キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第28章

28章1節

祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から…ナダブ、アビフ…を。

(新共同訳)

幕屋で仕える祭司が任命されます。この祭司は、神と人の間に立つ仲介者であり、やがて来られるイエス・キリストの予表でした。

ヘブル書のテーマは、大祭司キリストです。「イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司になられました」(ヘブ6章20節)から始まり10章まで続きます。大祭司は、「ご自分に…近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」(7章25節)。

大祭司の執り成しこそ、「自分自身をささげ、ただ一度…成し遂げられた」(27節)十字架の贖罪でした。この祭司制度は、長い歴史を通り、今日の教職制度へ移行しました。しかし、初代教会では制度(人)よりも賜物(神)が先行していたのに、今日では賜物よりも制度が優先し、「…牧師先生」と呼ぶまでに?

大祭司キリストに贖われた友よ。大祭司と自分の間にもう一人の祭司(牧師など)を入れていませんか。神の子は、全て兄弟姉妹です。真実な兄弟姉妹とは、神と人の間に立つ者でなく、人々の後ろに立って、大祭司・主イエスへ押し出す主のしもべでは!

28章2節

あなたの兄弟アロンに威厳と美しさを添える聖なる祭服を作らねばならない。

(新共同訳)

28章は、祭司の衣服について記されます。大祭司は、頭にターバン、額に金の額当てを当て、両肩に6個ずつの宝石を埋め込んだ肩当て、胸には12個の宝石を埋めた胸当て、服は金、青、紫、緋色で編んだエポデ、下服は青、その上に白の服をまといました。

諸々の宗教にも、祭司的(僧侶・神主・教祖…)な人々が立てられ、それぞれの装束を付けて宗教儀式をつかさどります。それらの装束は、その人の存在を尊くするための飾りであり、ときに階級すら表します。

しかし、聖書の大祭司の衣服は、絢爛豪華に飾り尊く見せるためでも、高い階級を表すでもなく、「大祭司キリスト」の実質を表現しています。特に旧約の時代は、神の子キリストがまだ受肉していないので、やがて来られる大祭司キリストの姿を見える形で表しました。

友よ。神の子は「白い衣」(黙3章18節)や「神の武具」(エペ6章)を身に着けるようにも勧められていますが、何よりも「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべき」(エペ4章24節)とあります。一番美しい人は、罪を悔い改め、キリストを身に着けた人です。

28章6節

彼らに金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、巧みなわざでエポデを作らせる。

右は、祭司が一番上に着る服で、袖は七分、丈は腰までのものでした。金、青、紫、緋の4つの糸で織られ、エポデと言われました。

聖書で、金は神の存在、青は人の色、紫は祭司、緋(赤)色は王を表しました。大祭司は、なによりも「ことばは神であった」(ヨハ1章1節)と言われる「神(金)」です。また、「それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」(ルカ1章35節)とある「人(青)」です。

さらに、「イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなう」(2章17節)「大祭司(紫)」です。そして、「その着物にも、ももにも、『王の王、主の主。』という名が書かれ」ている(黙19章16節)「王(赤)」です。 エポデは、神であり、人であり、祭司であり、王であるキリストの姿を表しました。

友よ。私たちの神は、話しかけることのできる「人」で、どんなことも助けることができる「王」で、罪や汚れから清めて下さる「祭司」で、冠を捧げて喜べる「まことの神」です。父と子と聖霊の神をほめたたえましょう。

28章7~9節

これにつける二つの肩当てがあって、…二つのしまめのうを取ったなら、その上にイスラエルの子らの名を刻む。

祭司の衣服、エポデの双方の肩には、金の板にしまめのうの宝石をはめ、1つの宝石に6つのイスラエルの子たちの名前が、合計十二部族の名が彫られていました。

「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(イザ9章6節)とある「肩」は、「力・権力・全能」を表します。

宝石には十二部族の名が刻まれ、十二部族は全世界の人々です。大祭司は、全世界の人々を、御自分の力によって(肩に担いで)、父なる神が待つ至聖所へと運ばれます。しかし、民を聖所に運ぶためには、祭壇(十字架)を避けて通ることはできません。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました」(ヘブ9章28節)。

友よ。主イエスの肩は、自分勝手に囲いから逃げ出した私たち小羊を、「…見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ」、父なる神のもとに担いてくださる肩です。そして、「いなくなった羊・銀貨(…あなた…)を見つけましたから、一緒に喜んでください」(ルカ15章5・6・9節)と父に差し出します。

28章15~21節

さばきの胸当てを、…四角形で… その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。…彼らの名にしたがい十二個でなければならない。

祭司の胸には、エポデのように織った四角い布に、種々の宝石を横に3個、縦に4列の12個並べました。そして、1個1個には、各部族の印の彫り物が刻まれていました。

肩が「力」を表すならば、胸は「愛」の場所です。御自分の肩に担いで神の子たちを運ばれる主は、胸に抱いても父へ連れて行きます。力があっても愛がなく、愛があっても力がなければ不十分ですが、主は「力ある神(力)、永遠の父(愛)」(イザ9章6節)です。

家を出た放蕩息子が行き詰まって帰って来たとき、父は息子を抱き、口づけし、家に入れました。しかし、そのためには、「肥えた子牛を引いて来てほふる」(ルカ15章23節)必要がありました。その贖いの子牛こそ主イエスでした。大祭司は、御自分の胸(愛・十字架)によって父へ連れて行かれます。

子羊であり放蕩息子の友よ。私たちには神の子とされる資格は何もありません。ただ、大祭司・イエスの胸によりかかり、肩をきしませる重荷となるほかありません。でも、主よ、あなたは私たちを受け入れられます!

