キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

Ⅳ. 鵜の木教会の特徴

神さまは、鵜の木教会の在り方として、「教会の中の教会」というビジョンを示してこられました。それは同時に、「教会が聖別され主の御心から外れないため」でもありました。

クリスチャンであれば、だれでも聖別は必要不可欠なものですが、奉仕者たちの聖別は特別重要なことです(ローマ11章16節参照)。なぜなら、聖さがなければ聖霊は働くことができなくなり、聖霊が働かなければ、全てが整っていても、そこからは何も生まれないからです

群れには、リーダーが必要です。一般の教会では、リーダー(牧師)と役員(長老)が立てられますが、必ずしもその人たちが「リーダーと一つ」になり、「祈りを合わせ、働いている」わけではありません。そのような教会のリーダーは、孤立と孤独の中に追いやられ、その孤立が自己義認へ向かわせ、あるいは孤独がもたらす恐れから兄弟姉妹に威圧的な態度をとるようになります。

教会の中にはリーダーたち(長老たち・兄弟たち)も必要です。そのリーダーたちがキリストの名により、「本当の教会」になれるなら、神の家族として集められた兄弟姉妹も、豊かな霊の祝福を受けることができます。これが、「教会の中に教会を造る」という意味であり、初代教会で行われていたことです。

では、「教会の中の教会」とは、一体なにでしょうか。それは、キリストにある兄弟姉妹として、キリストの御心を聞き、キリストに従い、キリストの御足の後を踏んで生きる、兄弟姉妹のことです。そこでは、リーダーの言うことであっても、聖書に照らし合わせ正しくないと思う時には、「正しくない」と言える関係が作られていなければなりません。同時に、リーダーも心にかかることがあれば、率直にそのことが言えなければなりません。それは、兄弟姉妹にも同様にいえることです。人の顔や立場が物事を決め、左右するのではなく、主の願われることがすべてに優先される交わり、でなくてはなりません。

その者たちが教会の中心(教会の中の教会)となり、霊的なことがらを決定していきます。教会は、民主主義の原則である多数決で物事を決めてはなりません。あくまでも神権政治ですから、神さまに一人ひとりが聞き、その御声に従い行動していかなくてはいけません。そこでは、御心が示されるまで、忍耐強く「話し合い、祈り合い」ます。場合によっては、最終的な決断を教会のリーダーに委ねる場合もあります。

物事に対応していく上で大切なことは、「聖別」です。それには先ず、対応していく事柄から「肉」の要素を取り除かなくてはいけません。「霊のものは霊の実を結び、肉は肉の実を結びます」(ガラテヤ6章8節)。

そのプロセスとして、最初に長老たちにおいて点検され、次に主により、兄弟姉妹一人ひとりが点検されます。そして、そこに主の嫌われるものがあれば、それらは取り除かれ「聖霊の宮」へと整えられます。そうすることで、主は聖霊により、私たちの中で自由に働くことができるようになり、私たちにサタンの惑わしを見抜かせ、御心から外れている状態を知らせ、わたしたちを正しい道へと導いてくださるようになります。

主が自由に働ける環境こそが、物事を「聖別」する上で、最も必要となる条件です。

キリストに従い歩んでいくために大切なこと

  • 最初に、聖書のバランスある正しい理解が必要です。したがって、みことばを教える賜物は、特に重要となります(Ⅱテモテ2章15節、Ⅰテモテ5章17節)。
  • 「キリストに従うこと」、を心から求める兄弟姉妹との交わり(愛にあって真理を語り合える関係)が必要です(エフェソ4章15節)。

リーダー(長老)であることは、「完全である」、または「高いレベルに到達している」というわけではありません。不完全で能力も劣り、生まれながらの気質や蓄え続けた習慣、さらに聖別され清くされていないかもしれません。では、リーダーとしての条件とは、一体なにでしょうか。それは、「ひたすら神御自身を愛する愛」、すなわち「自分を捨て、自分の十字架を負ってキリストに従おうとしている」ことです。

そして、リーダー、兄弟姉妹同士がお互いを「キリストの体」として受け入れ、人間同士の愛を超えた真理によって、従い仕え合うことです。

「教会の中の教会」を造ることには、「皆が同等にキリストの僕として従い、仕え合う」という意味があります。そして、これらのことが全うされるためには、只々何時いかなる場合においても、心を合わせ祈らねばなりません。なぜなら、「神は祈り合う中におられる」からです(マタイ18章18~20節)。

 「我が魂よ、汝ただ神を待ち望め」

詩篇62篇(文語訳

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