キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第17章

17章1節 ①

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。

イシュマエル誕生後、アブラムの99歳までの13年間が空白になっています。この間、どのように彼は過ごしたのでしょう。

みことばを読み、祈り、礼拝に出席する信仰生活の中で、いつも明確な神の声を聞くとは限りません。しかし、単調で変化のない平凡な日々に、神の声は聞こえなくても恵みは蓄えられています。その恵みが恵みとしてわかるのは、神の次の明確な御心が示された時です。

アブラムは、13年後に神の御心を再び受け取りました。この時、それが神の声であると、すぐ理解できました。そして、その御心にすぐに「ひれ伏し」(同・3節)ました。彼がそのようにできたのは、かつて神の声を聞いた経験があったことと、なによりも神の約束の言葉を忘れず信じ続けてきたからです。

愛する友よ。年に数回の華々しい集会よりも、毎週の礼拝と祈祷会、日々の聖書通読と祈りが、より重要です。また、素晴らしい集会を!預言を!賜物を!と求めて動き回るよりも、神のみことばを信じて耐えることの方がもっと難しい信仰の業です。そして事実、神の声(御心)を本当に聴く人は、主を仰いで耐え忍んで待ち望む人です。

17章1節 ②

「わたしは全能の神である。あなたは私の前を歩み、全き者であれ。」

原語で「全能の神」とは、「エル・シャダイ」で、「シャダイ」には「母の乳房」の意もあると聞きます。赤ちゃんに必要な全ての栄養が母の乳房の中にあるように、人に必要な全てのものを備えておられる神こそ、「全能の神」です。人は神によって「完全」にされますが、「完成」されるのはもっと後です。

みかんの木に花が咲き、小さな青い実をつけます。青い小さな実でも、「完全なみかん」ですが、成熟し完成された「全きみかん」(食べられる実)とは言えません。同じく人も、神を信じたときに「完全ないのち」を受けますが、成熟し、「完成された人」となるには多くの時間がかかります。

しかし、神に感謝します。赤ちゃんが母親から受ける「いのち」と「世話」によって成長するように、神は私たちを完成することにおいて全能なお方です。「生んでやったから、後はがんばって罪を犯さずに生きよ」とは言わず、「しかし、成長させたのは神です」(Ⅰコリ3章6節)と言われます。

友よ、赤ちゃんが母の乳房を吸って生き、成長するように、今日も全能の神の胸の中(愛・御側)生きましよう。

17章1節 ③

「わたしは全能の神である。あなたは私の前を歩み、全き者であれ。」

右の言葉を間違うと、「わたしは全能の神であるから、あなたは罪を犯さず、完全な者となって歩め」と受け取ります。その背景には、「私に仕えよ、奉げよ。私はお前の後ろにいて間違ったら罰する」が常識の偶像の神々のイメージがあるからです。しかし、聖書の神はそのようなお方ではありません。

ある人がユダヤ地方を旅した時、羊の群れを後ろから追い立てている羊飼いを見ました。「羊飼いは羊の前に行き、羊がついていく…」という聖書の記事(ヨハネ10章2~4節)と違っていることに疑問を持ちました。しばらくして理由がわかりました。羊は、屠殺場に追われている途中…だったようです。

「全き者」とは、行いの完全ではなく、神に依存することにおける完全のことです。「わたしの前を歩み」とは、「神の御心の中を」との意味で、その反対は「神から外れ、自分勝手に歩む」ことです。神の御心と御手に依存することが、「全き者」と神に認められる人です。

罪の中にいる不完全な者を、完全にできる「全能(シャダイ)」なるお方こそ、私たちの神です。今日も主の前を歩む祝福された日です。

17章5節

「もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。」

アブラムの名は、「大いなる国民の父」の意です。ここに一字「ハ」が加わって「アブラハム」となると、「多くの国民(国々)の父」という意味に変化します。名前が変わると、その人の存在と働きも違ってきました。

聖書では、ヤコブがイスラエルに、シモンがペテロに、サウロがパウロに名前が変わりました。ヤコブはペヌエルの経験の後(創32章)、シモンはイエスを主と告白した直後(マタイ16章)、サウロは主の光に打たれた後(使徒9章)でした。それは、三人とも神と出会った後から、彼らの存在が根本的に変わったので、名前が変わったのです。

聖書に登場する人々の名前は、ある働きの後で、その働きに合う名前に変えた、と思うほどです。しかし、それは神が人の存在と生涯のすべてに、最初から御計画を持っておられたことを教えています。

神は、御自分の計画を実行する人を選び、賜物を与え、行動へと導きます。それに応えた者は、神が与えたその人への名(存在意義)を持ちます。

友よ、神と出会い、交わる者には、必ず新しい名があります。自分の新しい名前(存在意義)を知っていますか。

17章7節

わたしは、わたしの契約を…代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

旧約聖書は「初めに、神が…」、新約聖書は「初めに、ことばが…」(ヨハネ福音書)から始まりました。すると、「神」と「ことば」が何よりも大切であるとわかります。

パソコンは、プラスチックやシリコンや鉄などの材料から造られたのでなく、ある人々のビジョンによって造られました。同じく、人の出生と人生も、神がおられ、神のビジョンによって始まります。そのことを知らなければ、自分が何者でどう生きてよいかわかりません。

