キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第1章

1章1節 ①

ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は…。

(新共同訳)

「出エジプト記」は英語で「脱出(エクソダス)」と表記します。脱出には、「どこから」と「どこへ」が明確でなければなりません。それは、「エジプト(罪の支配)から出て、カナン(神の国・天国)に行く」です。

「エジプトに下った」の言葉は、「そこで主なる神は、彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた」(創3章 節・口語訳)を思い出させます。「下った」は神から離れる人の姿を表し、「上った」には「神殿に・エルサレムに」と続きます。エジプトの奴隷とされた民族ですが、誰一人として、自分から神を離れてここに来た者はいません。彼らは四百年前のヤコブの時代、それは「アダムの時」からで、今もアダムの原罪の影響から逃れられません。そして、それを先祖に責任転嫁しても解決できません。

出エジプト記を通して、今日から神の声を共に聴く友よ。生きる限り忙しく動き回らねばなりませんが、しばし心を静めみことばに聴き続けましょう。そして、「罪と死とサタン」の支配する暗黒から、光り輝く神の国へ「上って」行く魂の旅に出発しましょう。

1章1節 ②

ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトに行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。

エジプトに下った小さなヤコブ一家は、大海の小舟のようです。それは、サタンの支配する世界で揺れる教会や、人口の1%に満たない日本人クリスチャンのようです。大海を航海し無事に目的地へ着けるのか不安です。

しかし、この民には先祖・ヤコブとヨセフから、否、神から約束された地、彼らの先祖が出て来たカナン(天国)へ帰ることが命じられています。ですから、大海の小舟でも、行くべき「目的地」があります(創50章24節参照)。また、そこに「導くお方」も知らされています。そのお方は、「最後のアダム」なる主イエス・キリストです(Ⅰコリ 15章45節)。

この世の大海に恐れる友よ。その時は、すぐに聖書を開きましょう。聖書は羅針盤となり、先人たちの歩みを通し、あなたが行く方向と歩き方を教えてくださいます。最初のアダムは天国からこの世へ下りましたが、最後のアダムはこの世(エジプト)から天国へ導き上ってくださいます。出エジプト記は、罪と死の世界から天国へ脱出する、あなた自身の記録(証し)となります。

1章6節 ①

そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。

飢饉でエジプトに来た家族を、宰相ヨセフが待っていて、これ以上できないまで尽くしてくれました。家族は守られ、互いに信頼し合い、物心ともに豊かに生活しました。

しかし、時は過ぎ、今や偉大なヨセフも伝説の人です。それ以上に、ヨセフを重用した王朝が倒れてからは、ヨセフが活躍した分だけ、彼らに対する迫害は厳しくなりました。主イエスは、御自分の昇天の後に弟子たちが困惑することを知り、「私は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。私は、あなたがたのところに戻って来る」(ヨハ14章18節)と約束されました。主は、お言葉どおり聖霊をお遣わしになり、戻って来られました。

友よ。あなたを助けた父母、伴侶、兄弟姉妹が召され、これから先のことを思い、恐れていませんか。しかし、「暗やみの中…死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」(マタ4章16節)ように、主はあなたにも聖霊とモーセ(導き手)と主にある兄弟姉妹を遣わしてくださいます。主は、聖書の中に、自然界の中に、神の子たちの間に、そしてあなたのただ中に生きておられます。恐れないでください。

1章6節 ②

そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。

「イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は、四百三十年」(12章40節)でした。ヨセフの召天後250年以上過ぎ、その間ヨセフが仕えた王朝は倒れ、出エジプト記一章の時代は、激しい迫害の中にいました。間もなくモーセが誕生しますが、彼による解放には、さらに80年待たねばなりません。

彼らは、すでに何世代も奴隷にされています。エジプト滞在の「四百三十年」は、絶望とあきらめの数字です。ある哲学者が、「死に至る病」を著わし、死に至る病とは、難病でも飢餓でもなく絶望であると言いました。そして、死の病のさらなる根源は、罪人であることに気づかないことだ、とも言いました。エジプト(この世)暮らしに、疑問も持たずに生きていることこそ死に至る病です。

「人生はこんなものだ」と諦め、神への希望も持てないならば、ラザロの墓の中の四日やイスラエルの四百三十年と同じく死に至る病に冒されています。しかし主は、「ラザロよ。出て来なさい」(ヨハ11章43節)と呼ばれます。友よ。主は、今あなたに向かって、悲しみ・憂い・不信仰から、「さあー、私の所に出て来なさい」と言われます。

