キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第22章

22章1節

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練にあわせられた。

アブラハムは、妻や息子イサクと共に長年、平和な生活を送っていました。そこに突如、彼を試みる神の声が発せられました。

ここで、「これらの出来事の後」とは、ウルを出てから…エジプトでの失態・ロトとの分離・メルキゼデクとの出会い・イシュマエル問題・イサクの誕生・ハガル親子の追放…など、「主の導きと恵みを受けた後に」という意味です。

神は、愛と導きの恵みを彼に与えたからこそ、今の試練を与えます。試練を受け止める心構えは、「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい」(ヘブ12章12節)にあります。「弱った手」は祝福をあきらめた心の状態、「衰えたひざ」は祈る力を失った姿です。このみことばは、「試練の時は祝福を求めて祈れ」と言っているかのようです。

友よ。試練に直面したら、あなたの「これらの出来事(ここまでの主の導きと恵み)」を思い返してください。今、直面する試練は、今まで受けた神の恵みの上に、さらに恵みを増し加えられるためのものです。ですから、祝福を求める「手」と、信頼し待ち望む祈りの「ひざ」をまっすぐに(強く)してください。

22章2節

「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」

アブラハムが、一人息子イサクを主に献げようとする緊張の場面です。ここに、親子関係のとても大事な教えがあります。 

親が子を育てるのに、どこへ連れて行くべきでしょうか。人気の塾・お稽古事・有名大学…ですか。否、「モリヤの地」に連れていくべきです。「モリヤの地」とは、「罪の贖い」と「献身の場」です。

子を愛することは、地獄へ行かないように守ること、次に永遠のいのち・神の子として生きるように導くことです。その二つは、モリヤの地=ゴルゴタの丘=イエスの十字架にあります。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16章26節)。

しかし、だれもモリヤに行きたがりません。そこは、自分を神とすることを「悔い改め=方向を転換」、「イエスを主」と告白するところだからです。でも、罪の赦しと永遠のいのちは、そこにだけあります。「キリストとともに十字架につけられ…キリストが私のうちに生きる」(ガラテヤ2章20節)ところです。

友よ。子どものみならず、人を愛するとは、モリヤに連れていくことが一番の基本といえないでしょうか。

22章1~2節 ①

神は…試練に会わせられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子…を…全焼のいけにえとしてイサクを私にささげなさい。」

神が許す試練は、人の中にある御心にかなわないものを取り除き、神の善いものを与えるためです。悪魔の誘惑は、人の内にある神の善いものを奪い、肉と世の思いを植えつけるためです。試練は、悪い芽を除き良い種を与え、誘惑は、良い芽を除き悪い種を入れます。

信仰深いアブラハムが試みられる理由は、「『あなた』の子」という表現が教えています。イサクは、100歳と90歳の肉体の枯れた夫婦に、神の御業によって産まれた子ですから、「彼の子」ではなく「神の子」です。

人は、神のものを「『私の』夫・妻・子・家・畑…」と私有物にします。神から委ねられたのを私有物にする、気づかない罪があります。

親の役割は、子を神に返すことです。子を自分の所有にした親は、後の日に子から軽蔑され、神の預かりものとして、神に連れて行く親は敬われます。なぜなら、子が親を敬えるのは、自分が幸せと思えるからで、幸せは信仰から来ます。「私もこの子を主に献げます。この子は一生のあいだ主に献げたものです」(Ⅰサム1章28節)。「その子をわたしのところに連れて来なさい」(マタイ17章17節)。

22章1~2 ②

神は…試練に会わせられた。…あなたの愛しているひとり子…をわたしにささげなさい。」

神は、アブラハムが「私のイサク」とする罪とともに、「あなたの『愛している』」という言葉で彼の肉を指摘します。ときには、人を愛することが罪になることがあります。

親が子を愛することは当然で、まして老年の子イサクは目の中に入れても痛くありません。しかし、問題は神以上に愛する対象となることです。そうなると、当然良いことでも、神の恵みの秩序から外れ、偶像化します。

アブラハムには、イサクが神以上に愛する対象になっていました。神のものを私物化する罪と、神以上に人を愛する二つの罪に、神は試練のメスを入れようとします。「わたしよりも父や母…息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません)」(マタイ10章37節)。

友よ。「神の国とその義とをまず、第一に…」の「まず」という優先順位が大事です。神は、「イサク(夫・妻・子・隣人)を愛せよ」、しかし「神の次に」と言われます。同じく「…父、母、妻、子…を憎まない者は…弟子になることができない」(ルカ14章26節)とは、彼らを神よりも第一にすることを、「憎め」との意味です。イサクは、神の次に愛する大切な大切な宝です。

