キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第20章

20章1節

アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。

アブラハムは、ロトと別れてのち20年ほど住んだ土地から、後にペリシテ人が支配する海沿いの地ゲラルに移動しました。移動した原因は、外面的と内面的の両面があるものですが、この度のアブラハムの移動は内面的・霊的なことが原因だと思われます。

なぜ、祭壇(礼拝)があり、住み慣れた所から離れたのでしょう。その原因は、ロトにありそうです。彼は、主にロトの救いを祈り、受け入れられたと確信しました。数日して、火に包まれたソドムも見ました。そしてロトが来るのを待ちますが、待てど暮らせど山に登ってきません。やがて、神に失望した彼の心が、信仰の高嶺からネゲブ(世)に下らせたのでは…。でも、神は祈りに応えておられました。ただ、「山へ登れ」とのみことばに対するロトの不従順が、神の御業を隠したのです。

だれかに祈られ、恵みを受けた友よ。神から受けた恵みを証言しないことは、祈る人の信仰を弱らせることがあります。受けた恵みも、悲しみ痛みも、祈りの人に見せてあげてください。それが祈る人に力を与え、祈る人を励まし、さらに祈っていただく恵みを受け取ることができます。

20章1~2節

ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です」と言った…。

アブラハムは、エジプトでの「妹です」事件をここで再現します。

聖書は古いものなので、写本の段階で重複したのでしょうか。否、同じ罪を繰り返す自分の経験からも、これが事実だと理解できます。信仰が弱り、神から離れると、アブラハムと言えども、自分で自分を守ろうとする自己中心な、ただの人になります。

人が同じ罪を繰り返す原因の一つは、「焼き尽くされない罪」がある時です。エジプトでの「妹です」事件では、神が介入し、彼は命を保ち、かつ多くの財産まで得る恵みを経験しました。

しかし、神の大きな恵みが、自分の罪を小さくし、「悔い改め」を小さくします。不完全な悔い改めの残存物が、「焼き尽くされない罪」です。それは、「それでも・しかし・だって」と言い訳し、どこかに「自己義認」を保とうとする隠した罪です。

友よ。「恵みが増し加わるために、…罪の中にとどまる」(ロマ6章1節)ことも、赦された罪にあぐらをかく愚か者になってもなりません。むしろ、赦された恵みを、罪の悔い改めの量に変えるべきです。「その霊に偽りのない人は幸いである」(詩32・1~5節参照)。

20章3節

「夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ…あの女は夫のある身である。」

かつて祭壇を築き、礼拝していた時は、ロトを救うためにわずかの手勢で北の王たちと戦ったアブラハムでした。しかし、今は一人の権力者を恐れ、妻を「妹です」と言いました。神を畏れる高嶺から下りた者は、世を恐れ、自分で自分を守らねばなりません。

神を「畏れる」者は、他者を愛し、仕えます。世を「恐れる」者は、自分で自分を守ろうと他者を仕えさせます。妻を「妹です」という本心は、権力者から自分を守る自己防衛でした。

アダム以来続く罪の連鎖は、嘘、偽りから始まり、殺人、戦争、破滅…と進み、とどまることがありません。アブラハムもその道を走り出していました。しかし、それをとどめたのはアビメレクへの神の介入でした。

今、神から離れ罪の連鎖の中にいながら、「それでもうまく行っている」と自負している友はいませんか。「うまく行っている」のであれば、神の御手があなたのアビメレク(訴える者)を押さえているからです。

友よ。今から、ここから、祭壇を築く生活に戻り、神の愛の中に飛び込んでください。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる」(詩34・18節)お方です。

20章5節

彼女自身も「これは私の兄だ。」と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。

「妹です」事件の一連の出来事を見ると、信者のアブラハムは不正直で、未信者のアビメレクには偽りがありません。アビメレクの方が、アブラハムより清く正しく見えます。しかし、この判断には見えない罠があります。

