キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第2章

2章2~3節

神は、…第七日目に、休まれ…祝福し、

神は、6日で天地の創造を終えて7日目に休まれました。やがてモーセの十戒に、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」と記されました。安息日は「中止する」から、覚えるは「思い返す」から派生した言葉だそうです。ですから、「なにかを思うために、普段の営みを休む」のが第7日の目的です。

この日は、神がおられること、自分が神に造られ、神に依存していることなど、神と自分の関係をいつも以上に覚える(思い返す)ために、他のことをしない(中止)日です。

愛し合うことは、一朝一夕にできません。まず、相手を知るための会話が必要です。そのためには時間が必要です。家庭の貧しさは、物の貧しさではなく、愛し合う時間の貧しさです。愛は自動的に出てくるものでなく、つくり出すものです。そのためには時間が必要です。

同じく、神とあなたの関係もつくられるものです。神がこの日に休まれたのは、疲れたからではなく、あなたと交わる時間をつくるためです。とりわけ、一週間の中の一日は、他のことを休んで「神を思う一日」として過ごしてください。

そして、一日のどこかに、ほかの事を中止して、神と交わるための時間を少しつくってください。主は待っておられます。

2章3節 ①

神はその第七日目を…聖であるとされた。

「聖」とは、「神のために分ける」との意味です。申命記五章では、エジプトの奴隷から救われ、紅海を渡り、神の国に救い出されたことを思い起こすために、安息日を「他の日と分ける」特別な日としなさいと記しています。

エリック・リデルという人がいました。彼は、1924年パリオリンピック100メートル走で金メダルに一番近い英国代表選手でした。彼は、競技予選日が安息日と重なったため出場を辞退し、多くの非難を浴びました。その時、彼の友人が自分の出場する400メートル競技をリデルに譲りました。彼は、その種目を走り世界新記録で金メダルを得ました。そして、「私は主のために走り、生きる」と言いました。(彼は後に、宣教師として中国で伝道し、第二次大戦終了前に、日本軍の獄中で天の父のところに帰られました)。

彼がこれほど頑固に安息日を守ったのは、それほどの価値があったからです。なぜなら、父なる神は、御子イエスを私のために「聖=分け」て人の姿にしました。御子は、御自分のいのちを十字架で「聖=分け」て私の罪の身代わりとなられました。だから、私も神のために一日を「聖=分け」て当然です。

いのちは、いのちで受け取り、感じ、知るものです。この日は、神のいのちを受け取るために、他の日と分けられた一日です。

2章3節 ②

その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

聖書は、人に休めと命じる前に、神御自身が「休まれた」と記します。神は、広大な宇宙から一つひとつの細胞まで造ったので疲れたのでしょうか。否、神はそのようなお方ではありません。休まれた理由は、あなたと会うためにこの日を空けられたのです。

神は、「この日はわたしの家に来なさい。共に語り、遊び、散歩し、食事をしましょう」と言われます。そして、充分交わった帰りがけに、「知恵・力・寛容・忍耐・自制・日々のあらゆる糧…」が詰められた、「愛」と書かれた袋をお土産に持たせてくださいます。そして、「この袋の中の一つひとつは、明日からの6日間あなたに必要なものです。次に来る日までこれを使いなさい」と言います。

やがて、この日は「主の日」と呼ばれました。主はペテロに、「もしわたしが(あなたの足を)洗わなければ、あなたはわたしとなんの関係もありません」(ヨハネ13章8節)とまで言いました。

愛する友よ。主の日こそ、神からの恵みに招かれた日です。ここでいただく恵みのお土産が、あなたを一週間神につなぎます。この恵みによって自分の貴さを確認します。さらに、この恵みが隣人に仕える力、愛するいのち、受け入れる寛容さを生み出します。

2章3節 ③

神は、人を…創造された。…神は第七日目を祝福し…人は、生きものとなった。

創世記の1章~2章3節までを第一創造記事。2章4節から第二創造記事ともいいます。

第一創造記事では、宇宙の創造の始まりから「肉の人(自然生命)」の創造について記され、第二創造記事では、いのちの息を持つ「霊の人(神のいのちを持つ人間)」の創造に重点が置かれて記されています。

