キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第13章

13章2節

「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子は…わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」

過越しの時、エジプト人の初子は死に、イスラエル人の初子は元気でした。「初子」とは、長男・長女のことではなく、「永遠の命」とするとよく理解できます。

人は、両親から「人の命」を受け継ぎますが、それは「肉」であり「血肉のからだは、神の国を相続できません」(Ⅰコリ15章50節)し、「ちり(肉)はもとあった地に帰り(死)」(伝道12章7節)ます。しかし、土に帰る人が、「水と御霊によって新しく生まれるならば、神の国に入る(永遠に生きる)」(ヨハ3章5節参照)ことができます。

「霊はこれを下さった神に帰る」(伝道12章7節)。初子は、結婚によって人から生まれるのでなく、イエスを主と信じて、神によって生まれた神の子です。従って、神のものです。

友よ。あなたは、学校、仕事、家族、財産などで、自分を小さく卑しく見積もっていませんか。あなたは神に、「わたしのものである」と言われる存在ですから、神の王子(イスラエル)のプライドをもってください。何がなくても、主のものとされているのですから。

13章5~7節

主が…乳と蜜の流れる地に…連れて行かれるとき…種を入れないパンを食べなければならない。…パン種があってはならない。

ユダヤ人はパンにうるさい?勿論、パンとは命のことですから、だれでも神経質にならねばなりません。特に、パン種は要注意です。

ほんの少しなのに、全体をコントロールするのがパン種です。人は、神に造られ「命の息」を吹き入れられ、「生きる者」になりました(創2章7節)。その「息」こそ神のパン種であり、神の聖霊とみことばです。それが人の命となり、知性、感情、意思をコントロールします。みことばの中に混ざる、神の命とは似て非なる種に注意してください。たとえば、みことばに混じった教会や指導者の考え・方針・目的は、見分けが難しいパン種です。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種」(マタ16章11節)とは、聖書に混ぜた人の考えや都合を入れた、先祖の言い伝えでした。

友よ。「世のパン種」を見抜いてください。「人は罪人だから」と聖別を抜き、「牧師の言葉は神の言葉」と神の代理になるなど、パン種の核心は、「神」が「人」に置き換えられることです。種入れぬ純粋なパンは、「神の」みことばと、「神の」聖霊で作られます。

13章8節

「息子に説明して、『これは、私がエジプトから出て来たとき、主が私にしてくださったことのためなのだ』と言いなさい」

エジプトから出る前夜の「過越しの食事」は、奴隷と死(罪)から解放された記念でした。神は、この食事を年に一度、世々に渡って守るように民に命じました。

「いのち」そのものは見えませんが、命が作り出すものによって、命を見ることはできます。「いのちの神」を、見える形で表わそうとした方法が、「ことば(みことば)」と「食事(聖餐式)」でした。神の救いを、「息子(子孫)に説明」するには最善です。食事は、肉体のための食物を超え、「神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」ことにつながり、「過越しの食事=聖餐式」は、主の十字架と復活を一番よく表します。

友よ。みことばを「あなたの子どもたちに良く教え込みなさい…」(申6章6・7節)と共に、子供たちにも聖餐式が解放されたらどんなにか素晴らしいだろうか。また、年に何度か家族で聖餐式を持つことは、冒頭のみことばである主のご命令に従うことではないだろうか。使徒たちも、日々「パン裂き」を行い、主に継がり、主を伝えていました。(注…神の子ならだれでも聖餐式ができます)

13章13節

「あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。」

聖書は「男の子」にこだわります。すると、聖書は男社会ではないか、との批判を受けそうです。しかし聖書は、「女が男をもとにして造られ、男は女から生まれる」(Ⅰコリ11章参照)と分け隔てをしません。

「男の初子」は、家や財産の相続以上に、罪から贖われ神の子となる「御国の相続」(コロ3章24節)を示します。従って、聖書が語る「男の初子は贖わなければならない」とは、「神は…人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝3章11節・口語訳)霊の領域が、「新しく水と霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハ3章3~5節)と言われように、そこに神の命を受け取り、神の子になることを言います。それは、八日目の「割礼」のように「幼児洗礼」ではなく、個人個人の信仰告白です(ロマ10章9・10節参照)。

友よ。人は二度生まれなければなりません。最初は親によって生まれ、次には神によって「贖われた男の子」として生まれます。また、あなたが子の親であるならば、次には助産師として、子が神の子に生まれるのを手助けせねばなりません。

13章17節

神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。

聖書に登場する人々は、近道でなく、人生の回り道をした人々であるとわかります。
  • アブラハム…65歳ころにウルを出て、35年後にイサクを受け取りました
  • ヨセフ…17歳でエジプトに売られ、3年間は奴隷、10年は犯罪人として獄中、13年の後の30歳で宰相となりました
  • モーセ…40歳から40年の荒野生活の後、80歳から40年間神に用いられました
  • ダビデ…17歳で油を注がれ、13年に及ぶサウル王の迫害の後に王とされました
  • パウロ…ダマスコ途上で主と出会い、3年アラビアに行き、さらに14年後に使徒と認められ、異邦人伝道に遣わされました
神は、人を安楽でない困難な道に導きます。
  • 安楽な道…最も尊い魂の世界を病原菌で侵し衰弱させます。ペリシテ人に出会い意気消沈する危ない道です。主を求めないで、自分の力で歩ける道です
  • 困難な道…あなたを主から離さず、いよいよ主を求めさせる最も安全な道です

