キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第38章

38章1節

その頃…ユダは兄弟たちから離れて下って行き、その名をヒラというアドラム人の近くで天幕を張った。

38章はヨセフ物語を休止し、4男ユダのことを記し、39章に入り再びヨセフのその後が書かれます。ヨセフを案じる読者の心に水を差すようなこの章には、ヨセフ物語のクライマックスを割くのに惜しくないほど、大事なメッセージが秘められています。

ユダが父の家を離れ、異邦人の所に行って住んだ「その頃」とは、ヨセフを売り飛ばした後です。彼の魂は、ヨセフの死を悲しみ泣く父ヤコブの姿を見る度に、激しい罪意識に責められます。彼は、それに耐えられず、父と兄弟たちから離れて暮らすようになったと考えられます。

ユダは罪から逃げた卑怯者? それとも罪意識が強く、悲しむ心を持つまともな人? たしかに彼は卑怯者ですが、「悲しむ者は幸いです」(マタイ5章4節)の人です。「弱さ・勇気のなさ・無慈悲・止められない自己主張」など、自分の姿に罪を認め、悲しみ嘆く心を持つ人こそ、正常である証拠です。後に、ユダがイスラエル民族のリーダーとなるのは、「罪に悲しむ者」だったからです。

友よ。笑う人より泣く人、自分に自信ある人よりも悲しみつつ、主に頼る人が幸いです。

38章2節

そこでユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところに入った。

後の歴史を見ると、ユダの家系からダビデと王たちが輩出され、主イエスに至る、大事な救いの系図を担います。しかしこの頃のユダは、神に選ばれた家族から離れ、異邦人の地に行き、異邦人の娘を妻としました。

彼の人生の狂いは、異邦人の娘を妻としたからではなく、罪の重荷に耐えられず、父の家から逃げたことから始まります。罪を犯したアダムとエバが、神が近づく足音を聞き、園の木の間に身を隠したことと同じです(創3章8節)。「園の木の間」と「異邦人妻」は、共に「この世」に自分を隠すことで、罪を小さく、見えにくくし、良心の呵責から逃げることができます。ユダは、信仰の人となった父イスラエルと一緒に住むより、父の家を出て異邦人妻と住む方が、平安な心で暮らせると思ったのでしょう。

罪を解決せずに逃げると、教会よりも世の人々の方が、自分をより理解してくれるように錯覚します。

友よ。現実がいかに苦痛で逃げたくなるようであっても、その結果を考えてください。「今」よりも、「先の結果」を選ぶことは賢い選択です。「(神が備える結果に向かって)最後まで耐え忍ぶ者は救われます」(マタイ24章13節)。

38章6~7節

ユダは、その長子エルにタマルという妻を迎えた。しかしユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。

ユダは妻との間に、エル・オナン・シュラの3人の息子を得ました。やがて成人した長男エルにタマルという嫁を得ましたが、「エルは主を怒らせ」主に殺されてしまいました。

なぜ、長子エルは神を怒らせたのでしょうか。勿論、彼自身の罪のためですが、それだけとは言えません。大きな理由に、父から神を教えられずに育ったから、とも考えられます。

ユダは、罪を持ったままなので、神に蓋(ふた)をしました。神を知りつつも、自分の罪のゆえに子に神を伝えることが出来ません。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも…これを唱えなさい」(申6章6~7節)との言葉はとても重要です。親の、子に対する最大の責任は、神を教えることですが、自分の罪から逃げる者は、子に「主を教える」という一番重要な教育ができなくなります。

友よ。原罪の鎖からは誰も逃げられません。だから、誰かが先祖伝来の罪を断ち切るハサミを渡す必要があります。その人が絶対必要です。その人とは、あなたではないでしょうか。

38章8節

ユダはオナンに言った。「あなたは兄嫁のところにはいり、義弟としての務めを果たしなさい。そして、あなたの兄のために子孫を起こすようにしなさい。」

当時、兄が死んだ場合は、弟が兄嫁を妻にして子孫を残すことが神の掟でした。ユダの長男が死に、彼の妻タマルを次男のオナンが妻としますが、彼は生まれる子が自分の子にならないので、子種を地に流し、主を怒らせました。彼もまた、主に殺されました(10節)。

「兄の子を絶やさない」とは、単に「兄の子孫を残す」だけのことではありません。聖書全体から考えると、「兄=長子=御国の跡継ぎ=神の子の永遠の命」、すなわち信仰の継承を意味します。すると、オナンは信仰継承を拒否したことになり、その行為は大罪となります。したがって、彼自身に救い(永遠の命)がないことになり、命(永遠の)を失うことは当然です。

