キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第32章

32章1~2節

ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。ヤコブは…「ここは神の陣営だ。」と言って…マハナイムと呼んだ。

ラバンと和解して別れたヤコブですが、これで全てが平和になったわけではありません。次の問題は、行く手に待つ兄エサウです。彼の心には不安がのしかかり始めました。

その時、20年前に体験した時のように、御使いたちが神の陣営となって現れました。それを見たヤコブは、「これで大丈夫」と確信したでしょう。しかし、神が戦列を整えた陣営は、だれに向けられたものでしょうか。兄エサウ?これから遭遇する他民族?いいえ、ヤコブ本人と戦うための陣営でした。

神は、自分の知恵と力を頼みとするヤコブと長年争いましたが、なお勝利を得ていません。そこで、今こそ、と以前に勝る大陣営を整えたのです。

罪から解放されずに平和(神との正しい関係)はありません。平和なくして平安(心の満足・他者との愛)もありません。神はあなたの罪と戦われます。

でも、友よ。「なぜ私だけに試練が?」と思っていませんか。それは、あなたを愛しているので、取り扱われるのです。しかし、恐れる必要はありません。その戦いは、あなた自身が直接戦うのでなく、主イエスの十字架で行われています。

32章5節

「私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。」

自分の罪と戦う天の軍勢を、自分を守る軍勢と勘違いしたヤコブは、計算で生きる、元のヤコブに戻っていました。彼は召使いに、牛、ろば、羊、男女の奴隷などを持たせて先に遣わし、兄の機嫌を伺おうとします。かつてはスープ一杯で長子権を奪い、今は多くの物で兄の心を動かそうとします。

私たちも、神の御心(みことば)の間違った引用をします。「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ」(イザヤ52章11節)を、その場の試練や罪から逃げる口実に持ち出したりするものです。しかし、神の御心は、試練や罪から逃げるのでなく、それらと戦い悔い改めることです。そのために、「あなたがたは、あわてて…逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前を進み…しんがりとなられるからだ」(同節)と言います。

友よ。焦って自分で計算し、語り、行動しては良い実を結べません。「あなたを守る」(28章15節)と言われた神を信頼し、「前を進み、しんがりとなる主」に囲まれることに心を注いでください。主が戦い、主が連れ出してくださいます(出14章14節参照)。

32章6~7節

「あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。

ヤコブのこの時の心境をたとえて言うならば、空は雲ひとつない晴天なのに向こうから大津波が自分に向かってくる、というところでしょうか。神との関係に曇りがないはずなのに、現実では生きるか死ぬかの大波に飲み込まれようとしています。

ここで彼が考えたことは、この大波をいかにうまくくぐり抜け、損失を最小限にするか、でした。すると、人々や牛や羊などの財産を二組に分け、片方が奪われている間にもう一方を逃し、さらにその組も危なくなったら、それも犠牲にして自分が逃げる…ここにもヤコブの生き方が現われています。

エサウ率いる400人の大津波は、ヤコブを水の中に完全に沈めるための、神が遣わす天使の大軍です。「あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました」(詩42・7節)とは、この詩篇の作者を襲った苦難と行き詰まりでした。そして、それらは、彼のいのちを十字架で殺し、主イエスの復活のいのちに生き返らせる、神の愛だったのです。

友よ。あなたの目の前に迫る大波(試練・十字架)から逃げてはなりません。受け取ってこそ生きる(復活)のです。

32章10~11節

「私は…恵みとまことを受けるに足りない者です。…私は彼を恐れているのです。」

ヤコブから、謙遜と弱さをさらけ出す言葉を聞くとは思いませんでした。ラバンに通じた知恵も、神の軍勢として用いられる兄エサウと四百人には通じません。ついに神の願いが成就される時がやってきました。

彼の人生で、真っ先に考えるのが計略でした。次に、物(一杯のスープ・牛・羊・男女の奴隷)で相手を動かし、そして行き詰まると、「…かつてわたしに『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたを幸せにする。』と仰せられた主よ」(9節)と、神を持ちだしました。しかし今は、「恵みとまことを受けるに足りず…恐れています」とへりくだります。

神は、自分を頼む高慢な者には間接的に(人々や出来事により)触れますが、へりくだる者には直接触れることができます(24節参照)。孤独・悲しみ・痛み・貧しさ・病気・不安、などが、人をへりくだらせて神と直結させます。

