キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第4章

4章1~2節

人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、…弟アベルを産んだ。

子を産むより育てる方が難しい…とは事実です。それで、「産みの親より育ての親」とも言います。アダム夫婦に二人の子が与えられました。親は、子の体を「産み」ますが、霊のいのちを「生む」ことも大事な役目です。そして、「肉体を産む」以上に、「神の子として生み育てる」ことは、なお難しいことです。

「全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ16章26節)は、「全世界を得ても、自分の妻・夫、子の永遠の命を失ったら何になろう」とも読めます。親の使命は、子に神のいのちを伝えることです。子どもにとっての牧師とは、教会にいる牧師ではなく親自身です。

子に神のいのちを伝えるためには、親が神を喜ぶことです。その反対は、子に神と牧師や兄弟姉妹の不平不満を聞かせることです。自分が神を喜ぶなら、子を神のもとへ連れて来ます。神を喜べないなら、子を自分の所に連れて来て、自分と同じ罪人にします。

友よ。主は「あなたの子をここに連れて来なさい」(ルカ9章41節)と言われました。子を「産んだ」のは、真のいのちを持つ神の子を「生む」ためです。子どもを神のところへ連れて行くために、今日も祈りましょう。

4章2節

アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

アダムの長男カインは土を耕し、次男アベルは羊飼いの仕事に就きました。その人の価値観は、職業を選択する場合に影響を及ぼし、その影響は、両親から大きく受け継ぐことになります。

アダムは息子たちに、「神御自身」と「人の救い」について教えます。とくに、彼らの経験から、「皮の衣(子羊・イエスの十字架・罪の赦し)の大切さについては、身に染み込むまで教えたことでしょう。それを弟アベルは受け取り(羊を飼う=皮の衣のメッセージを受け取る)、兄カインは無視しました(土を耕す=羊・皮の衣を無視)。

2人の職業の違いは、親の教えに従ったか否か、さらに神の御声への従順と不従順を表わしました。この物語は、単なる仕事や職業を超え、彼らの永遠の救いに直結することを教えています。

「三つ子の魂、百まで」は、聖書でも「若者をその行くべき道にふさわしく教育せよ。そうすれば年老いても、それから離れない」(箴言22章6節)と同じです。

愛する友よ。子どもたちに、人の「いのち」と「救い(皮の衣)」の大切なことを語り続けましょう。たとえ、子がすでに親の手を離れ、もう?十歳になっていても、子は子ですから語り続ける(祈り続ける)のは親の役目です。

4章3節

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげものを持ってきた。

神は、カインのささげ物を受け取らず、アベルのささげ物を受け入れました(4・5節)。神は、職業や食べ物や人物に好き嫌いのあるお方でしょうか。いいえ、「神はかたよったことをなさらず」(使徒10章34節)のお方です。地を耕し、作物を作ることは尊い仕事です。

この記事は、職業や食べ物や人物の善し悪しのことではなく、救いに関することを教えています。カインのささげ物は、彼の信仰を表します。彼は、「神に行く時は皮の衣(救いの衣)を着るように」との両親の教えを受け取らず、自分の考えと方法を貫きました。この地の作物とは、「自分の手の業・行い」を意味します。彼は、自分の「良い行い」によって、神に受け入れられようとしました。

神が喜ばれるのは、いけにえ(行い)でなく聞き従うことです(Ⅰサム15章22節参照)。自分の思いでなく、主のみことばを基準とすることです。救いは、信仰(神に聞き従う)によって与えられ、行い(自分の考え・業)ではありません(ロマ3章28節参照)。

「主よ、今日一日をカインとしてではなく、アベルとして歩めますように」と祈りましょう。

4章4節

アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、…自分自身で、持ってきた。

アベルは、羊を多く持っていたので羊を捧げた、という便宜主義者ではありません。彼は、「罪人は神の前に立てないから、罪の赦し(贖い)を受け、正(義)しい者となりなさい」との両親の教えに従いました。 自分の罪を知り、罪の赦しを求めて動物犠牲…羊の頭に手を置き、自分の罪を羊に移し、罪の代価の死を羊に身代わりとさせる…を行いました。神は、罪の消えたアベルを喜んで受け入れました。

砂漠の地で作物を収穫するには、多大な労力と勤勉が必要です。農作物を作るよりも、羊飼いの方が楽にさえ見えます。作物は人の手の業で作り出しますが、子羊は親羊から生み出されます。従って、アベルよりもカインの方がより働き者に見えます。

しかし、救いは人の業(行い)ではなく、親羊が子羊を産むように、父なる神が世の罪を取り除く「神の子羊・イエス」を与えてくださった恵みによります。カインは「律法と行い」を表し、アベルは「恵みと信仰」を教えています。律法は人の業を、恵みは神の業を示します。

