キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第8章

8章4節

「こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。」

蛙の卵から、何百、何千とおたまじゃくしが誕生する様子から、エジプトでは蛙が「生殖の神」の象徴でした。

人によって多少違っても、物質的・地位・健康・世間の評価など、豊かな成長を夢見ます。そこを狙った蛙信仰ならぬ「御利益信仰」や、繁栄を夢見る「可能思考」などが出てきます。教会もこの蛙信仰なる可能思考なるものに毒される危険性を抱えています。

豊かな生産の神である蛙は、モーセの杖により本性を表しました。それは、「あなたとあなたの民とあなたの家臣の『上に』はい上る」と言われたように、人に仕える(祝福する)はずの蛙(偶像の神)が、逆に、それを信じる人の「上に」支配者としてはい上がります。

友よ。「人間や、鳥、獣、はうもの(ロマ1章 23節)」を偶像にすると、それは物質や象徴や動物を越えて「霊的生きもの」になります。サタンは、人の罪の上にはい上がって支配者になりますが、神に服従する者には近寄っても支配はできません。神によって与えられる大きな恵みであっても、主イエス御自身から目を離すと、それは蛙になります。

8章15節

パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。

モーセの杖は、蛇に変わり、エジプト中の水を血に変え、蛙の大繁殖を引き出します。その度に音を上げるパロですが、災いが過ぎると心はいつもの自己中心に戻っています。

問題を解決するだけの信仰と、問題を通して問題の本質を解決する信仰があります。前者は、眼の前の問題が消えればパロのように元の自分に戻ります。後者は、問題のあるなしに係らず、神と自分の根本的問題解決に向かいます。

神が繰り出す「杖が蛇に」を悟れば、次の「血の災い」へは進まず、「ナイルが血に」の意味を悟れば、次の「蛙の災い」へは進みません。神の目的がパロの心を開くためであるように、その人の心が神に開かれるまで、次々と試練を与え続けます。

「強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ」(使徒7章51節・口語訳)とパウロが言います。 心と耳に割礼が無いとは、自分の思いを通し、神の言葉を聴かない強情のことです。しかしあなたよりもさらに強情な方こそ、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザ9章7節)という神です。

友よ。神の愛の御手に自分を委ね、一日も早く割礼を受けてください。

8章17節

杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみなエジプト全土でぶよとなった。

へび、血、蛙、そして今度はぶよの出現です。ここの「ぶよ」の正体は、シラミのようです。シラミによって身が汚され、神の前に出て行けなくされました。

エジプトの神々を拝む者の清潔好きは、旧約の「聖別」と同じ意味を持ち、神殿の神官たちにはとくに重要でした。彼らの聖さは、絶え間なく体を清潔に保つ努力によるものですから、それを超えたことが生じると対応できず、シラミによって失う不完全なものでした。神は、彼らの自己満足な信仰の無力さを知らせます。しかし、聖書の聖別は人間の業ではなく、「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」(ロマ8章2節)と言われる、神の業としての聖めです。

友よ。あなたを聖別する「御霊の原理」とは、自分の努力ではなく、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる」(ガラ2章20節)のことです。それは、神によって与えられる「御霊によって歩む」(同5章16節)ことです。

8章21節

「わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。」

ぶよから逃れたら、次はあぶの大群です。あぶの正体は、「かぶと虫」のようです。エジプトは汎神論で、ナイルも、蛙も、神の化身で、かぶと虫は太陽神の使いでした。

神は、偶像の本質を気づかせるために、ナイル川、蛙、ぶよ、あぶなどを用いては、偶像の本質を暴露します。それらの偶像は、エジプト人に幸をもたらす「福の神」ではなく、本当は「厄の神」でした。

人の罪に乗じ、サタンが働いて造り上げる偶像の目的は、災いや癒しや異現象、時には幸福と思えること、他の悪霊を追い出すことによっても、真の神から人を離すことです。日本でも自然を神とし、それが台風や災いを起こさないように宥(なだ)めますが、牙をむいて襲いかかり、命と財産と家族を奪って行きます。

友よ。「災いに災いが続き、悪い知らせが相次いで来る」(エゼ7章 節・新共同訳)ことがあっても、それに目を奪われず、現象の本質(自然界は神でないこと)を見抜いてください。そして、創造主の神の御前にへりくだり、そこからさらに主イエスに目を注いでください。

8章22節

「わたしはその日、…ゴシェンの地を特別に扱い…。わたしが…その地の真中にいることを知る。」

エジプト中に災いが襲いますが、ヘブル人が住むゴシェンの地は、主が主権をもって治められるので聖なる地とされています。

《1人の老姉妹(故)の証し》 独身の時に神を信じた。父は大酒飲みだった。ある時、父が一升瓶を二本背負って歩く後で祈ったら、突然背中の二本の酒瓶が破裂した。しかし、周りに酒がこぼれた様子も瓶のかけらもほとんどなかった。父はこれを見て神を信じ、酒を断った。以後この家族から神の子が何十人と続出した…。

主を信じた姉妹の心が聖別され、家族が祝福されました。嫁いだ家が聖別されました。彼女のいるところがゴシェンとなり神の祝福が注がれ、多くの魂が救われました。「聖」とは、「(神のために)分けられる」の意で「神のもの」という意味です。

友よ。あなたの住まいは、エジプトですか、クリスチャン家庭ですか、あるいは教会ですか。しかし、ゴシェンはそれをも越えます。神のゴシェンとは、場所でも環境でもなく、「わたし(主)が…真ん中に」という、主が王座にいる心の状態です。周りに関係なく、あなたの心がゴシェンになることはできます。