友よ。あなたはどの道を選びますか?主と共に歩まねばならない道を選んでください。

13章18節

それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。…エジプトの国から離れた。

テレビや世間話に時間を割く者は、気高い人生を受け取れません。また、自分の思い通りに歩む者に、人生の深みは作られません。

ジョージ・ミラーが、強い信仰をもつ最善の道は、と尋ねられ、「そのただ一つの道は、大きな試練を忍ぶこと」と答えました。ある霊想の本に…「60年間航海に耐えた船の解体材から得たマホガニーの木で作られた家具があった。年数と積み荷と荒波にきしんだ木は、気孔をちぢめ色を濃くし色彩の優れたものであった」と。

放縦で締りがない人生を過ごした人と、神の御手に握られ、人生の海の嵐に叩かれ、重荷にきしみ、緊張に耐えてきた人は違います。「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブ12章11節・新共同訳)

人生を回り道させられていると思う友よ。それは、あなたをエジプトから遠く離し、後戻りさせないためです。そして、神の国の核心へ導き入れるためです。さらに、それは高価で貴い人生を受け取らせるためです。

13章19節

モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。…「神は必ず…顧みてくださる。…私の遺骸をここから携え上らなければならない。」

ヨセフは信仰によって「…臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました」(ヘブ11章22節)。モーセは、その責務を忠実に果たします。

ヨセフは、エジプトに立派な墓を持てたのに、自分の骨をカナンの地に埋葬することを命じました。「骨を埋める」とは、その人の人生のいのちの所在を表します。彼の命令は、「エジプトは、あなた方の住む所ではない。神はあなた方を必ず連れ出す。その時、私の骨を携え上れ」との預言でした。

その言葉を成就させたのがモーセでした。聖書は歴史や文学を超え、「成就され、成就していく」(ルカ1章1節参照・口語訳)ものです。

アブラハムの預言をヨセフが、ヨセフの預言をモーセが、モーセの預言をヨシュアが。そして神の言葉は、アブラハム・ヨセフ・モーセに、さらに現代の私たちに成就されるものです。

友よ。聖書の人々の骨(生きざま=預言)を、エジプト(世・肉)に埋めて空しくしてはなりません。今日も彼らの預言の言葉(骨)を携えて生きてください。

13章21節

主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。

神は、民を脱出させた後も放り出さず、昼も夜も、民と共にいて守り続けます。

聖書は、神が雲の中から語り(マタ17章5節)、主の昇天と(使1章9節)再臨の時も(マタ24章30節)雲が深く関係していました。火は、神の義と聖に深く結びつき、両方とも神の顕著な御臨在を表します。

人を守るのは、国家、法律、社会保障、医療制度、家族、自分の力…ではありません。それらは人の外側は守れても、内なる魂は守れません。魂(いのち)を守るのは、雲の柱と火の柱です。ここでは雲と火の「柱」と表現されます。柱は家や建物と関係し、天国へ行く間、民を守る「キリストの体なる教会」ともとれます。

「教会はキリストの体であり、全てにおいて全てを満たしている方の満ちておられる場です」(エペ1章23節・新共同訳)と、その重要性が記されています。教会は、民に神の言葉を語り、火(聖別)をもって罪と世から守る所です。教会に必要なものは、「雲と火」(神の御臨在)です。

友よ。雲と火が教会に満ちることをあきらめずに祈りましょう。

13章22節

昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

奴隷から逃げ出してきた弱い民を、神は一時も離れることなく守り続けます。 教会には、神の子を産み、育て、成長させ、完成する(天に帰す)使命が与えられています。

ルカ15章には、1匹の羊を捜す羊飼いと、失った一枚の銀貨を捜す女がいます。羊飼い(主イエス)は主人(神)から羊(人)を委ねられ、女(聖霊)は婚約者(主イエス)から十枚の銀貨の首飾り(神の子たち)を委ねられました。迷い出た羊も、首飾りから離れた銀貨も人の姿です。

離れた原因が何であれ、主イエスと聖霊は、迷い出た神の子たちを必死に捜します。なぜなら、御子イエスは羊(一人の神の子)を失って悲しむ父の神が、聖霊は一枚の銀貨(一人の神の子)を失って悲しむ花婿イエスの悲しみがわかるからです。

友よ。一人ひとりは、神が教会に委ねてくださった大切な羊と銀貨です。私たちが神に守られたように、弱い人々の「火と雲の柱」になっているでしょうか。隣人の雲と火の柱になるとは、絶えず祈り続けることです。祈りは、迷える者には神の御臨在(火と雲の柱)となり、守りと励ましを与えます。

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