第一創造記事では「人は何ものか」を、第二創造記事では「人はどう生きるべきか」を伝えます。そして第一と第二の間に、安息日の記事を挟みました(2章1~3節参照)。それは、「肉なる人」が、第七日の祝福を受けると、「霊の人」に創造され、「罪人・人の子」が第七日の祝福を受けると、「義人・神の子」になるというメッセージでもあります。

親から生まれたままの人は、「人の子・肉の人・罪人」です。それが、「神の子・霊の人・義人」になるのは「安息日」という、「神とのいのちの交わり」を通してです。この日を主が設けられたのは、あなたを死ぬ者から生きる者にするご配慮です。

友よ。多様化社会の中で日曜日を安息日とできないなら、どこかの一日を安息日とし、一日の中の数分間でも聖別して、安息時間としてください。

2章7節 ①

主なる神は土のちりで人を造り

(口語訳)

両親と社会より肉体と心(知性・感情・意思)を、自然界より食物などを受け取ります。それは、この世界で受ける「生」とも言うべきもので、やがて聖書は「肉」とも表現するようになります。

多くのものに、「器」と「中身」があります。宇宙は地球のための器、家は人が住むための器、肉体は心のための器、心は神の霊を入れる器です。中身が大切ですが、器が悪いと中身もダメにしますから両方が大切です。

しかし、目的と手段が違うように優先順位があります。その最優先は、「いのち」です。人は、ちりで造られる「肉の人」だけでは不完全で、肉の人なる土の器に「神のいのち」を受け取ることで完成します。「それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章16節)。

友よ。あなたは、神のいのちを持って、「あなた」として完成されます。そして、そのいのちは「土のちり」にはありません。あなたの本当のいのちは、イエスを神と信じる者に宿る、霊の世界から注がれるいのちです。

2章7節 ②

その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

天地の創造物語は、一見、童話のように見えます。しかし、この方が神の意図がよくわかります。たしかに、鼻は息をする所ですから、そこから息が入るのは理にかなっています。  

この「息」という言葉は、一般的に言われる心(知性・感情・意思)とか精神とも違います。ヘブル語では「ルアハー」、ギリシャ語では「プニューマ」といい、どちらも「風・息・霊」とも訳されます。この息こそ、神が人に与えたいと永遠の昔から願い準備した「神の霊・いのち」なる「永遠のいのち」です。

無機質からいのちは出てきません。「いのち」から「いのち」が、しかも「同じいのち」がつくられます。犬は犬のいのちを、人は人のいのち(肉)をつくりますが、永遠のいのちはつくり出せません。それは、神と交わる(信じる)者だけに与えられます。だから、「わたしはいのちです」(ヨハネ14章6節)というイエス・キリストが必要です。

主イエスを求めることは、いのちを求めることです。「御子(イエス)を持つ者はいのちを持っており…御子を持たない者はいのちを持っていません」(Ⅰヨハネ5章12節)。

2章7節 ③

人は…生きる者となった。

(新共同訳)

クリスチャンの哲学教師が、「皆さん、生きていますか?心臓が動くことが人間の生きていることではありません…」と語りました。その先生との出会いにより、一人の青年はイエス・キリストを主と信じる者となり、彼の人生が変えられました(拙者証し)。「生きる者」とは、神のいのちを受け取り、神のいのちで生きる者、のことです。

外側のものは、いのちを守ることはできても、いのちは作れません。強健な肉体も、優れた知恵や知識もいのちは作れません。むしろ、内側のいのちが外側のかたちを作ります。犬は犬として、猿は猿として、人は人としてのかたちになります。それは、「犬・猿・人」のいのちが、必然的に作りだすそれぞれの行動です。人は、親から受け継いだ、「人のいのち」で生きると、自己中心な行動しかできません。