それは、「犯した罪(出来事の罪)」に目を奪われ、「根本的な罪(存在の罪)」を見過ごすことです。人の目では、嘘をついたアブラハムが悪くアビメレクが正しいとなりますが、神の目からは、それでも、アブラハムが正しく、アビメレクは罪人です。

神が人を見て判断するとき、「犯した罪」よりも、「存在の罪」により注目します。犯した罪には、「悔い改め・回復」の機会がありますが、神を信じない罪は、赦される機会を失います。アビメレクの、「私は正しい心と汚れない手で」とは、世の基準であって、神の基準の清さではありません。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は…すでに裁かれている」(ヨハネ3章18節)が神の基準です。

友よ。だから罪を犯しても良いというのでありません。罪を犯してもまた赦される神だからこそ、そのお方を悲しませないために、罪から離れるのです。 

20章6節

神は夢の中で、彼に仰せられた。「…あなたが正しい心でこの事をした…。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。」 

アビメレクは、自分の行いが正しかったと神に弁明します。たしかにその通りですが、神はその彼に、「あなたがわたしに罪(サラを奪う)を犯さないように」したのは、この「わたしだ」と言われました。

ここで、「わたし(神)に罪を犯さない…」とは、神の選びの器・アブラハムの妻が奪われることは、神の栄光が汚されることです。神は、それを守るためアビメレクの罪をとどめました。しかし、神に選ばれた器(牧師や長老)への追従を求めているのではありません。牧師に従うことが神に従うことではなく、神に従うから牧師に従うのです。神に従うからこそ、神の方法で神の器に接すべきです。

兄弟(牧師も)が罪を犯したなら、二人だけのところで(マタイ18章15節)、または二、三人の証人と共に(Ⅰテモ5章19節)、神の愛により、真摯に話すことを怠って非難してはなりません。

指導者もあなたも、互いが罪から守られることは、「わたし(神)に罪を犯さないように」守られることです。互いに罪人だからこそ、みことばに従うことが必要です。

20章7節

「今、あの人の妻を帰していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。」

神の器への接し方は、神に対する接し方に等しくなります。「私(主)は濃い雲の中で、あなた(モーセ)に臨む。私があなたと語るのを民は聞き、いつまでもあなたを信じるためである」(出19章9節)とは、神はモーセの立場を承認し、民が彼を主の器と信じるために雲の中に現れる、と言われます。

私たちは、霊的な「権威と秩序」の中に導かれています。主イエスの御名の下に集う一教会(牧師・教師)、地域(監督)、世界的キリストの体(使徒)としての器が備えられています。神の忠告に従い、アビメレクがアブラハムに正しく接したことは、神への行為と認められました。そして、彼と彼の一族全体が、神の祝福を受けることになりました(17節)。

どの教会にも問題があるからこそ、権威が正しくされ、指導者も自分も神の祝福を受けるために祈りが必要です。また、他教会の祝福は、自分の教会の祝福です。

友よ、指導者と主の器と他教会のために祈りましょう。自分のグループや教会を超え、他者のために祈る祈り手が、「あなたのために祈ってくれよう」の祝福を祈り返されるものです。神の権威に従う者のために、だれよりも祈ってくださるお方は、主イエスです。

20章11節

アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻ゆえに、私を殺すと思ったからです。」

アブラハムのアビメレクへの弁明は、まるで神に対する罪の言い訳のようです。彼は、自分の心が神から離れた根本原因を考えず、周りの人々の不信仰に責任転嫁しています。

人の問題は、霊(いのち)→心(知性・感情・意思)→体(肉体)→他者→出来事の順序で解決しますから、「妹です」と言ったのを、他者の責任にしたのは間違いです。

ヘレン・ケラーのサリバン先生は、ヘレンの霊に光を当てることに的を定めて、彼女の罪と戦いました。ヘレンの霊に光が入った時、三重苦さえ小さくなりました。

人の根本問題は、神との正しくない関係・罪です。それを取り除かねば何も変わりません。罪の心臓を取り除くに、指を切り、手首を切り、腕を落し、それから心臓を突き刺すのは、痛みを増すだけの愚か者です。最初に罪の心臓に矢を突き刺すべきです。

