人が、「サムソンの能力は最高、彼の人格は最低、しかし彼はクリスチャン」と言いました。しかし、聖別なきクリスチャンは力なく寿命はわずかです。

友よ。偽りは不真実に応え、真実は偽りを退けます。サムソンの不真実がデリラの偽りを受け入れます。しかし主は「神の口から出る言葉で・神を試みてはならない・神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と真実を持って退けました。神の真実こそ、偽りを退けます。

16章17節 ①

ついに心の中を一切打ち明けた。「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。

デリラの愛情を絡ませた偽り攻撃に、「弓弦七本で縛れば、新しい縄で縛れば、髪の毛七房を機におり込めば…」とあしらってきたサムソンですが、それに耐えきれず、心の中を打ち明け始めます。

「ところで、私たちはこのような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでない…」(Ⅱコリ4章7節)とのみことばで、「宝」と「土の器」の理解が大切です。人は土の塵で造られた「土の器(肉体と心=肉)」に命の息を吹き入れられて「宝(命=神の霊)」を持つようになりました。そこから、宝(霊)のために器を用いるべきなのに、器(肉)のために宝(霊)を捨てるという本末転倒がサムソンに起ころうとしています。  

デリラの名の原意は「思わせぶり」とか。ナジル人に禁じられた、濃い酒を飲まない(異邦人の社会こそ自由で楽しいと…思わせ)、死人に触れない(異邦人の女性との関係こそ幸福と…思わせ)ます。

友よ。サタンの策略の一つは、価値観を転倒させることです。その中で特に、「命」と「器」を取り替えて見せることであると気づいてください。「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(創3章6節)。

16章17節 ②

「ナジル人として神にささげられているので。…もし髪の毛をそられたら、私の力は抜けて、私は弱くなり、並の人間のようになってしまう。」

信仰深い両親にナジル人として育てられたサムソンですが、彼の人格は滅茶苦茶でした。しかし、彼が一つだけ約束を守っていたことがありましが。それが、髪の毛を切らないことです。

ナジル人の、「酒を飲まない、死人に触れない、髪を切らない」の誓約で一番大切なのは「髪を切らない」です。これこそ信仰であり、神と自分の継がりです。この髪の毛(信仰)があったからこそ、「酒を飲み、死人に触れる」ことで命の危険に遭遇しても、神は彼に助けの手を差し伸べることができたのでした。

信仰に「良い・悪い」があるならば、それは信仰の質よりも量(割合)が問題です。質は、「イエスを主」とすることで万人同じです。しかし、イエスを主とする量(割合)はそれぞれ違います。小さなからし種の信仰でも神は働けますが、心の多くが御霊に支配されているならば、神はもっともっと自由に働けます。しかし、今サムソンはからし種の信仰を捨てようとしています。髪の毛こそ、自分の上に神を権威としておくことの契約の標(しるし)=信仰だったのです。

髪の毛を伸ばして歩んでいる友よ。信仰は自分が神に近づく力ではなく、神があなたに近づくための標です。神があなたを救い、保ち、完成されるのです。

16章19~20節

彼女は膝を枕にサムソンを眠らせ、人を呼んで、彼の髪の毛七房をそらせた。彼女はこうして彼を抑え始め、彼の力は抜けた。…主が彼を離れられた…。

デリラの執拗な言い寄りに折れたサムソンは、彼女の膝枕で眠る間に髪の毛を剃られました。その結果、神の子にとって最も不幸な言葉、「主がいない(主が離れられた)」が記されました。サムソンが髪の毛の力についてデリラに告げた時、「また危機に直面すれば、いつものように力が出て敵をねじ伏せられる」との自負があったからでは。

牧師や役員である、聖書を知っている、長年信仰してきた…という「慣れ」が、今日も、明日も主と共にいなければ、無力であるとの信仰を消します。神の力は、神との継がりと交わりの中にあるからです。

命の神は、御自分から神の子たちを離しません。「私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らを私の手から奪うことはできない」(ヨハ10章28節)。したがって、「主が彼を離れられた」は、「主はサムソンの傍にいられなくなった」です。

