キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第2章

2章1~2節

レビ家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。女はみごもって、男のを産んだ…。

エジプト人は、ユダヤ人をヘブル人(渡ってきた人・川向こうの人)と呼び、異国人扱いしました。それは、彼らが三百五十年もエジプトで暮らしながら、同化せず、自分たちの信仰を貫いていたからです。

それほど妥協しない異国人に、エジプト人は恐れを持ちました。彼らへの迫害の初めは、前政権の宰相の一族である理由でしたが、この頃には頑固に信仰を守る奇怪な集団へ向けられ、引いては彼らの神へ向けられました。「レビの家の男がレビの娘をめとった」とは、彼らが先祖の戒めを頑固に守る姿を表します。この二人から、聖書中最も重要な人物の一人、モーセが生まれてきます。

キリスト信者(レビ)が信者(レビ)と結婚することは望ましいことです。しかし、それぞれが達し得た信仰と決断を、他者が犯すことも許されません。もし、レビ(信者)がエジプト(未信者)と結婚する決断をしているなら、もう一つの決断をしてください。それは、伴侶をレビ(信者)にすることと、産まれる子もレビにすることです。それは信者同士の結婚以上に、祈りが必要です。

2章2節

女は…男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三ヶ月の間その子を隠しておいた。

パロはヘブル人が増えるのを恐れ、「生まれた男の子はナイル川に投げ込め」と命じました。しかし、レビ族の夫婦は、王の命令に逆らい子を隠します。その理由を、「子のかわいいのを見て」と記しています。

親は、子のどこを見ているでしょうか。性別、顔立ち、能力、気性などが目につきますが、親が見るべきは子の魂です。そして、その魂を見る時、自己中心の「罪人の魂」か、神によって罪を取り除かれた「神の子の美しい魂」かを見分けなければなりません。モーセの両親は、子の中に神の子となる「いのち(霊)の美しさと尊さ」を見たので、敵に渡さず命がけで守りました。しかしサタンは、自己中心の醜い罪人であることを喜びます。子の魂に、無頓着な親になっては困ります。

全ての子は、美しい子(神の子)になるまで守りが必要です。子の魂を敵から隠し守るのは、牧師や教会以上に、だれよりも親自身です。その時、子の中に神の子の美しさが見えなければ、サタンから隠し守る力は出てきません。

親なる友よ。あなたの子は、美しくなるために生まれました。

2章3節

もう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ…子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。

病の子・飢えで命が尽きる子・敵の刃物にさらされる子…を守れない限界に、古今東西の親は泣きました。隠し切れないと悟ったモーセの両親は、子をナイル川に委ねました。

彼らが、水(神の御手)に委ねなかったら、命は断たれていました。今日でも、塾も、習い事も、テレビも、インターネットも…と皆と同じ価値観の中にとどめるならば、子の魂はサタンに奪われます。子の魂は、「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる」(詩46・4)神の都に流れ込む川の水(神の御霊)に委ねなければなりません。聖霊は、神の「いのち」であり「助け主」です。(ヨハ16章12~15節)。

友よ。あなたの子を、自分の中で守れると考えるのは間違いです。モーセの両親のように、子を自分と世から離し、聖霊(水)に委ねなければなりません。親の役目は、子を産み、育て、成長を見つめ、時が来たときに神の御手に差し出すことです。それは、彼らの本当の親である父なる神に帰すことです。子どもたちは、「親の子」でなく、「神の子」になって行かねば幸福になれません。

2章4~5節

その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、

水に流された弟を、葦の茂みに隠れつつ見守っていた姉の名はミリアムでした(15章20節)。彼女は、弟と両親への愛から、身の危険も省みず、水に流される赤ん坊の後をつけました。かごに入った弟のために、彼女ができることは「祈り・見守る」ことでした。

「ミリアム」の名は、「愛・愛されるもの」との意で「マリア」の名にも通じます。神は皆を愛しておられますが、とりわけ「祈り、見守る人」への愛は特別です。ダニエルはエレミヤ書を読み、自分の民が犯した罪と、神が定めた解放の時を知って断食し、荒布をまとって灰をかぶり、同胞の救いと解放を祈りました。神はダニエルに、「あなたは、神に愛されている人、…みことばを聞き分け、幻を悟れ」(ダニ9章23節)。「神に愛されている人ダニエルよ」(10章11節)と何度も声をかけられました。誰かのために祈る人は、「ミリアム=神に愛される者」です。

友よ。あなたが今日神の子であるのは、神が備えてくださったあなたのミリアムがいたからです。これからは、あなたも誰かの姉(ミリアム)になって祈ってください。

2章5節

パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。…彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、

事もあろうに、王の娘にかごの中の子が拾われます。考えれば、一番危険な人に拾われたことになりますが?