友よ。あなたの願いは、自分の思い通り生きるヤコブですか、それとも神に干渉されて行き詰ったヤコブになることですか。また、神に間接的に教えられる人ですか、それとも神の御手に直接引かれる人になることですか。神に直結し、直接手を引かれる者になってください。

32章20節

私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、…彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。

神の前にへりくだったはずのヤコブは、またまた策略を持ち出し、場逃れします。彼の姿に、神の子とされながら、それでも自分の力で生きようともがく人の姿を見ます。

四つの畑の記事(マタイ13章参照)の中で、茨の中に落ちた種がありました。その種は、土の中にもぐり、芽を出し、茎を伸ばし、花を咲かせるまで成長しましたが、目的の実を結ぶことができませんでした。このような人は、大部分は神に導かれてきたのに、一番大事なところは神の御心でなく、自分の思いを遂げようとする、見えにくい「隠れヤコブ」君です。

その人は、麦(御霊の実)を愛していますが、毒麦(肉の実)にも魅力を感じています(ガラ5章18~26節・マタイ13章24~30節参照)。ですから、収穫前に雑草を除こうと本気で思わない二心を許します。ヤコブは、神も自分の知恵も、と両方を使い分けています。

愛する友よ。「罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい」(ヤコ4章8節)の言葉に耳を傾けてください。「清い心」とは、「神のみの心」のことです。

32章23~24節

彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。ヤコブは一人だけ、あとに残った。

ある伝道団体のパンフレットに、「悪いと全く思わないで行っている悪いこと」というものがありました。

  1. 信じたいことだけ信じて、信じたくないことは信じない
  2. 聞きたいことだけ聞いて、聞きたくないことは聞かない
  3. 見たいことだけ見て、見たくないことは見ない

自分の信じたいこと、聞きたいこと、見たいことだけを選んで生きても、やがて必ず、神と一対一で向き合わなければならない時がきます。そしてその時、自分が信じたくないこと、聞きたくないこと、見たくないことのすべてを神から突きつけられます。

ヤコブは今、財産も家族も先に送り、彼一人だけになって神の前に出なければなりません。しかし幸いなのは、死んだ後でなく、今、この時点で、ここで、このチャンスを与えられていることです。

友よ。あなたにも主の前に独り立ち、自分の内側をあらわにされる時が必ずきます。その前に、このような神の取り扱いを、今、ここで受けられることに感謝してください。神は、アブラハム・イサク・ヤコブをあなたの先に歩ませ、あなたが間違わないための道しるべとされているのです。

32章24節

ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

ひとり後に残ったヤコブに、何者かが戦いを挑み、彼は必死に応戦します。その戦いは、朝方まで続きました。ヤコブを負かそうと争ったのは、じつに主、御自身でした。

これまでも、主はヤコブと争いましたが、彼はその時その場で神の御手を押しのけました。しかし、今回はあらゆる逃げ道を塞ぎ、ヤコブに戦いを挑みます。それは、神の熱心、ねたむほど人を愛する神の熱情でした(出20章5節)。

この箇所を、ヤコブの「執拗な祈り」とするのは時期尚早で、二枚舌と二心で自分の力や知恵で生きるヤコブの自我を終わらせ、神に依存させるための戦いでした。「夜明けまでの格闘」とは、神に自分を明け渡さない、ヤコブの自我の強さを表します。

神は、人を正しい道に導こうと試練を与えますが、人はその手を解いて逃げていました。そして迎えた、「ひとりだけ」は、神だけに向き合うために備えられた恵みです。

友よ。神の戦いは、あなたを完成しようとする愛です。ですから、「ひとりだけ」を恐れないでください。「ひとり」に追い詰めたのは、神があなたを愛し、寄り添い、あなたと「ふたり」になるためです。

32章25節 ①

ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、…

「その人」とは、天地万物の創造主ですがヤコブに勝てません。一人の人にも勝てないお方が神なのでしょうか。しかし、聖書の神は、宇宙で「一番強いお方」であって、「一番弱いお方」です。