22章3節

翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若者と息子イサクをいっしょに連れて行った。

アブラハムは、主の声を聞くと間髪入れずに行動します。なぜ早く行動に移れたのでしょう。

決断できた理由は、
  1. それが神の声だと理解できたから
  2. 自分の罪の姿がわかったから
  3. 今までの経験によって、神に従う最善を知っていたから

「翌朝早く」とは、人の考えを入れないことを教えます。もし、妻サラに相談すれば、必ず反対され、信仰の人アブラハムでも常識の世界に引き戻されたでしょう。

「あなたの子を殺せ」とはサタンの言葉に聞こえますが、それこそ神の御声です。サタンならば、「あなたのイサクを(神よりも)大事にせよ」と罪を隠した言葉でささやきます。イサクを「殺す」とは、神以上にイサクに囚われる自分の思いを、十字架につけることです。

友よ。「主の御業をおろそかにする者は、呪われよ。その剣を止めて血を流さないようにする者は、呪われよ」(エレ48章10節)とあるように、神の試練の剣をとどめてはなりません。試練のメスに切られて出る血も、あなたの血ではなく、十字架から流れる主の血潮です。恐れず主の前に進んで下さい。

22章4節

三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

なんと長い3日間だったことでしょう。その間、アブラハムに信仰の迷いはなかったでしょうか。彼は、神の御声を聞いて、すぐに行動を起こしましたが、目的地モリヤに到達するには3日の時間が必要でした。

だれでも、信仰の決断をしてから、神の示すところに着くには「3日」が必要です。その時間は、御心をより完全に理解するためです。

御心の理解は、自分に辛い出来事の中に、より多くあります。彼は、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継ぐ」「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と以前語られた神の約束と、今聞いた「イサクをわたしにささげなさい」との御声の整合性に、どれほど迷ったことでしょう。

昨日まで持っていた信仰と、今、持つように示された御心が、一見矛盾するように思える時、どちらを正しいと判断すべきでしょうか。それは、「主によって死ねば生きる」の聖書全体の原則によって、「自分(肉)の嫌な方」を選び取ることです。

「肉」に死ぬには時間がかかりますが、妥協せず3日の道のりを歩いてください。歩き出すと、神が理解と信仰を増し加えてくださいます。

22章5節

「私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」

子を全焼のいけにえとするために来たのに、アブラハムはしもべたちに、「私と子どもは礼拝してから戻って来る」と言います。苦悩のあまり、血迷ったのでしょうか。否、彼は御声を聞いてから目的地までの長い苦闘の中で、さらに神の御声を聞き、御霊による確信を受けて、そのように言えたのです。 

試練から逃げると、神の御心は遠くへ退き、見えなくなります。そして、試練はサタンに握られ誘惑に変わります。反対に、主によって試練を受け止めると、試練の持つ正しい意味が見えてきます。

問題を破壊(試練の拒否)によらず、建築(試練の受容)によって解決せねばなりません。彼が試練に逃げずモリヤ(エルサレム)に来たとき、「子どもは…戻って来る」と復活信仰が与えられていました。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブ4章8節)とは、「試練を受け止めよ。そうすればあなたは神を得る」と言い変えることもできます。

友よ。困難から逃げることと、神を得ることのどちらが解放ですか。問題のただ中でも、神に近くいる方が、本当の解放です。

22章8節

わたしの子よ。焼き尽くす献げ物の子羊はきっと神が備えてくださる。」

(新共同訳)

人々から、「キリスト教の救いは」と聞かれたら、「神のくださる賜物は、私たちの主・キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ロマ6章23節)と答えるのが最善です。

人の救いの完成は、父と子と聖霊の交わりの天国です。天国に罪が存在するなら救いはなくなるので、神は人の罪と戦われます。神は罪と妥協できないために、「罪の価は死」と定めました。

人の罪の救いは、「命は命で償う」(出21章23節)ことができますが、その命は、①「罪がない」②「人」の二つの条件が必要です。だから神が人とならねばなりませんでした。

でも、なぜ「父」でなく「御子」が?それは、「父は万物を御子に委ねた」(ヨハネ3章35節参照)ので、御子が人間の夫的存在であり、責任者です。そこから、妻のために死ぬのは、舅(父)ではなく夫(イエス)がふさわしいからです。

でも、父の神は御子を殺し、自分が無事だとは「愛なる神」ではない…と。否、アガペー(完全愛・絶対愛)では、愛する者の死を見るのは、自分が死ぬより辛いことです。十字架は、御子以上に、御子を備えた父の神がより苦しみました。

友よ。私たちは、御子の血と父の涙の二つの十字架を受けていたのです。

22章9節

その所に祭壇を築いた。そうして、たきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。

この時のイサクの年齢は10歳を超えています。仮に12歳としても、110歳を超えた父より力において勝ります。それなのに、イサクは抵抗もせず、父に縛られるまま自分の身を委ねていることは不思議です。