友よ。神はここまで何度サムソンを憐れみ、命を救ったでしょうか。しかし、彼はその恵みに応えず利用しただけでした。神は、あなたが良い行いをすることでなく、悔い改めることを待ち望んでいます。悔い改めは、離れられた主が、「彼の傍に戻られた」の言葉を記せるからです。「主が共に」こそクリスチャンです。

16章20節

主が彼を離れられたことには気づいていなかった。

冒頭の、「主が彼を離れた」の言葉の理解には注意が必要です。このことの聖書全体からの正しい理解は、「サムソンが神を離れた」です。

神は、「私は反抗する民に、一日中手を差し伸べ…」(ロマ10章21節)るお方です。また、「…死も、命も、天使も、支配するものも、…その他どんな被造物も、私たちの主イエス…によって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(同8章38節)とも。従って、サタンも人を神から引き離せません。神がサタンとヨブのことで論争した時、「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし、彼には、手を出すな」(ヨブ1章12節)と言います。 

「彼に手を出すな」とは、彼の財産、家族、健康の事ではなく、「彼の人格的決断」のことです。神御自身も人の人格的決断を勝手に動かすことはできません。 人から神を退けるのは、神御自身でも、サタンでも、全ての被造物でもありません。それは、「その人自身」です。ちょうど、サムソンが髪の毛を切ったことは、神を自らの意志で捨てたことです。またサタンの働きを強調する教えもありますが、サタンは誘惑するのであって、決断する(罪を犯す)のは人です。

友よ。「御子を信じる者は裁かれない、信じない者は既に裁かれている」(ヨハ3章18節)の「裁かれる」とは、神が手を出せなくて退いている状態です。

16章20~21節

ペリシテ人は彼を捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて下り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた。

髪の毛を切られ、主に去られたサムソンには何の力もありません。ペリシテ人たちは喜び、今までの仕返しとばかり意のままに彼に仕返しをします。

捕らえられたサムソンは、① 目をえぐられ、② 足枷をはめられ、③ 牢屋で粉をひかせられました。これらは、神を捨てた者が受けねばならないものです。

目をえぐられた
「心の清い者は神を見る」の清いとは、神に真正面から向き合う者です。神から目をそらした者に神は見えなくなります。またそれは、生きる幻・ビジョンを失う。
足枷をはめられる
罪の奴隷となり、この世の君・サタンの奴隷とされる
牢屋での粉ひき
粉ひきはロバなどの動物にくびきを掛け、回転臼(うす)を引かせ同じ所を回る。人間性を失わせ動物の存在にされる

「…だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ロマ6章16節)。

友よ。実にサムソンの姿はかつての自分でした。そこから主イエスの血潮で贖い取られ、神の僕(奴隷)とされました。罪の奴隷には死の報酬が、神の奴隷には神を見、御霊の自由を得、神と共に働けます。

16章22節

しかし、彼の髪の毛はそられた後、また伸び始めていた。

サムソンは、目を失い、足枷をはめられ、獄で粉ひきをしていたその間、彼の中に大きな変化が起きていました。それが「髪の毛が伸び始めた」です。

ナジル人に一番大切ことは、酒を飲まず死人に触れないなどよりも、髪の毛にありました。髪の毛なる信仰があれば、他の汚れは神に清めていただけます。他が清くても、髪の毛がなければそれらも失います。 髪が伸び始めたとは、神との継がりと交わりが回復し出したことです。しかし、信仰の髪の毛は自然に伸びることはなく、伸びる条件は「悔い改め」です。

これまでの彼の歩みは、ただ神の憐れみと賜物でしたが、それが大きいために自分の力と錯覚していました。その彼に悔い改めが始まり信仰が芽生えたのは、どん底に落ちたからと、彼が親から受け継いでいた信仰の遺産がこの時に芽を出したとも言えます。

神の子の成長は、罪の深さと、神の恵みの両方を知る相乗効果によります。サムソンは、どん底に落ちた罪と、かつて何度も神に守られた恵みが相まって、悔い改めが命を→命が悔い改めを→その悔い改めがより真実な命を、と信仰の成長が続きます。

