キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルツ記 第4章

4章1節

ボアズが町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。「引き返してここにお座りください」と言うと、その人は引き返してきて座った。

ボアズは、エリメレク家の親戚で贖いの責任を持ちますが、彼以上に近い親戚がいました。その人には、ボアズに優先して贖いの権利があります。

その親戚とは、人が神から離れ、「園の木の間に隠れ」(創3章8節)たことに端を発します。「園」とは自然界であり被造物である「この世」を指します。

世を親戚にしたのは、「善悪を知る木」を取って食べたからでした。「善悪」とは真理であり、神がそれを握ってこそ真理となります。独裁者ヒットラーが、国の法律(真理)を自分の手に握って神として振舞ったように、その真理を握った者が神になります。

神の霊の命を失い、肉(生まれたままの人)に生きる者の欲求を満たすものはこの世にあります。ですから神から離れ自分を神とする人は、この世を親戚(自分の欲求を満たす存在)にします。

早速、ボアズは最も近い親戚を見つけて交渉を始めました。交渉が必要なのは、救いは公式や法則にではなく、人格と人格の継がりと交わりにあるからです。

友よ。あなたは親戚を間違っていませんか。世を親戚にするのは、肉で生きていたからです。親戚を間違うことは命を間違うことです。命はイエスだけです。

4章2節

ボアズは町の長老のうちから十人を選び、ここに座ってくださいと頼んだので、彼らも座った。

エリメレク家のことで交渉相手を探すボアズの前を、当の親戚が通りかかりました。早速呼び止め、さらに交渉の証人となる長老たちにも座ってもらいました。

信じて救われるのであって、洗礼を受けたからではありません。その洗礼は、人々の証人の下での神への告白でした。証人がいることは、なによりも自分自身の信仰の決意を堅くするために有効です。

罪人が神の子となれたのは、使徒ペトロを初めとした証人たちがいて、「イエスはキリスト(主)です」と証言し、それを聖書として残してくれたからです。

神の証し人と聖書の背後には、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリ12章3節)とあるように、いつも聖霊が臨在してイエスを主と信じさせます。

さらに、主イエスは私たちを十字架上で、「父よ、彼らをお赦し下さい」と執り成してくださいました。主によって罪を赦され、神の霊なる聖霊を宿し、父の子として天国へ行くことができました。

友よ。先に救われた私たちも、聖霊も、御子イエスも、一人の魂を父なる神の子とするために集められています。あなたも、一人の魂を救うための証人として、ボアズに呼ばれた十人の一人のように、主イエスのそばに呼ばれている大事な存在です。

4章3節

ボアズはその親戚の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。

エリメレク家は、神の国にいて飢饉に遭遇した時、モアブに救いを求めました。しかし、そこで得たのは夫と二人の息子の死でした。

ナオミはベツレヘムに帰り、嫁ルツを通して神への新たな信仰を持ちました。その決意が、「畑地を手放す」ことでした。これがナオミに起こされたのは、ボアズと出会い、「彼はきっと私たちを贖って(救って)くれる」との確信を得、信頼できたからでした。

人々とみことばと聖霊に導かれ、イエスを主と告白し、罪を贖われ神の子とされます。しかしその告白には、天国へ行く魂の救いを願うことであっても、自分が所有している様々のものは、なお自分のものとして持っていたい、が本心ではないでしょうか。

ナオミは、神の国に戻り、ボアズの姿を見て信仰を取り戻し、彼に自分の魂のみか、持てるものすべてを贖って所有して欲しいと願いました。

友よ。あなたが神に贖って欲しいのは、罪だけですか。それとも、家族や財産や仕事など、全てですか。

「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です「(ロマ12章1節)。

4章4節 ①

もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。

ボアズは自分より近い親戚に語りかけますが、その発言に、本当にそれで良いのか、と心配になります。

一方、ボアズの提案を聞いた親戚は喜んだに違いありません。彼こそ、「この世」だからです。「この世」の願いは、富、権力、快楽、名誉…を得て自分を大きくし、自分が神になることだからです。

人の存在をパウロは、「…あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ロマ6章16節)と言いました。

ボアズなる主イエスも、この世なる親戚も、人を求めていますが求め方はちがいます。主イエスは霊に働きかけ、世なる親戚は肉に働きかけます。しかし両方を得ることはできません。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っている」(ガラ5章17節)からです。

