キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第23章

23章1節

サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。

サラの生涯が閉じられました。ヘブル人への手紙では、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました」(11章11節)と、サラが信仰深い妻であったと記しています。

彼女の生涯を振り返えると、「信仰の母」と言われることには首をかしげます。それは、夫に女奴隷ハガルを勧め、子ができると妬んで辛く当たり、あげくの果てに親子を追放した女です。彼女は、嫉妬深く、陰で夫を操ろうとしたずるい女に見えますが?

サラが、「国々の母(サラ)」の称号を得たのは、信仰深さからではなく、恵みによってです。それは、「恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2章8節)。

友よ。私たちが受けた「イスラエル(神の王子)」の称号も、自分の信仰深さからでなく恵みによります。サラと自分を比べると、サラに勝るとも劣らない父の「悪い子」で、キリストの「悪妻」です。しかし神は、「私の目には、あなたは高価で尊い」(イザ43章4節)と、サラに劣らない評価をしてくださいました。

23章4節

「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、…墓地を私に譲っていただきたい。そうれば…死んだ者を葬ることができる。」

アブラハムは、妻、サラの死に悲しみ泣きました。そして、死者のそばから立ち上がり葬儀の準備を始めます。クリスチャンの死は、別離の寂しさはありますが、決して不幸なことではありません。なぜなら、神にある肉体の死は、人生の終わりでなく完成です。

彼には一坪の土地もなかったので、妻を葬る土地を求めました。墓地は天に召された者には不要ですが、自分が、「どこから来て、どこへ行ったか」を、残された者たちに示すためならば有益です。「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰する」(ロマ11章36節)。墓地は、「だれから出て、だれに導かれ、だれの所に行ったか」の「福音の記念碑」です。

アブラハムが土地を持たないのは、自分の故郷が天であることを表し、一坪の墓地を得たのはサラが天国へ帰った記念碑でした。

ある教会の墓碑に、大文字で「天の門」と刻まれ、その下に小文字で「主イエスの十字架と復活によりて」と刻まれました。お寺の墓地に記念碑があれば、子孫はそこに先祖の行き先を見ます。十字架や御言葉の記念碑であれば、まことの神と天国を見つめます。

23章6節

「ご主人。…あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。…私たちの中で、だれ一人…拒む者はおりません。」

人格者の「格」とは「アイデンティティー」とも言えます。格は、自分個人で作れるものではなく、だれかとの係わりによって作られます。従って、「だれとの係わりか」によって、「人格の質」が違ってきます。皆から敬われるアブラハムの人格は、神との係わりによるものでした。

アブラハムは、神に支えられ、愛されている自分を知っていたので、他者に何かを求めて満足する必要がありません。それが、他者に対して無欲で仕える生き方となり、人々に畏敬の念を与えました。彼はヘテ人の中に居て、こびることなく堂々と神の基準で生きています。その生き方にヘテ人たちは圧倒され、「あなたは…神のつかさです」と告白しました。

しかし、友よ。このような評価を受けることが信仰の目標ではありません。クリスチャンとは、イエスのように「生きる者・働く者・愛する者・語る者・御業を起こす者」ではありません。これらは、「キリストに繋がり続けた結果」です。クリスチャンとは、「キリストに繋がっている人」(ヨハネ15章4節)「キリストの愛に留まっている人」(9節)のことです。目標と結果を間違ってはなりません。

23章13節

「もしあなたが許してくださるなら…。私は畑地の代価をお払いします。」

アブラハムは、サラを葬るマクペラの洞穴の売買交渉をしています。ただで差し上げる、との所有者の申し出に、彼は金銭での売買を希望し、銀400シェケルで買いました。

なぜ、無代価の申し出を感謝して受けず、お金を差し出したのでしょう。それは、この墓地がいつまでも自分の所有である、という契約をするためでした。彼は、ただで得たゆえに、いつの間にか権利を失ってしまうことを恐れたのでしょう。

神の恵みに対する人の態度も同じです。救いは無代価だからこそ恵みである、とは真実です。しかし、何の犠牲も払わずに受け取る恵みは、「無代価」であるゆえに「無価値」にする可能性もあります。キリストの恵みは血の代価です。その感謝として、余り物を差し出してよいものでしょうか。

友よ。それでは、私たちは何を主に献げるべきでしょうか。それは、神の無代価の恵みに対して、自分を無代価(条件をつけず・見返りを求めず)で神に差し出すことです。それは単純に、神が喜ぶことは行い、悲しむことをしないことです。信仰は難しくありません。自分よりも神を信頼して従うことです。

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