友よ。神の子の成長は、体を大きく丈夫にすることではなく、髪の毛を長くすることです。それは、知識や教理ではなく、神との継がりと交わりの多さです。

16章23~25節

ペリシテ人の…神ダゴンに盛大ないけにえをささげ、…「我々の神は敵サムソンを我々の手に渡してくださった。…サムソンを呼べ。見せ物にして楽しもう」。

信仰を捨て、捕らえられて奴隷とされたサムソンの姿と、彼を取り扱うペリシテの人々の嘲笑は、今日でも少しも変わっていません。

信仰を捨てた者が世間に発するメッセージは、

  • 「私が信じた神は、実は本当の神ではなかった」です。それにより人々に、「我々の偉大な神ダゴンこそ真の神」と確信させます。無神論の者へは、自分を信じるが一番、信仰は怖いと思わせます。
  • 「神ダゴンへ盛大ないけにえをささげ」よと、偶像を飾り立て誇張し多くの人の魂を勝ち取らせます。本物の神が見えないから偶像へ行きます。
  • 「サムソンを…見世物に」引き出して、自分たちのなぐさめ者に仕立てます。

主は、「天にいます我らの父よ。御名が崇められますように…」祈りなさいと教えられました。「御名が崇められる」とは、「私たちの生き様を通し、神が神とされますように」との祈りです。そのために、「あなた方は世の光、地の塩」となるようにとも言われました。

しかし友よ。自分で「世の光、地の塩」になろうとしないでください。むしろ、人前にさらけ出された自分を認めてください。そこから髪の毛は伸び始めます。自力ではなく、髪の毛の伸びることで解決されます。

16章28節

サムソンは主に祈って…「私の神なる主よ。私を思い起こしてください。神よ、今一度だけ私に力を与え、ペリシテ人に対して…復讐を一気にさせてください。」

今までのサムソンとは違うサムソンをここに見ることができます。ここに来て、自分の存在と、罪で神を汚したことを取り戻そうともしています。

世には多くのサムソンがいます。それは、特別な霊の賜物を持つというよりも、生まれながらの知性、芸術、運動、財、などの賜物を与えられている人々です。彼らは、神を信じてなくても人生の困難をそれらの賜物によって乗り越えてきたことでサムソンです。

サムソンは賜物で生きようとしてきたが、得たものは奴隷と死の報酬でした。それは、自分の肉の欲求を満たすために、賜物を利用した人の姿を表します。ここでサムソンは気づき、「私を思い起こしてください」は、「あなたが士師として選んでくださった私を、今一度覚えてください」との祈りでした。今の彼は、神の力によって助かろうとは考えません。

かつての彼は、神の賜物を用いて自分が生きることを考え実行してきました。しかし今は、自分が死んで賜物を(神を)生かそうとしています。

友よ。イエスも自分が死んで賜物を用いました。その結果、私たちは罪から解放されて復活できました。 「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るであろう」。

16章30節

サムソンは、「私の命はペリシテ人と共に絶えればよい」と言って力を込めて押した。…彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。

髪の毛が伸びたサムソンは、「肉の人」(Ⅰコリ3章3節)から「霊の人」(2章15節)へ移っていました。

イエスを主と告白して神の命(聖霊)を得ても、その命でなく以前の命(肉)で生きる「肉の人」と、内住の御霊に肉を従わせて生きる「霊の人」がいます。

肉につける神の子でも聖霊は内住し、その者を用いて御業を現わすものです。しかし、見える現象が大きくても(大人数・会堂・大きな成果・繁栄など)、その実が神の御霊の実なのか、霊の実に見せるかける肉の実なのかを見極める必要があります。

サムソンは、獄に繋がれているうちに、やっと「霊の人」に脱皮できました。それが、「私の命は…絶えよ」と自分の肉に死ぬ決意・明け渡しです。そして、ダゴンの神殿の柱に腕をからめ、力を込めて押して神殿を壊し、多くのペリシテ人を滅ぼしました。

彼は、以前もペリシテに打撃を与えていましたが、それは自分の身を守るためでした。しかし今、霊の人となって偉大な神の働きをしました。

小さなサムソンなる友よ。あなたは大サムソンから何を学びましたか。旧約でも新約でも、神の子たちに対するメッセージは同じです。それは、「我生くるにあらず、キリスト我が内に生くる」です

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