しかし、神の御計画に間違いはありません。一番危険と思える王の娘に拾われなければ、後の解放者モーセはいませんでした。パウロは、熱心なパリサイ派の律法学者であり、政治の中心にもいました。彼もまた、キリストを主と信じるに一番危険なところにいました。しかし、そこで育ったからこそ、聖書を書く最も重要な働きを委ねられる人物になりました。エステルは、ユダヤ人にとって一番危険な異邦人・ペルシャの王妃への道を進みました。だから、ユダヤ人を救い出せました。

友よ。自分の居場所が、最悪であると考えていませんか。モーセがエジプトの王宮へ、パウロが律法学者へ、エステルが王の妃に…その意味を、「この王国に来たのは、もしかすると、この時のためである」(エス記4章14節)と後で理解する時があなたにも必ず来ます。だから、それまで性急に結論を出さず、もう少し神の御手の動きに期待して待ってください。「今知らず、後知るべし」です。

2章7節

その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、…乳を飲ませる…へブル女の乳母を呼んでまいりましょうか。」

パロの娘が泣く子を拾いあげるのを見て、赤子の姉は何度も転びながら、王女のもとに駆け寄りました。弟を助けようとする姉ミリアムの姿に、目頭が熱くなります。

彼女はこれ以上ない機転をきかせ、しかも大胆に、「ヘブル女のうばを…」と言いました。その乳母こそ、自分の母であり赤子の母ヨケベデでした。こうしてモーセは、実の母の胸と信仰の中で成長できました。主は、「話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです」(マタ10章20節)と言われました。

あの人には通じない、と勝手に決めつけることがあります。しかし、だれかの魂を救うなどの御心に適うことなら、ミリアムのように「ヘブル女…」と言い難いことを単刀直入にぶつけてはどうでしょうか。御心を実行する者の背後には、全能の神がついておられて「語るべきこと」を教えてくださいます。しかし、「愛をもって真理を語り」(エペ4章15節)の、「愛をもって」も「真理を語る」と同じに大事であることを忘れずに!

2章9節 ①

パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。」

こんなことが本当にあるの!しかし、現実となりました。幼子モーセが両親の元に戻されたのは、神業というほかありません。

だれでも、子どもが実の親に育てられるのが一番良いことは知っていますが、「どのように育てるのが最善」かは曖昧です。子どもたちが、神の御元と教会から離れている現実がそのことを表しています。神は、子どもを神の子に育てる使命を、牧師や教会学校教師、あるいはミッションスクールでなく両親に委ねています。聖書は、子の魂の救いと成長を、「子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(申6章7節・新共同訳)と命じています。

友よ。右の「繰り返し・家で・どんなときも・寝ているときも・起きているときも」は同居する親だけができることです。子を産み(新生)、乳(霊の糧)を与えるのは親の役目です。パロの娘のように、神も「この子をあなたに委ねます。私が養育費(神の霊の財産)を払いますから、私に代わって乳を飲ませてください」とあなたに言っておられます。

2章9節 ②

「私に代わって乳を飲ませてください。」

パロの娘は、拾った子を乳母(モーセの母)に委ねました。

子の成長に欠かせない乳は、神のみことばを表します(Ⅰペテ2章2節参照)。幼子が自分で噛んで食べるまで母乳を飲むように、神のみことばを直接食べるまでは、親を通して霊の食物を与えねばなりません。霊と心における成長は、正しい教育によって行われます。ある学長が、「教育とは、知識を与えることではなく、善と悪を見分ける能力を与えることである」と言いました。善悪の判断は、その人の中にある「基準」でなされます。その基準こそ、神であり、聖書です。それは知識の押しつけでなく、母の体を通して乳を与えるように、親の生き様を通して伝わります。

神は親に、「私に代わって乳を飲ませて」と言われます。そのためには、親が十分に食事(霊の糧)を採り栄養(いのち)を蓄えねばなりません。次に、授乳の時間(霊を分かち合う時間)を確保することです。子は両親の元に、両親は神の元にいてそれが可能です。