この親子の姿は、「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物言わない羊…」(イザヤ53章7節)なる、父の神に屠られる小羊イエスの姿です。

イサク(小羊イエス)が父アブラハム(父の神)の刃物を受け入れ、祭壇のたきぎに無抵抗に横たわったのは、「彼(イエス)は、私たちの病を…、痛みを…、咎を担う」(同4・5節)ためでした。

イエスの無抵抗(従順)は、父を恐れたのではなく、サタンの頭を砕き、人類の罪を滅ぼすために、身を捨てた最大の「愛の戦い」としての「無抵抗」でした。それがカルバリの十字架でした。

友よ。主はローマ兵より弱いのか!ピラトとヘロデより権力がないのか!律法学者に負かされたのか!サタンに平伏したのか!否、私たちを愛したために、イエスは抵抗せず、黙々と屠り場(十字架)へ自ら進まれたのです。

22章10節

アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

アブラハムのように、自分の子を自分の手で殺す親が何人いたでしょうか。しかし、このことは、全ての父(親)が必ずしなければならない霊的行為です。

全ての人は罪の中に生まれ、そのままで神に受け入れられません。親のどんな能力も、愛も、しつけも、自分の子を罪から救うことはできません。ただ一つの解決は、罪の中にいるわが子を、カルバリの主の十字架に連れて行くことです。

アブラハムが祭壇(十字架)でイサクを殺そうとしているメッセージの一つがこれです。子の罪と戦わない親は、「悪者を正しいと認め」(箴言17章15節)る者です。子を愛する人の目は、子どもの肉体的生命を超えて、霊的生命に、より関心を持ちます。

友よ。あなたは、子の罪に突き刺す剣を持っていますか。その剣は「祈り」です。「祈りの剣」は子の心を開かせ、「みことばの剣」が魂に切り込み、神のいのちを植えつけます。毎日、毎日、子(救いたい人)の名を上げて祈り続けることは、小さな祈り(剣)でも、閉じた心の開口部を少しずつ広げます。みことばの剣(霊)が魂に入り、いのちが芽生える時を待ちましょう。

22章12節

「その子に手を下すな。…あなたが神を畏れる者であることが、今、わかった。」

「主にあらばただ主にあらばそれでよし如何なる明日我を待つとも」(宮崎聖蔵著「されど御名ゆえに」)。アブラハムがイサクに刀を振り降ろす時の心境は、先の歌のようだったでしょう。「主にあらば、主にあらばそれでよし」こそ信仰の確信と知恵です。

神に「明け渡す・献身する」ということは、「イエスを主」とすることで、自分が神に所有されることです。また、「神を畏れる」ことです。人が生きる上で、「知恵」と「知識」が必要です。両者の違いは、「知恵」は神に関すること。「知識」はこの世に関すること、と言えます。

さらに両者の関係は、「主を畏れる(知恵)ことは、知識の初め」(箴1章7節)とあるように、「知恵(霊)」が「知識(肉・世のこと)」をコントロールするとき秩序が整います。

神は、「知識の人」以上に「知恵の人」になることを願っています。知識は人を高慢にし、知恵は神を畏れる謙遜を与えます。

友よ。神を畏れる人を、神は求めています。神を畏れることがわかったとき、「手を下すな」との御声を聞きます。それは、試練に対する一つの終止符です。試練にも終わる時があります。

22章14節

アブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエ(主の山の上には備えがある)と名づけた。 

神がアブラハムを試みたのは、イサクを「私の子」「愛する子」とした彼の肉の聖別とともに、さらに積極的な意図があります。

神の試みの消極面は肉を殺すため、積極面は三位一体の神と一体にするためです。彼がここまで厳しく試みられたのは、神と一体となるためです。

信仰には、「神の民」、「神の子」、「キリストの花嫁」の三段階があります。「民・子」は、「主人・父」の恵みは受けても苦しみは負いませんが、「花嫁」は夫の悲しみや苦痛も負います。天の父が、イエスを失う痛みを共有できる人は、自分の子を失う痛みを体験した人です。アブラハムは、イサクを失う試練を通し、独り子イエスを与えるほど大きな神の愛を、身をもって知りました。

自分の罪から受ける試練があり、自分の罪を超えてキリストの花嫁とされ、主と一体とされたために得る試練があります。迫害もその一つで、時には病や困難などもそれに含まれるときもあります。ですから、試練を自分の罪だけのこととして受けとめ、悔い改めに終始してはなりません。

もっと、「主の山には備えがある」(創22章14節)に目を注いでください。「マリア(友よ)、恐れることはない」(ルカ1章30節)。

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