キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第7章

7章1節

「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。」

どんなにすぐれた預言者も、預言者以上ではないはずです。しかし神は、パロの前ではモーセが神の位置に立ち、アロンが預言者モーセの位置に立つと言われます。

ある宗教改革者が、「クリスチャンは小キリストである」と言いました。確かに人は、「主と同じかたちに姿を変えられ」る(Ⅱコリ3章18節)者ですし、「キリストのかおり」(Ⅱコリ2章15節)とも言われます。恐れ多い表現ですが、事実、神の子の存在は、他の人々にとっては神の代理です。代理人にとって大事なことは、自分を表すのではなく、その任務を委ねたお方の思いを主張し遂げることです。神は、弱く不完全な人々でも、御自分の御名によって用い、栄光を現わされます。

友よ。「キリストのかおり」と言われる私たちは、「救われる人々の中でも、滅びる人々の 中でも」(同15節)と続きます。人々は、聖書を直接読めませんが、第5の福音書であるあな た自身を読んで(見て、調べて、評価して)います。今日も、自分の思いを優先せず、主の御心を優先してください。そして、キリストのかおりとなりましょう。

7章2節

「あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。」

誰かに何かを告げる時、みな告げる、ことは難しいものです。でも、神の言葉は命ですから割愛はできません。聖書が二千七十ページあるのは、みな、告げるためには必要です。

ある教会の礼拝は1時間半で、賛美が50分、みことばの時が25分でした。その中で、「神が、マナをイスラエルに与えたように、今日も神はその恵みを与えて下さる」と20回?「私はそれを信じて多くの恵みを得て今日まできました」を10回?繰り返していました。

礼拝のメッセージ中に、純粋なみことばのメッセージは何%でしょうか。創世記から黙示録の66巻の聖書を、「みな語る」ことは本当に難しいことです。でも、神は聖書全部を語る(聴く)ことを求めています。

ところで、友よ。あなたは、良いメッセージを聞けたら信仰も飛躍できるのに、と考えていませんか。昔、英国に偉大なメッセンジャーがいました。教会は満員で皆が満足していました。しかし、その牧師が去った後、人々は去って行きました。彼らは、メッセンジャーからみことばを聞き感動しましたが、自分では聖書を読んでいなかったのでは?

7章5節

「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」

神は、イスラエルを連れ出すために、次々とモーセに力ある業を行わせます。その一方で、 「わたしは彼(パロ)の心をかたくなにする」(4章21節・7章3節)とも言います。

この矛盾を解く鍵が右のみことばです。神はエジプト人を滅ぼすのでなく、彼らに御自分を知らせて救いたいと願っています。偶像礼拝に凝り固まる者には、言葉よりも多くの御業を見せることが早道ですが、それは喜びよりも痛みを与える方法が有効です。

そのために、エジプトを出るまで10回に及ぶ力ある業が繰り出されました。それによって、彼らの神々を砕き、生活に困窮を与え、目を開かせます。そして、「イスラエルを連れ出す時…わたしが主であると知る」とは、イスラエルの救いが、エジプトの救いに通じると言います。

友よ。人々に神を知らせる最も有効な方法は、私たちがエジプトから出ることです。人々は、私たちが世の価値観でなく、神の基準に生きる姿を見る時、そこに真の神を見ます。神の子たちの伝道基盤は、自分が聖別される(神の方に分けられる)ことです。

7章6節

そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。

信仰で歩むことには、不安が付きまとうものです。みことばに従い…いやしを求め、問題の山が海に入ることを求め…しかしそれに神が答えてくれなかったら、という不安です。

「神の言葉(存在)」は発電所、「祈り」は発電所と人をつなぐ電線、「信仰」は行動を起こすモーターにたとえられます。それら三つの間を、命の聖霊が行き交います。モーセとアロンは、状況が悪化するなかでも、それが神の言葉であると確信できたので、「命じられたとおり」にできました。

しかし、友よ。不安も起こらない信仰もあります。それは、神の言葉を真剣に受け取らず、自分の存在を賭けない信仰です。みことばに自分を賭けるほど、不安も大きくなります。自国を離れて外国へ宣教に行く宣教師。一人で開拓を始める伝道者。未信者の家族の中で神に従う嫁。学校や職場で真剣に神に従う人。彼らはみな不安の海の中を漂います。しかし、「やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」(創1章2節)ように、一見、闇と思える不安の大水ですが、そこには神の霊がどこよりも激しく働いています。

