キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第34章

34章1節

レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。

この一族は寄留者なのに、アブラハム以来、シェケムに土地を買い、定住しました。それは、イスラエルとなったヤコブ個人の考え以上に、複雑で憎しみ合う家族関係が、真っすぐ神に従えない事情を作っていたともいえます。

神を愛せない者に、「祭壇」と「この世」のどちらが魅力的かは言うまでもありません。早速、娘ディナは土地の娘たちとの交わりを求めて出かけました。年頃の若者には、特に神の愛の基準を見て育たない者には「人格」や「信仰」よりも、「男・女」が強烈な関心ごとです。

気がついた時、ディナは土地の有力者の息子に犯され、辱められました。ディナの姿は、今日の普通のクリスチャン家庭に迫る現実です。「普通の」とは、「ベテル」(神の家)と「この世」の中間にいる家庭のことです。

愛する親たちよ。子を大切にするとは、子の考えをなんでも容認することではなく、神を愛する訓練をすることです(箴言6章1~9節)。それは、親が神に従う量に比例した権威からできることです。私たちは不完全ですが、「主よ。私をお助けください」(マタイ15章25節)と叫び、祈り、神を愛する子を育てましょう。

34章9節

私たちは互いに縁を結びましょう。あなた方の娘を私たちのところにとつがせ、私たちの娘をあなたがたがめとってください。

ヒビ人ハモルの子シェケムは、ヤコブの娘ディナを辱めましたが、結婚することを真剣に考えていました。彼は父親を通し、正式に結婚を申し込み、互いの部族が婚姻によって繋がり、より平和に過ごすことを提案しました。

時には、信仰者(ヤコブの家族)よりも、未信者(ハモルの家族)のほうが寛大で了見が広く見えます。逆に、信仰を持つ人々は偏屈で偏狭と思えることがあります。

この違いは、心(知性・感情・意志)の次元で考えるか、それを超えた霊の次元で物事を見るかの違いです。また、「血の繋がり」か「霊の一致」かでもあります。神の子とは、「血」よりも「霊」を大切にする者のことです。

その「霊」とは、「私があなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです(ヨハネ6章63節)」。主のみことばは、血縁や国家や人間同士の愛以上に、大切な基準です。

世の常識、愛、寛大さが迫るとき、立ち止まって神の霊(ことば)に照らしてください。「主は真実な方です…、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます」(Ⅱテサ3章3節)。

34章15節

ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。

ディナの兄シメオンとレビは、シェケムの人々に対する妹の復讐を企てます。その策略は、妹との結婚の条件として、自分たちの神を信じ、その契約として割礼を受けることでした。

過去のキリスト教国による植民地支配は、等しく信仰を強要しました。「信仰」こそ、人間の最も大事な「基本的人権」と「いのち」です。だからこそ、自分の信仰を他者に強制することは、基本的人権の最大の侵害であり、殺人罪です。

では、人々に「イエスを主」とする信仰を強く勧めてはいけないのでしょうか。いいえ、それ以外に救いはありませんから(使徒4章12節)、いつでも伝道しなければなりません。ただし、兄たちのように、伝道を自分の利害に利用してはなりません。

友よ。教会が勧める伝道や、自分の家族への伝道の裏に、教勢拡大や、指導者の欲徳、名誉、自分の利害が隠されていませんか。伝道は、相手を愛するためです。自分や教会や組織は仕えるものとなって、むしろ、犠牲となるべきです。その愛が相手の心を動かし、「兄弟たち私たちはどうしたらよいでしょうか」(同2章37節)と尋ねさせるようになります。

34章22節

ただ次の条件で、あの人たちは私たちとともに住み、一つの民となることに同意した。それは彼らが割礼を受けているように、私たちのすべての男子が割礼を受けることである。

ディナに恋したシェケムは、愛する娘一族に自分を合わせるため、今まで自分がもっていた信仰まで変えようとします。このような男と結婚したら幸せ間違いなし、と思えますが? じつに好青年に見えますが、実はクリスチャンたちの中にも彼のような人がいます。

教会という共同体は、イエスを主と告白した人たちの集まりです。各自が直接主に繋がり、その結果互いが一つとされます。もし教会が、各自が個人的に主に従おうとせずに一致を目指すなら、利害や好き嫌いで行動する会社やサークル以上に、関係が難しくなります。

シェケムの青年たちは、割礼という外見を同じにすることで、中身の信仰も同じにしようとしました。神の子たちも、教会員、奉仕という外側の共有をもって、互いが霊的な交わりの中にいると錯覚しやすいものです。

サルデスの教会は、「あなたは、生きている(外側・組織)とされているが、実は死んでいる(内側・命)」(黙3章1~)と言われました。

友よ。本当の交わりと一致は、まず、「キリストと私」から始まり、次に「私と…キリストによって…あなた」の中にあります。いつでも、「キリストと私」から始めていきましょう。

34章27節

ヤコブの子らは、刺し殺された者を襲い、その町を略奪した。それは自分たちの妹が汚されたからである。

妹を辱められたディナの兄シメオンとレビは、割礼の痛みに身動きできないシェケムの男たちを殺し、さらに町を略奪しました。しかし、復讐で問題は解決しません。

問題は、ディナが町に行ったから。それは…ヤコブの家族がベテルでなくスコテの村と、次にシェケムの町に住んだから。それは…エサウに後で行くと嘘をついたから。それは…20年間の神への不従順と家族間の不真実が神に従えなくしたから。それは…兄と親を欺いたから。それは…胎内にいる時から争う者だから。それは…両親の罪が…アダムとエバの罪人の子孫だから…。それは、原罪から。

人類は、「それは…それは…」の果てしなく続く罪の連鎖の中にいます。ダビデも、「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました」(詩51・5)と告白し、「神よ。…血の罪(原罪)から私を救いだして…」(14節)と祈りました。

しかし私たちは、「雄の子牛(イエス)が…祭壇にささげられます」(19節)と、罪の連鎖を断ち切る、主イエスの罪の贖いを受け取りました。

友よ。主の救いに感謝しよう!

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