オナンは主に殺されたのではなく、自ら、神とその救いを拒んだことになります。そのことを聖書は、「主は彼を殺した」(6節)と表現しています。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」(ヘブ11章6節)。これは、信仰によらないで生きることは罪を犯すこと、とも言い換えることができます。「罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、…主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ロマ6章23節)。

38章14節 ①

そこでユダは、嫁のタマルに、「わが子シェラが成人するまで…やもめのままでいなさい。」と言った。…シェラもまた、兄たちのように死ぬといけないからと思ったからである。

ユダの長男エルも、次男オナンも若くして死にました。ユダはその共通する原因を、「タマルを妻にしたから」と考えました。そこで、主の掟に従い、3男のシェラにタマルを妻にすると、シェラも死ぬと考え、時間稼ぎのために右のように言いました。

だれでも、自分の思い通りに事が運ばないと、他者に責任をなすりつけます。ユダは、嫁タマルにその責任を転嫁しました。しかし、本当の原因は、ヨセフ殺しの罪から逃げ、神を信じない妻に逃げ、息子たちに神を伝えることができないために、息子たちが神に従えなかったことにありました。ユダは、息子たちの死の原因を自分勝手に判断しています。

正しい判断は、私・あなた・世間ではなく、神が私をどのようにご覧になるかです(ヘブ書4章13節参照)。ですから、自分の都合を脇に置き、他者に責任転嫁することを止めましょう。そして、「主よ、なにが問題ですか」と聞きましょう。

友よ。自分の問題を知ることを恐れないでください。あなたの問題には、必ず主の十字架の解決の道が用意されていますから、恐れることはありません。

38章14節 ②

タマルは、やもめの服を脱ぎ、ベールをかぶり、着替えをして、…入り口にすわっていた。

タマルは、ユダ家の嫁ですから次男の夫が亡くなっても、そこで暮らすはずでしたが、舅ユダは三男との結婚阻止のために、実家に帰しました。未亡人となって実家に帰されて生きることは辛く、彼女は義父ユダを恨みました。

ユダの妻の死後、タマルは義父を陥れようと遊女の身なりをし、羊の毛を刈る付近で待ち伏せます。ユダは、妻がいない淋しさから遊女に近づき…自分の子の妻だとも気付かず…関係を持ちました。

この一連の舅と嫁の姦淫という恥ずべき大罪(レビ20章12節)の記事は、昨今の巷のスキャンダルを超え、現代の私たちまで知ることとなりました。しかしユダは、この事件があらわにされたことでヨセフへの罪、神から逃げた罪、異邦人の中に身を隠した罪を悔い改め始めます。

友よ。あなたは自分の「失敗・恥」があらわにされた時、さらに隠しますか、それとも受け入れますか。神の子たちが持つ特権の一つに、「ここから」があります。ユダも、「ここから」始めたのです。「罪=包む(隠す)」があらわにされる「ここから」が祝福の始まりです。主に在っての「ここから」は、決して遅くはありません。

38章18節

「あなたの印形とひもと、あなたが手にしている杖」と答えた。それで彼はそれを与えて、彼女のところに入った。こうしてタマルは彼によってみごもった。

タマルは狡猾に義父を誘い、その証拠の「紐のついた印と杖」を手にしました。サタンは、人を死に追いやる「証拠=罪」をしっかり握っています。「罪の価は死です」。

「地獄について語りなさい」という、ある短い文章を読みました。その要旨は、「…教会から地獄についての説教が絶え、愛・弟子訓練・御霊の賜物・社会運動・道徳の話ばかりになっている…教会は「快適印」のキリスト教になっている…そうなったのは教会の権威が落ちたからである…教会の使命は、聖書のことばを審査するのではなく、曲がったこの世にみことばの全体を語ること…地獄も含めて…である。…地獄について真剣に考えると、思いや祈りに厳粛ささえ戻る。救いの重要さがわかる。正しい生活に導かれる。しかし、一番大切なのは、神の愛がはっきりと分かることである…。(出所不明)」

地獄や罪を抜いた「快適印メッセージ」は、「塩気のないクリスチャン」(マタイ5章13節)を作ります。

友よ。証拠(罪)をサタンに握らせてはなりません。罪(証拠)は主に差し出し、主に握っていただき、十字架の上で完全に砕いていただいてください。

38章19節

彼女は立ち去って、そのベールをはずし、またやもめの服を着た。

タマルはとても賢い女性で、特にベールをかぶったり、脱いだりは見事です。ユダはタマルの計略にはまりました。そうすると嫁のタマルは相当な悪女となり、むしろ義父ユダの方が被害者に見えてきますが、それは表面のことで、真実は違います。

