キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

I. 聖書に示された教会の姿

キリストの体、神の家族について

Ⅰコリント12章、エフェソ2章19節参照

教会はキリストの体であって、頭はイエス・キリストです。私たちは、イエス・キリストを「わが主(わが救いの神)」、と告白する信仰により神の子となり、キリストの体の一部とされました。そして神は、私たち一人ひとりに、このキリストの体の内にあって生きるようにと定められたのです。一人ひとりに家族が与えられ、その中で育まれるように、霊の子も霊の家族の中で育まれます。

信仰は、あくまでイエス・キリストとの個人的なつながりと交わりですが、神は兄弟姉妹たちとのいのちの交わりの中で、信仰が成長するようにと御計画しておられます。

「教会の4つの基礎」をご参考ください。

だからこそ、私たちが神の家族として共に生きるキリストの体が、どのような「いのち」によって生かされ、つくられているのか……ということが最も大切なことになります。

もちろん、クリスチャンはキリストの命を聖霊によって持ち、聖霊に支配されていくべきです。しかし実際には、いつしか人が支配するものへと変えられ、生き生きとした信仰生活を送ることができない神の子たちを多く見ます。それは、牧師や役員など特定の人における支配と、それらによる組織の束縛が「神の子のいのち」を細くしていくからです。

主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14章6節)と言われました。

私たちはどのようにして、本当のいのちなる聖霊の導きに従い、聖霊の一致により、神の望まれる教会になることができるのでしょうか。下記の「みことば」は、キリストと個人、個人とキリストによる兄弟姉妹との関係を表し、個人の救いと教会の根幹を明示しています。

  • 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」
  • 「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」
  • 「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」
ヨハネによる福音書 17章21~23節
人の救いとは
キリストとの聖霊による「継がりと交わり」であり、三位一体の神の中で生きること(個人の救いと聖別)
教会とは
三位一体の中にある一人一人が、互いに神の家族として生きるところ(キリストの体の形成)
伝道とは
一人一人が神の子として生き、その者たちが互いに愛し合うとき、「世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(宣教)(21節)

個人の救いと聖別(成長)、キリストの体の形成 、宣教 これらは、教会に与えられた三大使命です。

教会は何によって造られるか

賜物によって

Ⅰコリント12章参照

教会は、「キリストの体」であり、「キリストの花嫁」でもあります。キリストの花嫁なる体を整える働きは、聖霊なる神の働きです。聖霊はキリストのものを受け、それを私たち一人ひとりに与えます。それが、聖霊による賜物の授与です。

教会は、聖霊の賜物により形成されます。年功序列や社会的地位などが優先され、人が中心になるのではなく、聖霊を遣わした主イエスがすべてに重んじられねばなりません。

ここで注意しなければならないのは、「賜物を持つ人=信仰深く、能力がある人」と思われがちですが、「決してそうではない」ということです。また、賜物を持つ人がリーダー的立場にある者であれば尚更、その人はへりくだらねばなりません。

クリスチャンとしての幸福は、賜物を持つことではなく、むしろそれぞれが神さまから“召された所”に忠実に立つことです。

「みことば」を語る者は、その場に忠実に立ち、奉仕する者、捧げる者、祈る者、また誰かに支えてもらう必要のある者も、その場で神に従うことです(ローマ12章3~8節)。

人が中心になると必ず高慢がでてきます。そのようにならないためにも“先生”と言うような呼び方は避け(マタイ23章7~12節)、兄弟姉妹として、それぞれに与えられた賜物と人格を互いに尊び合いながら歩みましょう(ローマ12章9~11節・フィリピ2章1~11節)。

  • 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
  • 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」
ヨハネによる福音書13章34・35節

権威と秩序によって

しかし、キリストの体は決してひとりよがりで無秩序であってはなりません。人間の体が、かくまでも有機的、機能的に造られているように、キリストの体にも調和と秩序が必要です(Ⅰコリント12・14章)。それがキリストの体における権威と秩序です。

教会は、世でいう民主主義の世界ではありません。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11章1節)とありますが、この「望んでいる」とは、「私が望む」ことではなく、「神が私に望む」ことであると聖書全体から理解すべきです。教会はだれかが望むことをするのではなく神が望むことを私たちが願うところです。

したがって教会は、神が「しかり」とするものを「しかり」とし、神が「否」とされるものを「否」としていく(ヤコブ5章12節・マタイ5章37節)神権政治の世界だといえます。その教会の中では、特定の人の意見が優先されるのではなく、各自が神に直接聞き、それに従うことが優先され、「愛に根差して真理を語る」(エフェ4章15節)ようにならなくてはいけません。

「さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました」

ガラテヤの信徒への手紙2章11節

それゆえ、私たち一人ひとりの信仰も、人の顔色を窺ったり、自分たち個人の願いや思いを優先させたり、組織を盾に物事を決めるのではなく、「私はこのように従います」と神の前において一人ひとりが精一杯の信仰を決断することによってのみ、持ち運ばれなくてはいけません。

