キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第29章

29章1節

彼らを祭司として…聖別するため、…若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。

28章から31章は、祭司の衣装や祭司の務めである動物犠牲について記し、さらにレビ記の多くのページを当てています。理解に難しく退屈な聖書箇所?ですが…。

このような儀式は抜きにして、もっと明るく、讃美に満ちた楽しい礼拝を!と誰もが望みますが、礼拝は神との交わりの契約で人の自己満足ではありません。

「…聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも神を見る(交わり)ことができません」(ヘブ12章14節)とあり、「あなた方の神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者にならなければならない」(レビ19章2節)と言います。

それには、「罪のない大祭司=イエス・キリスト」と「動物犠牲(罪の贖い=十字架)」が必要です。退屈に思えるこれらの章こそ、キリスト教の心臓です。

友よ。難解な聖書箇所を読む秘訣は、「大祭司イエスを、思いみるべきである」(ヘブ3章1節・口語訳)にあります。祭司の行動や儀式を、主イエスの存在と行動につなげてみると、退屈どころか、救われる道理と、救われた確信を持つことができます。

29章5節

装束を取り、アロンに長服とエポデの下に着る青服と、エポデと胸当てとを着せ、エポデのあや織りの帯を締めさせる。彼の頭にかぶり物をかぶらせ…聖別の記章を掛ける。

いよいよ大祭司の登場です。彼の装束は、神であり、義人であり、贖い主キリストである証明でした。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使4章12節)。

簿記上の赤字は、赤ペンで書いたから赤字ではなく、誰かに赤い分を埋め合わせていただいたものです。家のローンは赤字で、銀行が埋め合わせた分で、後に返さねばなりません。罪は人の赤字で、必ず埋めねばなりませんが、それには死以外ありません。

罪人の救いは、「人の命」で償うことができますが、「罪のない人の命」によってです。それができるには、「キリストが…大祭司としてこられたとき、…やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされた」(ヘブ9章11~12節・口語訳)とある神の子イエスです。

それは、大祭司がキリスト(父に執り成す神)を、小羊がイエス(罪を引き受ける義人)を表すともいえます。大祭司キリストは、自ら罪祭の小羊(赤字・血を流し)となって、あなたを父なる神に執り成して下さいました。

29章10~11節

雄牛を会見の天幕の前に近づけ…、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く。…天幕の入口で、主の前に、その雄牛をほふり、

全焼のいけにえ ①

祭司による動物犠牲が始まります。全焼のいけにえ=燔祭(レビ1章)、穀物の献げ物=素祭(2章)、和解の献げ物=酬恩祭(3章)、贖罪の献げ物=罪祭(4章)、賠償の献げ物=けん祭(5章14節より)と続きます。その一つ一つに、霊的意味が秘められます。

動物犠牲は、アロンとその子らのために大事な雄牛の犠牲を最初に捧げました。それは、父なる神に執り成しをする大祭司に罪があっては、罪人の身代わりが出来ないからです。ヨハネ17章は大祭司イエスの祈りと称されます。人となられた主イエスには、罪とサタンの誘惑もありましたが、「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」(19節)と祈られました。「このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です」(ヘブ7章26節)。

友よ。主はあなたのために御自分を聖く保たれました。愛するとは、相手に自分を与えることですが、同時に、自分自身を聖く保つことも同じくらい大事な愛です。

レビ記1章4節

その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。

(注)献げ物についてはレビ記より

全焼のいけにえ ②

レビ記のテーマも「礼拝」です。特に、祭司とその祭りについて詳しく記します。その祭司と祭りに最初に必要なものは、祭司のための「全焼のいけにえ(燔祭)」です。

全焼のいけにえは、「献身」を表しました。連れてこられた動物に、献身を表明する者が手を置き、動物と自分を一体化させます。その動物を殺し、血を会見の幕屋の祭壇の周りに注ぎ、皮をはぎ、部位に分けて切り裂き、全焼と表現されるように、内臓に至るまで全て焼き尽くしました。それは、自分のものを何一つ残さず献げ尽くすことでした。じつに主イエスこそ、御自分を父なる神に献げ尽くされましたが、それはまた罪人のために御自分の全てを与え尽くす十字架の道でした。

大祭司が牛と一体となり、殺され、血を注ぎ、燃えて灰になる姿こそ、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23章34節)と十字架上の主の言葉と合致します。

友よ。今私たちが父なる神に受け入れられるのは、主が全焼のいけにえとなり、最初に御自分を献げられたからです。

レビ記1章17節

祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。…主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

全焼のいけにえ ③

全焼のいけにえは、祭司も一般の人々も捧げました。祭司は雄牛を捧げましたが、一般の人々は羊や山羊や鳩などでした。

ノアは箱舟から出た後、罪の裁きから救われたことを感謝し、神に祭壇の上で全焼のいけにえを捧げ、再献身しました(創8章20節)。神はその香ばしい香り(信仰)をかぎ(受け止め)ノアを祝福しました。

