キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第17章

17章1節

…全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。

民はスエズ湾沿いのシンの荒野から、シナイ山に向けて旅立ちます。しかし、神の導きに従ったのに、またも水がありません。神に従うならば祝福される、と思いますが現実はそうはなりませんでした。

信仰するのは、災いから守られ、前進、成長、完成することですが、聖書が目指すものと諸宗教では違います。諸宗教の信仰の目的は、あくまでも自分に向かい、自分の願いを実現させることです。

聖書が教える信仰は、神に向かっての前進、成長、完成で、それは「あなたがたのうちにキリストが形造られる」(ガラ4章19節)ことです。神は、人が自分の殻や欲にとどまることを知り、「主イエスの御かたち」へ進むように導きますが、その方法は人の思いとは反対です。

主に従わねば、肉にとどまり前進はありません。神はあなたを「主イエスの御かたち」にしようとしますが、それは試練を通してだけ実現します。友よ。神に従い「自分の水(自分の求めたもの)」がなくても、そこには必ず「神の水(あなたに必要な導き)」がありますから、それを飲んでください。

17章3節

民は…水に渇いた。…つぶやいて言った。「…なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。…渇きで死なせるためですか。」

主の命令に従った結果、水がありません。民は、エジプトから出てきたことを後悔しつぶやきました。ここまで前進したのに、彼らの心はエジプトに後退しています。しかし、苦難は前進であることを、聖書の随所に見ます。

  • わらを与えられない苦しみ → 奴隷から自由への渇望に(5章)
  • パロの軍隊においつめられる → 割れた海の中を通り、神の力を見た(14章)
  • 水が苦い→一本の木(十字架)により甘くなる(15章)
  • パンが無い→マナを食べる(16章)
  • そして、この章において、水が無い→岩(主イエス)から飲む(6節)
  • 向こう岸へ渡ろう→大嵐→主を舟に迎える(マタ8章23節)

これらの記事全ては、民が勝手に行動したからではなく、主の導きに従った結果、苦難に出会い、それによって神の中に前進させられました。

神の言葉に従い、経済的・家族間・仕事・人間関係に困難を増したと感じる友よ。それは、後退したのでなく、前進しようとしているのです。主にあって悩み・信じて行き詰まり・従って損する…それらは自分では想像もできない恵みを受ける過程です。

17章6節

「ホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」

民はここでも、水を求めてモーセに不平を言います。神の子たちも、神ではなく指導者に向かって叫んでいないでしょうか。

本当に荒野に水はないのでしょうか。否、その荒野に水がありました。その水は、「岩」の中にありました。「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです」(Ⅰコリ10章4節)が答えです。

神は、岩を打つなら水が出ると言いますが、それは「主イエス(岩)」を打つことです。それを、聖書全体の真理から考えるならば、「罪の悔い改め」とも言えます。罪を告白すると、その罪は御子の十字架に移され、結果的に、私たちが御子イエスを打つことになります。

友よ。「彼(イエス)の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザ53章5節)のです。十字架上の主の体から「血と水」(ヨハ19章34節)が出たように、赦しと命(水)は十字架から流れてきます。水は、御子の十字架と復活の天の池から、あなたの割れた心(悔い改め)に注がれます…。

17章7節

「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。

民は、水やパンのことで神への不信をモーセに投げつけます。それらのことで神と争ったので、この地はマサ(試み)・メリバ(争い)と呼ばれました。

民が叫んだ、「主は私たちの中におられるのか」とは、「自分の中」に神を取り入れること、神を自分の考え・立場・都合に取り込むことでした。

神が新しい方向へ導こうとすると、それは私の考えや経験や計画にないと否定し、どこまでも自分を守ります。そして、自分の欲求が通らないと、「主は私の中にいるのか(私を助けるのが神ではないのか)」と開き直ります。民が「主を試みた」とは、「主を、自分の思い通りにしようとした」ということです。帰するところ「自分の中に神」か「神の中に自分」かの争いです。

友よ。神と争うマサやメリバに止まってはなりません。神の中に入るなら(神に服従)、「荒野(あなたの心)に水がわき出し、荒れ地に川が流れ…焼けた地は沢となり、潤いのない地は水のわく所」とされます。そして、「…大路があり、聖なる道」(イザ35章6~8節)が開かれ、そこを通ることができます。

17章8節

さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

新たな敵アマレクは、イサクの息子・ヤコブの双子の兄エサウの子孫です。血を分けた身内なのに、この後イスラエルを苦しめます。この難敵アマレクは、人の「肉」を表します。

