キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第29章

29章1節

ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。

両親の家から逃げた時のヤコブは、恐れと不安に心が裂けそうでした。しかし今は、数日前とうって変わり、希望と確信に満ちています。その変化は、神と出会い、神の御心を知り、神の約束を得たからでした。

イスラエルの民が、荒野で神の幕屋を完成した時、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました。以後、荒野の旅路にある間、昼は雲を、夜は雲の中に火を見ました。そして、雲が動いた時に旅立ちました(出40章34節~)。

彼らは、神の御臨在に触れ、御心を理解し、強い確信をもちました。同じように、神の「御臨在」と「御心」が、孤独と恐れの中にいたヤコブに力を与え、東の国に向かわせました。

「神の子となる」ことと、「子として歩む」ことは同一ではありません。事実、多くの人が神の子となっても、主から離れています。

神の子として歩み続けるには、絶えることのない御臨在(交わり)と、御心(全ての人に対する神の思い・自分に神が望んでいること)を知る必要があります。「幻がなければ民は堕落する」(箴言29章18節・新共同)とある「幻」こそ、神の「御臨在と御心」のことです。

29章10~11節

ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると…。ヤコブはラケルに口づけし、声を上げて泣いた。

ハランの近くまで来たヤコブは、伯父ラバンの娘・従妹ラケルに会いました。すぐに井戸の石を転がし、彼女の羊の群れに水を飲ませ、抱きしめ口づけして泣きます。今のヤコブには喜び、力、意欲、希望が満ちています。

以前の彼なら、他人の羊のために井戸の石を転がすことも、だれかに抱きついて涙を流し、自分の弱さをさらすこともできませんでした。さらに、間もなく伯父に会い、「事の次第のすべてを話し」(13節)ました。それは、自分が兄をだまし、父を裏切ったこと、兄を恐れて逃げて来たこと、孤独と不安、神との出会いなどすべてです。閉ざされた彼の心は開かれ、人を愛する心に変えられていました。

それは、「あなたがどこへ行っても、あなたを守り」(28章15節)と言った神との出会いと約束(御心)を得たからです。

マイナス(罪や劣等感や傷など)を消して、プラス(神との関係)を大きくする方法も、プラスを大きくしてマイナスを消す方法もありますが、神の子たちの聖別は、後者です。「御自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」(ヘブ7章25節)。

神との関係を大きくして、罪や傷を癒してもらいましょう。

29章14節

ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。

人は人を求めて生きているので、なによりも人との出会いを喜びますが、一番失望するのも人です。失望は、お互いが罪人であることを忘れ、相手にその人以上のことを期待してしまうからです。この後のヤコブとラバンの関係は、「罪人と罪人の関係」から来る、つまずきと争いの連続になります。

そもそも、ヤコブが伯父の家に来た理由の一つは、同じ神を信じる家族だからでした(28章1節)。しかし、ラバンの姿には、信仰の片鱗(へんりん)もありません。彼にあったのは、「私の骨肉」という「人間愛(エロース・価値追求)」だけで、神の愛はありませんでした。

ヤコブは、ベテルで神の愛に触れてここに来ましたが、伯父の家では信仰とは似て非なる人間愛に支配されて歩み出すことになります。

神の愛と人の愛には多くの共通点がありますが、人の愛には「十字架」がありません。相手のために自分が死んでいく(十字架)のが神の愛です(マタイ10章38~39節)。

人の愛は、我欲が根底のラバンのような利益追求の愛です。人の愛は「骨肉の愛」で、神の愛は「骨肉(自分)を捨てる愛」です。

29章15節

「親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」

叔父ラバンは、ひと月滞在したヤコブが一生懸命働くのを見ました。すると、家に帰さず、手元に置くために報酬を約束します。これが「私の骨肉」という愛の本質でした。

しかし、ラバンこそヤコブに必要な人でした。それは、人をだます人は自分がだまされ、悲しませる人は他者から悲しみを受け、自分の姿を振り返ります。

神は、罪を気づかせるためにラバンを備えます。自分の周りの人々…夫・妻、子、親族、職場の人間、兄弟姉妹…の存在意味を弁(わきま)えるなら、今までと違った見方ができます。