愛する友よ。あなたに必要なことは、神のいのちの息を吸い込み、その息によって「生きる者」となることです。主イエスはあなたに、「聖霊を受けよ」(ヨハネ20章22節)と言われます。そして次に、「聖霊に満たされる(支配される)」ことです。神のいのちを受けとり、神のいのちによって、今日も歩んでください。

2章8~9節

神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。…園の中央には、いのちの木…善悪の知識の木を生えさえた。

「エデン」の意は、喜び、歓ぶ「歓喜」です。神の創造目的は、「われわれ(父・子・聖霊)」の交わりの中に人を迎え、一つとなって喜ぶことでした(ヨハネ17章22節参照)。そのために神は、「園」と「園の中央」を備えました。

「園」とは、宇宙、地球も含む「自然界」で、土のちりで造られた人間の自然生命(肉体・心)をつくり、養い保つところです。肉体のための食料、生命を支える科学、人同士が交わる社会などです。「園の中央」とは、神のいのちの息を受け取り、神とつながり・交わる、「霊の世界」です。人は、肉(自然生命)と霊(神の子のいのち)を持ちます。そして、「園」からは肉のいのちを、「園の中央」からは霊のいのちを受け取ります。

神が創造された「園」も「園の中央」も、愛の配慮に満ちています。地球の素晴らしさ、四季の変化、山、川、田畑、海から受け取る食物…。人間の体の不思議なまでのバランス。言葉によって互いを内側まで知り、涙し合う交わり。そして、永遠のいのち。「ただひとり、驚くべき御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩136・4節)。 

2章9節 ①

園の中央には、いのちの木…をはえさせた。

園の「中央」は、地球の中心ということではなく、「神は霊です」(ヨハネ4章24節)という霊の世界です。そこに「いのちの木」と「善悪の知識の木」が置かれていました。中央は、人の「息・霊・いのち」の場所です。

「いのちの木」については、「取って食べよ」「食べると永遠に生きる(創3章22節…人が食べて聖い永遠の世界に罪が入ることを阻止するために言われた箇所)」と言われました。なによりも、主イエスが「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(ヨハネ6章51節)、「これは天から下ってきたパン(イエス)です。…このパンを食べる者は永遠に生きます」(同・58節)と自ら語られました。食べるとは、「信じる」ことです。

あなたの宝は、財産・家族・健康…ですか。それらは、失われる可能性のあるものです。本当の宝は、「いのち・永遠のいのち・イエス・キリスト」なのです。そのお方が、「私を食べよ」と何度も勧めます。

人のエネルギーは肉体にあるのでなく、食べ物にあるように、イエスがエネルギーです。今日も、感謝してイエスさまを食べ(信じ)させていただきましょう。

2章9節 ②

園の中央には、いのちの木…をはえさせた。

善悪の木は、「取って食べてはならない。食べると…必ず死ぬ」(17節)と言われています。そしてだれもが、「いのちの木を置いたのはいいが、善悪の知識の木は?この木がなければ人類に罪が入ってこなかったのに?神が愛だとわからなくなる」と言います。

「善悪の木」は、神が人に「人格(自由意志)」を与えたために、どうしても置く必要がありました。人は、神に「然り」と「否」を言える、「自分自身の善と悪」を持つ者だからです。

だからこそ、十戒で代表される、「善悪の知識の木」という「戒め・十戒」を置いて、神の真理(善と悪)を最初から教える必要がありました。善悪の木の実を取って食べるとは、戒めを自分が握ること、自分が善悪(真理)を決めることです。真理・善悪は、神だけが決めるものです。

自由意志を許さなければ、神と人との愛の交わりは成立しません。愛は、相手に自分の願う条件を押しつけません。それをシェークスピアは、「愛は愛を作らない」と言いました。それは、「あなたが…になってくれたら、私はあなたを愛します」というのは本当の愛ではないとの表現です。