友よ。「信じます。不信仰な私をお助けください」(マコ9章24節)と、子の救いのために、まず自分の救いを求めた父の祈りから始めてください。

2章9節 ③

「私があなたの賃金を払いましょう。」…その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。

自分の子に乳を飲ませるのに、殺せと命じたパロの娘から賃金が払われました。これは、必死で幼子の命を守ったことへの報酬です。

現代の社会状況は、外に出て仕事をする母親が増え、母乳を飲ませるに困難な現実があります。それは母親の問題でなく、家族全体の問題です。そしてそれは、子に霊の乳を飲ませることにも同じ危険性をはらんでいます。昔、多くの子どもが集まった教会学校も、今は寂しい姿になっています。男性・女性・既婚・未婚・専業主婦・外に仕事を持つ母など、老若男女や仕事に関係なく、イエスを主と信じる者は神の子です。そして神の子には、「全世界に…福音を伝えよ(霊の乳・神の言葉を与えよ)」の同じ使命が与えられています。

友よ。あなたはどんな立場で、何の報酬(お金・感謝・愛情・生きがい・達成感…)を求めて働いていますか。冒頭のみことば「私があなたの賃金を払いましょう」という、「神の賃金(報酬)」を得るために働いてはどうでしょうか。その報酬は、死んだ先までも持って行けます(マタ6章19~21節参照)。日々の時間と労苦が、そのために使われますように。

2章10節 ①

その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。

パロの娘の所に、幼子が連れて行かれたのは、「大きくなったとき」とだけあり、何歳かはわかりません。多分、母乳が必要なくなった時、とも考えられます(一説では5歳?)。

その時とは、子が霊の乳を受けてある程度成長したとき、とも解釈できます。子どもは、体と心に「良いもの」を「十分」に得ると満足し、親に服従できます。反対に、体と心に「悪いもの」を受け続けると、いらだち反抗します。「父たちよ…子どもをおこらせてはいけません」(エペ6章4節)。親が子に、霊の乳(みことば)を十分に与えると、その子自身が霊の糧を父なる神に求めるようになります。それが霊的成長です。神に求めることを知らない子は、いつまでも親から離れられません。子が神に直接求めるようになった時が、子どもをどんな社会(パロの娘の元に戻す)に送り出しても大丈夫な時です。

友よ。子が親元に居る時期はほんのわずかです。この間は、親子にとって神を中心にして交われる恵みの時です。世に出す前に霊の乳を十分に与え、「神・親・子」のトロイカ(三者)体制をつくってください。

2章10節 ②

「あなたは川で拾ってきた子よ」と親に言われたら、どんなにショックが大きいことでしょう。モーセは事実、「ナイル川から引き上げられた子」と命名されました。

しかし、「水から」引き上げられたことは大きな恵みです。聖書は、「肉によって生まれた者は肉です。霊によって生まれた者は霊です」(ヨハ3章6節)と。モーセは父母(肉)から生まれ、水(聖霊)に委ねられました。そして、彼は水(聖霊)から引き上げ(新生)られました。主も、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(同・5節)と言われました。人は、だれから「生まれた」よりも、だれによって「生まれた」のほうが重要です。主を信じたことは、聖霊によって「生まれた」のです。

友よ。あなたは人(親・愛する人)から捨てられた、とひがんでいませんか。しかし考えてください。だからこそ、あなたは神に拾われたのではないですか。心から愛する友よ。あなたの名前も、水から引き上げられた(水のバプテスマを受けた)のですから「モーセ」です。あなたも神に選ばれたモーセです。

2章11節

モーセが大人になったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。

成長したモーセが、ヘブル人たちの所へ行ったのは、自分もヘブル人の自覚を持っていたからです。そして、王子の身分の彼に、同胞の姿が「苦役」と見えたのは、自分と民を同位置に置いたからです。その心は、乳離れまでにすりこまれた親の信仰です。

「いのち」は「いのち」を見分け、いのちにふさわしい行動をさせます。「神のいのち」を持つ者は、人々と接っするとき、外面でなく内なる魂に関心を持ちます。そして、その魂が痛む姿(苦役)を敏感に感じ取ります。パウロは、同胞の救いのためならば、自分がキリストから引き離されてもよい(ロマ9章1~3節参照)とまで言いました。それはキリストから受け取った「いのち」が、彼に同胞への愛をわき立たせたのです。