神は、人々との係わりを通し、「私は、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。私はあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」(詩32・8~9節参照)と。また、「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」(箴言27章17節)とも。

友よ。人間はだれが良く、悪い、ではなく自分も含め、皆が罪人です。ラバンを責めるだけでなく、ラバンから目を神に移す時、ラバンは神のメッセンジャーとなります。神は、さまざまな人々と出会わせ、出来事を起こされます。それは、あなたを愛しているからです。

29章18節

ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。」と言った。

「お嬢様と結婚したいので、お父様に七年間お仕えしましょう」などと言う人を見たことはありません。これはラケルへの愛でしょうか、それともヤコブ流の計算でしょうか。

「七年間仕えます」とは、自分の願いを確実に実現するためのヤコブの計算です。この申し出は、ラバンにとっても願ったり適ったりなので、快く承諾しました。しかし、互いの腹の中では、「自分は相手より賢い」と考えています。うまくいっている2人に見えますが、唯一の心配は、申し出にも、約束ごとにも、結婚にも、「神」がいないことです。

聖書は、「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵ある者は忠告を聞き入れる」(箴12章15節)とあります。ラバンもヤコブも、自分こそ知恵があると確信する愚か者になっています。

自分のことをよく知り、忠告してくれる人が必要です。そのお方こそ、主イエスです。「キリストは神の力、神の知恵なのです」(Ⅰコリ1章24節)。

友よ。本当に賢い人とは、人を騙す人でも、相手の策略を見破る人でもなく、「神にあえてだまされ、聞き従う確信犯」その人ではないでしょうか。

29章23節

ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところにはいった。

…結婚祝いの席でヤコブを酒に酔わせ、姉のレアを彼のベッドに潜ませ、翌朝にはレアがヤコブの妻になっていた…というトリックは見事です。ラバンの策略は、ヤコブを自分にさらに7年仕えさせるためでした。第一ラウンドは、ラバンの勝利です。

主のしもべ曰く、「人にふりかかる最悪の災いは、揺りかごから墓場まで自分の思いどおりに暮らし、欲しいものは何でも与えられ、また買うことができ、『私はこうしたいができない。ああしたいがそれをしてはならない』と言わざるを得ないことが決してないこと、決して自己を否定することがなく、決して働くことがなく、決して欠乏を感じることがないということ…。このような魂は、大きな罪を犯すときのように、非常な危険にさらされている」(チャールズ・キングズリ) 。

あなたの人生は、順調だった以前のヤコブの歩みですか。あるいは今、つまずいているヤコブのようですか。危険なのは、神を必要としないほど順調すぎる歩みです。むしろ、つまずき、悲しみ、痛んでいる方が、神を必要とするので安全な歩みです。

29章25節

朝になって、見ると、それはレアであった…。それで彼はラバンに言った。「…なぜ、私をだましたのですか。」

ヤコブは、自分が兄と父を欺いたことは忘れ、ラバンが自分をだました罪を激しく責め立てます。人は自分の罪は責めませんが、他人の罪や過ちは激しく責めるものです。

しかし、今ヤコブに係わっている主権者は、ラバンでなく神御自身です。ヤコブに起こっていることは、「ヤコブをそのしわざに従って罰し、その行いに従って報いられる」(ホセア12章2節・口語)神の御業です。 ただし、神の御計画は、ヤコブを罰するのが目的でなく、彼に与えた「救いと約束」を失わせないための干渉です。

人は、他者を欺いてでも自分が生きようとします。神により頼まずに自分で生きる、このことこそ人の罪です。神は、人が自分でつくる救いが、偽りの救いであることを知らせるために、時には他者(ラバン)の欺きの罪をさし止めようとしません。