友よ。この世の親戚は、あなたの肉を喜ばせて自分の奴隷にしようとしています。主イエスは、あなたの肉を殺して御霊の自由を与えてくれます。あなたはだれに所有されることを切望しますか。

4章4節 ②

「…それなら私が考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、私はその次の者ですから。」「それではわたしがその責任を果たしましょう」…。

人間もこの世界も創造者は愛の神です。愛は、相手の意志を尊重し強制しません。勿論、世が人格を持つのではなく、世の支配者である人に与えられました。ゆえに、決断するのは人です。その決断の出どころは、「霊(神によるか)」と「肉(自分によるか)」です。

人が自分の肉を満たすために選ぶ相手は、「この世(最も近い親戚)」です。しかし聖書はその結果を、「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」と。その理由を、「日の下で人が労する全ての労苦…」(伝1章2~3節・口語)」だからと記します。

「日の下・太陽の下(新共同訳)」とは、「この世」を指します。ここで富、名誉、快楽、事業、知識を積み重ねても空しく必ず全てを失います。なぜなら、人は「日・太陽の下」を超える存在だからです。

神は第六日目に人を造りました。六日目の創造は、「土のちり(自然生命)」によるもので、そこに命はありませんでした。神が御自分の霊(命の息)を吹き入れて「人は生きる者」となります。その命の息を受け取ったのは、第七日目と考えることもできます。

友よ。一番近い親戚である世があなたを選ぶのではなく、あなたが世を選ぶのです。「日の下の『この世』ではなく、太陽を超えさせる神を選んでください。

4章5節

ボアズは続けた。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」

自分より近い親戚に、先に田畑の贖いの権利があると言ったボアズでしたが、それには大事な条件が付いていると言いました。それは、田畑を買い取ると同時に、「故人の名を…再興する」ことでした。

日本における跡継ぎ(特に古い日本の因習から理解する男の子)と、聖書が言う「跡継ぎ」の意味は違います。聖書における跡継ぎは「御国の跡継ぎ」=「永遠の命」を指し示しました。

「サライは不妊の女で、子供ができなかった」ところから出発するアブラハムの生涯は、御国の跡継ぎを得る物語でもありました。彼が子を得たのは、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15章6節)ことで、信仰によってでした。

子供は、自分と他者の間から生まれるもので、一人では不可能です。人格と人格の継がりと交わりは、「信じる」ことから始まります。

友よ。あなたは、「あなたの世継ぎ=永遠の命」を受け取っていますか。それはいつでも、ボアズなる主イエスとの継がりと交わりの中に存在するものです。

4章6節 ①

すると親戚の人は言った。「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。」

より近い親戚は、ボアズの提案を受け取るどころか拒否しました。その理由を、「責任を負えない」からだと言います。田畑には責任を負えても、モアブの女ルツを受け取ることは責任を負えないようです。

田畑を贖うには、金銭やこの世のもので来ますが、人を贖うことはできません。ましてモアブの異邦人・罪人を贖うには、金銭も全世界も代価にはなりません。

その理由は、「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(詩49篇9節)からです。「罪の支払う報酬は死」(ロマ6章23節)ですから、罪人を贖うためには自分の命を身代わりにせねばなりません。「生き物の命は血の中にある…。血はその中の命によって贖いをする」(レビ17章11~12節)。

一番近い親戚は、ルツを贖うと自分の嗣業を失う、と告白しました。「この世(近い親戚)」は、自分の役に立つルツは受け入れても、ルツのために自分が犠牲になることは拒否します。

友よ。ただ一人、他者のために自分を捨てられたお方は主イエスです。「しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」とは、私たちのために神はイエスを捨て、イエスは自分を捨てました。それによって私たちは命を得ました。

4章6節 ②

「親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。」

これまでボアズより近い親戚の代名詞を「この世」としてきました。この世には、「暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」(エフェ6章12節)なる支配者がいます。すると、ここに登場する悪霊に支配された「この世」という人は、ずいぶんと紳士的ですが?