同胞の友よ。私たちも同じ主のいのちを持っていますが、同胞(クリスチャンや教会)をどのように見ていますか。時に、苦々しい鋭い眼光になっていませんか。互いが同胞を憐れまないで、どうして神の愛を伝えることができるでしょうか。ある人と教会が祝福されることは、自分自身への祝福ではないですか。

2章12節

彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。

モーセは、苦役に呻く同胞を見て正義感に燃えて行動しましたが、エジプト人を殺す結果になりました。そして、王子の場から追放され、荒野で羊飼いをすることになります。

彼には、同胞を愛する純粋な思いと行動力がありましたが、まだ神の器になっていませんでした。神の器とは、神の御心を、神の方法で行う人です。彼は、同胞のために自分が立ち上がれば神も動いてくれる、と考えました。しかし、それは世(エジプトの王子)の方法であって、神(神の子)の方法ではありませんでした。神は、その人を用いる前に、神の器にすることを考えています。

友よ。あなたも聖霊によって生まれた神の子であることを忘れ、世の常識や社会的立場で考え、行動を起こしていませんか。そうすると、人を救おうとの純粋な愛も、束縛(律法)となります。そして、モーセが殺人者になって追放されたように、家族や友人や職場の同僚から嫌われ、相手にされない者となります。「愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラ5章6節)とは、神のいのち(愛)によって、他者に寄り添える人の姿です。

2章13・14節

彼は「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。…「だれがあなたを私たちのつかさ…にしたのか。」

モーセは、同胞を憐れもうと殺人まで犯します。それほど同胞を愛しているのに、翌日、ヘブル人同士の仲裁に入ると、彼らからも不信の言葉を突きつけられます。

これほどの愛?が受け入れられなかったのは、イスラエル人への「同情」と、エジプト人への「憎しみ」から出た行動だったからです。「同情」と「愛」は違います。同情は自分が基準で、愛は神が基準です。両者の行動の源は、同情は自分の思いを遂げようとし、愛は神の御心を遂げようとします。従って、愛には神の正しさ(義・聖)の裏打ちがあり、同情にはありません。そこから、同情が実らない時は、「モーセは恐れた」(14節)とあるように恐れが出てきます。しかし、「愛には恐れはありません」(Ⅰヨハ4章18節)。

友よ。同情(人の愛)と愛(神の愛)を見分けるポイントは、自分を生かす(他者を犠牲)のが同情で、他者を生かす(自己犠牲)のが愛です。同情はわずかの間だけ輝き働きますが、 「愛は決して絶えることがありません」(Ⅰコリ 13書8節)。

2章14節

「あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか」と言った。

同胞の一人の言葉は、モーセを失望させました。英雄どころか殺人者に見られています。神の御心と信じた行動が、逆に御名を汚すことになり失望することがあります。

神の働き人は、一時的な「情熱・同情」と、生涯を貫く「愛」とを区別する必要がありますが、それには熟練が必要です。情熱は、自分の中から瞬間的にわき出た百度のお湯のようです。しかし、時間と共に徐々に冷めます。愛は、神の御心に信仰によって服従する者に、神から与えられるいのちです。時間の経過と気持ちに多少の変化があっても、熱源が神にあるので冷めません。モーセは情熱で行動を起こしたので、その結果は他者を傷つけることになりました。また、情熱と同情は、冷めた時に恐れと相手への非難に変わるものです。

愛は、冷たいところから除々に上昇して高温になり、それが何年も続きます。さらに、神の「愛には恐れがない」(Ⅰヨハ4章 節・新共同訳)のは、自分一人でなく全能者が一緒だからです。

友よ。御心(神の愛)か、自分の思い(情熱)かを確かめてください。そのためには、長い期間の祈りが必要な場合もあります。

2章15節 ①

モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。

パロは、モーセの殺人を一事件以上に、ヘブル人を蜂起させる王国への挑戦と見て、彼を殺そうとしました。古今東西、自分の地位を守るための権力争いは後を絶ちません。

神は、教会の中に若いモーセをおこします。彼は、信仰に燃え、血気盛んで、将来を担う神の器になる人です。しかし、その行動は少し過激で、また、皆の足並みを乱す行動に見えることもあります。すると、パロならぬ教会の指導者たちは立ち上がり、迫害し、若いモーセを追放します。ヤロブアムの時代、ベテルに何もしない老預言者がいました。そこに若い神の人が来て王の偶像礼拝を責め、それに伴うしるしを行い人々の関心を得ます。すると、急に老預言者は立ち上がり、「神からのお言葉」と偽り、若い預言者を神に背かせ、彼を葬りました(Ⅰ列王13章参照)。

