キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第15章

15章1節

モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

(新共同訳)

15章には、紅海を渡った民の賛美が記されています。クリスチャン生活は、神を賛美する生活ですが、賛美は讃美歌や聖歌やゴスペルを歌うことだけではありません。また、喜んで感謝するだけの状態でもありません。それならば、信仰がなくてもできます。

15章の賛美の歌には、「主・あなた」という言葉が三十回も繰り返されます。それは、自分たちの救いと解放は、すべて主の御業であることを告白して、神をたたえているからです。主の存在と主の御業を、心から認め、それを告白することから賛美は始まります。

「恐れ敬って主に仕え、おののきつつ、喜び踊れ」(詩2・11・新共同訳)と言われるように、主のあまりの偉大さと、慈しみと素晴らしさに畏れ、それを心から受け取って、言葉(告白)や踊り(行動)をもって表すことです。

友よ。賛美は歌うこと、喜ぶこと、感謝すること以上に、「イエスを主として生きる」ことです。そうすれば、悲しみ、嘆き、苦しみの中にあっても、あなたの存在が神への賛美になります。主は、「イスラエルの賛美を住まいとしておられる」(詩22・3)お方です。

15章1~3節

主は、勝利…私の力…私の救い…わが神…私の父の神…いくさ人…その御名は主…。

この章は賛美の章といえます。前項に記したように、神が主語(主格)とされる「主・あなた」が三十回も繰り返されていることに、賛美の本質を見ることができました。

それは、讃美歌を歌い、手を挙げるなどのパフォーマンスではなく、「イエスを主として生きる」ことでした。ダビデはサウル王に追われ、身を守るため、敵アビメレクの前で狂人を振る舞っている最中、「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」(詩34・1)と言いました。 この時の彼は、喜びと感謝どころか、恐れと不安に震えていたでしょう。しかし、彼の魂は神に向かい、「主よ、わが神よ」と必死に叫んでいました。

神を賛美することは、問題を乗り越えたから、喜びと平安の中で、神に感謝していることではありません。

友よ。主の御業を感謝し喜び賛美することも必要です。また、悲しみ泣き、不安に怯え、罪に泣き、悪い感情と戦い…しかし「主よ。あなただけが私の勝利・力・救い、神・父・いくさ人」と、うめき叫び、主にしがみつくことも、真心から神を賛美しているのです。

15章16節

主よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。

この箇所は、神がイスラエルの民全員が、海の中を通り過ぎるまで守り続けたことへの感謝と賛美です。

ノアの洪水も、エジプトを出て紅海の中を通過した時も、後にヨシュアに率いられてヨルダン川の中を歩いたのも、水を通して救われることを教えます。これらの水は、罪人の命を殺す象徴でした。「罪人」と「肉の人」の葬儀は、キリストの十字架によって行われました。「あなたがたは、バプテスマによってキリストと共に葬られ」(コロ2章12節)たのです。

しかし実際は、誰ひとり自ら水死して罪の代価を払ったわけではありません。人が水の中を通り過ぎる間、水の中に沈んでいたのは、人の罪の身代わりの主イエスです。

友よ。神は全知全能、義と聖なるお方ですが、愛のお方でもあります。愛には一つだけ弱さがあります。それは、相手を強制して服従させられないこと、すなわち自由を許さねばならないことです。ですから、主は十字架に今もかかり続けておられます。あなたが罪と肉と世を「通り過ぎるまで」、主は十字架から離れず守り続けておられます。

15章17節

あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる…あなたがお造りになった場所に。…あなたの御手が堅く建てた聖所に。

神は、民が水の中を通過するまで守り続けるのみか、「神の山・御住まい・聖所」にまで連れて行くお方であると言います。

この世界のどこに、神の山や御住まいや聖所があるのでしょうか。それは、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17章21節)と言われる、信者のただ中です。

しかし、神の子となったことと、神の子として生きていることは違います。神は、神の子の命で十分ならば、紅海を渡った所以上に導く必要がありません。もっと先に導くのは、「…もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」(ガラ2章20節)ところです。

「神の山・御住まい・聖所」は、神に支配される一人ひとりの心であり、聖霊による神の子たちの交わりの場です。

友よ。受洗してもこんなものだ、と自分の信仰を見限っていませんか。しかし神は、「私のはかりごとは成就し、私の望む事をすべて成し遂げる」(イザ46章10節)とあなたを諦めていません。ですから、今一度、「主よ。私を連れて行ってください」と祈りましょう。

15章8~9節

「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」

紅海を渡り終えた民は、波の藻屑(もくず)となるエジプトの戦車隊を見て、皆が神に向かって感謝の賛美を歌い踊りました。

心(プシュケー…知性・感情・意思)を尽くし、精神(プニューマ・霊)を尽くし、「力(ソーマ・体)を尽くして神を愛せよ」(申6章5節)から、人は「体・心・霊」からなっているとわかります。そして神は、霊と心をつなぐ媒体として芸術(音楽や絵)を与えられました。迫害により労働改造所で20年も過ごした中国の老師たちは、聖書がなくても、「丘に立てる荒削りの…」や「輝く日を仰ぐ時」などの聖歌や讃美歌に支えられたと語りました。