献身を表す捧げ物は、灰になるまで焼き尽くされました。献身とは、牧師や教師や奉仕者になること以上のことで、自分の十字架を負うことです。それは、主を愛して服従し、イエスを主として生きることです。そのためには、自分を焼き尽くさねばなりません。このことこそ、全焼のいけにえの新約聖書的意味です。

だれも、自分の肉を捨てることはできません。しかし、動物を祭司の所へ連れて行くと、それを焼き滅ぼすのは祭司の務めでした。

友よ。同じく、あなたも自分を主に献げると、自分の罪や自己中心な思いを焼き滅ぼすのは主の十字架です。まずは、自分を主に差し出してください。あなたの肉こそ、全焼のいけにえにする動物そのものです。

レビ記2章1節 ①

穀物の献げ物を主にささげるときは、上等の小麦粉を献げ物としなさい。奉納者がそれにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ、

(新共同訳)

穀物の捧げもの ①

「穀物の献げ物(素祭)」は、唯一血のない捧げ物です。これは、単独ではなく動物犠牲の捧げ物と共に捧げました。この捧げ物の原意は「贈り物」で、労働や奉仕を表します。

従って、奉仕は、神と自分の関係が正しくされる動物犠牲により、罪が聖別されてこそ、労働や奉仕や献金に意味があることになります。

FBマイヤー師は、「『この子は神を信じていないけれども、優しくまじめな良い子であるから、将来神の所へ来るだろう』と考えてはならない。…魂が失われているということに何ものも代えてはならない」と言いました。

魂の救いは、道徳に先行します。「主よ。ダビデの子よ。…娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」(マタ15章22節)と子の魂の救いを最優先した母の姿は、神の子たちの優先順位を教えます。

友よ。あなたは奉仕に疲れていませんか。それは、神と自分の関係を正す動物犠牲(聖別)から離れて、穀物の献げ物(奉仕)を優先しているからではありませんか。神とあなたの関係を忘れた奉仕は、命の恵みの泉から、苦い水をくみ上げることになりかねません。

レビ記2章1節 ②

穀物の献げ物を主にささげるときは、上等の小麦粉を献げ物としなさい。奉納者がそれにオリーブ油を注ぎ、更に乳香を載せ、

(新共同訳)

穀物の捧げもの ②

この献げ物に用いる材料は、小麦とオリーブ油と乳香によって作ったものでした。

小麦は、当時の社会では高価なもので、すりつぶされて粉にされ焼かれます。そこから、奉仕は最上・高価な労働の業であり、自分が砕かれ、すりつぶされて謙遜になることを教えます。

オリーブ油は聖霊の象徴で、王や祭司や働き人の任職に用いられました。奉仕は、自分の思いを超え、聖霊の導きに従ったものであることを教えます。

乳香は、乳香樹に傷をつけて集めた液から作り、火に燃やすとよい香りが立ち上りました。乳香は、聖所に置かれた香壇が執り成しの祈りであったように、祈りを表し、奉仕には祈りが必要であることを教えています。主イエスも、奉仕に疲れた時、退いて祈りました。

友よ。あなたの奉仕は、小麦粉(謙遜)と油(聖霊の導き)と乳香(祈り)によって作られていますか。奉仕は、神に献げることですが、直接的には他者に仕えることです。三つの材料であるか否かは、報酬を神に求めても、他者に求めないことでわかります

レビ記2章11~13節

主にささげる穀物の献げ物は…酵母を入れて作ってはならない。酵母や蜜のたぐいは一切、…塩をかけて献げよ。

(新共同訳)

穀物の捧げもの ③

穀物の献げ物である奉仕には、酵母なるパン種や蜜を一切入れてはなりません。また、塩で味付けせねばなりませんでした。

主も、「パリサイ人とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と何度も注意しました。奉仕には、いろいろのパン種(皆がするから私も・人に気に入られるため・自分の存在主張・人に負けたくない・報酬を期待する)が混じり易いものです。「あなたがたの高慢…。わずかのパン種が、粉…全体を膨らませることを知らないのですか」(Ⅰコリ5章6節)。この蜜は、蜂蜜ではなく果物の果汁で、温め、時間が経つと腐ります。自分がやりたいことだけやる自己中心的奉仕は、後で酸っぱくなり、自分にも他者にも嫌な後味を残します。

それらから守られるには、「塩で味付け」することです。「すべては火によって塩けをつけられる」(マコ9章49節)とあるように、御霊の火にさらし、神の思いか自分の思いかをいつも確かめることです。塩は、腐敗を止め、長持ちさせ、味をつけます。

友よ。今日も、塩なる聖霊とみことばに聴き続けてください。

レビ記3章1節

献げ物を和解の献げ物(酬恩祭)とするときは、牛であれば、雄であれ雌であれ、無傷の牛を主にささげる。

(新共同訳)