神はあなたを愛し、あなたの自由意志を尊重します。あなたの全人格を、神に服従するために用いてください。その服従の基準こそ「善悪の知識の木」である「十戒」です。

2章10節

エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤しそこで分かれて、四つの川となっていた。

神のもとから1本の川がエデンの園に流れ込み、4つに分かれ、地を豊かに潤していました。第1の川はピション=豊か、第2の川はギホン=恵み、第3の川はヒデケル(新共同訳はチグリス)=結実、第4の川はユーフラテス=力、の意でした。この川の水が、人々の人生を、「豊か・恵み・実を結ぶ・力に満ちる」ものにすることができます。

ルツ記のエリメレク家は、ベツレヘムを離れてモアブへ行き、放蕩息子(ルカ15章)は、父の元を離れて遠い国へ出掛けた。その結果、両者とも飢饉に苦しみました。飢饉は、エデンの川の水(豊か・恵み・実を結ぶ・力に満ちる)から離れ、この世の水を求めたからでした。

しかし、エリメレク家には「ボアズ(親戚・贖う者の意)」、放蕩息子には裕福な「父」が最初からいました。エリメレクは「ボアズ(主イエス)」を、放蕩息子は「父(父なる神)」を信じず(愛さず)、世を愛しました。

愛する友よ。エデンから流れてくる水こそ、イエスのもとから遣わされる聖霊の神です。人生の豊かさと幸福は、エデンから流れる川の水を飲み続ける者に実を結ばせます。

2章15節

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

人は、エデンの園でのんびり…というわけにはいきません。神は、「耕し、守れ」とアダムとエバに命じられました。「文化」という言葉は「耕す」から派生したとか。現代は、人間の、「技術・学問・芸術・道徳…」などを文化と呼びますが、本当はどうでしょうか。

科学、芸術、政治経済などあらゆるものは、善悪の知識の木である「戒め」に従っていなければなりません。そうでなければ、科学は殺人へ、芸術は自己主張へ、政治経済は権力へと流れて行きます。

エデンを「耕す」ためには、神の御心に従う「信仰」が必要です。耕すのは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する、「愛の実」を収穫するためです(Ⅰコリ13章参照)。神は、人がエデンで愛の実を収穫するための道具として、学問、科学、芸術、政治経済などを与えてくださいました。

友よ。あなたは「文化的生活?」をしていますか。多くの便利な物、高い知性、良い道徳性をもつことではなく、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛することが、「文化(耕す)的生活」です。それは、神に服従する「信仰生活」です。この世界を「耕し、守る」作業は、とくに信仰者に期待されています。

2章18節

「人がひとりでいるのは良くない。私は彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

神は、人を中性でなく男と女に造りました。自分自身もわからない者同士が、もう一つの人格と共に生きることは難しいことですが、神はさらに勝った計画の持ち主です。

父は御子イエスを愛し、御子は人々を愛します。人は男と女に造られ、男は女を、女は子どもを、守り愛します。子は親に、妻は夫に、夫はキリストに、キリストは父なる神に従います。神のいのちは「愛の秩序」を通して流れ、秩序によって守られ成長します(Ⅰコリ11章参照)。

神は、人が愛に生きるように結婚を定めました。大学の授業に「結婚学」を最初に取り入れたスイス人ボヴェー教授は、「愛が結婚を作るのでなく、結婚が愛を作る」と言いました。愛が結婚を作ると考える人は、愛がなくなったら離婚を選びます。結婚が愛を作るためには、「神が私にこの人(男・女)を備えた」との信仰が必要です。

それは、結婚の基盤を自分たちの愛でなく、神に置くことです。あなたの結婚の責任を神に差し出し、負っていただいてください。神はどんな求めよりも、家族が神の愛によって生きるための祈りを聞いてくださいます。

2章19節

人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

「名」は、そのものの属性、性格、能力など存在の全ての表現です。従って、命名するとは、そのものの「存在を決める」ことです。神は、アダムに野の獣や空の鳥に名前をつけることを許されました。それは、人が動植物の存在(意味・価値)を決めることです。

