キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ペトロへの手紙 第1章

Ⅰペトロ1章1節 ①

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア…の人たちへ。

新約聖書には21の手紙が収められ、どれもこれも現代の私たちに宛てた手紙でもあります。それは、ペテロが書いたという以上に、神が聖霊によってペトロに書かせた神のメッセージだからです。

聖書の「言葉(手紙)」は、「言」なる神から出てきました。「言」は「命」であり「真理」です。真理は、「普遍的(時を超える)」で、「有機的(全ての人に)」で、「アガペーの愛」ですから、私たち神の子たちすべに語りかける時空を超えた神のメッセージです。

この手紙は、迫害の中にいる兄弟姉妹へ書かれました。一見、平和に見える日本にいると、迫害のないことが恵みであると錯覚します。しかし、神の子の成長には「…苦しんだあなた方を完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことのないようにしてくださる」(5章10節)といわれる迫害や試練が大いに関係します。

迫害は、目に見える現実世界と霊の世界の両方で起る戦いです。初代教会においても、平和に見える日本でも、あなたが真剣に神の御心に従って生きようとすれば必ず出会わねばならない戦いです。

しかし、友よ。恐れる必要はありません。「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」(5章12節)と、勝利の道が備えられていることを教えます。これから、神が備えてくださった道を共に歩みましょう。

Ⅰペトロ1章1節 ②

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

手紙は、「だれが、何時、誰に、何処で、何のために」書いたか、を考慮したうえで理解されるものです。 この手紙は、完璧なギリシャ語で書かれ、アラム語を使うガリラヤの漁師ペトロの文章ではないと言われます。後に、「忠実な兄弟…シルワノによって…手紙を書き」(5章12節)と明かされます。シルワノはパウロの同労者で、パウロがローマで殉教するまで従者でした(使15~18章に出てくる「シラス」と同人物)

…パウロ殉教後、ペトロは迫害の激しいローマに行きました。そこで人々は、大切な指導者を守るためローマを離れることを勧めます。ペトロがローマ近郊まで来た時、彼は主イエスと出会います。ペトロが「主よ、何処(いずこへ…クゥオ・バデス)」と問うと、「ローマへ」と主が答えます。そこで彼はローマに引き返し、主と同じ十字架ではもったいないと言い、逆さ十字架に付いて殉教したという伝説があります(ジェンキヴィチ著、クゥオ・バデスを参考)…。

愛する友よ。「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです」(Ⅰヨハ3章16節)。主に再び従って行った彼の姿を、私たちも歩めるように祈りましょう。

Ⅰペトロ1章1節 ③

ポントス…アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

手紙の受取人は、「ポントス…ビティニア」と言われた現在のトルコですが、それ以上に「離散し寄留している」(口語訳)神の子たちが受取人です。

彼らは、迫害のゆえか福音を伝えるためか、母国を離れ外国に寄留していました。彼らはこの世界を離れ、神の御国に籍(存在)を移しました。

実に、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表した」(ヘブ1Ⅰペトロ1章13節」人々です。

彼らは、神に贖われたことを知りこの世を捨てました。それは、敗北ではなくむしろ勝利を得るためでした。自ら進んで寄留者。神の国の民・神の御手の中で生きる者であることを選びました。

友よ。あなたはこの地上の旅人ですか、それとも寄留者ですか。旅人であれば一時家を離れますが、また元の家に戻る地に属する者となりませんか。寄留者ならば戻る家はありませんし、先に進めば進むほど家(この世)から離れて神の国に入って行きます。パウロも、「私たちの本国は天にあります」(フィリ3章20節)と言いました。あなたの本国は、天の父がおられる神の国であることを確認してください。

Ⅰペトロ1章2節 ①

あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、『霊』によって聖なる者とされ、

自国で家族と共に生活したいのに、権力者や宗教や経済的問題から、生き抜くために他国へ移動する難民と呼ばれる人々は今日でも後を絶ちません。

しかし、神の子たちの「離散・仮住まい・寄留」は難民ではありません。彼らは、自分の都合でも、他者に追いやられたからでもなく、「父である神があらかじめ立てられた計画」に従うことです。神の子の存在を守るために、離散と仮住まいを自ら選び、寄留者となる者こそ神の子たちのあるべき姿です。

神は、「天地の造られる前に…わたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと…お選びになりました」(エフェⅠペトロ1章3~4節)。その御心に沿うために、寄留者の道を選ぶのです。

人は、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、…命の息(霊)を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創2章7節)ように、肉の命から神の命の「霊」によって生きるべきものです。

友よ。主は、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(ヨハ3章6節)と言われました。ですから、あなたを生かす食物(霊の命)は、この世にではなく神の国にあります。この世にいるなら霊の命は弱ります。霊の食物を求めて神の国に移住し、天からの糧を豊かに得て生きてください。

Ⅰペトロ1章2節 ②

イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

「神に従うと血の注ぎを受けるが、恵みと平和も加えられる」とは矛盾に満ちているように見えます。しかし、これこそ恵みと平和が加わる道です。

「選ばれた」には「引き抜かれた」の意があるとも聞きました。エジプト(この世)とパロ(この世の君・サタン)の力を断ち、カナン(神の国)に行く力はだれにもありません。そこから脱出(エクソダス=出エジプト)させたのはイエスの血の力が、無力な民を引き抜いて(選んで)くださいました。