和解の捧げもの ①

和解の献げ物の動物は、雌雄関係なく、しかも内臓の脂肪や内臓のある部分を焼き、その他は分けて食べることができました。

和解の献げ物は、「ピース(平和)オファリング(申し出る)」で、「悔い改め」を示しています。平和とは、神と人、人と人の両者の正しい関係のことです。そこから「平安」が生まれます

人に一番大事な係わりは、神との関係で、それを最もよく表した礼拝は、神との正しい関係を保つ時間、でもあります。そのためには、常に悔い改め、神に方向を合わせねばなりません。

和解の献げ物を一番よく表したみことばは、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださる」(Ⅰヨハ1章9節)です。

この献げ物は、神への香りとして一部を焼き、他は祭司や人々と分けて食べました。このことは、礼拝後の兄弟姉妹の交わりが重要であることを教えます。時に、共に食事をし、お茶を飲み、しかしその内容が神を中心としたものであることです。

友よ。神との和解は、兄弟姉妹との和解に直結しています。

レビ記7章15節

和解のための感謝のいけにえの肉は、それがささげられるその日に食べ…。

(新共同訳)

和解の捧げもの ②

和解の献げ物は、捧げられたその日に、それを皆で分けて食べる特徴がありました。

新約聖書の中で、和解の献げ物をよく表した箇所は放蕩息子の記事です。弟息子は、父の御心よりも、自分の思いを優先させる罪に支配され、遠い国(神より離れたところ・罪の中)へ行き、飢饉(命の枯渇)に出会い、悔い改めて戻って来ます。待っていた父は、「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか」(ルカ15章)と言います。この時の子牛こそ、和解のための動物・主イエスでした。

この献げ物は、神を信じない原罪の罪の赦しではなく、日ごろ犯す罪々の赦しのためでした。そしてこの献げ物も、弟が自ら用意したものではなく、父なる神が備えた子牛(イエス)でした。

友よ。あなたは悔い改めという和解の献げ物を頻繫に捧げていますか。また、他の兄弟姉妹の悔い改めを喜んでいますか。放蕩息子の兄は、この宴会に参加せず不機嫌でした。彼こそ、父の近くにいた放蕩息子でした。自分の悔い改めと共に、他者の悔い改めを喜ぶことは、ともに食事をすることです。

レビ記4章3節

自分の犯した罪のために、贖罪の献げ物(罪祭=口語訳)として無傷の若い雄牛を主にささげる。

(新共同訳)

贖罪の捧げ物 ①

さらに、「贖罪の献げ物」と「賠償(償い)の献げ物」(5章6節)がありました。とくに、贖罪の献げ物は、原罪の罪のための献げ物で、聖書の中の心臓部分と言えます。

贖罪の献げ物(罪祭)は、「あやまって罪を犯し、一つでも行った」(4章2・13・22・27節)罪のための献げ物なので、それは意図的でなく知らないで犯した罪、すなわち弁償ができない原罪の罪のことです。

パウロはこのことを、「義人はいない、一人もいない」(ロマ3章10節)と言いました。しかし、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として」(ロマ3章24・25節)原罪の罪から救いました。

雄牛の頭に、罪の赦しを願う人が手を置いて自分の罪を牛に移しました。そこで友よ。あなたは信仰告白の時、どれほどの意識を持って手(罪の告白)を牛の頭(主イエス)に置きましたか。多分、指一本ほどではなかったですか。しかし、主はそれでもあなたの全ての罪を引き受けて死んでくださいました。

レビ記4章11~12節

雄牛の皮、肉、頭、四肢、内臓、胃の中身は、ことごとく宿営の外の清い場所である焼却場に運び出し、燃える薪の上で焼き捨てる。

(新共同訳)

贖罪の捧げ物 ②

贖罪の牛の血は、体内から抜かれ、内臓の脂肪の一部は幕屋の中で焼かれ、その他は全て聖所から運び出して宿営の外で焼きました。

罪人の按手を受けたイエス(贖罪の牛)は、罪を引き受けたので汚れたものとなり、聖なる幕屋(天国)から運び出されます。「彼はさげすまれ、…悲しみの人で病を知っていた。…彼は私たちの病を負い、…痛みをになった。しかし、彼は、私たちのそむきの罪…咎のために砕かれた(十字架に)」(イザ53章3~5節)。事実、「彼らはイエスをゴルゴタの場所へ連れて行った」(マコ15章22節)。そして、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門ので苦しみを受けられました」(ヘブ13章12節)。 

贖い主イエスの友よ。レビ記は退屈ですか。いいえ、罪のないお方が、私たちのためにさげすまれ、砕かれ、捨てられ、代わって死んでゆく姿は涙なくして読めません。これほど徹底して、神が聖さを求めるのは、私とあなたが神の子となって、神と共に生きるために必要だからです…自分の罪への悲しみと、神の愛の大きさに涙が止まりません…。

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