8章23節

「わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。」

モーセが行う奇跡を、エジプトの呪術師たちも行いますが、三つ目のしるしからは同じにできません。しかし、大きな奇跡も、パロの心を動かすことはできませんでした。

諸々の宗教は、いやしや奇跡を誇り、盛んに宣伝に使います。同じく、キリスト教会も、いやしや奇跡を誇る危険性がありますが、同じ土俵に立ってはなりません。

ある人が、「病気のいやしならば、医者が一番多く奇跡を行っている」と言いました。勿論、医学も神の恵みですから、その通り、という他ありません。しかし、聖書の神にはあって、他の宗教や科学や医学にないもの、絶対にできないことが一つあります。それは「罪の赦し」です。

「罪の赦し」は、愛に生きることによって表すことができます。なぜなら、主イエスの十字架こそ、「愛のきわみ」だったからです。この世には本当の愛がないので、人々はそれを見る時、他宗教と違う「いやしの奇跡」を見ることになります。そして、真の神であることを信じます。

友よ。だれでも、本物を捜し求め飢え渇いています。人々に本当に必要な奇跡は、「赦し」であり「愛」です。

8章25節

パロはモーセ…を呼び寄せて言った。「…この国でおまえたちの神にいけにえをささげよ。」

神が次々と繰り出す攻撃に参ったパロは、礼拝することは認めるが、この国の中で行え、と妥協案を出してきました。

「妥協」は、神の子への大きな誘惑です。服従でも拒否でもない中間。熱くも冷たくもないぬるま湯(黙3章)。燃えず消えずくすぶる燈心。そこは、肉を腐らすに最適の場所です。それに対しモーセは、エジプト人の忌む牛を捧げるから(26節)、3日の道のりを行かねば礼拝にならない(27節)、と断ります。 「お前がクリスチャンになることはいいが、私たちから離れないところで神に仕えよ」との妥協案は、パロも現代人も同じです。

友よ。「この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ロマ12章2節・口語訳)に心をとめてください。「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(Ⅱコリ3章 18節・口語訳)ための信仰の戦いは、時に激しい戦いもありますが、それはわずかで、ほとんどは妥協との戦いです。そして、気づかない敗北も妥協からきます。

8章25~28節

パロは言った。「この国内で…いけにえをささげよ。」…「決して遠くへ行ってはならない。」

神の御業に恐れたパロは、「この国で神を礼拝せよ」と提案しました。モーセが断ると、「荒野に行ってもいいが、遠くへ行ってはならない」と次の提案を差し出します。

日本人の神観念は、汎神論(一切万有は神であり、神と世界とは同一である)なので、行き着くところ、神は「人自身」になります。そこから、日本人の信仰は「人あっての神」、すなわち「人のための神」になります。それは、神の主張よりも人の立場がより大事になり、常に妥協がつきものです。

しかし、聖書の神信心は、「神は人を創造された」ですから、「神あっての人」です。そこから、汎神論の人の祈りは、自分の願望を捧げることですが、創造主で人格神への祈りは、神の願いに自分を合わせること(御心のままに)です。

友よ。私たちの神の本質の姿は、十字架に表されています。十字架は、愛することに妥協はありません。世と妥協しないことは、私たちも十字架につかねばできません。しかし、自分の十字架を負って従うことは、主の十字架と一体となることです(マタイこに本当の命が流れます。

8章28~29節

「私のために祈ってくれ。」(パロ)「私は主に祈ります。」(モーセ)

パロがモーセに「祈ってくれ」と頼み、モーセは「祈ります」と答えました。神の子たちも、「祈ってください」「祈ります」と言葉を交わしますが、それらの会話にどれほど真剣に取り組んでいるでしょうか。

パロの祈りの要請は、災いから逃れたい一心なので、災いが過ぎれば神を忘れるその場限りのものです。一方のモーセは、パロの決断に同族の命がかかるので真剣です。これは神の子たちの間にもあります。祈りを要請する側が真剣なのに、受ける側は軽く考え、その逆もあります。「祈って」「祈ります」が軽い時候の挨拶でなく、重いものになるならば、もっと神の栄光を見ることができます。

友よ。パウロは、「私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こして…」(Ⅱテモ1章3節)と言いますが、夜昼祈ることは簡単ではありません。だから、祈りの必要が頭に浮かんだその時に、心の中で祈る習慣を身につけることは、「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサ5章17節)を実行する近道です。私たちの戦いは、血肉ではなく霊の戦いですから、不断の祈りなくして勝利はありません。

8章32節

しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。

あぶの大軍に閉口したパロは、「私は、おまえたちを行かせよう。…神、主にいけにえをささげるがよい。…私のために祈ってくれ」とまで言ったのに、またもや裏切ります。

聖書をどう読むべきかについて、アンドリュー・マーレー師は、「何よりも大事なのは、神の御心を行おうとする願望を持つこと」と言いました。さらに、「言葉は意思と行為の中間にある。だから、神はみことばを実行しようと明確に自分の意思を決めた者に対してのみ、御自身のみことばの意味と祝福を与えてくださる」と。聖書は、「口で告白して救われる」(ロマ10章10節)と言い、また「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」(ルカ11章28節)とも言います。さらに、「みことばを実行する人になりなさい」(ヤコブ1章22節)とたたみかけます。

友よ。どのようにみことばを聞いてきただろうか。知識として・批評家として・自己義認のため・裁判官として…それらはパロの態度とどこが違うだろうか。今日からは、「神の御心を行おう」との決意と共に神の御前に出て、みことばを聞いていきましょう。

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