しかしサタンは、自分が人を贖えないことを知って「あなたが責任を」と言いますが実際は違います。サタンの武器は、暴力でもなく、嘘です。

さらにサタンは、自ら偶像を造り拝ませるのでなく、嘘を用いて人の肉に働き、偶像を造らせ、拝ませ、あるいは戦争を正義と信じさせます。結果的に、罪を犯すのはサタンではなく人間たちです。

その原型が人祖の堕落物語です。「善悪の知識の木(真理・善悪の基準)」は、人に自由意志を与えたゆえに必要不可欠なものでした。神はその真理を、取る(握る)者でなく、従う者になることを願いました。

友よ。罪を犯したのはサタンではなく人でした。サタンは、「あなたが責任を」と神に言うのは、神の御前から逃げているだけです。サタンが生きる場所は、空中でも偶像の中でもなく、人の肉という罪の中です。サタンは、人の罪を贖えないし、贖おうとはせず、むしろ人の罪の中で生きようとします。

4章7節

イスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。

国や民族により契約の方法が違います。日本では署名捺印、西洋社会では署名のようです。ユダヤでは、自分の靴を脱いで相手に渡すことで契約を結びました。

「靴を脱ぐ」ことの意味を、神とモーセの関係に見ることができます。モーセがエジプトの王子を追われ、ミディアンの沙漠で祭司の娘と結婚し四十年経った時、「モーセよ、モーセよ」と神に呼ばれました。

彼が応えると、「ここに近づいてはならない。足から靴を脱ぎなさい」(出3章)と言われ、モーセはそれに従います。その後、彼は神の僕として仕えました。

なぜ「靴」を脱いで相手に渡すのか…靴は自分が歩いてきた「立場」を表し、それを「脱ぐ」ことは「捨てる」ことに通じます。そして、その「靴を相手に渡す」ことは、「自分の立場を相手に渡す」となります。

モーセは、エジプトの王子の四十年、羊飼いの四十年を脱ぎ(捨て)、「聖なる土地(神の領域)」に立つ(自分を置く)ことでした。エリメレク家の一番の親戚は、これ以上のマイナスを負いたくなかっただけです。

友よ。「この世」があなたの責任を負ってくれると思ってはなりません。最後の時には、靴を脱いであなたを捨てる人を親戚にしてはなりません。

4章8節

その親戚の人は、「どうぞあなたがその人をお引き取りください」とボアズに言って、履物を脱いだ。

肉の父から生まれた人にとって、一番頼りになるのはこの世です。誰でも命を求めますが、肉の人は肉を、霊の人は霊を求めます。その肉を満たすのが、「この世で」ですから、この世を一番近い親戚にします。

使徒マタイは、聖書を熱心に学んだ結果失望し、神を捨て、取税人になりました(後に福音書を書いた時、誰よりも旧約聖書の引用が多いことからわかります)。律法も富も彼を救ってはくれませんでした。

パウロは、ユダヤ人が神に喜ばれると思われることを何でも身に着け実行しました。しかし、「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なす…」と告白しました。

旧約聖書のコヘレト(伝道者)は、権力、富、知恵、快楽など、あらゆる欲望を実現できましたが、「空の空、空の空、いっさいは空である」と言いました。

マタイもパウロも伝道者も、人一倍知恵を尽して努力しても何も得ることはできませんでした。そうです、一番近い親戚が靴を脱ぎ放棄しているからです。

愛する友よ。靴を脱ぎ渡す自己放棄の儀式は、あなたにも必要です。「この世」を頼りにし、自己中心という靴を脱ぎ、主イエスに渡すことは、自分の十字架を負い主に従うことです。世に放棄される前に、あなたの方で「この世と肉」を放棄してください。

4章9節

ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。

「この世」という親戚は、「百害あって一利なし」と思ってはなりません。神は、「東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」(創2章8節)ように、そこは人が生きるに必要な所でした。

ただし、エデンの園(自然界)には神の霊はなく、園の中央(霊の世界)の「命の木」である「主イエス」に命がありました。エデンの園は、人の体や心や社会性(家族や隣人たち)を生み育む場所です。

神から受け取る霊の命を「園」に求めると、偶像に命を要求するようにすべてが空しくなります。

政治、経済、教育や文化、家族、どれも必要ですが、それらは神の霊を入れる器であり、どんなに立派で尊く見えても、器は器であり命のパンではありません。

両者の関係を、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に…」(マル12章17節)と言いました。ただし、対等ではなく、神が上と先で、皇帝は下と後ろにおかれで命(神)に仕えるとき、器も聖いものとされます。

友よ。「生きているのは、もはや私ではありません(十字架についた私)。キリストが私の内に生きておられる(復活に生きる私)」であることを、いつも口ずさんで、自分が自分の信仰の証人として歩んでください。