神は人に、動物を「生かす、殺す」の権限を与えられました。聖書は、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」(ロマ8章21節)と記します。

動植物は、人に仕えるために神に造られました。そのために動植物は虚無に服して(同・20節参照)、人が神の子として生きるために仕えています。動植物には、人が神の子になることが、彼ら(動植物)の、「願い・救い・喜び」ともとれます。

だから、私自身こそ、何より先にヤコブ(押しのける者・罪人)からイスラエル(神の王子)に、名前(存在)を変えていただかねばなりません。人が正しくなれば、正しく「地を治める」(創1章26節)ことができます。すると、自然界は私たちをより祝福し、ともに神をたたえることができます。

2章22節

神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、…連れて来られた。

男のあばら骨は女より1本少ない?と錯覚するほど、この物語は童話的ですが、ここに奥義が秘められています。あばら骨は、内臓、とりわけ心臓を守るためのものです。心臓はいのちの中核を表す「ハート(心・愛)」の場所です。取られたその1本が戻ってくるまで、その人のいのちは満足できません。

人は、自分から取られたあばら骨を持つ人に出逢いたいと願います。その人と一つになって満たされるからです。自分の失われた1本のあばら骨を持つ者が伴侶です。その人が「だれ」かは、自分から1本を取って人(伴侶)を造ったお方(神)が良く知っています。伴侶を求める人は、神に求めてください。

自分のいのちの満足を、一本分けた相手の責任にはできません。なぜなら、相手が持つのは私の1本で、自分は23本持っていますから、相手より自分自身により多くの責任があります(男性・女性を超えた相手に対する考え方として)。それ以上に、抜き取った骨1本を元に戻し「結び合わせた」(マルコ10章7節)のは神です。

まずは神に責任を求めてください。次に自分の責任をより多く考えてください。そして、神に愛を祈り求めましょう。

2章24節

男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

あるものと一つになるには、今まで一つであったものから離れなければなりません。人は、父母との一体化から人生を始めましたが、伴侶と一体となるためには、父母から離れなければなりません。

離れるとは、関係を切ることでなく、今まで一つだった父母以上に妻と一体となることです。主はそのことを、「私のもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まないものは、私の弟子になることができない」(ルカ14章26節)と言いました。

ここでの「憎む」とは、イエスよりも、父母・妻・子を愛する(依存)ことを止めることです。それは、偶像礼拝と同じになります。親が子を自分の「いのち」とするので子離れ(親離れ)ができません。自分自身も含め、人を神としてはなりません。

人は、親から離れて夫婦となれます。さらに、伴侶、子、人々から離れて神と一つになれます。神と一つになる時、私の中に親・伴侶・子を愛する御霊のいのちが満ちます。彼らを憎んだ(離れた)結果は、むしろ彼らを本当の家族として受け取ることになります。

2章25節

人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

子どもたちは、小学五・六年生ぐらいから風呂上りに裸を隠すようになります。隠すのは、見られることに恥ずかしさを持つからです。聖書の「罪」は「包み隠す」の意です。

「二人とも裸」とは、裸体というより、「心の裸」を表します。自分の生い立ち、現実、短所、弱さ、恥、家族の傷も裸になって見せ合える夫婦は幸いです。それは、友人や神の家族同士でも同じです。「愛には偽りがあってはなりません」(ロマ12章9節)。

人が裸でいられるのは親や伴侶の前ですが、神の前に裸になれないとそれもできません。神の前に裸になれるのは、どんな自分でも赦し、受け入れていただけるからです。収税人ザアカイの名は、「清い」の意でした。彼は、自分を隠さず主の前に出て行ったからです。

聖い者とは、神の前に包み隠さずさらけ出す者のことです。「愛には恐れがありません」(Ⅰヨハネ4章18節)。

愛する友よ。幼子のように、神の前に隠し包むものを脱ぎ捨てて裸になりましょう。神の前では、泣き、笑い、叫び、怒り、弱さ…をさらけだしても、神は「父」だから、恥ずかしくはありません。

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