キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第12章

12章1節

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、私が示す地へ行きなさい。」

「進む」ことは、あることから「離れる」ことです。「神の国に入る」には、「世から離れる」必要があります。テラの死が、アブラムにハランを出てカナンに行く決心をさせました。貧しさ、悲しみ、飢え、迫害は出発の笛です。これらがないと、自己中心の殻を出て、主が備える御霊の自由に身を置くことができません。

神が、「出よ、別れよ」と命じるのは、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする」(2節)計画があるからです。「あなたがたのために立てている計画…それはわざわいではなくて、平安を与える計画である」(エレ29章11節)とも約束されました。

神の御心を知りつつも進めない、という人はいませんか。その人は、まず約束の祝福の大きさを確かめ、次に現在(ハラン)と将来(カナン)を比べてください。ハランはこの世の君(サタン)が支配し、カナンは神が支配するところです。「私は悪の天幕に住むより…神の宮の門口に立ちたいのです」(詩84・10節)というのがなにより賢い選択です。主がともに行ってくださいます。

12章2節

「私は…あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。」

(新共同訳)

あなたはどんな祝福を望んでいますか。物質的な豊かさ、地位や名誉など社会的誉れ、あるいは家族の平和と健康でしょうか。どれもこれも、大小は別として必要なものです。しかし祝福は、「何を持つか」ではなく、「だれに祝福されるか」がより重要です。

この世の権力者から、富や名誉や地位などの祝福を受けても、その為政者の失脚や時代の変革により、かつての祝福が呪いに急変した歴史の現実を数多く見ます。さらに、富、地位、名誉、能力が、主の前に立つ最期の日に災いに転ずることもあります。アブラムが受けた祝福は、「私は」と言われる神御自身でした。「主御自身がその嗣業である」(申10章9節)ことが最大の祝福です。

神を嗣業とする者は、神から語られ、導かれ、諭されます。神が持つすべてを持ちます。それは、神の子だからです。しもべは与えられた「恵み(世の祝福はすべてこの範囲)」を持ちますが、子は「与え主・父御自身」を持ちます。

神の子とされた友よ。「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」(ヨハネ17章10節)の祝福から目を離さないでください。

12章3節

「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。」

神は、アブラハムを「祝福の基」とすると言われました。それは、アブラハムに対する態度によって、人の「祝福」と「のろい」が決まることになります。それでは、なぜアブラハムが祝福とのろいの鍵なのでしょうか。

アブラハムは、後に「信仰の父」と呼ばれますから、「アブラハム=信仰」とできます。アブラハムを祝福する者が神の祝福を受けるのは、アブラハムの信じる神(まことの神)を、「私の神」と信じ、彼のように生きるからです。アブラハムをのろい、祝福を失うのは、神を神とせず自己中心に生きるからです。「信仰がなければ、神に喜ばれません」(ヘブル11章6節)。祝福と信仰は表裏一体です。

「信仰によって、アブラハムは…行けとの召しを受け…これに従い…出て行きました」(同8節)が、実際はウルからカナンに来るのに十数年かかり、この後も数々の失敗を繰り返します。彼は、最初から「信仰の父」ではありませんでした。彼が信仰の父になり得たのは、それでも神から離れなかったからです。

友よ。「それでも」神から離れないで信じ続けること、これこそ信仰の基本の基です。

12章8~9節

「アブラムは、妻のサライと、おいのロトと…、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。

アブラムがカナンに行こうと旅立ち、ハランに留まったことをもじり、「ハラン信者」と言うとか?それは、神に半分しか従わない中途半端な信仰者のことを指すようです。それでは服従した人は、「カナン信者」?

