キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第9章

9章1節

主はモーセに仰せられた。「パロのところに行って、彼に言え。…『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。』」

神は、今まで何度パロを諭したでしょうか。しかし、パロの頑固さもさることながら、諦めずになおも語りかける、「万軍の主の熱心(愛)」(イザ9章7節)にも驚きます。

神の願いは、「わたしの民を…わたしに仕え(礼拝)させよ」で、これは「御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章 16節)と同じです。

ところで、この世界の王とは本当は誰か。もし、その方が存在し、その方に「神を礼拝せよ」と言われたら皆が礼拝するのか。そうはなりません。事実、エジプトとは「肉」のことで、パロとはそれを支配する「自我」です。自我が肉を支配して、霊(イスラエル)を解放しません。

友よ。パロとは、自分を主とするあなたの自我です。信仰とは、人が神の中に溶けて一つになることではなく、別々の者が二人三脚のように一つとなることです。神は、あなたに自分の足を結び、手を腰に回し、強引に持ち運ぶのではなく、その上で語りかけるのです。「わたしを主とすることが、民(神の子・あなたの霊)を自由にすることだ」と。

9章3節

「見よ。主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に…疫病が起こる。」

神が起こす不思議は、9章に入ってさらに3つ加えられます。その災いの順番は、エジプト人にも神を知らせる神の配慮です。

神の初期の不思議が、彼らが神々(ヘビ・ナイル川・かえる・ぶよ)と呼ぶものによって起こされたのは、それらの神々が偽りの神であることを知らせるためでした。しかし偶像は、人が造り上げた「観念と詭弁」なので、失っても大きな痛みはありません。

そこで9章からは、財産や食べ物や体など、現実の生活の痛みを通して警告を与えます。その最初が、家畜の疫病による経済的損失でした。神は、最初から反抗する者の命に手をかけず、外側(観念)から内側(現実)へと警告を移します。偶像がなくても財産があれば…財産がなくても食べ物があれば…食べ物がわずかでも健康があれば…と、人は考えるからです。

友よ。試練の辛さに泣いていますか。でも、その痛みはあなたの命を守るためです。神は決して耐えられない試練は与えません(Ⅰコリ10章13節)。なぜなら、耐えられない試練は、御自分が十字架で受け取るからです。

9章4節

「イスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別する。イスラエルの家畜は1頭も死なない。」

エジプト中の家畜に襲いかかる疫病なのに、イスラエルの家畜には影響が出ません。それは、主が両者を区別したからでした。

戦後の日本の教会には多くの人々が導かれましたが、間もなく勢いを失い、そのまま今に至っています。その原因の一つは、政治経済などの社会状況の変化以上に、神の子と教会の聖別の問題があるのではないでしょうか。

「区別」とは「聖」から派生し、聖書的には「神のために分ける」との意味です。ここで、神の民とエジプトの民の区別が明確にされたように、「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい」(Ⅰペテ1章15節)と勧められています。

友よ。人々は、私たちの人格と生活が、自分たちと違うところに神の姿を見ます。聖書は、 それを「地の塩」(マタ5章13節)と言います。塩は、塊のままでも、塩気がなくても役立ち ません。塩の塩気がなくなるのは、大量の「世」に薄められるからです。神の子は、日々みことばづけにされてこそ塩として存在し、人々の中に溶けて影響を与えます。

9章5節

また、主は時を定めて、仰せられた。「あす、主はこの国でこのことを行う。」

神は、「わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか」(ゼカ1章6節)と、何度も警告し続けたと言います。

「ことばは神であった」(ヨハネ1章1節)は、生きている神の本質を表します。神格を持つお方だからこそ、言葉をもって御心を告げられます。その中で、神の預言には、成就させるものと、成就させたくないから告げるものがあります。御子イエスの来臨と十字架などは成就させるための預言で、ノアの洪水(裁き)は成就させないため、悔い改めに導く預言です。さらに、災いの原因は神御自身が起こすというよりも人の罪にあります。神はノアに、「あなたは自分のために…箱舟を造りなさい」(創6章 節)と命じます。やがて洪水は現実になりましたが、彼らには災いでなく、神の栄光を見る出来事になりました。

ノアは120年間箱舟を造り続けました。それは、日々神の言葉に従う生活のことで、それが「自分のための箱舟(救い)」になりました。

友よ。今日も神の言葉の指示に従い、箱舟を造る一日として歩んでください。

9章6節

エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜1頭も死ななかった。

26節(関連して)

童話の「花咲じいさん」のように、善人イスラエルは祝福され、悪人エジプトは家畜の死、種物、雹の被害、いなごの被害、暗闇の恐怖を受ける…。はたして、現実は? 上のストーリーが正しいならば、神の子は順風満帆のはずですが、実際は未信者と同じ問題を抱えます。