聖書の中には二つの血が出てきます。それは、「主イエスの血」と「自分の血」です。前者は罪の赦しのための「主の十字架」で、後者は主の十字架に自分が一体となるための「自分の十字架」です。罪の赦しと復活の命は、無代価で皆に等しく備えられる恵みですが、受け取る量は違います。それは、主にどれだけ主権を渡し、自分を支配していただくかに比例します。

主の血の注ぎを受けるために選ばれた友よ。それはむしろ、自分の血を主に注ぐことであることを自覚していますか。主の血(主の十字架)と自分の血(自分の十字架)がより深く交わるとき、恵みと平和はより大きく深くされます。神は小さな恵みでなく、大きな恵みを与えるためにあなたを選ばれたのです。

Ⅰペトロ1章2節 ③

イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。

この手紙は、「ポント…ビティニア…離散して仮住まい」をしている人々、すなわち「主を信じ神の民となり寄留者になった人々」に宛てて書かれました。

手紙の文面から、「選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコからよろしく」(5章13節)の言葉から、ペトロはローマに居ることがわかります。当時、バビロンとはローマ帝国の首都ローマを指しました。  ここから、神を信じることは、御利益信仰では成り立たず、血による継がりと交わりであるとわかります。 イエスを主として生きるには、最初に「内面の血」を流さねばなりません。それは、「肉に従って生きるなら…死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば…生きます」(ローマ8章13節)にあるように、肉が死ぬために流す血が必要です。

次に、神の子は、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」(Ⅰヨハ2章15節)し、「だれも二人の主人に仕えることはできない」(マタ6章24節)ので、「外面の血」を流さねばなりません。これこそ、信仰を守るために迫害を受け取る血でした。

友よ、「血は命」(レビ17章10~14節)です。命が命を作り、育み、完成させます。イエスの血(命)があなたの命を「作り育み完成」させます。主の血は、あなたの血(服従・信仰)で受け取るのです。

Ⅰペトロ1章3節 ①

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。

若い頃、「プレイズ・ガット(神をほめたたえます)」と口癖のように言う宣教師に違和感を覚えたものです。「ほめたたえる」ことは、日本人には難しいものです。

「ほめたたえる」は、「盛んにほめる・ほめそやす」ではなく、「賛美する」が正しい言葉です。しかし、「賛美」も日本人には難しく思えます。なぜなら、「賛美する」の根底にあるものは、「神との交わり・人(神)格と人格の正しい存在と継がり」のことだからです。

賛美するには、相手である神の人格(神格)が明確でなければできません。神がわかることで、自分が何者かを知ります。神と自分がわかると、両者の正しい関係が理解できます。神と自分の正しい関係が作られることこそ、「賛美」となるのです。

賛美とは、讃美歌を歌い神は素晴らしいと言う以上に、「信仰者としての生き方」のことです。それは、主の祈りの、「御名が崇められますように」と同じで、「神が神としてあらわされますように」でもあります。そのために自分が聖別され、神の器となって生きること、これこそ神をほめたたえ賛美することです。

友よ。「然り、然り」「否、否」と言いなさい」(マタ5章37節)と主が言われました。神の言葉を「アーメン(然り)」として生活すること、「イエスを主として生きること」で、神をほめたたえ賛美することです。

Ⅰペトロ1章3節 ②

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。

「ほめたたえる・賛美する」は日本人には難しいと先に記しました。神の恵みを豊かに受けているのに、クリスチャンが世界で最も少ない理由も「ほめたたえる」ことが理解できない民族性が考えられます。

仏教徒がインドのブッタを、神道信者が天照大神を、浄土真宗の人々が阿弥陀を拝む訳でもありません。なぜなら、天照大神も阿弥陀も架空の存在で人格がないからです。日本人が神々とするものの本質は、「自然」です。高温多湿のモンスーン気候の中では、自然が人を生かすので、それが神仏となります。

「見わたせば、花ももみじもなかりけり、うらのと山の秋の夕暮れ」と歌う和歌や俳諧は、「ものの・あはれ」として表現されました。本来は「我の哀れ」なのですが、それをもの(花も紅葉もなく、秋、夕暮れ)の「あはれ(哀れ)」に置き換え、救いのない自分を、哀れから切り離して救わねばなりません。

日本人である友よ。キルケゴールが、人生には「①美的段階(自然との関係)・②倫理的段階(人と人との関係)・③宗教的段階(神と人との関係)」という三段階があると言ったそうです。①は②のために、②は③の「神と私の関係」のためにあるのです。真の神、イエス・キリストと継がり交わり、アーメンと言ってイエスを主として生きることが「人生」です。

Ⅰペトロ1章3節 ③

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

「ほめたたえる」ことは、相手をよく知り、心から尊敬できなければできません。神をほめたたえるには、真の神をより深く知り、その方の御心が私たちに対する愛であることを知ってこそ可能です。