本当の主役はさらに別のところにいます。そのお方は神です。人の悪意や策略、たとえそれがサタンの計略であったとしても、さらにその上にいますお方です。人が自分の思い通りに、ベールを「かぶり・脱ぎ」していますが、もう一枚ベールを上げると、憂いつつ見守る神の顔が見えてきます。

神は、ヨセフ殺害の罪から逃げたユダから手を離しません。彼の父ヤコブをヤボク川で負かしたように、ユダをも「敗北者」にしようとしています。「神に勝つことは人生の敗北」で、「神に負けることは人生の勝利」です。 神に負けるとは、主権を神に明け渡すことです。神がタマルの復讐に憂いつつも沈黙し、ユダを追い詰め、罪を暴くのは、その価(責めと死)を御自身が背負いたいからです。

追い詰められている友よ。左手(降参)と右手(救助)、両手を神に挙げて祈りましょう。

38章24節

約三か月して、ユダに、「あなたの嫁のタマルが売春をし、…売春によってみごもっているのです。」そこでユダは言った、「あの女を引き出して、焼き殺せ。」

2人の息子の死が、タマルとの結婚にあると信じるユダに、彼女が売春により身ごもったとの知らせが届きました。彼はここぞとばかり、「あの女を焼き殺せ」と言いました。その時を待っていたタマルは、使いを送り、自分を身ごもらせた人の証拠を差し出しました。

主は、「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7章3節)と言われました。自分の罪が大きいほど、他者の罪を激しく責めます。

あるアメリカの有名なテレビ大衆伝道者が、いつも烈火のごとく姦淫の罪を断罪しました。誰もが彼を聖い器と思いましたが、実は、「自分はストリートガールとの関係を切れないで苦しんでいた」と、後に自ら告白したそうです。彼の聖さへの説教は、自分自身への断罪でもありました。

その人は、ユダやその伝道者のみならず、私であり、あなたでもあります。他人の罪を責めることで自分の罪を隠そうとせず、正しく解決しなければなりません。

友よ。「人々へ」でも「自分へ」でもなく「主のもとへ」罪をもって行き、主に在って解決していただきましょう。

38章26節

ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラに与えなかったことによるものだ。」

ユダは、遊女との関係を断ち切ろうと品々を送りますが、相手は見つかりません。やがて、嫁タマルの身ごもりが、自分の行為であったことが明らかにされました。

「あの女を焼き殺せ」と言った彼は、「あの女は私よりも正しい」と素直に言い直しました。しかし、タマルがユダを誘ったのだから、ユダはタマルより正しい? という考えもあるかもしれません。

しかし、罪の大小を議論しても解決にはなりません。問題の核心は、タマルが「私より正しいか正しくないか」ではなく、さらに深く、「神は私より正しい」と言えることです。これらの出来事を通して、人の罪を暴かれる神こそ、正しいお方です。私たちが他の人に犯す罪は、神との関係が正しくなかったからです。神に対する罪に気づく人が、他者への罪を本当に悔い改めることができます。罪に大小はありません。

友よ。深いところにある罪を御霊に示していただき、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した」(使徒19章18節)ように、私たちも謙遜になって悔い改めましょう。正しい人はいませんが、悔い改めた義人はいます。

38章29節

もう一人の兄弟のほうが出て来た。彼女は、「あなたは何であなたのために割りこむのです」と言った。それでその名はペレツと呼ばれた。

タマルの胎内には双子がいました。最初に手を出した子がいましたが、別の子が割り込んで先に産まれました。出産の順序を破ったことで「ペレツ(破る)」と名付けられました。

このペレツが、イエス・キリストの系図に、「ユダに、タマルによってパレス(ペレツ)とザラが…」と記されます(マタイ1章3節)。本来なら「ザラとパレス」なのに、その順序が破られたからです。

このペレツも、弟を売り異邦人と結婚し、さらに息子の嫁に子を産ませたユダも、異邦人で義父を騙して子を産んだタマルも、みんな常識破りの人たちです。誰でもキリストの系図には聖さを期待します。しかし、ユダやタマルやペレツの他にも、遊女ラハブやダビデ王と姦淫を犯したバテ・シェバなど、多くの常識破りの人々が系図に載っています。

友よ。私たちも同じ罪の中にいたのに、天の聖い系図に入れられました(ヨハ1章11節)。それは、さらなる常識破りのお方がおられたからです。その方は、聖いお方なのに、私たちと同じ身分になって罪を背負った、世界最大の常識破りのお方、イエス・キリストです(ピリピ2章6~8節)。

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