神は、信者、未信者に関係なく試練を与えます。未信者への試練の目的は、神の救いに導くために「不信仰の罪」を取り扱い、信者への試練は、神の子として聖別するために「不従順の罪(肉の罪)」を取り扱います。

未信者へは、罪(マイナス)を赦して(ゼロ)神の子(プラス)にするため、信者へは、神の子のプラスを増やすためです。決定的違いは、エジプト(未信者)は長子(永遠の命)を失い、イスラエルは動物犠牲(主の十字架)によって裁きを過ぎ越します。

試練を恐れる友よ。救われるための試練と、救われて完成されるための試練では、見える所が同じでも全く違います。「私たちは、今すでに神の子」(Ⅰヨハ3章2節)ですから、霊魂の死という敵に出会うことはありません。全ては、神に近づくための試練です。

9章8~9節

「かまどのすすを…取れ。…細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、…腫物となる。」

家畜が疫病で死ぬ災いの次は、人の体から膿が出る病の災いが始まりました。ついに、神の御手は人の体に伸ばされます。

「人は自分の命の代わりには、全ての持ち物を与える」(ヨブ2章4節)とはサタンの言葉です。試練の中、「幸いを神から受けるのだから、災いをも受けねば」(同10節)と言えたヨブも、「あなたの間違った信仰が災いを受ける」と友人たちに責められて反論しました。

ヨブは神の祝福を受ける中で、「恵み(神)の信仰」から、「私の信仰(自分の正しい信仰が神の祝福を得る)」に変化し、それが彼の命になっていました。神は「私の信仰」を「恵みの(神の)信仰」にするために、ヨブに試練を許されました。

友よ。殉教者たちは、自分の中の神を守るために肉体を捨てて抵抗しました。あなたは何を守るために一番激しく抵抗しますか。財産、健康、家族、プライド、それとも永遠の命ですか。本当の命がそれらにではなく、「命の息」を吹き入れる神にあることを教えるために、神は試練を許されます。

9章16節

「わたしがあなたをながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見させるため、そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるために他ならない。」

「憎まれっ子世にはばかる」「善人の若死に」は、どちらも賛成しかねる言葉です。パロが早く死に、別の善良な王が立てられれば、と思いますが、「世の中甘くない」です。

政治経済の営みの根本は、悪です。それは、アダムの堕落後、神を無視し、人中心となり自分の益と栄光を求めるからです。良き社会は、神の人のリーダー(モーセ)と、市民が悪を増大させないバランス(神の心を良心とする)になることです。三権分立は、人類が得た学習の賜物ですが、これとても真理ではなくマイナスを防ぐ壁です。しかし、神は人間の悪を超えて、御自分の御業を行われます。それは、パロ(自己中心な者)さえも神が器として用いられるという事実です。

友よ。「王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし…なさい」(Ⅰテモ2章1節)を実行しましょう。そして、裁きは神の領域にあり(ロマ12章19節)、私たちは「悪に負けてはいけません…善をもって悪に打ち勝ち勝」(同21節)つことです。あなたのパロに打ち勝つ力は、主の御名の中にあります。

9章19節

「野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。」

腫れ物の次の災いは、人と家畜に当たると死ぬほど大きな雹の襲撃です。これまでの財産の被害や病気以上に、「死」にかかわる重大な出来事が起き始めました。

雹は、「血の混じった雹と火」(黙8章7節)「地震が起こり、大きな雹が降った」(同11章19節)「一タラントほどの大きな雹が、人々の上に」(同16章21節)とあるように、神の裁きと深く関係します。神の裁きの前には、「家に連れ戻せば災いから逃れる」との警告もあります。

連れ戻す「家」とは、ノアの箱舟であり「岩(信仰告白)」の上に立つ「教会」(マタ16章 18)です。パロは、モーセの忠告を無視したので、多くのエジプトの民は命を失いましたが、モーセに従ったイスラエルの民は雹の裁きを逃れました。

友よ。裁きと死について語らず、命と救いについて語っても真理の半分です。裁きと死について、黙さず愛をもって語り続けてください。それは、主イエスの十字架について語ることです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリ1章18節)

9章20~21節

パロの家来の…主の言葉を恐れるものは…しもべと家畜を家にのがれさせ…。主の言葉を意にとめないものは…野に残しておいた。」

(口語訳)

一連の災いは、イスラエルとエジプトを分けただけでなく、エジプト人たちをも2つに分けました。その分水嶺は、「主の言葉を恐れるか、恐れないか」でした。

神が行うしるしの目的は、「わたしが主である」ことを、イスラエル人にも(6章7節)エジプト人にも(7章5節)知らせるためでした。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである」(ガラ3章 28節・口語訳)。

神の救いは、人種や国籍や種々の条件を越えて平等です。事実、エジプト人でも「主の言葉を恐れ」て家畜を家に入れ、雹の災いから逃れた者もいました。

教会や様々の集会に一度でも招かれた人は、主の言葉を恐れて家に入ったエジプト人です。あなたの周りにも、このような人が何人もいることでしょう。一度のしるしで救われなくても、モーセとアロンのように、否、神のように諦めずに働きかけてください。

友よ。今日は、そのような方々の顔を思い浮かべて祈る日にしてはどうでしょうか。

9章26節

ただイスラエルの人々のいたゴセンの地には、雹が降らなかった。

(口語訳)

一人のクリスチャン青年が、人々を躓かせていました。「僕は神の子だから悪いことをしても裁かれない(雹は降らない)」と?