人の救いは、神の「業・恵み」を「信じ・受け取る」ことです(ロマ3章20~25節参照)。

4章5節

カインとそのささげ物には目を留められなかった。…カインはひどく怒り、顔を伏せた。

神から受け入れられないカインが顔を伏せたのは、「自分の納得できないことは受け入れない」との表明です。それは、「私は正しい」との自己主張と、「もうあなた(神)とは関係ない」という離別のサインでもありました。

カインの態度には、努力が報われない悔しさから、神から目をそむけ、自分自身で生きる決意が感じられます。だれにも、真理よりも自分の考えや努力を重んじる傾向があります。しかし、「私がどう思うか」でなく、「真理が私をどう判断するか」が大事です。罪の解決(皮の衣)なくて、いのちの回復はありません。

愛する友よ。「入学したら…卒業したら…就職したら…結婚したら…家を持てば…」もっと幸せになれると考えたでしょう。しかし、罪の解決がなければ、「罪は戸口で待ち伏せして…あなたを慕う」(7節)ように、人生の戸口なる節目(入学・卒業・就職・結婚…)で罪があなたを待ち受け、罪に支配されます。

顔を伏せたカインにならず、神に顔を上げましょう。そして、「主よ、私のどこが間違いですか」と問うなら、「わたしから学びなさい」(マタイ11章29節)との柔和でへりくだった主の御声を聞くでしょう。

4章8節

ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

なぜ、カインが弟アベルを殺したのか。その理由は「自己義認」です。カインにとって、神に受け入れられた弟の存在は、自分を罪人に断定しました。そこで彼は、自分を自分で正しい者にする「自己義認」を貫きました。

「自分を義とする」(自分で自分を救う)ためには、権力、財力、多数、嘘などなんでも用い、その先は殺人です。律法学者やパリサイ派の人々がイエスを十字架につけたのは、イエスの存在により、自分が罪人にされたからでした。そこで彼らは、自分で自分を救うためにイエスを殺しました。

聖書は、「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたの裁きを真昼のように輝かされる」(詩37・5~6節)と約束しています。

愛する友よ。神の前における罪、人々との関係から受ける誤解や妬みや悪意などから、自分で自分を救おうと焦るなら、「カインの末裔(まつえい)」になります。カインの罪は、悔い改めて神に救っていただくのではなく、自分で自分を救おうとした「自己義認」です。弟殺しは、本質的な罪ではなく、罪のよってあらわれた結果でした。

4章10節

「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」

カインは悔い改めず、自己義認の道を突き進み、弟アベルを野に連れ出して殺しました。しかし、カインの願いどおりに事は運びません。神が見ていました。彼は、「弟の番人ではない」と逃げますが、地の底から聞こえる、「弟の血の叫び」からは逃げ通せません。訴える者がいなくても、神は全て知っています。

神が、人の血の一滴一滴に大きな関心を寄せるのは、一人ひとりが御自分の子どもだからです。子のいのちに無関心でいられる親はいません。それは、死んだアベルに対してだけではありません。カインのいのちについても、「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか」(エゼ18章23節)と心を痛められる神です。

人々の罪の血の叫びを聞かれるお方は、御自分も、「アベルの血よりも力強く語る注がれた血」(ヘブル12章24節・口語)の叫びをされたお方です。アベルの血は、「あの人(兄)は罪人です」と叫び訴え、断罪しますが、主イエスの十字架の血は、「あなたの罪は赦された」と叫びます。

罪の裁きを訴えるアベルの血よりも、罪の赦しを宣言する主イエスの血は、さらに強力に父なる神に執り成しの叫びをあげます。

4章12節

あなたが土地を耕しても、土地は…あなたのために力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。

カインは神から離れた後、頑張っても実りがなく、懸命になにかに取り組んでも満たされず、なぜ、なぜ、と焦りつつ「さまよい歩くさすらい人」となりました。 

羊は、充分な草があり、敵がなく、仲間同士の争いもなく、病気もないなら多くの子羊を産みます。しかし、砂漠の中にはこのような好条件はありません。そこで、羊に最も必要なものは、食物を与え、敵と病から守り、平和を提供してくれる良い羊飼いです。

人の幸福も、「何を持っているか」より、「『だれ』が共にいるか」。「どんな人生を歩いているか」より、「『だれ』と共に歩いているか」がより重要です。その「だれ」こそ、良い羊飼いである主イエスです。

「さすらい人」とは、努力せず、知恵がなく、運にも見放された者でもなく、「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるのに」(ルカ15章17節)、そこから自分勝手に離れた「病的自立者」です。それは、羊飼いの囲いから自分の身分も忘れて逃げた、迷える羊です。