強いとは、無から有を創造した神だからです。弱いとは、一人の人の心を思い通りに動かせず、悩まれる神だからです。

その矛盾を解く鍵は、「神は愛だからです」(Ⅰヨハネ4章8節)にあります。神は万物の創造者ですが、ヤコブの同意なく心に入り込めないし、力ずくで負かすこともできません。神は、人を負かし、十字架で背負い、罪を赦そうとされますが、人が同意して、明け渡してくれなければできません。ヤコブは、「神よ。そうでなく、こうです」と全力で抵抗し、神に負けませんでした。

友よ。あなたもまだ神と相撲を取り続けていますか。神があなたを負かすのは、あなたを潰してみじめにするためでなく、尊い者に建て上げるためです。しかし、あなたの同意(降参・明け渡し)が必要です。主の母マリアは、「この身になりますように」(ルカ1章18節)と、天使に(神の言葉に)負かされる(従順になる)ことに同意しました。主に負ける者が勝利者です。

32章25節 ②

ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

神は、降参しないヤコブに、ついに過激な手段を用いることになりました。人間の肉体の中で、一番強い部分ともいうべき腿のつがい(大腿筋)を外し弱くされました。

「もものつがい」とは、その人が一番頼りとするもので、富や能力や健康、神の賜物などもその中に入ります。それらの健康や能力や賜物は、神よりも自分自身を頼らせ、信じさせ、神に向かわせません。

今まで神は、憂いつつもそれに手を触れず、彼が歩くままにされました。しかし、今は彼を守るために、強制的に外す以外ありません。

神が腿のつがいを打つと、山も飛び越えたヤコブの脚は弱くされ、自分の力で歩けなくなりました。「鹿は角によって捕らえられる」ように、人も神に与えられた強さや賜物によって罪(自己中心)に捕らえられます。そこから救うために、神はそれらを弱くされます。

友よ。あなたの「もものつがい」はなんですか。それは、外されず、まだついたままですか。この「つがい(自我)」は、神以外に外せません。「主よ。私のつがいを外してください」と祈るのも、あなたの大事な祈りの一つです。

32章26節

「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」…「去らせません。私を祝福して下さらなければ。」

神は、ヤコブのもものつがいを外し(自我を砕き)、やっと彼を降参させました。ここに至るまで、20年の月日と、多くの出来事が必要でした。「神の愛と人の罪の戦い」は、神がヤコブに仕掛け、つがいが外れた時から逆転し、ヤコブの方が神にしがみついて戦っています。

神と人との最初の戦いは、神が人に罪を認めさせ、降参させる戦いです。しかし、第2ラウンドは、人が神にしがみつき、勝利を得るまで離さず去らせない戦いです。それは、神を激しく攻める(祝福を要求する)「祈りの戦い」です。

罪を赦された恵みに加え、その先の復活の恵みを求めることは、祝福を何倍にもします。主が弟子たちに祈りを教えた後に、友人に激しくパンを求めた記事があります(ルカ11章)。それは、「主の祈り」を理解しても、それを行う命(力)がないと気づいた人の行動です。主は、「…求める人たちに…聖霊をくださる…」(13節)と約束されました。

友よ。強情なヤコブが、強情な祈りの人になったように、祈りの勇士になりたいものです。かつての罪への熱心を、聖霊を求める熱心に代え、家族や隣人を主が獲得するまで主にしがみつく、祈りの勇士になりたいものです。

32章27節

その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」

「名」はその人の存在を表すので、ヤコブに、「私はヤコブです」と言わせたことが神の勝利でした。それは、「私は罪人です」との告白です。彼は、多くの家族と財産を得ましたが、それらを失いかける時になって、やっと本質的な罪の告白ができました。

人間の自由は、罪の告白から始まります。詩篇の記者は、「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏の日照りで乾ききったからです。…私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(詩32・3~5節)。

神は罪の告白を求めますが、罪を暴き断罪するためでも、惨めな者にするためでもありません。むしろ、死と自責の念から解放し、御自分の子として愛したいからです。

それはあなたに、「ヤコブ(争う者・押しのける者)です」と言わせず、「イスラエル(神の王子)です」と言える身分を授けたいからです。

32章28節 ①

「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い…勝ったからだ。」

神と人の間に、勝ち負けなどあるのでしょうか。たしかに、ここには勝負がつけられたと書いています。それでは神が勝つ、人が勝つとは何のことでしょう。

神が勝つとは、「神の御心がその人に実現される」ことで、人が勝つとは、「神を無視し、自分の生き方を貫く」ことです。しかし、人が勝つと、その人生に苦しみと死が入り、最終的に敗北者となります。