賢い友よ。愚かな解決方向を転換してください。事情・出来事・他者でなく、問題の根本、いのち(霊)からの解決を始めてください。それは、「アバ・父よ」(マルコ14章36節・ロマ8章15節)と祈ることです。事あるごとに、「アバ」と心で叫び求めることです。

20章13節

「私は彼女に、『私たちが行くどこでも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ』と頼んだのです。」 

サラはアブラハムの妹(従妹)ですが、それ以上に妻です。夫婦の愛は、相手の存在を受け止め、全面的に責任を負い合うから一体です。それを、「二人称の関係」とも表現できます。

アブラハムは、一体である故の危険が迫ると、妻を「妹」にし、「二・五人称」のようにしました。それは、恵みや利益があるときは「妻」で、損失や危険な時は「妹」にする自分の身を守る処世術です。また、自分のために相手を利用する愛(エロース=価値追求愛)で、自己犠牲を避ける利己主義になります。主から、「恵みは受けても、苦しみや迫害はごめん」と思う者は、アブラハムと同じです。その人は後に、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない(二・五人称)…吐き出そう」(黙3章15・16)との言葉を聞くことになります。世では中庸が安全地帯と思われがちですが、神の国では危険なところです。

友よ。あなたと主は確かな二人称(花婿と花嫁)になっていますか。それとも、時には二・五人称(友人・知人)にしますか。主に密着し、花嫁になってください。花婿は花嫁を、命を捨てて守ります(ヨハネ10章28節参照)。

20章14節

アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを…、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。

二度あることは三度ある、と言われます。アブラハムは、エジプトの時と同じく今回も、「妹です」事件を通し、多くの財産を得ました。「神は何と甘いお方…もう少し厳しければ、世の中、もっと良くなるのに?」でしょうか。

振り返れば、アブラハムが得た財産は、命を賭けて神に従うなかで(罪を犯しつつも)得たものでした。しかし、私たちは主に命がけでないのに永遠の恵みを得ています。すると、私たちの方がもっと神に甘やかされていることになります。

神がこれほど寛容で恵み深いのは、悔い改めに導きたいからです。もしあの時、アブラハムの罪を裁くだけなら、彼の将来の悔い改めは消えます。ですから、「主の寛容は救いのためであると思いなさい。」(Ⅱペテ3章15節)を心に刻む必要があります。

友よ。神は、あなたに恵みを与えるに早く多くされます。しかし、裁くのは遅く少なくする義務がありました。それは、「父よ、彼らを赦したまえ」との十字架上の叫びの約束が、父なる神と御子の間で結ばれたからでした。「主に感謝せよ。慈しみはとこしえに!」(詩136)

20章18節

主が、アブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの家の全ての胎を堅く閉じておられたからである。

アブラハムの罪の影響は、彼の家族を超えアビメレク一族にも及び、彼らに子たちが産まれなくなりました。一人の神の子の言行は、周りに多大な影響を与えます。

「胎を堅く閉じて」とは、一族に神のいのちが閉ざされたことを意味します。しかし、彼らに落ち度や罪があった訳ではなく、アブラハムの罪のためでした。

それは、「アブラハムの姿を見て、アビメレク家の人々は神に心を閉ざし、その結果、神を信じる者が出なくなった」とも解釈できます。同様に、神の子や教会の罪は、家族や地域の人々の胎(神の子を産む霊の祝福)を閉ざします。

しかし、友よ。責任の重さに負けないでください。パウロもアジア州にいた頃、彼から離れる人々が多く出ました(Ⅱテモ1章15~)。その経験から、「わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」(2章1節)と、罪や弱さの結果より、恵みに目を注ぐようテモテに忠告しました。

あなたが、罪に心を奪われるとサタンが喜びます。恵みを見上げると神が喜び、その結果、あなたが祝福され、周りの人々の胎(信仰)が開かれます。

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