4章10節 ①

「わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。」

神に「似せて」造られた、という人間のなにが神に似ているのでしょうか。それは、「自由意志を持ち」、「創造する存在」であることです。これらは他の被造物には与えられていません。

人間が自由意志と創造力を持つゆえに、自分で命を造り、保ち、成長させ、完成させて、自分自身を救おうとします。しかしその時に一番大事なことを間違ってしまうと、その後がみじめで空しくなります。

大事なこととは、「命」です。命が「なに」かを間違ったことでした。ゆえに、器を命とし、手段を目的と取り違えます。すると、それらは偶像となります。

命は個人の中にはなく、「私とあなた」の関係に存在します。まさに、「結婚」の奥義は「愛」であり、「継がりと交わり」によって「命」を造ります。「愛=命」は、「結婚(継がり・交わり)」という形に現れます。

ボアズの、「私は…ルツを引き取って妻とします」こそ、人が求めていた命であり、愛であり、救いです。ただし、命は他人格との継がりと交わりですが、だれと結婚するかによって、造られる命の質が違います。人と人が作る命は、罪人の命でしかありません。

友よ。あなたの伴侶…一番の親戚は誰ですか。あなたの罪の代価を払っても「引き取って」くださるお方は主イエス・キリストだけです。

4章10節 ②

「わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。」

人が救われた状態を、「神の子」と言います。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶ」(ロマ8章15節)。

次の表現は、「キリストの花嫁」です。「天使が…私に語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう」(黙21章9節)。

人間社会でも、「存在=名前」を変えることができます。一つは、養子縁組をして新しい関係を持つこと。次は、結婚によって伴侶の名前になることです。

すると、人の救いの順序は、父なる神の独り子・「①キリストの花嫁」となることで、父なる「②神の子」となるとも言えます。さらに、人の救いを次のように説明することもできます。

聖霊なる神は、証し人や聖書を通して花嫁を探し、求める者を主イエスの元に連れて来ます。御子イエスは、聖霊に導かれて来た人の罪を償い復活の命を与え、御自分の花嫁とします。そして天の父に紹介します。父なる神は息子の花嫁を喜んで、「わが子よ」と呼び、神の家族の中に受け入れて愛してくださいます。

聖霊なる神に探され、御子イエスの花嫁とされ、父なる神の子とされた友よ。あなたのアイデンティティーは、キリストの花嫁であり、神の子です。

4章10節 ③

わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。

ボアズが証人たちに語った中で、見逃せない言葉があります。それは、「マフロンの妻であった」と「モアブの婦人」という言葉です。

一般に、結婚するには純潔を保っている人や同じ信仰を持つ人を望むものです。しかし、ルツは人妻であった女であり、しかも偶像礼拝をするモアブ人でした。

聖く純粋な青年ホセアは、ある時「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」との神の声を聞きました。そこで、「彼は行って…ゴメルをめとった」(ホセ1章2節)とあります。そのゴメルこそ、淫乱の女であり、偶像礼拝する民でした。

このゴメルこそ、神(ボアズ)から離れ、モアブ(この世)を神として姦淫する人を表しました。ゴメルの姦淫は、ホセアとの結婚後も続きますが、神はなおもホセアにゴメルを愛せと命じ続けました。

神に愛される友よ。神は神を裏切って異邦人へ行き躓いた者たちを用いても、ゴメルでありルツである私たちを救おうとされます。神の願いは、全ての人を「嗣業の土地」である天国へ入れて、「故人の名(一度罪に死んだ者)」をさえ、よみがえられて永遠の世界へ連れて行こうとするお方です。

4章11節 ①

…民と長老たちは言った。「…あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。

証人となった長老たちと多くの民も、こぞってボアズとルツを祝福しましたが、その中にヤコブの妻たち「ラケルとレア」の言葉が入っていました。

ヤコブは、家から叔父の所へ逃げる途中で主と出会いますが、その後の二十年間は肉に支配される生活でした。姉のレアと妹のラケルを妻と死、さらに二人のはしためも加わり争う不幸な家族となりました。

その叔父の家から逃げる途中、再度神と出会い、格闘し腿の関節を外されます。それ以後、彼は杖に頼って歩かねばならくなります。神は彼の一番強い関節(自我)を打ち砕きました。