人生の本当の勝利は、「神に負ける」こと、それは、「罪を認め、神に降伏し服従する」ことです。ヤコブは、神に負けることで、むしろ本当の勝利者になりました。この戦いはだれもが通らなければなりませんし、しかも、独りだけで経験しなければなりません。「いのちに至る門は小さく、その道は狭い」(マタイ7章14節)とは、独りだけでくぐり、独りでしか歩けないことを教えます。

友よ。自我を放棄する戦いには苦悩と苦痛が伴いますが、避けて通ることはできません。しかし、この道を歩む者にこそ、「助け主」(ヨハネ14章16節)の聖霊が一時も離れず、否、その人の内にいて共に歩んでくださいます。

32章28節 ②

「その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。…」

ヤコブに勝った神が、「ヤコブを奴隷にすることができる」と言うと、恐怖を覚えますが、実際は全く逆です。人の本当の平和や生きがいは、「神の奴隷」の身分にあるからです。

迫害者サウロ(パウロ)は、ダマスコ途上で主の光に打たれて倒れ、彼もヤコブのように神に負けました。その後、「キリスト・イエスの僕パウロ」(ロマ1章1節)と自己紹介します。それは、「キリストの奴隷・パウロ」という意味でした。

キリストの僕とは、主が御自分の御心を実行できる人のことです。最も豊かで尊い生涯は、自分のすべての願いを実行した人ではなく、神が願うように生き、自分の肉の願いを実現しなかった人です。パウロが主の光で倒れ、盲目にされたのは、今までのように歩けなくされた象徴でした。そして、「あなたにして欲しいことがある(意訳)」(使9章6節)との主の御声を聞きました。

自己中心なヤコブは「イスラエル(神の王子)」とされ、迫害者パウロは「主に期待される人」になりました。

友よ。それは、あなたのことです。主はあなたに期待しています。だから、自分を自分で見捨てず、神に期待してください。

32章30節

その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私の命は救われた。」という意味である。

神を見た者は死ぬ、と旧約の人々は信じていましたが、ヤコブは神の顔を見たのに生きています。しかも、以前にも増して命の躍動を感じていたことでしょう。そしてその場所を、「ペヌエル(神の顔)」と呼びました。

ペヌエルは、クリスチャンが必ず通らねばならない経験です。これは、ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡る経験(ヨシュア3章)、新約のペンテコステの経験(使徒2章)です。

神を信じながらも無視して生きる「肉の人」人から、聖霊に従って生きる、「霊の人」(ロマ7章1~6節)への脱皮です。それは、自己中心の生き方から、神に支配していただく生き方に変えられる経験です。そして、その経験の報酬は、神の顔を見ること、「愛の神と直接まみえる」経験です。

ヤコブがこの時見た神の顔は、放蕩息子の帰りを待った父が息子を抱いた時の「安堵・いとおしさ・喜び・涙…の顔」だったでしょう(ルカ16章)。

友よ。神があなたに強く厳しく立ち向かったのは、この時のためでした。弱らないで、もう少し耐えてください。

32章32節

ペヌエルを過ぎた時、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは…足を引きずっていた。

(新共同訳)

右は、かつてヤコブが父の家から逃げる途中、「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだ」のと正反対です。あの時は、自己中心の罪から「日が沈み」、今は神の御心に従ったところから「日が昇り」ました。

あの時は、神がヤコブに出会い、守り、カナンの地に連れ戻す、と約束を与えられましたが、それも自分を是認する道具にしました。しかし今は、神に自分の姿を隠さず、「足を引きずって(自分の敗北を受け入れて)」います。

彼は、自分の力で歩けず、杖に頼っています。この「杖」こそ、神と人を一つにする信仰です。パウロが、「弱いときにこそ強く」(Ⅱコリ12章9~10節参照)なれたのは、弱いときこそ、より杖を必要としたからです。「信仰こそ旅路を導く杖」(讃美歌270)です。

友よ。あなたの上に「義の太陽」(マラキ書4章2節)は輝いていますか。「義の太陽」は、足を引きずり、自分の足で歩けず、信仰の杖に頼る者の上に輝きます。自分の足で悠々と歩いていた時は夜だったのです。いつも神の御前に自分の敗北を認め、信仰の杖にすがって、光の中を歩き続けてください。

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