もちろん、そこに至るまでには、キリストにある「兄弟姉妹との交わり」や、「信仰の先輩たちに相談し、祈ってもらう」ことも必要となるでしょうが、最終的には、その一人ひとりの信仰が、御霊により組み合わされ始めて、「教会としてどのように歩むべきか」ということが、主にあって決断できるようになるのです。

神さまは、教会に調和と秩序を与えるため、仕える者としてリーダー(長老)たちを立てるよう命じておられます(使徒6章1~6節・テトス1章5節・使徒20章17節・Ⅰテモテ3章2~13節・テトス1章6~9節)。それは、教会が正しく神の御心の内を歩みながら、ありとあらゆる面において、仕えることができるようになるためです。

「長老たち」といっても、あくまでキリストの体の一部ですから、他の兄弟姉妹同様に、互いを受け入れ、愛し合っていく存在です。しかし神は、ここキリストの体の中に、権威と秩序を定められました。ですから兄弟姉妹は、長老たちを神によって立てられたリーダーとして、受け入れ従っていかねばなりません(ヘブライ13章17節・Ⅰテモテ5章17~19節)。しかし、長老たちが神に従っていない場合には、その任を解かれることになります。

長老たちに課せられた、この余りにも重大な責任の故に、彼らがその働きを全うすることができるよう、絶えず目を覚まし祈ることが、兄弟姉妹にも使命として与えられています。あのパウロですら、自分のために祈ってほしいと要請しているのです(エフェソ6章19節・Ⅱコリント1章11節)。このようにして、キリストの体の中に、神の権威と秩序が確立されていくとき、聖霊はより自由に教会の中でお働きになれます。

聖霊に満たされて(支配されて)

「聖霊の満たし」と「聖霊の賜物」の関係

(注)「満たし」の定義を「支配」と同義語として考える

「聖霊の満たし」と「聖霊の賜物」の意味をしっかり捉え、その位置関係を認識し、歩む必要があります。コリントの教会に起こった混乱は、二つの位置の混乱からきました。聖霊の賜物(働き)は見え易く、聖霊の満たし(人格)は見えにくいものです。異言、預言、癒し、奇跡などの賜物をもつことが、「聖霊に満たされた証し」とはいえません。それらは、神の子が聖霊に満たされ歩むために仕える賜物で、信仰の目的ではありません。

信仰者の目的は、聖霊に支配され生きること、すなわち「聖霊の満たし」にあります。聖霊の賜物は、個人に与えられたというよりも、キリストの体である教会に与えられたものです。ですから、自分のために用いず、「教会のため」「神の栄光があらわされるため」に用いるものです。

聖霊に支配された人が聖霊の賜物を用いるとき、キリストの栄光があらわされますが、聖霊に支配されていない人が聖霊の賜物を用いると、「人に崇められる」という間違った結果を生じさせてしまう場合があります。ただし、この場合においても、聖霊は人の能力や人格を超え、癒しや奇跡を行うことができ、人はそれを実際に見ることもできます。

聖霊の賜物は、兄弟姉妹が聖霊に満たされて生きるように仕えるものであり、聖霊に満たされて生きる人に、神は必要な賜物を増し与えられます。さらに、一人の人格が聖霊に支配されると、その人が生まれ持った気質や学んだ技術、能力なども聖霊の賜物へと変えられていきます。そして、さらに、満たされた人格は自らに宿った聖霊と共に、一人ひとりに仕えることで、兄弟姉妹を聖霊に満たす働き人とされていきます。教会は、聖霊により造られるので、聖霊の賜物は大事ですが、もっと大切なことは、聖霊に支配された人がより多く集うことが、よりよい教会を造る重要な要素になる、ということです。

教会と個人の関係について

「聖霊に支配された人が体(教会)を造り、健全な体(教会)が健全な神の子の命を育む」

付記(1)をご参考ください。

「教会の4つの基礎」もあわせてご参考ください。

終わりに

以上、「鵜の木教会の歩み」を聖書の原則から記しました。それらを一言で表現するなら、「いのちが形を造ることを信じて歩む」となります。

羊の命は羊の姿と行動を造り、人の命は人の姿と行動を造ります。「神の子の命」は、神の子を造りますが、神の子に関しては、イエスを信じたから自動的にキリストの御形になるわけではありません。それは、「神の子の命」は、後で与えられたものであり最初に存在した「肉の命」が力強く働くからです。

そこで「肉の命」ではなく、徹底的に「みことば」と聖霊の導きに従い続けることができるよう、いつも点検され互いに「愛にあって真理を語り合う」ことが必要です。だれであっても、真理に従わねばなりません。

一人一人が「主イエスの命」に生きることを最大の目標として歩む中で、聖霊は鵜の木教会の形を造ってくださると信じます。命が形を造るからです。逆に、形から命を造ろうとしないことです。そうするとき、必ず人と組織(教会)が先行し、命(神の子の命)を縛ることになります。

鵜の木教会には、長い歴史がありますが、それに捕われる必要はありません。その時々に、聖霊が教えてくださるからです。大事なことは、「聖書と聖霊に導かれ、イエス・キリストという御人格に出会い、聞き、従い、祈る」という信仰の原則に、立ち続けることです。

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