自分の家には雹は降らず、両隣から先の家々には降った、と言うことがあるでしょうか。イスラエルとエジプトは実にそのようでした。雹が「降る・降らない」は、次のようにも理解できます。宗教や民族に関係なく、災いには誰でも遭遇します。

しかし、Aは、災いと受け止め(雹が降った)、Bは、受け止めません(雹が降らない)。Aは、それが自分を不幸にし命を奪うと思っていますが、Bは、それが自分の命を損ない不幸にはしないと思っています。実に、神の子たちは後者に立つ者たちです。自分に降りかかる本当の災いは、主イエスが身代りに引き受け、あらゆることを通して命と恵みを与えてくださると信じるので、災いを災いと思わずに、時にそれを益とし、感謝して受け止められます。

友よ。災いを避けることは不可能ですが、災いを乗り越える力を持つ主イエスと共にいることが、神に聖別された生活です。それが雹の降らないゴセンに住むことです。

9章27~28節

パロは…「私は、こんどは罪を犯した。主は正しく、私と…民は悪い。…主に祈願してください。…私はあなたがたを去らせます。」

(口語訳)

「パロ様、そう気にしなくても!」と言いたいのですが、モーセは「あなたとあなたの家臣が、まだ、神である主を恐れていないことを、私は知っています」(30節)と見抜きます。

「心はよろずの物よりも偽る」(エレ17章9節)ので、本当に悔い改めるものだろうか。完全な悔い改めというものはないのでは、と経験から思います。なぜなら、「私は完全に悔い改めた」と思う瞬間、無効になるからです。また、今日悔い改めても、次の日に同じ思いが出てきます。

それでは、希望はないのでしょうか。否、過去を消すことは、人の業でなく主イエスの御業です。そして、人のすることは、悔いたらイエスを主とする決意をもって歩み出すことです。「死んだ行いの悔改め、神への信仰…を離れて、成熟を目指して進みましょう」(ヘブ6章1・2節・新共同訳)

パロの悔い改めは、瞬間的には本当でしょうが、それが真実なものにならないのは、「悔い」ても、「改める(イエスを主とする)」ことがないからです。友よ。悔い改めるとは、イエスを主として歩み出すことです。

9章32節

しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである。

雹がエジプト人の作物をことごとく撃ち、甚大な被害を与えました。その中で、小麦とスペルト小麦は収穫期が遅く残されました。

イスラエルは、歴史上何度も国を失いますが、その度に復活してきました。神は預言者エレミヤに、「あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き…引き倒し…滅ぼし…こわし…建て、また植えさせる」(エレ1章10節)と告げました。

神は、人に邪魔になるものは滅ぼし、必要なものは残されます。雹が滅ぼさなかったものは、命のパンを作る小麦でした。聖書は、人類の長い歴史の中で、何度も破壊され、焼かれ、隠され、踏みつけられても残った「命のパン」です。そしてパウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても…」(Ⅱテモ4章2節)と命じています。

友よ。みことばは、一個人の人生の中でも同じように残ります。信仰とは、神の種(みことば)に聖霊が注がれて出て来るものですから、まずみことばを伝えましょう。「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」(ヨハ6章27節・口語訳)。みことばと信仰は、神が守ってくださいます。

9章35節

パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである。

雹の効果もなく、全ては水泡に帰しました。でも、それが「主が言われたとおり」だと言うからには、なにか意味がありそうです。

神は、パロの心が様々の試練でも変わらないことを知っているのに、ナイルを血に、蛙、ぶよ、あぶ、疫病、腫れものと繰り出すのはなぜでしょう。考えられる理由の一つは、「パロが神の警告を恐れる → 妥協案を差し出す → イスラエルの民がそれを受け入れそうになる → 神は、パロがそれ以上考えを進めないように、『パロの心をかたくなにする』」とも言えます。パロの差し出す妥協案を、弱ったイスラエルは受け入れたくなります。すると、神が備える救いが小さくされ、無くなります。

友よ。あなたのパロ(思い煩う人)の心を和らげようと試み、その度に心をかたくなにされ、閉ざされ、倦み疲れていませんか。しかし、相手の頑固な心のその上に、神が君臨しています。そして、頑固なパロを用いて、イスラエルの救いを完成したように、あなたを守ろうとしています。ですから神が結論を用意するまで、挑戦を止めないでください。

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