キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第21章

21章2節

あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。

ここには、聖書の素晴らしさが遺憾なく発揮されています。世の王が法律を制定するのは、徹頭徹尾自己保身と利益のためです。しかし、聖書が律法を定めた直後に命じていることは、奴隷の人権保護についてです。

奴隷は、お金で買った私有物です。また、一番の弱者ですから、主人たる者はなんでも思い通りにできる牛馬以上の財産です。さらに、6年間訓練した技術も惜しく思いますが、神は7年目に解放せよと言います。それは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Ⅰヨハ3章16節)に根拠があります。

友よ。奴隷を自由にすることは、もったいないことですか。それでは、主があなたのために命を捨てられたことはどうですか。主があなたを無代価で自由にしたように、あなたよりもさらに弱い人々(奴隷)に、「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10章37節)と言われます。

21章5~6節

奴隷が、『私は、私の主人…愛しています。…去りたくありません』と…言うなら、…彼は…主人に仕えることができる。

6年仕えた奴隷を去らせる時、その奴隷が、これからも主人に仕えると言うならば、彼とその家族をこの後もとどめるように勧めます。

当時の奴隷は、7年目に自由になれましたが、罪の奴隷は死に至ってもなお自由になれません。唯一、主イエスの十字架のあがないによってのみ自由にされます。

ところで、自由にされたかつての罪の奴隷は、その後どのように生きるべきでしょうか。世に出て行き新しい仕事を探し、二度と主人の下に戻らないこともできます。しかし、その主人に、「これからも、あなたのしもべとして仕えさせてください」と頼むこともできます。

友よ。あなたが罪の奴隷とされていた年月(6年)は、18年(才)でしたか60年(才)でしたか。そして解放された今、あなたはどこにいますか。この世で自由人(救われて自己中心に生きる者)として生きていますか、それとも主の奴隷として生きる契約をしましたか。願わくは、罪から救っていただいたからこそ、「膝をかがめて…イエスは主」(ピリ2章10~11節参照)と告白してください。

21章7~8節

人が自分の娘を女奴隷として売るような場合、…彼は彼女が贖い出されるように…。

「そもそも、聖書が奴隷制度を認めていることは理解できない。ましてや、自分の娘を奴隷として売るなど」と思うのは当然です。

現代に奴隷制度はありませんが(中国のイー族は、第二次大戦後まで奴隷社会でした)、霊的な見地から今も奴隷制度は続いています。それは、罪の奴隷であり、その原因は、「父の咎を子に報い、三代、四代にまで」(出20章5節)及んでいるからです。

さらに「アダムにあって全ての人が死んでいる(罪の奴隷)」(Ⅰコリ15章22節)までもさか上ります。 すると、「親が子を罪の奴隷に売っている」と言えます。昔、奴隷であった人も、その奴隷の主人であった人も、現代人も、等しく先祖の罪と自分の罪のゆえに、「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハ8章34節)。

ただし、女奴隷が主人の息子の嫁になると、奴隷から解放されました(9節参照)。まさに、父なる神は、私たち(女奴隷)を主イエスの花嫁にして解放してくださいました。

友よ。奴隷の嫁は奴隷ですが、神の王子・主イエスが奴隷女(私たち)を妻にすれば、もう罪の奴隷ではなく、神の子です。主に感謝。

21章12~13節

人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない、…わたしは彼ののがれる場所を指定しよう。

21章から22章には、奴隷について(2節~)、死に価する罪(12節~)、傷害を与えた償い(18節~)、家畜や財産の弁償(22章1節)など、十戒が骨子となり、刑法、民法に及ぶ日常の具体的な戒めが記されます。

人は、信仰、信仰というだけでは生活できません。肉体を持ち、人間関係、地域、国家の中で生活せねばなりません。信仰とこの世の関係は、まさに十字架の姿が表しています。 縦の木は神との関係の信仰、横の木はこの世との関係です。十字架は、縦が長く横が短いように、この世(横)は信仰(縦)に貫かれねばなりません。

また、「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としている」(ヤコ4章4節)とあるように、縦と横を平行にすることもできません。

しかし友よ。戒めは、あなたがどれだけできたか否かの試験紙ではなく、どれだけ神に正しく向いているか、という角度を示す羅針盤です。そのためにはまず、縦(信仰・神の御心)が真っすぐ長くなっていなければなりません。そうすると、信仰とこの世はバランスがとれ、さらに聖いものとされます。