28章30節

さばきの胸当てには、…アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。

胸当てには、神の御心を求めるときに使われるウリムとトンミムを入れました。また、神の子たちに裁かれることがあるとき、その事件を胸当ての上に載せて御心を尋ねました。

胸当ては、愛を表すとともに、「さばきの胸当て」とも言われました。その裁きは、罪を裁くというよりも、神の御心・判断・基準を知るためでした。そこから胸当ては、「神の愛の基準・知恵・知識」とも理解できます。

神は、愛という基準で物事を裁き(判断)ます。ちょうどソロモンが、二人の母親が、自分の子であると訴えた事件を愛の知恵で裁いたようにように(Ⅰ列王3章24~26節)。また、「憐み(愛)は、裁きに打ち勝つ」(ヤコブ2章13節・新共同訳)と言われる、愛という知恵こそ、大祭司の裁きの胸当てでした。

大祭司キリストの肩と胸に抱かれている友よ。そのお方は、知恵のお方でもあります。あなたが聖書のみことばを、御霊の助けを求めて読むことは、裁きの胸当ての中に入ることです。いつも、聖霊とみことばによって、必ず正しい道に導いてくださいます。今日も自分の判断でなく、みことばから聞いてください。

28章31節

エポデの下に着る青服を、青色の撚り糸だけで作る。

祭司の衣服で、一番下に着けるものは白地の衣類でした。そして、その上に青色の糸で織った青服をまといました。

白と青の衣服は、白は「清さ・聖」を表し、青は「人」を表す色でした。すると、大祭司は、「人」であって「聖い」お方となります。主イエスは神でありましたが、人となってこられ、自分のことを「人の子」と何度も言われました。

人となられたからこそ、「御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2章18節)。また、「私たちの弱さに同情できない方ではありません」(同4章15節)。しかし、主イエスは「罪は犯されませんでした」(同)と言われる聖い人(白服)でした。白と青の服は、人となられた神、イエス・キリストであり、大祭司です。

友よ。神が聖い人になられたのは、私たちの罪のいのちには聖いいのちの代価が必要だったからです。高いところにおられた神は、罪と弱さに悲しみ泣く私たちのマイナスを、十字架で背負いプラスにされたお方です。何よりも、青服を身にまとってくださったので、私たちも神を見ることができたのです。

28章36~38節

純金の札を作り、その上に印を彫るように、『主への聖なるもの』と彫り、…それをかぶり物につける。…アロンの額の上に…

大祭司は、かぶりものをつけ、額には、「主への聖なるもの」と彫られた純金の札を付けました。

一見、装飾品と見間違う「札」が、人格の中心を表す額につけられることは、重要な意味を持ちます。金は、神の姿を表すものだけに使われ、その「金の札」は、小羊イエスこそ神である証印でした。

「神は来て…救われる」(イザ35章4節)の預言は、イエスの来臨によって成就し、イエス自ら「私はある(エゴ・エイミー)=旧約ではヤーヴェ(主なる神)」と言われました。さらに、「主への聖なるもの」と刻まれた文字は、民の罪の代価を十字架で受けて黄泉にくだり、そこから「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた」(Ⅰコリ15章20節)神への聖なる初穂(同11章16節参照)です。

28章39~40節

亜麻布でかぶり物を作る。…栄光と美を表わすターバンを作らなければならない。

祭司の衣服の制作の最後は、「ターバン」と呼ばれるかぶり物についてです。

聖書は、「すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です」(Ⅰコリ11章3節)と記します。この権威の秩序から、「女は頭に権威のしるし」のかぶり物(同10節)をかぶりました。

ターバンは、「権威」に服する表明でした。大祭司キリストは、王の王、主の主ですが、父なる神の権威のもとにある存在です。

愛は、対等の人格関係から生まれ、男と女は人として対等ですが、賜物は違います。男は女を守り(愛し)、女は男に従い(愛し)ます。主イエスは父なる神に、聞き・従い・祈り・求め・仕えました。父は御子イエスを命の限り愛します。「自分(主イエス)を卑しくして、十字架の死にまで従われました」。その結果、「神(父)は、このお方を高く上げて、全ての名に勝る名をお与えになりました」(ピリ2章)。

主のはしためマリアも、「…おことばどおりこの身になりますように」と主に従い、後に、「低い者(権威に服する者)を高く引き上げる」と讃美しました(ルカ2章)。 友よ。主の権威はあなたを守るためです。

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