キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第13章

13章1節

アブラムは、エジプトを出てネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と…。

アブラムは、カナンで祭壇を築き祈りましたが、飢饉に見舞われエジプトに下り、自分を守るために、妻を妹と偽りました。このような状況の中で、彼らはかすり傷一つ負わず、むしろ多くの財産を授けられて戻ってきました。これぞまさに神わざ(恵み)です。彼の経験は、全てのクリスチャンの経験です。

事実、私たちが神の恵みを経験するのは、順風満帆の場よりも、罪の傷と悲しみの場においてです。「それでは…恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」(ロマ6章1節)。否、このあわれみは再び罪にとどまらないようにするために神が送る励ましですから、主の寛容の富を軽んじてはなりません(同2章4節参照)。

愛する友よ。私たちも同じ過ちを何度も繰り返しましたが、それなのに、今も主は私たちを捨てていません。しかし、恵みの陰には大きな悲しみが隠されています。なぜなら、「罪の価は死」を満たしての回復と救いだからです。主の恵みを受ける度ごとに、見える恵みの奥に隠れた見えない恵み(十字架の痛み)を仰ぎ見つつ、今の恵みを受け取ってください。

13章4節

そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは主の御名によって祈った。

アブラムがエジプトから戻り、カナンで最初に築いた祭壇で祈った姿に、彼の悔い改めが真実だったことをみます。

ある人は、悔い改めても最初と違う場所に立ちます。神の子にとって「最初の場所」はどこでしょうか。それはバプテスマの場です。バプテスマは、主の十字架に付いて「古い自分に死に」、主の復活に「新しく生きる」信仰の原点です。人の「死」と「生」が同時に成就する場です(ロマ6章参照)。そこは、過去の過ちを後悔する場ではなく、悔い改める所です。「後悔」は、死を通らず新しいいのちを求めますが、「悔い改め」は死を通していのちを求めます。自分が死に、主に生きるところです。

後悔した人は礼拝の場に来ませんが、悔い改めた人はアブラムのように祭壇に戻ります。その人には復活のいのちが芽生え、新しいいのちは霊の食物、聖霊の導き、神との交わりを求めます。しかしなお、諸事情…大きな試練・家族関係・教会や牧師へのつまずき・地理的・ヘルプがない・経済的…などで教会へ礼拝に行けない人も多くいます。

でも、友よ。その場で真剣に祈る(礼拝)ことはその人の責任です。

13章6~7節

彼らの持ち物が多すぎたので、ロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。

エジプトで得た多くの財産が、共に歩んできたアブラム家とロト家に争いを起こしました。貧しさや災難よりも、むしろ多くの財産が争いを起こす現実を目の辺りにします。

聖書に「ミナ」(ルカ19章)と「タラント」(マタイ25章)の例え話があります。ミナは人の内なる「いのち・信仰」を、タラント(賜物)は「能力・働き」を表すとも言えます。

ミナは神のいのちによって人格の実を結び、タラントは神の能力によって大きな働きと実績をつくります。ミナは多くなるほど人をへりくだらせ、タラントは多くなるほど人を高慢にする危険性があります。ミナは主に結びつけ、タラントは自分に自信を持たせます。そして人は、ミナよりもタラントが好きです。神の祝福の賜物(タラント)が争いを作るのは残念です。

友よ。タラント(働き)よりもミナ(信仰)を多く持つことを求めましょう。ミナがタラントを支配すると賜物は正しく生かされ、タラントがミナを支配すると祝福の賜物が害になることもあります。主のタラントの大小への評価は同じでしたが、ミナの大小への報酬が違ったことを見てください。

13章9節

「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。」

ロトは、ウルから叔父アブラムについて来ましたが、「信仰によって」とは言い難いことがここで暴露されます。ロトの信仰は、「間接的・依存的」信仰でした。  

依存的「ロト人」は、苦しい時は頼れる人から離れませんが、問題が解決すると一人歩きを始めます。しかも、自分の肉の満足を最優先できる方へ向かいます。それをパウロは、「彼らの神はその腹…彼らの思いは地上のこと」(ピリピ3章19節)だと言いました。このような信仰は、主の恵みは求めても、主御自身は求めず、主の御心より自分の願いを愛します。

アブラムの提案に、ロトは正直にヨルダンの低地を選びます。そこは自分の「財産(家畜)」を守るのに一番よい所だからです。一方のアブラムは、財産でなく、「魂」を守る道を探しています。彼はロトに右・左を選ばせているようですが、本当はロトに決めさせてはいません。彼は、自分の嗣業の地を神に決めさせています。