日本人の心を表した文学者に夏目漱石がいます。ある評論家によると…「彼の初期の作品の、『吾輩は猫である・坊ちゃん・草枕』などの共通点は、「眺める立場」です。その頃の彼は、強度の神経衰弱にあり家庭も深刻な状態であった。しかし三十九歳で大きな変化をし、それ以降の作品は『三四郎・それから・心』などで、それらの共通のテーマは「エゴイズム」です。その中で小説「心」は彼の深層を表わしました。無二の親友を裏切り結婚するが、友人は自死していく。毎月のある日に彼(先生)は妻にも黙って居なくなる。彼は友人の命日に墓参りをしていた。しかし、それでも彼に救いはなく、彼もまた自死してゆく」…と。 

人は、傍観者になっても、エゴの問題を直視しても救われません。人の救いは、人格を持ち、語りかけ、聞いてくださり、ともに生きてくださる愛の神を知り、その方と継がり交わる以外にないからです。

友よ。「新たに生まれさせ、復活させ、希望を与えて」くださる方があなたの神、イエス・キリストです。

Ⅰペトロ1章3節 ④

私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は豊かなあわれみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

ペトロの手紙は、「血を注ぎかけていただくために選ばれた」にとどまらず、「生き生きとした希望」へと進ませ、「天にある財産を受け継ぐ」にまで至らせます。

ある人が、パウロの手紙は重苦しく、ペトロの手紙は明るいと言います。その違いは、パウロは主の十字架が理解できず、苦しんで福音に辿り着いた人でした。ペテロは、漁師をしていた時、福音(イエス)の方から歩いて近づいてきました。そこから、パウロは福音の弁証者に、ペトロは十字架を語る以上に復活の恵みを証しする者として出発できました。

キリスト教において十字架は最も大切なものですが、しかし十字架は復活を与えるための手段ともいえます。救いが十字架で終わっているならば、罪は赦されても、罪の痛みはなお残っています。痛みを忘れさせるのは、復活の命に生きることができるからです。

友よ。あなたの信仰が、十字架から復活に進んでいるか否かは、過去の痛みをまだ覚えているか忘れているかでわかります。忘れるとは、記憶から消されることではなく、痛みが良かったことに変わることです。痛みは十字架に出会うため、十字架は復活に至らせるためです。十字架に留まらず復活へ進んでください。

Ⅰペトロ1章3節 ⑤

神は豊かなあわれみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

先に、「赦すことは忘れること(カール・ヒルティ)」の言葉を引用しましたが。それができない人の姿を小説「暗夜行路(志賀直哉著)」が記します。

…若夫婦がいます。夫の出張中に妻の従兄が訪ねて来て一泊し、その従兄妹同士に過ちが起きます。やがて夫に知られるが、夫は妻の過ちを許し危機を乗り越えます。後に夫婦に子供も与えられますが、妻は夫に許された気がしません。ついに、「あなたは私を赦したといいながら、実は赦していない」と訴えます。夫は、「寛大な俺の考えと、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになってくれさえすれば。何も問題はないんだ」と正直に答えます…。

夫は、「考え(理性)」では赦しても、「感情(本音)」では赦せません。「赦すことは、(痛みを)忘れること」、それができないでいます。

痛みが消されるには、そのことがマイナス(痛み)からプラス(善きこと)になるときです。罪を示されて十字架へ送られ、そのゆえに復活の命に生きるとき、痛み(十字架)は通過し消される(忘れる)のです。

友よ。あなたの赦しは十字架に止まっていませんか。イエスは大きな痛み(十字架)を受けましたが、復活により痛みを通過し、あなたに愛を注いでいます

Ⅰペトロ1章3節 ⑥

死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

聖書の中心は、イエス・キリストであり彼の十字架と復活です。十字架と復活が一つとなって完全な赦しを与え、それが生き生きとした希望を与えます。

《ペトロの場合》

彼は主に、「人間をとる漁師に…」と招かれ、一番主の近くにいました。主の裁判の時は、「あなたを知らない」と三度言い、復活の主に出会っても「私は漁に行く」と出かけます。一晩中何も獲れません。そして、主の「舟の右側に網を打ちなさい」の言葉に従うと多くの魚が取れました。

そのペトロに主は、「あなたはわたしを愛するか」と三度も問います。この問いかけだけならば、ペトロの心は、「さらに悔い改めて、主の十字架の赦しを受けねば」と心痛み、今まで以上に十字架に自分を向かわせねばなりません。そこに赦しはありますが、果たしてペトロは完全に赦されたと感じるでしょうか。

しかし主は、「わたしを愛するか」と問うと同時に、「わたしの羊を養いなさい」とも言いました。この言葉こそ、彼に自分が完全に赦されているとの確信を与えました。それは主が、「ペトロ、あなたにわたしの羊を飼って欲しい」と言っていることだったからです。それは、彼を復活の命へと導きました。