彼はその時から、「自我(強い関節)」ではなく、「杖(信仰)」で歩くようにされ、名をヤコブ(争う者)からイスラエル(神の王子)に変えられました。

イスラエルとなった彼は、ヨセフを霊的リーダーに育てる途中でヨセフもエジプトに売られてしまいます。しかし、神は彼の祈りに応えていました。やがてヨセフに寄って家族は救われ十二部族として立てられます。

友よ。ラケルとレア、ナオミとルツも私たちその者です。しかし神は、彼女たちを用いて十二部族を興し、ダビデを誕生させます。キリストの花嫁となるとき、花婿が花嫁の罪も欠点も、光の中に入れて聖別します。

4章11節 ②

「主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。」

ラケルとレアの姉妹は、一人の男ヤコブの妻とされます。その時から、「可愛さ余って憎さ百倍」の関係となりました。二人から生まれた子供たちも争い合い、その中のヨセフは隊商にエジプトへ売られました。

二人の不幸は、ヤコブ(争う者)の妻であったからでした。しかし、夫であり父であるヤコブがイスラエルに変えられたことから、家族も変えられ始めます。

売られたヨセフによってエジプトに引き寄せられ、争っていた子供たちも変えられ、十二部族という重責を担う器とされます。イスラエル十二部族が担わされた使命、それは救い主を送り出すことでした。

多くの預言者たちが遣わされ、神が人となり、男の子として産まれる場所は、「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」(ミカ5章1節)と預言されました。

神は、ラケルとレアを用いて十二部族を興したように、救い主が来るためにルツを用いる預言でした。そして、「ボアズはルツによってオベドを…ダビデ王を…メシアと呼ばれるイエスが生れた」(マタ1章)。

友よ。あなたも「だれか」の中に救い主が誕生するための器です。今日の一日が聖別されますように。

4章12節

「どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」

ボアズとルツの結婚を祝福する声に、ラケルとレア、そしてタマルが登場します。これらの女性たちは、信仰深いと言うよりも、問題の多い女性たちでした。

ヤコブの子供たちの父への怒りは、父が一番愛するヨセフを隊商に売り飛ばした。ユダはそのことに心痛み、兄弟たちと別れゲジブで家庭を持った。

長男にタマルを嫁にとるが長男は死に、次男も主の御心に反し死にます。ユダはタマルに三男の成人まで待つことを命じます。やがてユダの妻も死にました。 その時タマルは、娼婦の姿を取り義父ユダを待ち構えて関係を持ち、そこにペレツが生れました。

ラケルもレアもタマルも罪の女でしかありませんでした。しかし、彼女たちは神の系図に入っています。そもそも「創世記」は、万物の創造物語ではなく、「系図の書」です。それは、「神と継がり交わった者たちの系図」となります。

神の系図に入れられている友よ。あなたの欠け、欲深さ、罪の大きさ、それが人生を決めるのではありません。各人の存在と将来は、誰と継がり交わるかで決まるものです。ラケルもレアもタマルも、さらに遊女ラハブもバテセバも、罪の中を通りながらも神を見上げました。私たちも彼女たちと同じです。

4章13節

ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。

「エリメレク家に嫁いだルツは、夫が死んでも姑ナオミから離れず異国までも着いて来て、日々の糧を得るために落ち穂拾いまでして仕えた。それでルツは大地主と結婚できた」であれば、戦前戦中の教科書です。

聖書の中の「雅歌」にしても、男女の恋愛や夫婦愛ではなく、神と人間の霊的関係について記します。

そこでは、ソロモン王子がシュラム(異邦人)出身で、色の黒い娘(罪人を表し)、さらに「ぶどう畑の見張り…もできない」(雅1章6節)能力も乏しい娘に求愛します。「恋人よ、あなたは美しい」と言い、さらに「私の妹、花嫁よ」と愛を迫ります。それは、御子イエスと人間の関係を表しています。

しかし、御子イエスがどんなに人間を愛しても、「愛がそれを望むまでは、愛を呼びさまさないと」(2章7節・他二回)記されます。このことこそ、信仰の領域です。信仰は相手と私の同意によって成立します。

ソロモンの求愛を娘は最終的に拒みます。「洗い場から上ってくる雌羊(娘)の群れ。対になって(伴侶を得て)、連れ合いを失ったものはない」(6章6節)と。それは最終的に他を選んだ娘の信仰の姿でした。