信仰の先輩である友よ。神の目で、若者を見てください。問題を起こすモーセ(若者)でなく、四十年後にエジプトに戻ってくるモーセ(聖霊の器)の姿を祈ってください。使命に燃える若い友よ。先輩の一つひとつの言葉を、荒野の訓練として受け入れてください。

2章15節 ②

彼は井戸のかたわらにすわっていた。

モーセは、パロの手を逃れて砂漠の井戸の傍らに座っています。それまでは、王子として扱われ、自分でもそのように肩肘張って生きてきました。また、王子たち同士の能力、地位、手柄を競う戦いも多くありました。

人は、それぞれの立場を背負わされて生きねばなりません。どの立場にも、競争や戦いがあります。しかし、そこでたとえ競争に勝ったとしても魂の平和は得られず、底知れぬ恐れと不安を抱えて生きています。彼は、今、パロから逃げ砂漠の井戸のそばにいます。ここには、王子の肩書も、服装も、しもべたちも、贅沢なご馳走もありませんが、やっと「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハ4章14節)と宣言されたお方の傍に、近づくことができました。彼は、世から汲む水を飲んでは渇いていましたが、今は魂を潤すいのちの水を得ています。

友よ。あなたもエジプトとパロが提供する偽りの水と平安から逃れ、「平和の君」(イザ9章6節)と呼ばれる主イエスの側に座り、いのちの水を飲んでください。自由にふるまえて不安であるよりも、貧しく制約があっても平安であるほうが幸せです。

2章17節 ①

すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

かつてのモーセは、王子としてエジプト権力の中心に座り、民を働かせ、税を収めさせることが仕事でした。砂漠に逃げたモーセの最初の仕事は、弱い人々を守るために悪い羊飼いたちと戦い、羊に水を与えることでした。

この世の評価では、エジプトにおけるモーセの仕事は大きく貴く、砂漠での仕事は小さく卑しいものと見なされます。弟子たちが、だれが一番偉いか争った時、「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、みなに仕える者となりなさい」(マタ20章26節)と主は言われました。モーセは、人々を自分に仕えさせる者から、人々に仕える者となっています。世間からは小さく見えるモーセですが、神の目からは大きく貴い存在になり始めました。

友よ。あなたはエジプトのモーセと、砂漠のモーセのどちらになりたいですか。誰の目にも留まらなくても、あなたが神を望みとし、与えられた場を精一杯生きるなら、「栄華を窮めたソロモン」に勝って美しい「野の花の一輪」と、神は見てくださいます(同6章の評価の中を歩んでください。

2章17節 ②

羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。するとモーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

ミデヤンの祭司の娘たちが、羊に水を飲ませようとすると、悪い羊飼いに邪魔されます。娘たちは、そこに居たモーセに救われ、羊に水を飲ませ、早く家に帰ることが出来ました。

だれもが、人生の目的を早く見つけ、それに沿って満足のいく生涯を送ることを願っています。しかし、ほとんどの人は悪い羊飼いに邪魔され、いのちの水の井戸(主イエス)から退けられます。悪い羊飼いが、「羊を盗んだり、殺したり、滅ぼしたり」するとは、人を神から遠ざけることです。しかし、良い羊飼いは「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため…、羊のためにいのちを捨て」て仕えます(ヨハ10章1~18節参照)。

友よ。まことの羊飼いは主イエスですが、私たちも小イエス(ルター曰く)ですから、羊飼いの一端を担い、人々が永遠のいのちの水を飲む手伝いをしたいものです。モーセが娘たちを助けたのは、彼自身が井戸の側にいたからです。同じように、私たちが人々を助ける小羊飼いになるには、自分自身が井戸(主イエス)の側にいつも居なければできません。