7章7節

彼らがパロに語ったとき、モーセは80歳、アロンは83歳であった。

パロに語った時のモーセとアロンは、80歳と83歳でした。それは、彼らが神から召されて仕事をした時であり、生まれてきた目的を果たした時でもありました。

聖書中、アブラハムを初め高齢で神の働きを担った人々を多く見ます。それは、霊の働きを始めるには、多年の準備が必要だったからです。その年月は、自分の能力を増すことの反対側、自分を失うために必要な期間でした。

モーセは荒野に40年、アロンはこの年まで奴隷生活をしました。モーセの存在は、一本の杖のようです。成長途上の若木が切られ、火に焙られ、曲げられ、羊を相手にします。神は、曲がった杖を用いて御業を現わしました、その杖は、曲げられた(挫折)杖です。主の働き人には、「挫折」が必要です。

「神よ、苦しいです」とつぶやく友よ。それは、神が御自分の手に握って御業を行うにふさわしい杖(あなた)の制作途上だからです。神があなたを曲げるのは、世に伸びようとするあなたを、御自分の方向に向けるためです。さらに、あなたを羊飼い(主イエス)の杖(御業を行う器)とするためです。

7章12節

彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖を飲み込んだ。

ヘブル人を導くヤーヴェの神と、大国エジプトの神々との対決が始まりました。人は霊的な存在ですから、何かの霊と結びつきます。しかし、真の神の霊か、それ以外の偶像の霊かの違いに気をつけねばなりません。

アロンの杖が蛇になりましたが、呪法師たちの杖も蛇になりました。そして、アロンの蛇が呪法師の蛇を飲み込みましたが、「アロンの蛇が」とは言わず、「アロンの杖は彼らの杖を飲み込んだ」と記します。これは、蛇と蛇の戦いではなく「杖と杖」の対決だからです。杖は信仰を表しますから、神の子の信仰と、偽りの神々を信じる者の信仰対決でした。世には様々の宗教があり、聖書に出て来る奇跡は、彼らにとっても宣伝材料です。

友よ。主なる神と偶像の違いを、いやしや奇跡によって示そうとしても不十分です。両者の違いは、偶像の杖は、時代・民族・政変によって飲み込まれて失われ、あるいは変化しました。しかし、神の杖(信仰)は、あらゆる時代・民族・様々の問題を飲み込み、今なお真理も愛もいのちも変えずにいます。

7章20節

彼は…杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水は…血に変わった。

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、「エジプトはナイルの賜物」と言いました。ナイル川が毎年繰り返す氾濫は、肥料いらずで年に2,3度の収穫をもたらしました。ナイル川はエジプトの「いのち」でした。

この後に、モーセが起こす数々の奇跡は、エジプトの神々の本質を現し、偽りを暴きます。特に、ナイル川は全ての命の源である女神の象徴でした。その川の水が血に変わるとは、女神ナイルがモーセの神に裁かれて死ぬことを表します。パウロは、偶像礼拝する人の本質を、「彼らは腹を神とし」(ピリ3章19節・新共同訳)と言い、彼らの本当の神は食べること、すなわち「彼らの神は彼らの欲望である」(同・新改訳)と言いました。彼らの神の本質は、「ナイルという恵み」です。

「恵みを神」とする御利益信仰は、恵みがなくなると信仰がなくなり、彼らの神も死にます。その結果は、「魚は死に、ナイルは臭くなり」(7章21節)、「彼らの栄光は彼ら自身の恥」(ピリ・同節)となります。

友よ。あなたのナイルが、信仰の杖に打たれ、一日も早く血(死)となりますように。

7章23節

パロは身を返して自分の家に入り、これに心を留めなかった。

パロの心は、モーセたちによって行われた二つの奇跡を見ても変えられません。それどころか、いよいよ心を頑固にして、自分の家に入り、知らんぷりを装います。

どんなに偉大な奇跡も、人の心を動かす決定的なものとはなりません。なぜなら、奇跡は見る前提を変えると、正しい意味を失うからです。

進化論と創造論は、立つ前提が違うので、同じものを見ても「自然の不思議」と見る人と、「神の御業」と見る人に分かれます。

パロが奇跡を見て入った家とは、自分の常識や考えや経験など、「自分の世界」のことです。一方、「主は彼(アブラム)を外に連れ出して」との表現は、アブラムの家(彼の世界)から外(神の世界)に連れ出したことでした。そこでアブラムが天を仰いだ時、子を与えられる神の御心を信じ、義とされました(創15章5・6節参照)。

友よ。自分の家という「自分本位の考え」に入っている間は、神のしるしも見えず声も聞こえません。神はあなたにも、「天を見上げよ」と語ります。奇跡も、人生も、日常の出来事も、神を見上げる時に正しい意味(御心)を受け取り、正しく行動できるものです。

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