1章7節

イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。

迫害の中、民は増え広がりました。「生めよ、ふえよ。地を満たせ」は、この日本に成就しているでしょうか。彼らが増えたのは、「多産」だからと記されますが、それは神の子を多く産んだ(救った)からです。

ペンテコステの時から、ユダヤ人たちの間にリバイバルが起りました。それまでの彼らは、神を信じていても「イエスを主」としては信じませんでした。ペテロは、ユダヤ人にイエスを神・主としない罪の悔い改めを迫りました(使2章36~38節)。クリスチャンにも同じことが必要です。「神を信じる」ことは、自分を捨てないでもできますが、「イエスを主」と信じる信仰は、自分が神に服従することを意味します。両者の信仰の質は大きく違います。

リバイバルとは、「イエスが主」とされることです。そうなると、神は御自分の思い通りに人に働くことができます。そして、多くの魂を救い(神の子を産ませ)、神の子は増え広がります。

友よ。イエスを神と理解するだけの者でなく、神に従う者・イエスを主とする者になってください。

1章8節

さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

ヨセフを知らない新しい王の出現は、それまで権力を握っていた者たちへの粛清に発展するのが歴史の常です。王が代わる度に、一般民衆の命や生き方までも左右されます。

歴史上、何千年も変わらないものは「聖書」のみです。世の人は、仏教も長く続いていると言いますが、存続できたのは、行く先々の国と民族に自分(仏教…教え・教理)を合わせて変化させてきたからです。チベット仏教、タイ仏教、日本仏教…などがあるのはそのためです。人に造られている神(仏)なので、人が代われば教えも変えます。聖書が普遍なのは、神が自存し、人種や国を超え、時代、文化も問わず、みことばを読み信じる者を、御自分のみことばどおりに造り変えるからです。従って、真の創造主だけが、御自分の言葉と約束を変える必要がありません。

友よ。政治経済、時代の流れの変化に惑わされず、神を基準にしてください。私たちの父なる神には、「変化とか回転の影とかいうものはない」のです(ヤコ1章ない神に目を注ぐなら、信じる私たちもまっすぐ歩くことができます。

1章9節

彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。」

エジプトの新しい王と民は、宗教や習慣が違う異国から来たイスラエルの民が、逆境の中で増え広がるのを恐れだしました。

イエスの降誕を、「ユダヤ人の新しい王の誕生」と聞いたヘロデ王は、自分が王でいるためにイエスを殺そうとしました。そのために、ベツレヘム付近の二歳以下の男の子を皆殺しにしました(マタ2章16節)。個人の内面でも、家族の中でも、一つの国家でも、「だれを王とするか」の主権争いが起こります。その根本は「だれが神(王)か」につながります。エジプトの王がイスラエル人を恐れたのは、彼らの背後にいる神を恐れたからです。

友よ。私たちの王は、「平和の君(王)」(イザ9章6節)と呼ばれる主イエスです。それは、「仕えられるためでなく、仕えるため…。多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」という愛の王です(マコ10章45節)。世の神々を信じる人々は、信仰による家内安全商売繁盛を誇ります。しかし、私たちは主イエスに倣い、仕え、与えることで、「我々よりも多く、強い」と言われる証し人になりたいものです。

1章11節

彼らを苦役で苦しめるために、…労務の係長を置き、パロのために倉庫の町…を建てた。

神の民は、王の倉庫の町建設のために重労働を強いられます。その目的の一つに、ヘブル人の力を削ぐもくろみもあったようです。

しかし彼らは、過酷な労働を強いられても弱りません。それは、他国に350年も住みつつも、神の戒めを頑固に守り続けてきたヘブル人に流れる神の血(いのち)、ともいうべき信仰の力でした。しかし、他者を潤すための重労働も、反対に他者を仕えさせて自分の益を求める労働でも、「私は、日の下で骨折った一切の労働を憎んだ。…私は日の下で骨折った一切の労苦を思い返して絶望した」(伝道2章18~23節参照)と記されます。人は「日の下(この世)」ではなく、太陽を超えた「日の上(神の国)」で生きる者です。

友よ。主人と使用人、得る人と失う人、能力ある人とない人、豊かな人と貧しい人など、立場や成果に左右されてはなりません。イスラエルの民は三百年も奴隷でありながら、その間、決して神の戒めを忘れませんでした。そのことに対し、神はしっかりと報酬を用意しておられます。全ての労働の中に神を見い出すこと。その人こそ、天に宝を積む神の国の労働者です(マタ6章20節)。

