キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第23章

23章1節

偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。

社会正義について9節まで記しています。その最初は、偽りの噂や悪意ある証人となることへの警告です。

聖書は、人が自己中心に生きると偽りになり、神中心だと真実になると語ります。「あなたがたの内側は、貪欲と邪悪とで満ちている。…ただ、内側…をきよめなさい。そうすれば一切があなたがたにとって、清いものとなる」(ルカ11書39~41節・口語訳)。

偽りや悪意は、人を貶(おとし)めて自分が生きようとすることです。その思いからの解放には、内側の霊の清めが必要です。清められるとは、貪欲と邪悪の心がなくなることではありません。その思いが出るとき、それを自分で支配せずに、意識的に聖霊に支配していただくことです。「御霊によって歩みなさい(支配されなさい)。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラ5章16節)。

友よ。あなたは神の御霊をもつ神の子ですから、人を貶めて生きる必要はありません。必要の全ては、父なる神が備えておられます。今日も、主イエスに焦点を当てて歩んでください。それが御霊によって歩むことです。

23章2節

あなたは多数(権力者…新改訳)に従って悪をおこなってはならない…多数(権力者)に従って片寄り、正義を曲げ…てはならない。

(口語訳)

一般に、「多数」と「権力者」は相反するものに見えますが、この箇所では同列に置き、両方に従ってはならないと告げます。

人を動かすためには、権力・脅威・欲・取引・操作・説得などを巧みに用いるものです。その目的は、自分の利益のためです。

古代社会から近代までは、「権力」が自己主張を貫く最大武器でした。しかし現代社会では、民主主義という名の「多数」が権力を持つことになりました。多数は、独裁よりは間違いを抑止できますが、それとて多くの人々の肉(自己中心)の最大公約数です。いずれの制度であっても、一人の中の自己中心性が変わらない限り、悪ははびこり正義は曲げられます。

この時代は、神が語りモーセが取り次ぐ「神権政治」でしたが、サウルの時代から王政に代わり、現代は「人々が主」となっています。

友よ。政治批判はともかく、あなたの内側ではだれが主権者ですか。制度を変え、他者を変えても、自分が「イエスを主」とする者に変えられることが先です。神の愛を受け、他者の愛を待つのでなく、自分が隣人を愛するとき、人々と社会は変えられます。

23章3節

弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない。

(新共同訳)

「悪人代官を懲らしめ、弱者の味方こそ人の道」とは言えないようです。権力者にも貧しい者にも味方してはなりません。

貧しい者や弱者への同情は、美しい愛ですが注意も必要です。世界の歴史は独裁者からの解放を目指し、「権利章典(1689年・イギリス)」「人権宣言(1789年・フランス)…「アメリカ南北戦争(1861年)」と続きました。そして、民主主義(デモ・クラシー)の流れができましたが、それはあくまでも「デモ(人民)・クラシー(権力)」です。

弱い人は自分の弱さを武器に用い、弱者弁護人はそこで自分が生きようとします。いずれにしても、美しい愛は、美しく装った自己中心のようです。独裁よりは民主主義が、一党支配よりは政権交代可能な二大政党が…と人々は政治経済を動かします。

友よ。社会体制を替えても、自分の本質が変わらねば何も変わりません。人を助け救うのは、法律や社会制度の改革ではなく、命の改革です。「からだのあかりは目(命・魂)です。…あなたの目が健全なら…全身(体制・制度・行動)が明るい」(マタ6章22節)。内にある御霊の光によって歩んでください。

23章7節

偽りの告訴から遠ざからなければならない。…わたしは悪者を正しいと宣告…しない…。

偽りは、正しい人を殺すことになります。それに対して、神は厳正な判断をされます。

神の子の生き方は、「信仰によってこの世をどう生きるか」であって、「この世で信仰をどのように持ち続けるか」ではありません。「世を愛することは神に敵する」(ヤコ4章4節)ことになります。

バプテスマのヨハネは獄中で斬首、マタイはエチオピアで、マルコは路上を引きずり回され、ルカは絞首刑、ペテロとシメオンははりつけ、アンデレは逆さ十字架、ヤコブは斬首、ピリポは十字架上で石打ちの刑、バルトロマイは生きたまま皮をはがされ、トマスは刀で、パウロは首をはねられ…その後もクリスチャンへの迫害は絶たれませんでした。彼らの戦いは、大それたものでなく、神から命じられた小さな真実への忠誠のためだったのではないだろうか。

