キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第15章

15章1節

主のことばが…アブラムに臨み…「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

神が「恐れるな」とアブラムに言ったのは、彼が恐れに負けそうになっていたからです。神は彼に、「あなたを大いなる国民とする。…地上の全ての民族はあなたによって祝福される」(創12章)と約束されましたが、これらが成就するには、子が生まれる必要があります。しかし、それが不可能な現実に恐れました。

アブラムの恐れは、生涯の全てを神に賭けてきたからです。彼には、神の約束が実現しなければ他の人生がありません。また、今までの人生が全てむだになります。一方、ほどほどの信仰者は、神の約束が実現しなくても、自分で逃れの道を用意しているので恐れはありません。神を信じれば信じるほど、みことばが実現しない現実に恐れるものです。

しかし、神は御自身に賭ける信仰者を孤独にしません。成就するか否かに目を奪われたアブラムに、「わたしはあなたの盾」と言って、神の「ことば」以上に、ことばを語った「御自分」に目を向けさせました。

友よ。辛いですか…不安ですか…恐れていますか。神の約束が実現していなくても、「神はあなたの盾」ですから勇気を出してください。

15章2~4節

「神、主よ。…私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」

アブラムは、「主よ。私たちがウルを出てからもう20年ほどになります。それなのに子が生まれません」と語り、「ハランに住む甥のエリエゼルを養子に」と提案しました。

人には、神の約束と計画を理解することは難しいものです。そして、神の約束が実現しそうもないと判断すると、そこに自分が納得できる考えを差し込みます。エリエゼル養子提案がそれです。エリエゼルは自分の血縁であり、彼によって神の約束である、「あなたの子」が実現できそうですが、似て非なる信仰がこれです。世間では折衷がまかり通り、むしろその方が皆の賛同を得ます。

神の国には血肉や人の意欲にもよらず、神によって生まれた者だけが入れます(ヨハネ1章13節参照)。

迷っている友よ。みことばに自分の願いを混ぜた混合ミルクでなく、「純粋な、みことばの乳を慕い求め」(Ⅰペテロ2章1節)ましょう。時に、弱り失望する自分の心に、「下がれサタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マルコ8章33節)と主のように叫び宣言しましょう。

15章5節

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。」

神がアブラムを「外」に連れ出したとは、その前は「家の中」にいたことになります。「家の中」とは、自分の能力と手のとどく範囲で、「外」は自分の支配を超える世界と言えます。神が彼を連れ出し、大空を見上げさせたのは、「彼の可能性(家の中)」から、「神の可能性(外・神の世界)」に連れ出したのです。

神は、自分の世界にしがみつく者に、本人の願わぬ出来事を与え、自分の家の限界と居心地の悪さを知らせます。ときには激しい試練によって、そこに住めないようにすらします。

神の許す試練に追い出され、やっと神の御元に行くのが人の常です。神は、「災いでなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ…。祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう」(エレミヤ29章11~12節)と言われます。

愛する友よ。あなたは、過去の罪も、現在の優柔不断も、将来の不安も知っているのに、なぜ自分の家(過去・現在・未来)という世界に閉じこもるのですか。限界ある自分の家から、神が計画された、高く広い「平安と将来と希望」(同節)に満ちる神の天を見上げてください。

15章6節

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

アブラムは、「あなたの子孫はこのように(星の数)なる」との神の約束を信じました。主は、それを「義」と認めました。このことは、新約に入り、パウロが「信仰による義」(ロマ3章22節)と言った救いの真髄です。

この聖書の箇所は、アブラムが自分に子が生まれることを信じた以上の意味を与えます。それは、子の誕生は「世継ぎ」が与えられることで、「永遠の御国の世継ぎ」につながります。

「私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです」(テトス3章7節)。この相続人とは、「永遠の御国に入るいのち」です。「信じて義とされる」ことは、イエスの罪の赦しを受け、復活の命を与えられ、御国に籍をもつ「神の子」とされることです。

アブラムは、信仰によって義とされました。信仰は、神の御業を受け取ることです。イサクの誕生は、アブラムの百歳の時でした。百歳こそ、「人間の可能性100%0(ゼロ)」を教えます。

友よ。あなたも両親の百歳の時の子イサクです。人の可能性100%ゼロなのに、神によって、神の子として生まれたのです(ヨハネ1章12・13節参照)。 

15章8節

「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」

神の言葉を信じきれない自分を経験します。アブラムも、子が生まれるとの約束を信じきれず、苦悩し、主に問いました。

信仰は、洗脳ではありません。洗脳と信仰の違いは、「あれを…読むな・聞くな・行くな・信じるな」そして、「これだけ…見よ・読め・聞け」が洗脳です。洗脳は、「それだけしか選べない人」をつくります。信仰は、あれもこれも許されていますが、その中から自分の責任で、あるものを選び取ることです。ですから、信仰には「試みる」ことが許されます。 