友よ。主の十字架に留まっていませんか。主は、十字架から復活へあなたを進ませようとしています。

Ⅰペトロ1章3節 ⑦

死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

罪の赦しの完全さは、十字架を超えて復活において成就します。

《パウロの場合》 

「赦すとは忘れることであり、忘れるとは痛みを忘れること」と先に記しました。パウロこそ、彼自身の罪の代価はもちろん、迫害の先頭に立ち多くの主の弟子たちに与えた痛みも、主イエスに負わせました。その自分を「我、罪人の頭」と自称しました。 

そのパウロは、ダマスコのローマ駐屯地に、迫害の許可をもらいに行く途上で主に出会い、倒され、「なぜ迫害するのか」との主の声を聞きます。しかし、主はパウロを責めもせず、ただ、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる(意訳…あなたにして欲しいことがある)」とだけ言いました。

罪の赦しは十字架にありますが、神は彼を十字架から復活の中に進ませました。「パウロ、わたしはあなたの罪のために十字架で血を流した。しかし、わたしはその痛みを感謝している。なぜなら、この痛み(十字架)であなたを得たのだから」と。そして「わたしの仕事をして欲しい(パウロ期待しているょ)」と。

友よ。パウロは主に完全に赦されたと確信し、ここから主と共に生きること・復活へ進みました。主の十字架の赦しは、復活によって完成するのです。

Ⅰペトロ1章4節

また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

現在は、50年前の何倍もの豊かさを得ているように見えます。しかし、「健康、長寿、貯蓄、保証、家族…」などを財産と信じてきた人が、それが間違いだと気づきくのは、肉体生命を閉じた後になります。  放蕩息子が「…私が頂くことになっている財産の分け前をください」とせがみ、彼はそれを持って遠い国に行きますが、やがて無一物になりました。

原語で「財産」は、「生存」の意だそうです。生存は「命」とも言えます。彼は「命」を間違ったのです。命は、物質にも人の営みにもなく、真の神との「継がりと交わり」の中にあります。したがって、息子が父の家を出た時に「財産・生存・命」を失っていました。

人の財産は物にも健康にもなく、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与える。…わたしが命のパンである」(ヨハ6章参照)と言う主イエス御自身が、永遠に続く財産=命なるお方です。

ところで友よ。あなたは財産をいつ頂きますか。「天に蓄えられている」の言葉から、召天してからですか。いいえ、今です。否、もうすでに受け取っています。イエス・キリストなる永遠の命の財産は、あなたがイエスを主とした時から、今も、将来も、肉体を脱ぎ捨てた時も変わらずあなたの財産・命です。

Ⅰペトロ1章5節

あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

終末論は、時代を超えて人々の心を捕らえます。ある人は、黙示録の終末について事細かに現実の出来事と引き合いに語り、あたかも預言者のごとくです。

終末が人々の心を掻き立てるのは、「終末=裁き」と深く関わり、「命・救い」と直結するからです。そこで、聖書から終末を三段階に分けて見ることもできます。

第一の終末
「終わりの時に私はわが霊を注ぐ」とある、主イエスの来臨・十字架の贖い・復活・ペンテコステの時。イエスを主と信じた時に一番大事な終末は完了しました。「御子を信じる者は裁かれない、信じない者は既に裁かれている」(ヨハ3章18節)。
第二の終末
各自が肉体を脱ぎ捨てる時。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブル9章27節)。
第三の終末
世界的規模で起こる主の再臨、千年王国、審判の時(黙20~22章参照)。

その中で一番大切なのは第一の終末、「イエスを主と信じ罪を赦され神の子となる」ことです。その人には、第二も第三においても罪の裁きはありません。

友よ。「終わりの時」は裁かれる時ではなく、さらなる祝福を受け取る時です。神によって「準備されている救い」をさらにしっかりと受け取ってください。

Ⅰペトロ1章6節

それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、

神の子に与えられる恵みは、「心からの喜び」です。それは、一時の慰めでも、条件の変化にも左右されず、その人の存在を支える力です。それには、過去、現在、未来に解決を得てこそ可能です。過去の罪や傷があるなら、喜ぶことはできません。過去と今が平安でも、将来への恐れは喜びを消します。いつまでも続く喜びは、唯一主イエスの十字架と復活の恵みから与えられます。

ペトロもパウロも、過去の罪が赦されただけでなく、「わたしと共に働いて欲しい」と主に言われました。さらに、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」(4節)約束も得ました。

主は、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハ14章27節)と言われました。平和とは、「神との正しい関係」のことです。平和から平安がつくられ、心に喜びが与えられます。

友よ。過去と現在と将来の問題が解決されたら平安と喜びを持てるのではありません。冒頭のみことば、「あなたがたは、心から喜んでいるのです」は真実です。それは、問題が無いことではなく、問題を解決できる方、主イエスとの平和(正しい関係)を得ているからです。その平和が平安と喜びを作ってくれるのです。

Ⅰペトロ1章7節 ①

あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、…イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

誘惑と試練、この二つの区別は難しいものです。苦難に出会う時、サタンが「誘惑」しているのか、神が自分を「試み」ているのか迷います。病気一つとっても、ある者は「サタンの仕業だ」と言い、他の人は「罪から来た」と言い、さらに「神が病気を許した」と言う人もいます。