主の道を一度決心して歩み出しても、途中で一度立ち止まると、次の一歩が出にくくなります。献身へ踏み出したのに、今は職場や家庭にとどまっている、と考える人もいることでしょう。そのアブラムがカナンに向けて再出発できたのは、父の死もさることながら、それ以上に「その後、主はアブラムに仰せられた」(12章1節)神の御声でした。「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ロマ11章29節)。神は忘れていませんでした。

失望している友よ。同じ主があなたにも再びお語りになります。それは、以前と同じ状態に戻ることではなく、いま置かれている職場や家庭の、「ここから」新たに応えることです。「きょう、もし御声を聞くならば」(ヘブル3章7節)からの出発でよいのです。過去と今がどんな状態でも、「ここから」神に従ってください。神は覚えておられます。

12章6節

アブラムは…モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。

「神が示されるからには、きっと豊かで素晴らしい土地に違いない」とアブラムも期待したでしょう。しかし、そこは荒涼たる荒野で、先住民のカナン人が住んでいました。

聖書は、神と人の関係を羊飼いと羊にたとえ、「彼は自分の羊をその名を呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます」(ヨハネ10章3・4節)と言いました。アブラムがハランにとどまってカナンに出で行かないと、羊飼いなる主は彼を後ろから追い出します。

アブラムの父テラの死は、彼を後ろから押した神の杖でした。しかし、一度羊が囲いから出れば、羊飼いが羊の先頭に立ち、羊は後からついて行きます。

愛する友よ。あなたをカナン(現在のところ)まで導いた主は、いつも離れず側におられます。あなたを快く受け入れようとしない敵(カナン人)には、主が顔を向けて戦われます。主は今、「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ6章20節)と言われますから、肩肘張らず、「主よ、怖い、助けて」と、主の背中にしがみつきましょう。そして、先に進む主の後ろから離れず、ついて行ってください。

12章7節

アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。

彼は約束の地に着いたとき、最初に祭壇を築きました。それは、「礼拝」をささげるためでした。動物を犠牲に献げる祭壇は、イエスの十字架を指します。と同時に、私たちが自分を神に献げるところです。神の御子を受け取り、自分を神に献げる交わりが礼拝です。

アブラムが祭壇を造り、動物を殺し、神に献げていますが、真実は、神が人のために御自分を犠牲の供え物にしているのです。バプテスマのヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1章29節)と言った子羊こそ、人となったイエスでした。

神は罪人のために、ゴルゴタの丘に祭壇を造られました。そこで、「祭壇を築く」の表現に、「神に仕えねば」のイメージを持つことは危険です。むしろ、神が私たちに仕えたいと願っておられます。私たちが造る祭壇とは、神が私の中で働かれる場所を提供することです。

礼拝は儀式の場ではなく、神と人がお互いのいのちを与え合う「いのちの交わりの場」です。あなたも私も、求めているのは「いのちの交わり」です。礼拝は永遠のいのちの交わりですから、神の最高の賜物です。

12章8~9節

アブラムは…べテル…アイ…に祭壇を築き…、さらに旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

神はカナンに着いたアブラムに、「あなたの子孫に、私はこの地を与える」(7節)と言われました。彼は、そこに祭壇を築き、主に祈りましたが、そこからべテルとアイの間に移動し、さらにカナンの最南端、エジプトに近いネゲブまで進みました。

その理由に、カナン人が住んでいたことが考えられます。神を信じカナンに入植しても、カナン人が支配するこの世で生活せねばなりません。わずかなアブラム一族に比べ、カナン人は大多数です。

アブラム一族(神の子・少数)は、カナン人(この世の人々・多数)を恐れ、彼らのいないネゲブに移動しました。しかしこの移動は、神と交わる祭壇(礼拝)から遠く離れることになり、その結果、彼らが出会ったのは「飢饉」(10節)でした。

友よ。神が求めている生活は、「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝つ勝利」(Ⅰヨハネ5章4節)であって、世を避けて逃げることではありません。毎日毎日の礼拝をおろそかにし、ネゲブの霊的砂漠に出て行ってはなりません。今日も祭壇を守ってください。

12章10節

さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうに…下って行った。

人にとって食物がないことは最大の恐れです。飢餓への恐れは、全ての考えと行動を、「食うため」に固めます。それはやがて、「生きることは、義」の大義名分を作り上げ、侵略、略奪、殺人、嘘などの悪も善とします。そのとき、人間の理性も、経験も、道徳も、無力になることを歴史が証明してきました。