主が、「試みてはならない」(マタイ4章7節)と言われたのは、神の御心を知りながら試すことです。しかし、もっと怖いのは、神の啓示がないのに、「みことばが与えられた…」と、自分勝手に確信する人です。それらは、自分で作った「自主洗脳信仰」です。「然りを然り、否を否」(ヤコブ5章12節)とし、分からないことは分からないと主に問えばよいのです。

友よ。神に語られて分らないことがあるものですが、それが不信仰ではなく、むしろ問い続けないことが不信仰です。信仰の父アブラムも神に問うたのですから、ましてや、私たちはもっともっと尋ねるべきです。

15章9節 ①

「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と…を持って来なさい。」

子が生まれる印を求めたアブラムに、神は牛や羊などの家畜を用意し、それらを二つに裂いて並べて待つように言いつけます。当時の契約は、契約する両者が、二つに裂いた動物の間を一緒に行って戻って来ることで結ばれました。そこから、契約の「結ぶ」は「裂く」の言葉から出てきたと聞きます。

この契約は、「約束を破ると裂かれる(死ぬ)」、すなわち「罪の価は死」(ロマ6章23節)を現実に教えました。さらに、殺される動物はいずれも「三歳」で、「三位一体の神」を示唆します。

アブラムに子(永遠の命)を与えるには、彼の罪の価が払われてこそ可能です。罪の赦しは、「等価の償い」ですから、人には動物の命ではなく、「人の命」が必要です(出21章23~26節参照)。身代わりになる「無罪の人」になるために、クリスマスが用意されました。

神に愛される友よ。「私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53章5節)イエスの十字架の契約だけでは不十分ですか。二つに裂かれるだけでなく、切り刻まれたら満足するのですか。主は、わがままな心を退けず、その罪人のため、今日も十字架から降りません。

15章9節 ②

日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。

アブラムは、神と契約するために動物を裂き、猛禽類に食べられないよう追い払っていました。しかし、日が沈む頃、彼は深く眠ってしまいました。命を賭けた大事な契約を結ぶ時、すぐれた人格者であるアブラムが眠ってしまった?とは不思議です。彼は、よほど疲れ、幼子のように所選ばず眠ったのでしょうか。

彼の眠りは、体調不良や疲れや優柔不断からではありません。この契約は、神と人が対等に肩を並べ、裂いた動物の間を行き来して結ぶことはできません。そうするならば、約束を守れない(罪を犯す)人間は、明日を待たず裂かれ(死ぬ)ることになります。そこで神は、御自分だけで契約を結ぶために、アブラムを強制的に眠らせたのです。

「神は来て、あなたがたを救われる」(イザヤ35章4節)とは、御子イエスに人の罪の責任を負わせ、人には求めないことでした。だから、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ロマ3章24節)。

人に責任を取らせないために、強制的に人を眠らせ、御自分だけで十字架(裂かれた動物)になられた主に、感謝と賛美をささげましょう。

15章9節 ③

煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで…。

大事な契約を結ぼうとする時、相手が眠っているなら、不信感から帰るか、あるいは揺すって叩き起こし、契約内容を再確認させてから契約を結ぶものです。しかし神は、アブラムを眠らせたまま、裂いた動物の間を御自分だけで行って、帰り、契約を結ばれました。

すると、この契約の内容は、神がアブラムとの約束を破った時は「神が裂かれ(死)」、アブラムが契約を破った場合も「神が裂かれる」ことになります。どちらが契約違反をしても、裂かれる(罪の代価・死)のは人ではなく神です。

人にとってこんなに都合のよい契約はありません。これは、「神が人間の全ての罪を負う」契約です。それは、「神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4章8節)。これぞ、神の愛・アガペー(完全愛・自己犠牲愛)です。悪人でも、自分の子の罪の罰を引き受けようとしますから、神はなおさらそうされます。

友よ。あなたを眠らせ、罪の罰を負わせまいと、御一人で十字架の契約を成就した神の愛を知ってください。あの時は眠らされていたとしても、今は眠りから目覚め、霊の目を大きく開いて、主の愛の御業を見てください。

15章18節

その日、主はアブラムと契約を結んで…。

信仰の章といわれるヘブル書十一章一節に、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの…」とあります。アブラムが信じて義とされたことを確信させる保証は、何でしょうか。勿論、キリストの十字架です。そして、復活のいのちです。

「十字架と復活」の確信は、どのように受け取れるものでしょうか。悔い改めの涙と共に…、飛び上がるほどの感動…、なんとなくいつの間にか…。また、信じて直ぐに…、長年求めた結果…、自分で意識しないとき…。これらの体験を持つ人もいますが、根本的な根拠にはならず、根拠にしてはいけません。確信の根拠と保証は、「主はあなた(アブラム)と契約を結んだ」にあります。

友よ。先の「信仰は望んでいることがらを、…保証し、確信させる」を、「神は、私が信じるとおりにしてくださる…」とするのは間違いです。これは、自分に根拠を置く「自作自演自滅信仰」になります。信仰とは、「神が、私に望むこと」を私が受け止め、信じ続けることです。すなわち、「神作神業神成就信仰」です。今、信仰をもっていることは、あなたの行為によらず、神の一方的恵みなのです。信仰は賜物です。

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