友よ、今日の歩みを自分で決めず主に決めていただきましょう。それは、祈ってから決断する習慣のことです。

13章11節

それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。

アブラムと別れ、山岳地帯から低地へ向かうロトの足取りはなんと軽く速かったことでしょう。箴言の言葉、「彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ」(箴言1章16節・口語)を思い出します。

ヘブル語の「富」には、「重い」という意味も含まれていると聞きました。富は、その人より軽くないと持ち運べません。富が人より重くなると、人を支配し、奴隷にし、富が人を持ち運びます。

人が富を用いるものであって、富に人が用いられてはなりません。ロトの財産は、彼より重くなりました。重い富は、自然界の法則によってロトを低地(世)へ転がし、祭壇の場から引きずり下ろしました。 

ロトは「自分で財産」を持ち、アブラムは「神に自分」を持っていただきました。なぜなら、彼はエジプトでの経験から、二度と神から離れまいと決意したからです。

友よ。神はあなたに富を与えてくださいますが、あなたは神のものです。「神のものは神に返しなさい」(マルコ12章17節)。神より重いものを持ってはなりません。神こそあなたの宝です。あなたの宝が神なら、神があなたを持ち運びます。

13章12節

アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くに天幕をはった。

《寓 話》

ある所に猿がいた。猿は人に化けて人間たちの祭りに行こうとした。仲間の忠告に、「近づかにゃよかろう。酒を飲まにゃよかろう。踊らにゃよかろう」と言っては出かけた。しかし、ついつい近づき、飲み、踊り、化けの皮がはがれ捕まり殺されたそうな…。

この猿の姿は人の姿でもあります。「正義と不法、光と闇、キリストとベリアル、神の宮と偶像」(Ⅱコリ6章14~参照)に何の一致もありません。それでも人が引かれていくのは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2章16節)を求める心があるからです。

欲に負け罪の奴隷となる本当の理由は、神を見続けないからです。偽物の宝石は、本物を見続ける人に見破られます。だれも世の魅力に勝てませんが、本物を「知り」、本物を「持ち」、本物を「いつも見ている」人はだまされません。

友よ。罪との戦いは、神に近づくための戦いです。ダビデも、「私の目はいつも主に向かう」(詩25・15節)と言って本物にとどまる戦いでした。ロトのように低地に行かず、アブラムのようにカナン(神の所)に留まる戦いです。

13章14節

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。」

ロトは、自分の好きな所を選べと言われたとき、「目を上げて」(10節)低地を選びました。アブラムが主から、「目を上げて」と言われて選んだ場所はヘブロンのマムレでした。

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ6章21節)とあるように、人の目(心)は宝のある所に向きます。ロトの心は、この世を宝・財産としていたので肥沃なソドムへ目が向き、神を宝とするアブラムの目は、祭壇を築くのに最もよいヘブロンへ向きました。そこは、千メートル近い山岳地で生活には不向きですが、この世が入り難く、神と交わるのに最良の土地でした。

ロトは「肉欲の目」を上げ、アブラムは「信仰の目」を上げました。信仰の目は神に促されて上げますが、肉欲の目は自分の願望からでてきます。主を見上げると目は健康になりますが、「目が悪ければ、あなたの全身が暗」(マタイ6章23節参照)くなります。アブラムのように、主を見上げる健康な目で東西南北を見渡すと、そこにあるものの実態が、正しく見えてきます。

友よ。正しく見て、正しい判断を下す一日でありますように。

13章18節

アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレのそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。

アブラムはロトと別れ、神の前に立ちました。かつて、「ここを離れ、私の示す地に行け」と示された時、自分より若いロトが一緒であることを心強く思ったことでしょう。あの時は、「鼻で息をする人間を頼りにするな」(イザヤ2章22節)をまだ理解していませんでした。

聖別の最大の障害は、ロト(他者)ではなくアブラム(私)自身にあります。あの人が離れてくれない、と嘆きますが、本当は自分が離れられないでいます。相手が自分を必要だと思わせながら、自分が相手を必要としているのが本心です。その人と係わるのは自分の名誉と存在(アイデンティティー)確認のためです。「共依存」は、肉のいのちが生きる巧妙な「隠れ蓑(みの)」になります。

隠れ蓑を見破る鍵は、「父、母、妻、子、兄弟、姉妹を憎み、同時に自分のいのちをも憎む者」(ルカ14章26節参照)とのみことばです。それは、罪に支配される人の姿を弁え、神としないことです。

しかし友よ。これは家族を捨てることではなく、「家族」と「自分」を神に押し出すことです。鼻で息する者同士の「共依存」から「神依存」への信仰です。 

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