心と霊をつなぎ、そして神に人をつなぐ賛美の力は計りしれません。

友よ。苦しい時、楽しい時、感謝したい時、あなたの全身全霊を賛美の歌に託してください。それが、苦しみに歪んだ顔のままでもかまいません。ユダヤ人たちが歌って踊ったように、賛美してください。そこで神は喜んであなたと共に住み、涙を受け取り、苦しい顔をなで、慰めと力を与えてくださいます。

15章10~11節

モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。

紅海を渡った地が、乳と蜜の流れるパラダイスであって欲しいと願いますが、そこは世界で最も荒れ果てたシナイ砂漠でした。

神の民の砂漠での40年間を、教会生活に例えることもできます。罪から救われたのだからパラダイスへ、と思いきや、そこはイスラエルの民と同じく砂漠です。

なぜ教会が砂漠なのか?それは、砂漠にはエジプトにあるもの(にら・ニンニク・肉・偶像・快楽・贅沢…)がなく、エジプトになくて砂漠にあるものがあります。 何よりも、「聴く」は「荒野」から派生した言葉と聞きますから、教会こそ「神の言葉を聞く所」です。

日本などのモンスーン気候の国では、人の命を養う自然界が神ともなりますが、砂漠では敵です。敵に囲まれた砂漠で必要なのは、呼べば応える人(神)格を持つ神でなければなりません。

友よ。あなたは教会に何を求めていますか。エジプトよりさらに勝る生活ですか?それならば、三日間荒野(教会)を歩いたら失望しますが、神の声(人格的交わり)を求めるならば与えられます(エペ3章10節参照)。

15章22節

彼らには水が見つからなかった。

民はモーセに導かれ、スエズ湾に沿って南下しました。しかし、荒野を三日歩いてもオアシスに辿り着かず焦っています。

人は、荒野を経由しての導きを必要としています。テレビやインターネットなど、何でも自分で選べる世界は発育を止めます。

砂漠は、受け身でなく、戦わねば生きられないので、世で発育停止した人を高次元へ導きます。それは、矛盾の産物として提供されます。最高の指導者になるには最もへりくだったしもべに(マタ20章26節)、大事をなすには小事に忠実であること(ルカ16章10節)、最大の復讐は愛すること(ロマ12章19・20節)などです。

洗礼を受け、礼拝に出席し、聖さん式にあずかり、奉仕に加わり…求道中よりもっと多くの水(命)を受け取るだろうと期待しますが、期待は裏切られ、そこに水はありません。

水を教会(洗礼・礼拝・聖さん式・奉仕・牧師・兄弟姉妹の交わり…)に求めても得られません。水(命)は、教会の頭なる主イエスにのみあります。

教会(礼拝・牧師・兄弟姉妹の交わり)こそ、神からの水(聖霊・愛・いのち)が必要です。友よ。この矛盾と見える真理を、一日も早く理解してください。

15章23節

彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。…マラと呼ばれた。

砂漠を3日間歩いても水がなく、やっと見つけた水は苦くて飲めません。3日前にタンバリンで踊って賛美した民は、つぶやいています。

人々の態度は、わずか3日で、賛美からつぶやきに変わりましたが、これが信仰の本性です。昨日食べたものが、今日の食事にはならないように、5つのパンと二匹の魚で満腹した奇跡が、後に役立っていないことでも分かります(マコ6章52節)。

どうして、そこにあった水は苦いのでしょうか。それは、彼らの心が、満腹を得た5つのパンと2匹の魚(食物)にとらわれ、パンと魚が「だれ(主イエス)」か分からなかったからです。

同じく、民は様々の奇跡にひきつけられても、それを実行したお方(主)への信仰がありませんでした。昨日のパンは今日までのもので、今日は今日のパンが必要です。過去の恵まれた集会も、命を思い出させますが、今日の命とはなりません。

友よ。「ここのユダヤ人は、…良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17章11節)とパウロに報告されている、ベレアの兄弟姉妹のようになりたいものです。

15章25節

主は彼に一本の木を示されたので、モーセは…水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。

神は、紅海を渡り、喜ぶ民を導き、砂漠を三日歩かせマラに到着。しかし、水は苦くて飲めず民のつぶやきは頂点に達しました。

神に救われ、神が共にいるから、後は全て順調!と考えますが、そうはなりません。水はないし、あっても苦くて飲めません。それは、入学・就職・結婚・家族が増え・安定した老後へ…これが人生の幸福と考えるのと同じです。人生は、順調であることが幸福ではなく、あらゆる道程で、より大きな神の恵みを知ることが幸福な人生です。それは、より深く十字架と復活を知ることです。

苦い水(苦難・行き詰まり・憎しみ・妬み・争い・病気…)は、人生のどの年代と出来事にも必ずあります。その度につぶやくのと、そこで神の恵みを受けるのでは大きな違いです。

人生が「つぶやき」か「恵み」かは、一本の木に左右されます。全てのことに有効なものは一本の木、それが主の十字架です。十字架は、苦い人生(つぶやき)を甘い人生(感謝)に変えます。

それは、キリストの十字架で肉を葬り、復活のキリストの命で生きる者にするからです(ガラ2章19~20節参照)。

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