ヤコブは、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。…誘惑に遭うとき、だれも『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。…人はそれぞれ、自分の欲望に引かれ、唆され、誘惑に陥るのです」(ヤコⅠペトロ1章12~14節)と言いました。

すると、神は自ら人を病気にはせず、サタンも直接手を出しません。問題は、人類の罪と個人的な罪が統合されて病気が起こります。そして、その「罪」に神もサタンも働きます。サタンは病気を通して神から離すため、神は病気を通して御自分に近づけるためです。

友よ。出来事は中立と考え、大事なのは出来事を通して、あなたが神に向かうか、神以外に向かうかです。神に向かうと「試練」となり、それ以外は「誘惑」となります。試練は、あなたを神御自身に近づけ、神の栄光を見せますが、誘惑は神から離す力となります。

Ⅰペトロ1章7節 ②

あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。

誘惑は神以外のものに目を向けさせますが、試練は諸々のものから目を離させ神御自身に導きます。 しかし、試練と訓練を分けて考えねばなりません。訓練は、あるレベルにその人を導き引き上げ、その結果として用意された報酬(恵み)を受け取らせます。ただし、訓練が高じると律法主義にもなりかねます。 試練で得るのは、報酬としての恵みではなく、すでに達成され備えられていた恵みです。試練は新しい恵みを与えるのでなく、すでに主イエスによって成就された十字架と復活の恵みへと導くのです。

神の子にも古い人(肉)が常に付きまといます。試練は、それを止めさせ主に委ねるように導きます。したがって、試練は肉を十字架につけさせます。

アブラハムがイサクを献げたのは、神よりもイサクに奪われた心(肉)を取り去るためでした。ヤコブがラバンの家を追われ、ヤボク川の岸で神と格闘したのは、ヤコブ(争う者・肉の人)が十字架つけられてイスラエル(神の王子・霊の人)になるためでした。

友よ。信仰は、試練により本物にされます。試練の後にこそ訓練が必要です。試練は聖霊に満たされるため、訓練はさらに進んで神の栄光を表わすためです。

Ⅰペトロ1章8節

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。

事実、目で主イエスを見た人々は二千年前のほんのわずかの人々です。見てもいないのに愛することがどうしてできるのでしょうか。

第一に、父なる神によって
御子イエスを、御子イエスが聖霊を、聖霊が多くの弟子たちを遣わされました。
第二に、聖書によって
聖書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。この「言」なる神は、御自分を知らせるために、御自分の言葉と、弟子たちが見聞きし体験したことを書き記した「言葉・聖書」を備えました。その「言葉(聖書)」によって「言(神)」を見ることができます。
第三に、歴史を通して
主イエスの来臨から二千年間、聖書は書き変えられず、人種、民族、老若男女、古今東西を超えて、「あらゆるものが膝をかがめ、またあらゆる舌が『イエス・キリストは主である』と告白して…」(ピリ2章11節)きた事実から見えます。
第四に、自分の体験から
求める者は得るといわれて見えるのは、自分の知恵と知識をはるかに超えて自分に働いているイエス御自身の内住です。

主イエスを愛する友よ。命が愛を作り、愛が命を作るのです。その命と愛は、人格と人格の継がりと交わりです。主への愛は、主とあなたが一つだからです。

Ⅰペトロ1章9節

それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

「信仰の実りとしての魂の救いを受けている」者が得るのは「喜び」(8節)ですが、それに付随して「試練・悩み」(6節)も受け取ると記されます。試練や悩みが無くなってこそ喜びを得る、と思いますが? 神の子となることの変化を、「命が変えられる・国籍が代わる・生き方が変わる」などと表せます。それらをさらにまとめると、「愛してくれる人・愛する人が代わる」とも表現できます。

神の子となる前には、家族や友人知人に愛を求めました。しかし、今は主イエスです。すると、今まで愛した人は、今までのように愛さないことになります。これが最も根本的な信仰の戦いの始まりとなります。 主御自身が、「わたしよりも、父や母を愛する者は、…わたしよりも息子、娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタ10章37節)と言いました。神に愛される者となったことは「喜び」ですが、父・母、息子、娘をイエス以上に愛せなくなることには「戦い・試練・悩み」が付きまとってきます。

しかし、友よ。父・母…を愛していけないのではなく、主イエスの次に愛しなさいと言っているのです。実に、主を愛する者が家族を愛することができます。試練と悩みは、この秩序を守ろうとする者に与えられます。試練の先にある信仰の実りを受け取って下さい。

Ⅰペトロ1章10節

この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。

神の子が得た恵みを本当に知っているでしょうか。「論語読みの論語知らず」は、「神の子の神の恵み知らず」でもあります。もし、旧約の預言者たちが現代に現れたなら、彼らこそ絶大な恵みに驚くことでしょう。

…ある両親は、共働きをして娘を大学へあげました。卒業の年に、娘は留学したいと言い張ります。両親の経済状況ではこれ以上はできません…何が問題なのでしょうか。それは、娘が今まで両親から受けた「恵み」を理解していないことです。恵みがわからないと、人生から正しい判断が消えます

預言者イザヤは、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ばれる…敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て救われる…彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのため…、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のため」(イザ9・35・53章)と預言しました。しかし、イザヤとてやがて来られる神(イエス)の影を見ていたに過ぎません。