人は肉体の命と共に、霊のいのちを持ちます。霊のいのちを失うと、肉の命が何より大切になります。霊の食物は神にありますが、肉の食物はこの世(エジプト)にあります。霊の食物を得られなくなった者はカナン(神の地)を離れ、肉の命を求めてエジプト(この世)に行くようになります。

人には霊と肉の両方の食物が必要ですが、肉の命は霊のいのちを満たせません。けれども、霊は肉の命をコントロールし、満足させることができます。主のことば、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)とは、「霊のいのちを満たすならば、地上での生活が支えられる」と言われたのです。

友よ。「エジプトに下る」のではなく、「神のところに上る」今日一日にしてください。

12章13節

「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くして、あなたのおかげで私は生きのびるだろう」

アブラムは、祭壇(礼拝)を失い、エジプトに下りました。それは、親の保護を離れ自力で生きる幼子のようです。親に守られず、自分で自分を守る結果、自己中心の塊となり、妻を犠牲にしてでも自己保身を計ります。

神の子は、良心の痛みから完全な嘘はつけませんが、半分の嘘はつきます。事実、妻サラは異母兄妹ですから妹ですが、さらなる事実は妻です。この偽りは恐れから、恐れは不安から、不安は全能の神から離れているところから出ます。神を畏れず、人を恐れるからです。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩37・5節)というみことばの反対は、「自分で自分を守れ。自分に自信を持て。自分で実現せよ。」になります。

人生の主客が「神」から「自分」になってはなりません。「自分のいのちを得ようとする者は、それを失い、私のためにいのちを失う者は、かえってそれを得る」(マタイ10章39節)ことを忘れないでください。

友よ。アブラムのように、不安や恐れと自分で戦ってはなりません。天の父を信頼し、弱さをさらけ出して、「助けて」と素直に祈ってください。

12章16節

パロは彼女のために、アブラムに良くしてやり、…羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷…を所有するようになった。

パロ王は、サラを妻にする魂胆で大量の財産を兄と言われたアブラムに贈りました。夫アブラムは、良心の痛みと引き換えに財産を受け取ります。名誉や地位や財産を得るために、魂を売り、不正に目をつむる者は多くいます。

しかしこの後、財産の多さが甥ロトと争いを起こし、パロから受けたエジプトの女奴隷が夫婦の間に深い溝を作ります。「あなたがたが、自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷である」(ロマ6章16節)と聖書は言います。さらに続けて、「罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷になって義に至る」(同)とも。不正の富は、持ち主を罪の奴隷とし、争い、不貞、悲しみに落としますが、神への「従順」は、人を神の子とし、神の財産を相続させます。

あなたの目は、「目先」と「永遠」のどちらを見ていますか。刹那(せつな)的判断では罪に陥りますが、永遠からその場を見るならば免れます。主は私たちを「罪から解放されて、義の奴隷」(同18節)にしてくださいました。

尊い友よ。神の王子なるあなたが、世の人々の価値観で生きてはなりません。

12章18節

「パロはアブラムに…「あなたは私に何ということをしたのか。「なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。」

神はアブラムを選びました。「選民イスラエル」がここから始まります。選民とは、「証人」の意味です。ユダヤ民族は、ヤーヴェが真の神である証人として選ばれました。選びは、彼らが優れているからではありません。「もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません」(ロマ11章6節)。

ここでアブラムは偽りを語り、パロの方が真実を語り、しかもアブラムの不信実を寛容に取り扱いました。高慢と謙遜の違いは、真理の上に立つ(自分が真理)か、下に立つ(真理に支配)かの違いです。一般の人々の常識の中にも真理はあります。しかし、選民意識がこの感覚を麻痺させることもあります。

真理は、「だれ・彼」に関係なく、基準は「神」だけです。ですから、だれが言おうが「真理は真理」です。しかし、さらに深い真理があります。神によって、「私自身を真理にしていただく」真理です。それは、神に罪を赦され神の子になることです。

パロはアブラムより正しいことを言いましたが、アブラムは神を信じ、罪を赦され義とされています。しかし、パロは神を信じず罪人に留まっています。

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