1章12節

しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。

「火に油」は「信仰に迫害」とも言えます。事実、歴史がそれを証明してきました。エジプト人は、イスラエル人を苦しめて弱くしようとしますが逆効果のようです。

なぜ迫害は、信仰の火に水とならず、さらに燃やす油になるのでしょうか。隣国中国の迫害の証しをみても、日本の支配、共産主義革命、文化大革命の迫害のただ中でクリスチャンは増え、今では人口の7~8%とも言われます。「迫害」の言葉には、「追いやる」の意味があるそうです。迫害は、人を「神」か「この世」へ追いやり、「神もこの世も」の中間をなくします。神へ追いやられた純粋な信仰者は、聖霊の器となり多くの魂を救います。一方、自己中心な信仰は退けられ、命のないキリスト教は消されます。

信仰者とは、神の中に生きる人です。迫害は、私たちをこの世から神の中に追いたてる強制執行官となります。

友よ。場合によっては、嫌なことや嫌いな人は、あなたを神へ押し出す主の御使いでは?時に、この嫌な執行官を受け入れてはどうでしょうか。

1章16節 ①

「へブル人の女に分娩させるとき…」

神は、アブラハムを選び「選民(神を証しする民)」とされました。ヤコブがイスラエル(神の王子)と改名した後、この民はイスラエルと呼ばれていましたが、ここで初めて「ヘブル人」の名称が出てきます。

「ヘブル」とは、イスラエル人についたあだ名で、「川向うから来た人」の言葉から、「外国人」となります。彼らが外国人と呼ばれたのは、三百五十年もエジプトに住みながら、エジプトの習慣や宗教に同化しなかったからです。それどころか、この時も先祖伝来の信仰を守って生きていました。それは、「カイザルのものはカイザルに…。そして神のものは神に返しなさい」(マコ12章17節)を、アブラハム以後守り続けた証しでした。

初代教会の神の子たちは、人々からクリスチャン(キリストをまねる者)と呼ばれました。それは、世に染まらず、キリストに染められて生きていたからです。事実、「私たちの国籍は天にある」(ピリ3章20節)のですから、天国の法律と習慣で生きる存在です。

友よ。私たちも、「川向う(天国)から来た外国人(クリスチャン)」と呼ばれるキリストの証人となりたいものです。

1章16節 ②

「へブル人の女に分娩させるとき、…もし男の子ならそれを殺させなければならない。」

パロは、男の子が産まれたら殺せと命じます。同じくサタンも、あらゆる人と手段を用いて男の子を殺すことで神に反逆します。男の子とは跡継ぎで、「神の国の世継ぎ=永遠のいのち」を表します。それには、偶像を持ち出し、神への信仰を奪い、主イエスから人を切り離すことで、神の子の命を奪います。

日本の社会全体も、「男の子(神の子)を殺せ」と叫んでいます。進化論は、神がいないことを証明するためにダーウィインの父達が発想し、その子、C・ダーウィインがたてた仮説でした。しかしいつの間にか、真理に作り上げられました。ヒューマニズムは、「皆が」と「自己主張」の間を行き来させる「人間中心主義」で神を否定します。

友よ。サタンと世に宝を奪われてはなりません。その宝とは、「私たちを新しく生まれさせ…、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださる」(Ⅰペテ1章3~4節)信仰です。そのために、教派や教会を超えて兄弟姉妹が一致し、全力で神の子(男の子)を守るために祈り合い、仕え合わねばなりません。

1章17節 ①

助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。

二人のヘブル人助産婦は、「もし男の子なら殺せ」と王の命令を受けていました。しかし、彼女たちは神を畏れ、命令に逆らい男の子たちを殺さず生かしておきました。

戦時中の日本政府は、1914年にプロテスタント教会の諸教派を戦争協力のために統合し、「日本基督教団」としました。翌年の1月に、王(国家)の命令を恐れ、教団統理は伊勢神宮に参拝し、神と人に仕える悔恨を残しました。同じく、イエスだけを「主」とできない罪は、神の子たちの日常にあります。ヘブルの二人の助産婦が王の命令に背いたのは、王を恐れず神を畏れたからです。嘘も方便の二つの基準(ダブル・スタンダード)は、羊の皮をまとった狼になりかねません。「おもり石の使い分け、升の使い分け、いずれも主の憎まれること」(箴20章10節・新共同訳)。