友よ。私たちは、預言者たちが見ていた影ではなく、実体である神・イエスを見ているのです。「影(旧約)から実態(イエス)」と、「実体(イエス・新約)から影(旧約)」を見るのでは恵みが大きく違います。私たちはこれほどの絶大な恵みの中に置かれているのです。

Ⅰペトロ1章11節

預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。

旧約聖書に登場する預言者たちも、「キリストの霊」に導かれていました。ところが、神の子たちの中で、「クリスマス」に惑わされている人々が多くいます。

それは、クリスマスはイエスの「誕生」ではなく「降臨」です。イエスが産まれたのではなく、天地創造前から父の神と共におられた御子イエスの「降臨(天から降りて、人として臨まれた)」です。

イエス来臨前の旧約時代は、影をもって実態を表す外ありませんでした。その影が、エデンの園の中央の「命の木」であり、幕屋とその中の器具「契約の箱(三位一体の神)・燭台(光なる神)・パンを置く机(命なる神)・香壇(とりなす神)、大祭司の衣装や行動、動物犠牲」などの祭儀でした。 外側(幕屋・大祭司・儀式)で命は作れませんが、命はかたち(人や動物や食物など)を作ります。三位一体の神の霊・命は、神の子を生まれさせます。

友よ。旧約時代に注がれた霊は、「キリストの証し」をしましたが、主が来られて十字架、復活、召天後に注がれた聖霊は、肉で生きていた古い人を「霊の人・神の子」にします。そうです、キリストの証しではなく、キリストの命を持つ神の子にしてくださいます。

Ⅰペトロ1章12節

彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。…今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。

旧約聖書の預言者たちは、すぐ起こることではなく、後に成就することのために働きました。それは、自分のためでなく後の私たちのためでした。

預言者ホセアは、信仰深い青年でしたが好きでもない不道徳な娘との結婚を、神の御心として受け入れました。それは神が彼に、姦淫するイスラエル(妻ゴメル)を愛する神(ホセア)の姿を語らせるためでした。

預言者エレミヤは、「バビロンに降伏せよ、そうすれば生きる」との預言を語り続け、激しい迫害を受けました。バビロニア捕囚と解放は、やがて神が人となって来られて行う、主イエスの十字架(捕囚)と復活(解放)につなぐ預言でした。さらに進み、自分の十字架を担って肉に死に、復活の命・霊に生きることも指す預言でした。そして、それらの預言はすべてイエス・キリストにおいて数百年後に成就しました。

友よ。旧約の人々は、「未来の救い」を信じねばなりませんでしたが、私たちは「実現した救い」を受け取ることができます。そのことは、「信仰によって恵み」を超え、「恵みによって信仰」を受け取ることです。「恵みにより、信仰によって救われました」(エフェ2章8節)。備えられた恵みを十分に用いてください。

Ⅰペトロ1章13節

それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。

(口語訳)

ここで「それだから」とは、「生ける望みを与えられ(3節)、天の資産を与えられ(4節)、魂の救いを得(9節)、福音を知らされている(12節)」偉大な恵みを受けていることを指します。だから、「心の腰に帯を締めよ」と言います。腰の帯とは、「神の武具を身につけなさい。立って、真理を帯として腰に締め」(エフェ6章14節)とある真理です。

だれでも自分の好きな服装を着る(人生を選ぶ)ことは許されていますが、帯はどれでもよいとはなりません。それを間違うと自由を失い失格者になります。

それは、神の恵みを身に着けても、それを「自分・お金・自尊心…」という帯で締めると、神の御業ではなく自己実現に用いることになります。神の恵みを多く受けるほどに、真理の帯で制御されねばなりません。 「身を慎んで」とは、「酒に酔わず=さめて」の原意だと聞きます。これも、「酒に酔いしれてはなりません。それは、身を持ち崩すもとです。むしろ、御霊に満たされ」(同5章18節)に通じます。酒が代名詞の世ではなく、聖霊に支配されることを勧めています。

友よ。あなたは多くの恵みを受け取りました。「それだから」、なおさら真理(帯)と聖霊に支配されて(身を慎んで)主の日を待ち望んで歩んでください。

Ⅰペトロ1章15節 ①

召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。

生まれる前から聖くあるように育てられた人物がいた。それは、士師サムソンです(士師記13~16章)。

神は、ペリシテからの解放者として、不妊のマノア夫婦を選び男の子を誕生させます。夫婦自身にも聖さを求め、生まれる子の聖い育て方まで指南しました。それは、「ぶどう酒や濃い酒を飲まない、汚れたものを食べない、頭にかみそりを当てない、死体に近づかない」の四つで、いずれもこの世と肉欲から聖別されて、神の聖いしもべとなるためでした。しかし、親も聖く生活し、サムソンもそのように育てられますが、彼に聖さはありませんでした。それでも彼に与えられた神の「賜物」は健在で、ペリシテ人を混乱させますが、後にその賜物さえ失います。