アブラハムは、神のビジョンを知らされ、そのために割礼の契約を求められます(10~14節)。過去と現在が未来を作りますが、未来のビジョンが現在を作り、過去に意味を与える、とも言えます。ゆえに、「幻(ビジョン)がなければ民は堕落する」(箴言29章18節)ようになります。

友よ。神が与えるもっとも大事なビジョンは、子孫を博士やピアニストにするという類のものではなく、あなたと子孫が、「まことの神を信じ、神と共に歩む」ことです。この一点への集中が、「後の子孫」の生涯を左右します。冒頭の「わたしの契約」とは、「神の国とその義とを求めよ」でもあります。

17章9節

「あなたは、あなたの子孫と共に、代々にわたり、私の契約を守らなければならない。」

「幻がなければ民は堕落する」の後に、「教えを守る者は幸いである(箴言29章18節・新共同訳)」と続きます。それは、主の幻は教えを守り続けて実現することを示します。主への信仰を、次の世代、さらに後の子孫へと継承することは大変なことです。多くのクリスチャン家庭の子たちが、神との契約から外れ、サタンと世に魂を奪われる現実を見ます。

旧約聖書でも初穂の供え物が重要視され、新約聖書も「初物が聖ければ、粉の全部が聖い」(ロマ11章16節)と強調されています。「初穂」とされたアブラハムの「聖さ」が、後の子孫に「信仰の遺産」を残します。子孫は、父の遺産を用い、神と自分の関係を作り上げ、さらに蓄えて子孫へと渡します。

初穂の友よ。また、何代目かのクリスチャンでも、次の世代にとってはあなたが初穂です。初穂が神に献げられると、神はそれを喜び、用い、その家族を祝福しました。信仰は、私だけのものでなく、家族と後の子孫のためのものでもあります。それは重荷?でも、それに子孫の「命と祝福」が詰まっています。あなたを、主が背負われます。

17章14~15節

「あなたがたが守るべき私の契約…。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。」

この後、「割礼」のことがたびたび出てきます。割礼は、生まれて間もない男の子の生殖器の包皮の一部を切り取り、他民族とユダヤ民族を分ける選民のしるしでした。

なぜ、耳たぶの一部などでなく、生殖器なのでしょうか。パウロが、「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです」(コロ2章11節)の中、とくに「肉の体を脱ぎ捨て」に理解の鍵があります。それは、男性の生殖器は、命を伝えるものです。それを切り取ることは、人の肉の命を「絶つ・伝えない」ことを表わします。

これは、主の十字架につき、古い自分に死ぬことです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2章20節)。これが霊の割礼です。

友よ。子どもたちの割礼は済んでいますか。しかし、その前に自分自身が割礼を受け、肉の命を子どもに伝えてはなりません。霊の割礼は、過去に受けた一回の洗礼の経験だけでなく、今日も、明日も必要です。

17章12~14節

「あなたの子孫ではない者も…割礼を受けなければならない。…無割礼の男…は、民から断ち切られなければならない。」

ユダヤ人の血を引く者に限らず、割礼(信仰告白・洗礼)を受けた者が神の民と呼ばれます。ユダヤ人でも異邦人でも、「イエスを主」と信じる者は、罪の赦しと復活の命を受けて神の子とされます。「神には、かたより見ることがないからである」(ロマ2章11節)。

世界には、「割礼のある人・ない人」「神の命を持つ人・ない人」の二種類の人がいるだけで、国籍も人種も関係ありません、と言うと了見が狭く危険だと批判されます。世間では、「絶対」を否定した小説が大流行しています。確かに、人が教祖や絶対者になることは、聖書も否定しますが、「神の存在・人の救いの基準」を曖昧にすることはできません。

馬とロバが交配してラバが生まれますが、ラバは子孫を残すことができません。人は、「神も世も・霊も肉も」が好きです。そのような者は、「冷たくもなく、熱くもない」(黙3章15節)者ですから吐き出されます。こと、いのちに関しては、曖昧や中間はラバのようで、子孫(救われる子孫)を残せません。 肉体が生きていても、永遠の命(世継・子孫)はありません。

17章15~16節

「その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。…彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出る。」

先に、アブラムをアブラハムに、そしてこの度、妻サライをサラと改名するように、神に言われました。名は存在を表し、改名は、「存在・使命・立場」の変化を示します。

人は、男女・国籍・年代など、さらに賜物や使命などの存在意義も、自分で選択する以上に神によって定められます。アブラハム夫婦は、「多くの国々の父(アブラハム)と母(サラ)」という、同じ使命を与えられて歩み出しました。

自分が神の子の名を持っても、伴侶が古い名のままでは淋しいことです。神に名を変えられた者同士が、同じ使命に歩めたら大きな力となります。また、それは夫婦のみか、「彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう」(16節)とある、子どもの救いと成長に関しても大きな影響を与えます。