21章14節

ほしいままに隣人を襲い、策略をめぐらして殺した場合、この者を、殺さねばならない。

神は、自然界も科学も医学も経済も、あらゆるものを造り、「良かった」と言われました。 一般に、信仰は心の世界、科学は現実の世界、と両極に分けて考える人がいます。

古代インドの話…「四人の王子が世界最高の科学を学んだ。第一の王子は一片の骨から肉を造りだす技術。第二王子は骨に付いた肉に皮と毛を造りだす技術。第三の王子は骨、肉、皮に手足など肢体を造る技術。第四の王子はその物体に命を吹き込む技術であった。ある時、森に入って行き一片の骨を見つけ・肉・皮・肢体と造り、それに命を吹き込んだ。すると王子たちは、自分たちの造ったものにかみ殺された。それは、虎だった」と。

自然科学が神を消してしまうならば、人々は自然科学(虎)にかみ殺されることになります。信仰と科学は、創造者において同一であり、神の戒めと世の生活も統一されたものです。

神は、隣人を愛することも、策略をめぐらして殺すこともできる自由を与えています。だからこそ、科学も、国も、家族も、財布の中も、すべてが神の言葉(戒め・御心)に貫かれなければ、不自由と死を作り出します。

21章13~14節

ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、私はあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。

聖書の神は、「殺人は死罪」と、いっしょくたにする神ではありません。殺人であっても、その動機や過程も十分に考慮されます。

先に、信仰という縦棒に、この世という横棒が貫かれることを記しました。しかし時々、縦だけの信仰者を見ることがあります。ある難病の中にある兄弟が、あるクリスチャンに「神は全能でいやし主ですから、信じるならその病は必ず治ります」と、いやしの祈りを強く勧められました。それに対して彼は、「この体は本当に治る必要があるのでしょうか。私はこの体を通して神を見ています」と答えました。

だれでも聖書が示す理想的な信仰・家族・人格・行動であることを願いますが、現実は信仰の弱さ、家族の不和、先天的欠けなどを抱えて生きています。でも…それでも…そこで…生きねばなりません。

友よ。理想的であろうとしても、そうなれないあなたの現実を神はご存知ですが、神はあなたを失格者にはしません。しかし、それで良いとも神は言いません。神が求めているのは、「弱さの中に神を見る」ことです。そこで神を見る時、それが逃れの町となります。

21章23~24節

…いのちにはいのちを与えなければならない。 目には目。歯には歯。手には手。足には足。

ここでも聖書の矛盾にぶつかります。赦す神、愛の神、隣人のために命を捨てる神…なのに、この厳しい定めは一体なんだろう…と。

これをもって「等価の償い」と言い、ここが主イエスの十字架の贖いの根拠であり、必要性でした。 罪を犯したアダムとエバを、神がエデンから追放したのは、彼らを守るためでした。「罪の価は死」ですから、彼らを神の義と聖が満ちるエデンに留めれば、裁いて捨てねばなりません。そこから救うには、「いのちとして贖いをするのは血である」(レビ17章11節)だけが有効です。そこで神は、彼らに皮の衣(動物犠牲)を持たせて追い出しました。彼らが皮の衣(罪の身代わりの衣=主の十字架)を着れば、再びエデンの園に戻れます。この後にモーセ五書に記される気が滅入るような儀式の中心は、全てこのことでした。

厳しく見える「等価の償い」こそ、救いを完全にします。不完全になったものを、あちらこちら手当てするよりも、それを葬って(十字架)、新しく造り直す(復活)ことがより完全です。

そして友よ。全ての罪の最終的な償いは、主御自身が担当されているのです。

21章32節

もしその牛が…奴隷を…突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は…殺されなければならない。

市民が殺傷を受けたら、時には死刑が執行され、あるいは相当の賠償を求めました。しかし、男奴隷の値段は30シェケルでした。

主イエスを売ったイスカリオテのユダに支払われた金額も、「彼らは銀貨三十枚を彼に支払った」(マタ26章15節)とある銀貨はシェケル硬貨でしたから、神の子イエスは奴隷と同じ値段で売られました。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされた」(イザ53章3節)。そして、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」、(ピリ2章8節)。

神が人に、人どころか奴隷に、奴隷どころか十字架に売られました。牛に殺された奴隷の代償は30シェケルで、その牛も殺される姿に、全てのことが主イエス(罪の奴隷・贖罪の牛=十字架)に重なります。

友よ。あなたのために30シェケルで十字架に売られた主を、今度はあなたが何シェケルで買い戻しますか。もちろん、その値段は、あなたの命と引き換えでなければなりません。神が捧げてくださった命に、あなたの命を献げるとき、永遠のいのちになります。

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