アマレクは、自分の肉の欲求に負け、「長子の権利(永遠の命)を捨てた者(エサウ)」(創25章参照)で、自己中心に生きる人の姿です。そして、エサウ(肉)がヤコブ(イスラエル・霊)を迫害したように、肉は霊に戦いを挑み、再び自分が長子(自己中心を通す主権者)になろうとします。

神の子になり霊の命を得ても、肉(生まれ持った命)も持って生きねばならない私たちには、生涯アマレクが付きまといます。肉は霊を迫害し、天国を閉ざし、砂漠に止め、エジプトに帰そうとします。彼らの怖さは、外にいる敵ではなく、自分の内にいる敵(肉・自我)だからです。

友よ。強力な敵、アマレクの正体と、彼らが出現したのは神への不信の場レフィディムだったことを覚えてください。従ってアマレクへの勝利は、自分(肉)に死んで、キリスト(霊)に生きる…主に服従する者が受け取ります(ガラ5章16~17節・24~25節参照)。

17章11節

モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。

神の子となっても、「古い人」が居残っています。それをパウロは、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。…それを行っているのは…、私のうちに住む罪(肉・アマレク)です」(ロマ7章19~20節)と言いました。

アマレクには、「この世の君・サタン・へび」と言われる強力な助っ人がいます。悪魔は自分の存在を隠し、神の子の中に残る「古い人(自我)」を助けることで神に反抗します。従って、サタンは人の罪の中に自分の居場所を造り、その罪を通して働きます。

自分の「肉」と安易に考え、自分で戦ってしまいますが、古い人(アマレク・肉・自我)との戦いは人の能力では勝利できません。

その勝利は、何よりもモーセが祈っているとヨシュアが勝利したように、主イエスが私たちのために祈っていてくださるからです。モーセの手が疲れて下がっても、十字架を通り、復活した主の権威と力の手は下がりません。

友よ。今日も自分自身への降参の手と、主に依存する両手を挙げ続けましょう。

17章12~13節

モーセの手が重くなった。…アロンとフルは、…モーセの手をささえた。…ヨシュアはアマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

右の言葉が、アマレクと戦う勝利の秘訣を教えます。この戦いは、一人の力ではなく、チームワークによって勝ち取りました。モーセが祈りの手を挙げ、アロンとフルが支え、ヨシュアと兵士たちが最前線で戦いました。

アマレクなる自我は、各自が個人的に戦う敵ですが、彼らはキリストの体なる教会として戦いました。信仰は、最終的には個人のものですが、その戦いは兄弟姉妹の戦いでもあります。一人の中のアマレクと戦って勝利を得るためには、教会(モーセ・アロン・フル・ヨシュアと兵士たち)が一つとなる必要があります。教会が健康であると、集う人々が、自分の信仰の戦いに勝利し易くなります。一人が勝利すると、教会全体も強められます。

健康な教会とは、奇跡を行い、伝道し、多くの人を集める教会ではなく、各自を霊の人に成長させる教会です。それには、「使徒の教え(聖書)、交わり、パン裂き(礼拝)、祈り」(使徒2章42節参照)の教会の基礎が日々の生活に浸透し、アマレクに勝利する(聖別される)ことが必要です。

17章16節

「それは、『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる」と言った。

ヨシュアが「アマレクと民を剣の刃で打ち破った」(13節)とある剣こそ「みことばの剣」です。イスラエルは、「真理のみことば」によって勝利しました(エペ6章17節参照)。

信仰の戦いは、自分の考えや経験や能力によらず、「御座の上の手」、すなわち主イエス御自身と彼の御業によって、アマレク(自我・古い人)と戦うことを教えています。従って、それは「真理の戦い」とも言えます。

サタンと人の肉は、神の真理に逆らう偽真理(偽りの言葉)を持ち出します。そして、「お前は赦されていない、神などに依存しなくても生きて行ける」などと教えます。偽真理は、神の子を「御座の上の手(主と主の御業)」から引きずり降ろし、「自分の上の手(人の願い・能力)」で戦わせようとします。

友よ。パウロが神の子なのに、内に潜み支配する肉(古い人)という罪に敗北し続けたのは、自分で戦ったからでした。しかし彼は、「罪と死の原理(自分の働き)」から「御霊の原理(主の御座の上の手・主の働き)」を知って委ね勝利しました(ロマ8章2節参照)。

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