伴侶や子どもの現実に心痛む友よ。妻・夫の名前(存在)を変えることができるのは神です。名前を変えることのできる神に祈りましょう。「あなたが多くの子どもの父(アブラハム)・母(サラ)となる」とは、神の御心に適う祈りです。御心に適う祈りは、必ず聞いてくださると、神が約束されています(Ⅰヨハネ3章22節参照)。

17章17節

アブラハムはひれ伏し、そして笑った…「百歳の者に子どもが生まれようか。」

「ひれ伏し、笑う」とは、奇妙な行動ですが、信仰者の現実の一端をあらわにしています。「ひれ伏す」とは礼拝している姿、「笑う」とは不信仰の心を表します。彼の態度は、「礼拝しつつ、心では信じない人」、または、「神御自身は信じるが、神の言葉は信じられない」者の姿とも言えます。

たしかに、100歳と90歳の老夫婦に子が生まれる、と聞いても信じるより笑います。しかし、「朽ちるものが朽ちないものに、卑しいものが栄光あるものに、弱いものが強いものに、血肉が御霊に属するものに変えられる」(Ⅰコリ15章42~44節参照)のが神の世界です。事実、罪と死の中にいた私たちが、神の子の命を受け取っています。これは、100歳近い夫婦に子が生まれるのと同じ奇跡です。

愛する友よ。自分の心の中に巣くう、「信じつつ笑う」二律背反(対立し矛盾する両方に同じ権利を与える)信仰ではなく、「主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いなことでしょう」(ルカ1章45節)と言って主を讃美した、老夫人エリサベツにしていただきましょう。

17章18節

「アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」

イシュマエルは目に見える確かな現実です。それは、100歳の老夫婦に、これから生まれてくるであろう子よりも、はるかに確かなものと受け止められるものです。

イシュマエルは自分の手の中にあり、これから生まれる子は神の手の中にあります。それは、人の可能性を選ぶか、神の可能性を選ぶかの決断です。アブラハムはここに至ってなお、自分の可能性を取ろうと、もがいています。

信仰は、一番簡単なことで一番難しいもの、と言えます。それは、自分が神に登って行くか…(律法)、神に自分のところに来ていただくか…(恵み)の違いです。律法は「行い」によって、恵みは「信仰」によって全うされます。しかし、人は簡単な「信仰」ではなく、難しい「行い」を選びます。それは、人の中に罪の血(神よりも自分)が流れているからです。従って、だれも自分から信仰を持つことはできません。

だから友よ。「主よ、私に信仰を与えてください」と祈りましょう。すると、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ9章7節)との御声を聞き、「助け主の聖霊」が遣わされ、みことばへの「信仰」を与えます。

17章20~21節

「イシュマエルについては、…わたしは彼を祝福し…。しかしわたしは…サラがあなたに産むイサクと、わたしは契約を立てる。」

イシュマエルとイサクは、両方ともアブラハムの実子ですが母親は違います。神はイサクと契約し、イシュマエルとは契約しないと言われます。なぜでしょうか。

「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(Ⅰコリ15章50節)がその答えです。イシュマエルは、アブラハム(霊的)+ハガル(肉的)の子でした。イサクは、アブラハム(霊的)+サラ(霊的)です。イシュマエルは福音(神のわざ)+律法(人のわざ)で、もう一方のイサクは福音+信仰(神のわざ)を表します(ガラテヤ4章22節以下参照)。人は、「恵みのゆえに、信仰によって」(エペソ2章8節)救われます。

アブラハムがイシュマエルをかばうのは、自分の肉(わざ)を残したいからです。しかし、これは神の愛とは似て非なるものです。「イサクもイシュマエルも」の平等意識を捨て、「イサク(霊・福音・信仰)」と「イシュマエル(肉・律法・行い)」を区別してください。

友よ。神は、「イシュマエルを捨てよ」と言うのでなく、「私に委ねよ」と言われます。

17章24節

ユダヤでは、男の子が生まれて8日目に割礼を行いましたが、アブラハムの割礼は遅く、99歳になってからでした。

割礼は「肉に死んで霊に生きる」ことを、肉体上に見える形で表すしるしでした(P160・17章10節参照)。肉に死ぬとは、人間の命の可能性を失うことです。100歳近い老夫婦には、子を産む可能性が全くなくなりました。これこそ、割礼の本質であり、割礼を受けるによい年齢といえます。

あなたは、いつ割礼を受けましたか。洗礼がその時でしたが、さらに実際的割礼は試練によって受けるものです。パウロは、死を覚悟する激しい試練によって、「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼むものとなるためでした」(Ⅱコリ1章9節)と言いました。これもまた、自分に死に、主に生きる割礼の出来事でした。

友よ。病の宣告、経済的問題、愛する者との別れ、親子・夫婦・子ども・嫁・舅や姑の関係など…心を塞ぐ死の壁の前にたたずみ泣き、そしてそこから主を見上げるとき、神はあなたに割礼を実行しています。愛するあなたを、さらに、さらに愛するために!

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