キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第35章

35章2節

七日目には、主の聖なる全き休みの安息を守らなければならない。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。

安息日のことは、何度繰り返されたことでしょうか。しかし、輝く顔になったモーセの第一声は、今度も安息日についてでした。

安息日を守ることは、物理的、時間的以上のことで、礼拝しなさいということです。人の命は、神にいのちの息を吹き入れられて誕生し、「1つの川が、この園を潤すため、エデンから出て…4つの源となっていた」(創2章10節)この水を飲むことで保たれました。 それは、自分に命があって、あの水を飲むことでさらに元気になり幸福になるというものではなく、自分に命はなくあの水に命がある、というものです。

礼拝は、自分の命を豊かに保つためではなく、自分の命が礼拝にあるのです。「人の子は安息日の主です」(マタ12章8節)から、礼拝は神とのいのちの交わりです。従って、安息日を守らない者は殺される、との過激な表現は、礼拝しない者は霊のいのちを失う、との現実を表します。

友よ。教会で礼拝を守るだけが礼拝ではなく、日々の生活が礼拝です。日曜日の礼拝は、実家に帰る喜びの時ですが、日々の生活は夫(主イエス)といつも一緒(礼拝)です。

35章5節

あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい。

輝く顔のモーセの次の言葉は、「主に心から捧げなさい」でした。諸々の奉納物は、幕屋とその中の器具を作るためであり、礼拝(神とのいのちの交わり)のためでした。

礼拝は、神を愛することです。信仰を、観念や精神論にしてしまうこともできますが、「愛する」となると違います。「好き」の段階は、観念や心の中でもできますが、愛することになると、結婚するように、経済、食事、育児などの現実問題が絡み、心の問題だけにはできません。

天も地も金も銀も所有しておられる神が、人からわずかの物を求める必要などないのでは、とも考えますが、それは違います。神の欲求は、現実に愛し合うことですから、観念や心の中にとどめず、事実、捧げ物を欲求されます。 

友よ。捧げることは、愛し合うために当然のことです。信仰は精神論ではなく、命がかかった現実です。だからこそ、全身全霊を神に献げるだけ、命を受け取ります。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」(Ⅰヨハ3章18節)

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