友よ。神を畏れる者は神を得、世を恐れる者は世を得、両方に仕える者(ダブル・スタンダード)は全てを失います(ルカ16章13節参照)。助産婦は、二人でした。二人は、励まし祈り合ったのでこのことが出来ました。私たちも、祈り励まし合い世と戦いましょう。

1章17節 ②

助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。

助産婦たちこそ、本物の「伝道者」です。なぜなら、失われる魂を救うために、自分の命を賭けたからです。それが神への畏れです。

人々の魂を罪と死から救うのは、聖書の知識・組織・伝道方法の善(し)悪(し)ではありません。それは、失われる命に賭ける「伝道者=助産婦スピリット」です。これは、教育や訓練や資格によって得るものでなく、神に献げた人に、神から直接授けられる賜物です。神は、このスピリットを持った兄弟姉妹を求めています。しかし、学問や方法論で置き換える、昨今の現実に気をつけねばなりません。

《中国のある伝道者の詩の一部を掲載》

…君は出て行った。ほほえみながら、机の上のこよなく愛した書物に別れを告げ。ほほえみながら、日記の中の大切にしていた夢に別れを告げて。かつて君が語っていたその通りに、「友を、伴侶を、楽しみを、そして名声を自分から手放して。困難な戦いの場を自分から選び取った!」…

友よ。私たちも、助産婦たちと共に、主に向かって立ち上がろう。そうすれば、主はその時に、次の導きを与えてくださいます。

1章19節

「へブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

王の命令に逆らった助産婦は、右のような言い訳をしました。彼女たちの答えに、クリスチャンのあるべき姿が示されています。

親は、子に信仰を継がせるために教会学校に送り、家庭で聖書物語を読み、祈りを教えます。しかし、多くの子たちは、青年期前に教会(神)から離れます。その原因は、彼らが神を「信じ」ていても、神を「愛する」交わり体験がないからです。彼らが、神を愛する成長した信仰を持つ前に、エジプト(この世)の魅力と誘惑に負け、魂が奪われてしまいます。魂の殺人者パロが、イスラエルの家に押し入って来る前に、子供たちの信仰を、神を愛する信仰に成長させねば奪われます。

「ヘブル人の女には活力がある」と告白されていますが、それは健康な母体(生き生きとした親の信仰)のことです。子の魂がパロに殺される前に、産み終える(成長した神の子にする)必要があります。

友よ。「家族伝道とは、自分自身への伝道である」と語った伝道者(榎本保郎師)の言葉は、厳しいですが真実です。

1章20節

神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。

ヘブル人は、逆境の中で増えて強くなっていきました。その理由を、神が助産婦たちを祝福したからだと言います。

クリスチャン一人ひとりを妊婦に、助産婦たちを神の働き人に例えることができます。この世の君は、誕生した神の子をすぐに殺そうとします。その前に、妊婦(クリスチャン)が元気な子を産むために、助産婦(伝道者)の働きは重要です。ヘブル人の繁栄は、助産婦が良く働いたからでした。今日でも、伝道者たちが神を畏れ、委ねられた働きを全うすることは、ヘブルの民(教会)を繁栄させるキーポイントになります。

伝道者の友よ。神が助産婦を祝福したように、あなたの奉仕は神の栄光を受ける貴いものです。遣わされた教会で、昨年出産した神の子が少なかったとしても、「私たちをあわれんで、お助けください」(マル9章22節)と、失望せずに祈ってください。妊婦なる友よ。神の子を産み育てるのは、伝道者以上にあなたの責任です。妊婦と助産婦が一致する中に、命が産まれ、守られ、成長します。

1章21節

助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

神に逆らって世から喜ばれ、世に逆らって神に喜ばれることがあります。助産婦たちは、エジプト(世)から憎まれましたが、神からは喜ばれ祝福されました。

パウロも、「今、私は、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか」(ガラ1章10節・口語訳)と言い、「今もなお人の関心を買おうとしているとすれば、私はキリストの僕ではあるまい」(同)とも加えました。同じく、「自分だけ喜び、神に喜ばれず」もあります。ある人が、「霊的」と「霊的化」の違いについて述べています。例えば、自分の無礼や怠慢を反省せず、「クリスチャンだから迫害されるのは当然」とするのは、自分勝手に「霊的化」したことであって、本当に「御心に適う=霊的」なことではないと。これは、聖霊の賜物や預言や聖書理解にも当てはまります。

その点検は、「神を愛し、隣人を愛せよ」=「世でなく、自分でなく」によって、心の動機を点検し続けることです。本当の霊的な人とは、神の御心と愛を基準にして生きる人です。神は神を畏れるものを祝福されます。

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