「毒をもって毒を制する」ように、神は「ラバンの狡猾」を用いて、「ヤコブの狡猾」な生き方をあらわにして止めさせようとします。

友よ。周りに居る嫌と思う人ほど、あなたの自己中心を十字架につけるために送られる、神の刺客?です。

29章30節

ヤコブは…ラケルのところにもはいった。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。

不幸な家族の営みが始まりました。人の不幸の最大要因は、一夫一婦制が壊れ、もう一人の異性が入り込むことです。ヤコブは、姉レアを妻とし、一週間後に妹ラケルも妻にしました。後に、彼女たちに連なる女奴隷たちが加わり、この家庭は2人の妻と2人の女奴隷の4人が妬み争うようになります。さらに、4人の女たちから生まれる子どもたちも…。

「何がなくても愛があれば」と願うその愛は、貞節あってのことです。神は、人を御自分の型に男と女に造られました。父と御子が愛の交わりを持つように、人同士も愛し合う喜びに生きるためでした。いのちはだれかとの「つながり」と「交わり」にあります。

それでは、親や伴侶や友人知人に恵まれず、独りの境遇にいる者は不幸なのか。いいえ、ヤコブは、「レアよりも…ラケルを愛した」が、神の子はレアやラケル(人々)よりも「神を愛する」者たちです。

友よ。愛する人は大切ですが、神はさらに大切です。「神の国と神の義をまず求める」原則があって、人同士の愛はその原則から「添えて与えられる」派生した祝福です(マタイ6章33節参照)。

29章32~35節

レアはみごもって、…ルベン…シメオン…レビ…ユダと名づけた。

姉レアは、妹ラケルよりも自分が夫に愛されないことを知っています。しかし、神はラケルではなく、夫に愛されないレアの胎を開き、次々と4人の男の子を与えました。レアはその子たちに得意げに名前をつけます。

ルベン「見よ。男の子」(私の産んだ、夫の跡継ぎである男の子を見よ)。シメオン「(神は)聞く」(神はラケルの祈りでなく、私の祈りを聞かれる)。レビ「親しみ」(三人も男の子を産んだのだから夫は私に親しみ、夫に愛してもらえる)。ユダ「賛美」(ラケルでなく私に次々に子を与えられる神を賛美します)。

( )は筆者の個人的見解

レアがつけた名前の出どころは、妹ラケルへの敵意と夫の愛を勝ち取る女の執念でした。夫に愛されない彼女は、自分が持てて妹が持てないものを誇ることで、神からどれほど祝福されているかを誇る自己主張です。

しかしパウロは、「わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい」(Ⅱコリ12章5節)と言い、「誇るものは主を誇れ」(同10章7節)とも言いました。

友よ。主を誇るか、自分を誇るか、迷ってはなりません。主に推薦していただいてください(18節)。

29章35節

彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう」と言った。それゆえその子の名をユダと名づけた。

新約聖書冒頭に、「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ…キリストと呼ばれるイエスはこのマリアからお生まれになった」と記されます(マタイ1章)。

キリストの系図に、混乱したヤコブの家族、タマル(義父ユダの子を産んだ女)、ラハブ(エリコの町の遊女)、バテ・シェバ(ダビデ王が姦淫した女)など、聖なる系図に「?」と思う人々が多数含まれます。

聖書が彼女らも系図に載せるのは、救いは人の善悪や行いによらず、神の主権と恵みによること。また、混乱した家族、肉欲や強姦などによる罪の中に生まれ、生きる人々たちと、神は恥じることなく、共に歩まれる神であることを語ります。

それなら罪を犯し続けても?否、聖書はからし種の「信仰」を語ります。それは、人生は混乱、憎しみ、嫉妬、不純、争い…などが混ぜられた畑のようです。そこに、小さな「みことば(種)」が蒔かれると、天国という「神の支配」がはじまります(マタイ13章31節~参照)。

神のいのちは、土(罪の世のただ中)から、清い芽と、茎と、葉をつけて、実を実らせます。

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