後にローマ帝国が行き詰まり、皇帝コンスタンチヌスは役人たちの不正に苦しむ中、部下である神の子たちの真実を見ました。そして、彼らを敵に回すより、味方にするべき、と考え、キリスト教公認(313年)に踏み切りました。

友よ。信仰の戦いで、小さな偽りや不信実を捨てることも、大きな霊の戦いです。

23章8節

わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめる…。

「彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている」と預言者が言いました(イザ5章23節)。

キリスト教は、313年にローマ帝国の公認、380年頃に国教になりました。そして、「この岩(ペテロ…ギリシャ語。本来は信仰告白)の上にわたしの教会を建てる」(マタ16章18節)は、ペテロ(ペテロの継承者教皇)の上に建つ教会にされます。416年に幼児洗礼が法令化され、500年に入ってラテン語聖書以外は禁止されました。

それ以後の暗黒の中世は、まさに真理の光である「みことば」が失われた暗黒でした。その発端は、教会、儀式、資格、地位などが、人から人への「わいろ」のように用いられ、悪者が義人に、義人が悪人にされ、真理が見えなくなったからでした。

主は弟子たちに、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタ10章8節)と言われました。「主から受け、主に返す」ことが、「人から受け、人に返す」に代わると、真理が曲りだします。

主の働き人なる友よ…神にのみ求めるエリヤになってはどうか!収入のある兄弟姉妹の友よ…あなたの二枚のレプタを本当に主にお返ししているか!

23章9節

…在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは…エジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心を…知っている…。

イスラエルの民は、エジプトで400年生活し、異国人の悲しみを知りました。いつの時代も、民族と民族、国と国の感情のすれ違いと利害対立は止むことがありません。

かつての日本は、侵略により、数え切れない人々の命を奪い傷つけてきました。しかし今も、人も住めない小さな島の領有権を争い、過去の罪を悔いて放棄する愛を示せません。神は、民に過去の自分の姿を忘れず、周辺の国民に愛をもって接するように命じました。日本人は、受けた傷よりも与えた傷に気づき、悔い改め、隣人を思いやるべきです。

神は、主に自由にされた者に、「完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人…」(ヤコ1章25節)になるように諭し、さらに「父の御前で…汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っている時に世話を」する(同27節)行動であると言います。完全な自由の律法とは「神の愛」です。

友よ。主によって「どれだけ得たか」でなく、「どれだけ失ったか」を誇りたいものです。失った分だけ、天国へ蓄えられます。

23章15節

種を入れないパンの祭りを守らなければならない。

7年目の休耕作の実施(10・11節)、6日の仕事と7日目の安息(12節)、そして祭り(礼拝)について記し、その中で「種を入れないパン」について言及しています。

暗黒の中世は、主イエスの命のパン種(聖書・みことば)が取り除かれ、宗教の名を借りた為政者の我欲が偽パン種として交じり、国家から一人ひとりの魂までも支配しました。

しかしその中に、ウィクリフ(1383年・英語)、ヤン・フス(1415年・ドイツ語)、テンダール(1500年・英語)、ルター(1522年・ドイツ語)など多くの人が、ローマ帝国の禁令を犯して聖書を翻訳しました(内三名は処刑)。彼らは、民が聖書を読めるようにすることで、偽りのパン種を取り除きました。彼らこそ、真のリバイバル(聖書に帰る)を起こした人々でした。彼らの血の叫びが、今日の聖書になりました。

友よ。あなたの心から聖書が隠されていませんか。また、みことば以上に人や組織を大きくするパン種は入っていませんか。信仰は、みことばへの信頼から始まり、みことばが主イエスを表し、みことばが聖霊と共に働いて主の御業を起こします。信仰の始まりも、途中も、完成も、種入れないみことばから作られます。

23章20節

見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。

厳しい教えの後に、「使いを遣わしあなたを守る」との優しい神の声を聞き、民は安心したことでしょう。しかし…

人は、自分に優しい言葉には耳を傾け、厳しいものは避けます。神は、優しさの中にも厳さを持っていますが、それは愛の中に秘められた厳しさです。「使いを…遣わし、あなたの道で守らせる」と聞いてぬか喜びしてはなりません。「あなたの道」とは、「狭い門」から入った「細い道」のことで、「大きな門…、広い道」(マタ7章13・14節)ではありません。細い道は、主から目を離すと、バランスを崩して歩けなくなります。また、人に目を移し、組織を頼りにすると脱落します。ただ主を見なければならない道です。

