キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第31章

31章2~3節 ①

見よ。わたしは、…ウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。

神は、幕屋と至聖所に置かれる器の材料と形と寸法を示されました。民はそのための材料を、力に応じて捧げました。

しかし、設計図と材料がそろっても、施工する人がいなければ完成できません。幕屋や儀式は、神の姿と御業を表しますが、それはだれかの働きを通してです。

この世での採用は、能力(試験)人格(面接)の順でテストされますが、神は反対です。「ベツァルエルを名指して召し」て、次に「知恵と英知と知識」を与えて完成させます。「イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た」(マコ3章13節)。ペテロやアンデレを選んだのは、特別優秀だからではありませんでした。主が彼らを呼ばれた最大の目的は、「そばに置くため」で、次が「福音を伝えさせる」ためでした。

友よ。あなたが日本人クリスチャンであることは、数百人の中から選ばれた一人です。神の国の設計と材料がそろっていても、あなたがいないと完成できません。だから、まず、あなたが主イエスのそばにいてください。

31章2~3節 ②

見よ。わたしは、…ウリの子ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。

主が招いたペテロやヨハネは漁師、パウロは学問があっても迫害者。彼らが神の国の建設者?と思える人々でした。

神に召されたなら、自動的に働き人になるのではありません。「ベツァルエルを名ざして召し」と、「彼に…霊を満たし」の行間には、「彼が応えたので」が入ります。聖書は、神に召され、それに応えた人々で満ちています。ノアは主と共に歩み、アブラハムは告げられたとおり出かけ、ペテロも網を捨てて従いました。その後に、神は彼らを聖霊に満たし、諸々の賜物を授けました。

聖霊の満たしは、聖霊の激しい御臨在に一時的に触れる、以上のことです。モーセは、召された先は40年の荒野で、パウロが人々からも使徒と認められたのは17年後でした。彼らは、自我に死にキリストに生きる訓練を受けました。聖霊の満たしは、自分の十字架を負うことに比例するものです。

友よ。神に「応える」とは、「十字架の道を歩むことを認める」ことです。神に従うことには痛みが伴いますが、それは必ず高価な恵みを受け取る尊い生涯となります。

31章6節

…わたしは全て心に知恵のある者に知恵を授けた。彼らはわたしがあなたに命じたものを、ことごとく作る。

神は、ある人を使徒・教師・牧師に召し、別の人には信仰・知識・力ある業の賜物を授けます。さらに、民族・男性・女性・体力・芸術・技術など、すべては神の賜物です。

聖霊の賜物は、ある時、突然力を受けて、前と全く違う人物に変化させる、というようなことは、一時的にあったとしても普通はありません。賜物は、神の召命と信仰によって付与されますが、「心に知恵のある者」との言葉が決め手となります。

心に知恵があるとは、「主を畏れる」(箴言1章7節・新共同訳)人のことです。神を畏れる者に聖霊が働き、その人のあらゆる知識・技術・賜物(男・女・父・母…健康・病気)は神の御業となります。したがって、冒頭の聖句「知恵のある者に、知恵を授けた」は、「神を畏れる者は、神の知識や能力を持つ」とも言えます。

友よ。あなたは神の知恵と世の知識や能力のどちらをより求めますか。人を幸福にするのは、世の知識ではなく神の知恵です。知恵は愛の領域に、知識は能力の領域にあります。愛が能力を支配するとき、全ては神を愛し、隣人を愛する命に変わります。

31章7~11節

「会見の天幕、あかしの箱…『贖いのふた』…設備品…机…燭台、香の壇…祭壇…洗盤…式服…すべてわたしが命じた通り作らなければならない。」

「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです」(ヤコ2章17節)とあります。奉仕をしなければ受けることのない恵みがあり、涙を流した者にだけ、涙を拭いてもらえる喜びがあります。

マザーテレサは、「私の命ならいつでも差し上げます。しかし、信仰をあげるわけにはいきません」と答え、どのように祈るのですかとの質問に、「私は一日の初めに、まず聖餐を通してキリストを見ようと努めます。そして、日中は、私が世話する貧しい人たちの、ボロボロの肉体をとって現われるキリストを見続けます。私はこうやって、私の仕事によって祈ります。つまり、仕事で、イエスと共に、イエスのために、イエスに向かって成し遂げるのです」(「マザーテレサ愛を語る」より)。彼女には、信仰と行いは一つです。

友よ。あなたの信仰は回転木馬になっていませんか。それは、教会の中で動き回っていても、実際は前に進んでいない姿です。「命じた通りに作らねば(行動しなければ)ならない」を、もう少し重く受け止めることも必要です。あなたのできる所から…一歩、一歩。

31章13節

「あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは…わたしがあなたがたを聖別する主であることを、…知るため…」

「安息日を守れ」の戒め、これまでに何回繰り返し記載されたことでしょうか。「耳にタコ」とはまさにこのことでは!

しかし、アーメンです。それだけこのことは重要です。幕屋の建設や祭司の装束など、具体的な作業に入り、それぞれが自分の賜物を用いて働けることはこの上ない喜びと生きがいです。

しかし、だからこそ、ここに信仰の罠が潜みます。それは、行いや能力を用いることに関心をよせるあまり、神との命の関係を忘れてしまうからです。

ヨブへの試練は、彼が神から受けた信仰という賜物に心奪われ、神御自身を見失っていたからでした。そのために、神は彼が持つ財産や賜物を奪いました。やがて、ヨブは苦しみを通し、自分の信仰の方向違いを知り(ヨブ42章1~6節)、心から悔い改め神に帰ります。

友よ。今日も神が、「私の安息を守れ」と言うのは、「行いよりも、命(交わり)が大切」との愛の忠告です。神との交わりを失った行動からは、茨とおどろが生え、神の命から出てくる行動には糸杉とミルトスがはえてきます(イザ55章13節参照・新共同訳)。

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