友よ。ルツ記のボアズは主イエス・キリストです。ルツはあなた自身です。主イエスだけが主・夫です。

4章14節

女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。」

ボアズによってルツに生まれた子を見た女たちは、ナオミにも祝福の言葉を掛けました。

ナオミこそ人類の姿でした。神の国(ボアズの下)から離れ、夫(主)と息子たち(世継ぎ)を失い、行き詰まってベツレヘムに戻り、ルツの姿から神へ立ち帰り、そして今、確かな救いの確信へと導かれました。

救い主の降誕に先立ち、不妊のエリサベトに子が与えられた時、夫ザカリアは、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、 我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(ルカ1章68~69節)と預言しました。

救いの確信は、出来事を見たことへの確証ではなく、出来事を起こす神御自身への確信です。それは、出来事から神を信じるのでなく、神を信じるから出来事を見ることです。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハ20章29節)。

友よ。ナオミの友人たちもザカリアも、「ほめたたえよ主を…主はあなたを見捨てず…主はその民を訪ねて解放し…」と、出来事よりも神に目を注ぎました。神に目を注いでください。すると、神の御業が見えます。

4章15節

「その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」

自分の息子の嫁であったルツがボアズと結婚したことを、「息子の嫁が主イエスを信じ、その子(孫)も信じるようになった」ことに例えることができます。それは、「肉(自己中心)の家族が、霊(神中心)の家族に変えられた」とも言えます。

家族の一人がキリストの花嫁になることは、家族に大きな影響を与えます。命は、理論でも知識でも生まれません。一人の人が自分の命を賭けて、自分を愛してくださった神に命を捧げてこそ実現します。

ルツがボアズのことを聞き、「あなたの衣の裾で…覆ってください」と自分の命を委ね、それに対してボアズがルツを妻にしたようにです。

ルツはボアズと一つになって救われ、二人の間には新しい命が誕生しました。それこそ、「その子はあなたの魂を生き返らせる」という家族の救いの始まりです。 そしてその子(神の子の命)は、老後の支えとなり、天国への生き生きとした希望に生かしてくれます。

友よ。あなたが神の子であるのは、キリストに自分を捧げた花嫁がいたからです。あなたは主と花嫁の間から生まれた神の子ではないでしょうか。キリストの花嫁は必ず神の子を生むことができます。ルツの結婚は、ナオミを救い、子供を救う命の連鎖になりました。

4章16~17節

ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に…オベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。

ナオミは、ルツに生まれた子供を、自分の子のように喜んでいます。それは、自分が受け取った「永遠の命という子」を喜んでいるようでもあります。

かつて彼女は、神の国を離れモアブに出て行き、夫(神)を失ったので子供(御国も跡継ぎ)も失いました。しかし今、ルツの結婚により、ナオミもボアズとルツの家族とされ永遠の命を受け取りました。

人同士が継がる家族は、利害共有家族で表面的家族の域を越えられません。イエスを主とする者同士は生命共有家族です。命の家族は神によって造られます。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です」(エフ2章19節)。

ルツの子なのに、「ナオミに子供が生まれた」と言われ、「ナオミはその乳飲み子を…養い育てた」とも記されます。神の家族にあっては、「誰々の子」を超えて「神の子」ですから、霊においては自分の子となります。

神の家族の友よ。「神は、神を愛する者たち、…と共に働いて、万事を益と…して下さる」(ロマ8章28節)のみことばで大事なことは、「万事の益」を求めるのではなく、「神を愛する」ことを求めることです。その時、神はあなたの万事を必ず益としてくださいます。

4章21~22節

サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。

ルツ記全体のメッセージは、「キリストの花嫁」と言えます。それは、罪人が三位一体の神に救われる様を、人間社会の結婚を通して教えていました。

結婚して花嫁になることで、様々な特権が与えられます。

夫といつでもどこでも共に居る
「私に繋がっていなさい。私もあなたがたにつながっている」(ヨハ15章4節)
夫の名(存在・)が与えられる
「私は御名を彼らに知らせました」(ヨハ17章26節)「あなたがたはキリストのもの…」(Ⅰコリ3章23節)
夫の家族、神の家族の一員となる
「私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つとなるため」(ヨハ17章23節)
共通の人生の目的を持つ
「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私はキリストと教会について述べているのです」(エフェ5章31~32節)
子供の誕生
「サルマ、ボアズ、オベド、エッサイ、ダビデ…」

友よ。あなたの居場所は、「父なる神の子」と「キリストの花嫁」という場です。そこに平和・喜び・希望・永遠が、何よりも愛があります。

ルツ記・完

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