聖くあることは、神の更なる賜物を受けるためではありません。それは、神が備えた恵みの賜物〔罪の赦し・復活の命・御霊の実(愛、喜び、平和、寛容…)〕を受け続けるためです。聖い者は神と直結し共に生きることができる「聖霊に満たされた人」です。これこそ神がすべての人に求めていることです。

聖くあろうと願う友よ。サムソンには賜物があっても聖さがありませんでした。「聖霊の賜物」は「聖霊の満たし」を失わせることがありますが、「聖霊の満たし」は「聖霊の賜物」をさらに引き立たせます。

Ⅰペトロ1章15節 ②

召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。

クリスチャンには、「清い人」のレッテルが張られるものですが、聖書が求めるのは「聖さ」です。それは、道徳的な人格性を超えた神の聖さです。 

レビ記のテーマは「聖」です。「…あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである」(レビ1Ⅰペトロ1章44節)。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること」(10章10節)とも記します。

神が人に聖さを求めるのは、神は愛だからです。神と人の関係も愛でつくられます。愛とは、他の人格との継がりと交わりでそこに命が生まれます。 それは夫婦においても同じです。夫婦に一番必要なことは、相手に迷惑をかけないことではなく、「あなただけを愛します」という貞節です。清くなければ交わり・愛・命は消えます。

レビ記のテーマが「聖」であるということは、神と人との交わりに一番必要なことが「聖」だからです。「聖い人」とは、神に対して「あなただけを愛します」という人です。「聖なる(神を愛する)生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見る(交わる)ことはできない」(ヘブ12章14節)。

友よ。聖く生きるには、自分の中に主を持つのでなく、主の中に自分が入って生きることです。

Ⅰペトロ1章16節

「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

「聖なる者」とは、どのような人のことでしょうか。 

ラジオを通して、ある校長先生が自分の人生に影響を与えた人について話したことを聞きました。 …「学徒出陣し訓練中、何人かに割り当てられた軽機関銃に傷をつけてしまった。同僚と共に上官の元に行き、『自分ではないが』と言い訳した。漁師あがりの軍曹から、『お前ら、最高の学問を受けていながら恥ずかしくないのか、互いに責任のなすり合いをして~』と怒鳴られて帰された。二人は部屋に戻り、心に恥じ、上官の所へ駆け戻り『私がやりました』と言った。その上官との出会いから自分の人生は変わった…」と。

しかし、他人の責任にせず自分で引き受けのは、聖なる人ではなく「潔い人」です。それは自分で作る清さで、やがてつぶれてしまいます。上官なる主イエスの御元に行き、他人のせいにせず、また自分自身の過ちも隠さず告白して委ねる者こそ「聖なる人」です。

友よ。「聖い人」とは、主イエスに自分を引き受けてもらう人です。冒頭のみ言葉、「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」は、「わたしは聖なる者だから、あなたがたはわたしによって聖なる者となれ」とも読み取れます。他人も自分をも超えて、主イエスの御元に駆けつけてください。主の御元に行くことを、神は「聖なる者」と見てくださいます。

Ⅰペトロ1章17節

あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。

「信仰はアヘンで、現実逃避だ」と言う者もいます。神を信じて生きることは現実逃避でしょうか。「本当の現実」とは、「真理に沿い、本当の命の道を歩み、永遠に続くこと」と言えます。すると、神を信じず自分を神とし、世間に合わせて生きることこそ現実逃避であり、現実的な生き方とはいえません。

神はノアに、「すべて肉なるものを終わらせる時が来たので、あなたは箱舟を造りなさい。わたしは地上に洪水をもたらす…」と伝えます。それに対しノアは、「すべて神が命じられたとおりに果たした」(創6章)と続きます。やがて何十年後に白黒がつきました。

主は、「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」(マタ24章38~39)と記しました。神を信じるノアと、自分と世間を信じた人々のどちらが「現実」を歩んでいたのでしょうか。

友よ。地に足をつけていたと思っていた生活が現実逃避で、そこを離れて神に足をつけて歩む「仮住まい」の生活こそ現実世界なのです。「この人たちは信仰を抱いて死にました。…自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者」こそ、父を畏れ真理を歩む生き方です。

Ⅰペトロ1章18~19節

あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

反発しながらも先祖と同じ生活を繰り返すのが人間でした。それを「空しい生活」だったと言います。日本人が先祖伝来続けてきたのはなにでしょうか。

日本人は高温多湿の豊かな風土で生活してきた結果、人は、「自然界に生かされる」が常識になりました。すると、「自然界が神になり、命は自然界にあり、人は自然に帰る(死ぬ)」となります。たしかに、肉体生命においてはそうですが聖書は違うと言います。

聖書の神の名は、「ヤーヴェ・エロヒーム」です。「ヤーヴェ(主)」は創造主を表し、「エロヒーム(神)」は愛の神・三位一体の神を表します。自然界が人を造ったのでなく、神が自然界を造り、それ(土の塵)を用いて肉体を造り、それに命の息与えて人としました。

人の救いは自然に帰ることではなく、神というお方と人格的な継がりと交わりにより、神の「息・霊・命」を受け取ることです。そのことを可能にするのは唯一、神の小羊イエスの尊い血による贖いです。