友よ。詩編23篇の羊飼い・主イエスの所に早く戻ってください。あなたは神の子なのですから。

4章13節

カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」

放蕩息子を待ち続けた父の姿は、私やあなたやカインに対する神の姿です。カインの悔い改めが不完全であったとしても、主なる神は帰って来たカインを喜び、受け入れ、赦し、同時に今後の守りも約束されました。

カインを殺す者に、神が七倍の復讐をする?とは驚きです。カインの罪を赦す神は、もう一方で復讐の罪を犯すのでしょうか。否、七倍の復讐の意味は、「カインよ、わたしはあなたを完全に守ります」との固い約束の表現です。

神の赦しは完全であるとともに、赦した後の守りと慈しみも絶大です。その完全な赦しの証として、神がカインの額につけた「印」とは、「十字架」です。この印は、カインの過去の罪を赦したのみならず、これから「カインに出会う者が、彼を殺すことのないように」との神の守りの約束でした。

カインにつけた印は、あなたの額(心)にも押されています。主の赦しは、「過去・現在・将来」の時空を超えてあなたのものです。

愛する友よ。「あなたを守る方は、まどろむこともない」(詩121・3節)お方です。

4章16節

それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

神は、御自分の独り子のいのちに代えてカインを救い出しました。それでカインは主に感謝し、賛美し、昼も夜も主の御名をほめ称えた!と思いたいものです。しかし聖書は、「カインは、主の前を去って」と残念な現実を報告しています。彼はどこへ、何をしに行ったのでしょう?

これほどの恵みを受けたカインが、なぜ主にとどまり続けられなかったのか。それは、原罪からの赦しと、聖別されることとは一緒ではないからです。原罪からの赦しは「主の十字架」が強調されますが、聖別には「自分の十字架を負う」が含まれます。

主の十字架は歓迎だが、自分の十字架は負いたくない、が生来の人の本音です。救われて後しばらくすると、神との関係が重くなり、やはり自分の思いのままに生きたくなります。

カインが住み着いた「ノデ」とは、「さすらい」の意です。彼は神中心から、自分中心な元の生活に戻りました。神の恵みを、「あれほどの…経験はむだだったのでしょうか」(ガラ3章4節)にしてはなりません。

愛する友よ。主から離れてはなりません。信仰の基本は、一から百まで、主にとどまることです。

4章19~23節

レメクはふたりの妻をめとった。…レメクは妻たちに言った。「…レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。」

カインが住んだノデは、「さすらい・あせり」の地です。人が「あせる」のは、神から離れ、自力で生きているからです。「流離(さすらい)」の漢字は、世に「流れ」ていくので、神から「離れ」る状態を表しています。

カインの末裔(まつえい)とは、「神から離れ、この世に流された、的外れの人(罪人)」のことです。神への的が外れると、人間関係の一番の基礎、夫婦・親子関係が崩れます。それがレメクの2人の妻たちです。さらに、「私の受けた傷のために…カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」(23・24節)と、妻さえ恐喝します。それは、神の愛の守りを離れ、自分「で・が・の・は」のあせりの世界に入った、「流離人」に共通した心です。

友よ。私たちは神から、「私はあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなた方を持ち運ぶ。私は造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ46章4節)と約束をいただいています。私たちは大人(自分の責任を負う)になる必要はありません。神の子ども(神の保護に生きる)でいいのです。

4章26節

その時、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

(主の名を呼び始めた・新共同訳)

人々が、「主に祈り始めた」とは、それまで祈っていなかったことになります。人が祈り始めるのは、自分の限界や行き詰まりに直面してからです。カインの末裔(まつえい)は、何世代も神に反抗して自己中心に生き、互いに傷つけ、苦しみに耐えられなくなり、神を求めました。

「神は苦しみから助けてくれない」と言う人がいます。しかし神は、「苦難の日に私を呼び求めよ。私はあなたを助け出そう」(詩50・15節)と言っておられます。

神の助けがないのは、「祈らない」からでは。祈らないのは、「私はまだできる」と思う、自負心から来るものです。カインの子孫が、「神」を意識したのは、何世代も神を無視した結果、レメクのような暴君が現れ、人を神のように頼る空しさを知ったからです。

友よ。たとえ、自己中心の終着駅からでもいいから方向転換(悔い改め)して、「その時、人々は主の御名によって祈ることを始めた」ようにしても遅くはありません。天国に向かって敷かれたレールはまだ残されています。ダメな自分を引っ下げ、神に近づいてください。神の前で、苦しいのに楽しそうに、重いのに軽いように、良い子になるのを止め、駄々っ子のように御名を叫びましょう。

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