2章20節

「…どうしてその人を置いてきてしまったのか。…その人を呼んで来なさい。」

父レウエルは、娘たちを助けた人(モーセ)を家に招くように指図します。彼は、誰を家に招くべきかを知っていました。

「どのように生きるか」よりも、「だれと生きるか」を知ることが、より重要です。人がどんなに自分で頑張っても、「ちりはもとあった地に帰」る時を迎えることになります。人は肉の親から生まれますが、「霊はこれを下さった神に帰る」(以上・伝 章7節)存在です。会堂司ヤイロは、病気で死にかかった娘のために、主イエスを家に招きました。主は、すでに死んでしまった十二歳の娘に、「タリタ・クミ(少女よ、起きなさい)」と言って、娘を生き返らせました(マルコ5章参照)。ヤイロが、どんなに一所懸命に生きても、娘を救うことはできませんでしたが、イエスを家に迎えた時、問題が解決しました。

友よ。あなたは誰を家に迎えていますか。テレビ画面のふざけ合う芸人や司会者、愚痴を言い合う友、それとも、主イエス様ですか。家(いのちの交わり)に呼ぶ人を間違えないでください。誰よりも、主イエスを招き、留まっていただき、仕えていただいてください。

2章21節

モーセは思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。

父レウエルと娘たち、そして招かれたモーセ。彼ら三者の関係は、救われる人(娘たち)と、伝道者(父レウエル)と、主イエス(モーセ)の関係を示唆していないでしょうか。

聖書は、「モーセは思い切って(レウエルの家族と)住むようにした」と書いています。事実、主イエスが私たちのところに来られて、共に住む目的は、十字架につくことでしたから、思い切った決断が必要だったことでしょう。また父は、娘のチッポラをモーセに妻として与えました。伝道者の使命は、人々(娘)を、花嫁として主イエスに嫁がせることです。この家族は、いちばん祝福された家族となりました。モーセ(主イエス)を迎え、それぞれが一つの愛につながったからです。

幸福な家族は、主イエスをお迎えする家族です。そして、娘や息子にイエスを主(花婿)として紹介し、彼らの花婿となってもらい、「彼女は男の子を産んだ」(22節)とあるように、神の子たちが誕生する家族です。

友よ。この恵みは、まだ伴侶が未信者でも、イエスが「霊の夫・主」であるあなたへの約束です。

2章23節

イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。

モーセがミデヤンの荒野に逃げてから、40年になろうとしています。その間も、イスラエルの人々は奴隷の苦役の下にいました。その労苦に、うめき、神に叫び出しました。

ある人が、「人生は苦しいが、その意味がわかれば耐えられる」と言いました。苦難の意味には…人格の向上・練達・忍耐を学ぶ・経済的に豊かになる…などもありますが、「人が神に助けを叫ぶため」が究極的な意味です。それ以外の意味を得ても、人生苦の根本的解決にはなりません。神が、人を襲うさまざまの苦難をすぐに取り除かないのは、人が御自分に叫んでくるのを待っているからです。「…主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」(詩6・8~9)。

苦しみに耐えている友よ。あなたの苦しみには解決があります。それは、「泣く声…切なる願い…祈り」(同節)を待っていてくださる父なる神がおられるからです。あなたが天の父に向かって、うめき、わめく時、神は苦しみを取り除くより先に、人生苦の解放者・主イエスを与えてくださいます。

2章24節

神は彼らの嘆きの声を聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

神は、イスラエルの民の叫びを聞き、早速解放の準備を始められます。神が心を動かされるのは、人の熱意の高さ、悲しみの深さ以上に、先祖との契約によってです。

それでは、どうして神は、今まで彼らを助けなかったのでしょうか。それは、神が手を控えたのではありません。神は、「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた」(ロマ 10章21節)のです。しかし人々は、真の神でないものに伏し、あるいは自力で自由になれると考え、神の救いの御手を払い除けていたのです。彼らは、常日頃から神の名を多く口にしても、心から神に叫ぶことはなかったのです。

助けを求める友よ。「主はイスラエルの苦しみが耐えられなくなった」(士10章16節・新共同訳)と言われるほど、あなたを愛することに真剣です。そして、先祖に約束した救いの約束を成就することを、待ち焦がれていたのです。しかし、一つの条件が満たされねばなりません。それは、あなたが「口」でなく、「心」で主に助けを叫ぶことです。その時、主は、御自分の約束を実行されます。

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