友よ。どんなに美しい自然も、人の命を作り、人を救えません。命は人格と人格の出会いにあります。不完全な者(罪人)同士の出会いは罪の命をつくります。神との出会いは、先祖伝来の空しい命による生活から、永遠の尊い命を持つ実を結ぶ生活へ移します。

Ⅰペトロ1章21節

キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

聖書は、「神は…永遠を思う心を人に与えた」と記し、さらに「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」と。そこから、人が神を求めている以上に神が人を求めていることがわかります。(コヘ3章)。

ある人が仏門のある開祖に、「極楽浄土は本当にあるか」と質問しました。すると高僧は、「あると信じることが信仰である」と答えたそうです。すると、「イワシの頭も信心から」とあまり変わらなくなります。それは、人が作った神仏であり思い込み信仰です。

キリスト信仰は、人間中心ではなく徹頭徹尾神中心です。神が初に存在し、人を創造して霊の生命を与え、永遠(神)を求めさせ、求められたときに応えてくださる神。神と人の交わりが信仰です。 神について、信仰について、生き方について、それぞれの宗教によって違ってくるのは、人の側から神を見ようとするか、神によって人を見るかの違いからです。それは、地動説(人間中心)と天動説(神中心)の違いによるのと同じです。

イエスを神と信じる友よ。信仰は自分で持つのでなく、神に持たせていただくものです。その要点はただ一つ、自分を中心から一旦退け、神を中心に据えることです。「信仰と希望は神にかかって」います。

Ⅰペトロ1章22節

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。

「真理」という言葉ほど、国家や文化、時代や社会制度によって変えられているものはありません。真理は、「普遍的(どの時代でも変わらない)、有機的(どの人にも当てはまる)、単純で美しい愛のよう」と言った哲学者がいますが、まさにその通りです。

「この政治体制こそ、この宗教こそ、この法則が真理だ」と語られては消え別ものに変化し続けました。 しかし、自然界の法則も、哲学も、社会形態の変革も、「魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くように」はさせませんでした。むしろ、より自己中心を生み出し、権力や富による激しい争いを繰り返させました。

聖書が示す「真理」とは、法則でも哲学でも制度でもなく、「わたしは道であり、真理であり、命である」とあるように、「私…イエス・キリストという『人(神)格』」だと明言します(ヨハ16章6節)。

「魂を清め」とは、神の前に義しい者とされることです。「偽りのない兄弟愛」とは、神に魂を聖くされた者が自分を愛し隣人を愛することです。

友よ。人を変えるのは、法則や制度ではなく、「出会いと交わり」です。もちろん、「だれと出会うか」が大事です。あなたは今、真理なる主イエスと出会っていますから、その方の真理に包まれてください。

Ⅰペトロ1章23節

あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

すべての動植物の命は、「種」に内包されています。どんなに環境がよく整っても、種(命)を作ることはできません。環境は、種を育むだけです。

犬の命は犬の、猿は猿の、人は人の命と行動をつくります。素晴らしい環境を整えても、犬は猿にも人にもなれません。また、人が最高の能力を持つ親による優性遺伝を何世代繰り返しても、「魂を清め、偽りのない兄弟愛」を持つ者は出現しません。

それは、アダムとエバの「罪人」という「種」を変えることができないからです。 罪人の種(いのち)を変えることができる唯一の方法は、「罪のないお方」との新たな継がりと交わりです。

神はその方法を教えています。それは、新しいアダムとの継がりと交わりです。そのアダムこと、イエス・キリストです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです(Ⅰコリ15章45節)。

友よ。新しいアダム・イエスにある命は「み言葉」の中に秘められました。系図(命)を代えるには結婚と養子になることで可能です。「み言葉 → イエス・キリストの花嫁(結婚)→ 父なる神の子(養子)」の順番です。求める者を聖霊なる神が助けてくださいます。

Ⅰペトロ1章24~25節

「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。

「空の空、空の空、すべては空」だと伝道の書が語り、日本の文化も「空文化」とも言えます。すべては繰り返すだけで決して満ちることがありません。

冒頭のみことばは、イザヤ書40章の言葉です。華やかに栄えたダビデ王国も、ついにバビロニアに滅ぼされ、捕囚の民として連れ去られます。まさに、枯らされ、散らされる草花のように、空の空へ引きづり落とされました。彼らが散ったのは、神のみことばではなく偶像やこの世の欲得の上に立ち続けたからでした。

しかし、物事すべて枯れ散りますが主の言葉だけは不動です。主の言葉は、枯れたようでも決して落ちません。それは、言葉を語ったお方は枯れず、昨日も今日も変わらないで生きておられるからです。

むしろ彼らを枯らし散らすことは、彼らの罪に終止符を打たせ、新しい命に生かす神の御計画でした。バビロン捕囚は、民の罪を十字架に付けるための作業でしたし、バビロンからの帰還は復活を示しました。

友よ。自分が枯れ、散るように感じていませんか。枯れて散らねばならないのは肉なる命で、二度と枯れず散らない霊の命に移るためです。十字架で肉に死に、復活で霊の命を受け取り、霊によって生きるためです。

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