友よ。人々や多数や組織に追随せず、神が備えた道を歩んでください。狭い門と細い道は、神が備える恵みへ行く大路であり、一番安全な道です。 神の守りとは、四方八方から手を出して支えるのでなく、あなたの目を主から離させないことです。そして、あなたが歩く道は、その先に聖霊が点検した道です。

23章21節

あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにある…。

神が先に遣わすお方は、助け主の聖霊です。そのお方を大事にし、御声に聞き背くなと言います。なぜなら、そのお方は神の代理だからです。

「イエスは主」と告白した時から、聖霊はその人に内住しておられます。聖霊の働きは、主イエスのものを人に与え、人を主イエスに結び付けます。聖霊は、主の陰に隠れ控え目です(ヨハ14章26節参照)。

御霊の声は、時には自然界の現象や出来事にあったり、他者の言葉であることもありますが、その全ての根底は聖書のみことばです。しかし、内住する「その者(御霊)」に心を留め、御声に聞き、服従すること以上に、上から強力な御霊を受けねば祝福がないと考える者もいます。また、みことばの地道な学びや祈りを飛び越えた、霊的な人?の預言の言葉に頼ろうともします。

友よ。聖霊はあなたの中におられます。そのお方を無視し、現象や偽りの声を求めることは、御霊を悲しませます(エペ4章30節参照)。御霊の声は、みことばを通し語られます。世界中の誰よりも心配される方が、あなたのただ中にいます。静まってください。

23章22節

もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行なうなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。

これから先、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人などが待っています。進むことは、相手領地を通らねばなりませんし、そこには必ず争いが待っています。

信仰生活は、聖と義と愛の天国に向かって進みますが、そこに到達する途中には、進路を阻む多くの敵が待っています。神を信じない人生にも、信じる人生にも、待ち受ける敵は同じですが戦い方は違います。

未信者は自分の力で、外側にいる敵と戦わねばなりませんが、信者は神が戦ってくださいます。それでは、信者に戦いはないのか?いいえ、外敵は神に戦っていただきますが、自分の内側の敵とは、自分で戦わねばなりません。

それは、神の「御声に…聞き従い…行う」とある、肉を霊に服従させる戦いです。「肉の思いは神に敵するからである」(ロマ8章7節・口語訳)。

信じることは、愛することですから、神任せではなく、互いの責任を果たす必要があります。人は、サタンや罪や肉に勝てませんから、主に戦っていただけるように、みことばに服従するのは人の責任と戦いです。

23章29~30節

神は、相続地に入って行く民に、今後のことを告げます。それによると、相続地を確保するには、短期間に、一気に、簡単に、敵を追い払って得るのではないことがわかります。

「神は、何でもできる」は事実ですが、「神だからこそ、しない」も事実です。神は秩序の神です。人祖が罪を犯して堕落して以後、サタンへの宣言、皮の着物(動物犠牲)の用意、ノアの箱舟、アブラハムの選び、選民イスラエルを通しての証し、預言者たちによる預言。

そして御子イエスの来臨、宣教、十字架、復活、昇天、ペンテコステ、弟子の派遣、世界伝道…と「短時間、一気、簡単」は、どの段階にもありませんでした。なぜなら、それらのプロセスあっての達成であり、プロセスも確実な救いに必要であるからです。

友よ。信仰は、魔法や手品ではありません。たとえ、それらによって一日で大人になっても外側だけです。しかし信仰は、私自身の霊の変化であり成長です。それには0才、20才、40才、60才、80才と時間と出来事が必要です。また、喜び、悲しみも必要です。それら全てが、神にある恵みの人生であり、救いです。

23章33節

彼らは、あなたの国に住んではならない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させることのないためである。

神は、他民族を、「追い払う、手に渡す(31節)、契約を結ぶな(32節)、住ませるな(33節)」と言います。それは、異邦人の偶像礼拝が民に及ぶのを神が警戒しているからです。

人には「自由」が与えられていますが、自由を持つことと、自由であることとは違います。人は与えられた自由によって、むしろ不自由になっています。本当の自由は一つだけで、それは自分で作るものでなく、神に与えていただくものです。「もし子(主イエス)があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハ8章36節)。

人の自由を奪う最たるものは、神から目をそらせる偶像礼拝です。命のない偶像との交わりは、孤独と死へ導きます。

友よ。あなたの自由は、どんな自由ですか。人の自由は、本当の命(神)との交わりから受け、活き活きと輝かせます。「あなたがたは真理(神)を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハ8章32節)。何でもできることが自由ではなく、より深く「真理(神)を知る」ことで、その神(真理)に支配されることが人の本当の自由です。

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