キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第40章

40章1~3節

これらのことの後、エジプト王の献酌官と調理官と、…王に罪を犯し…同じ監獄に入れた。 

聖書は、「これらのことの後」という言葉をよく使います。それは、偶然ではなく、過去の出来事があって、現在の出来事があるということを示します。さらに、「その背後で神が働いたので」とも言えます。ここでの「これらのことの後」は、「神が計画し働いたので、ヨセフがいる獄に2人の高官が入ってきた」と読み取ることができます。

人には、過去と現在と未来が繋がって見えないので、一つ一つの出来事が偶然のように思えます。すると、その場しのぎの対処療法的な生き方をする以外になくなります。過去と現在と未来を、一つの繋がりとして見通せるならば、物事への対処や、心の在り方もずいぶんと違ったものになります。

「過去に関して、正しい情報を知らされた人は、現在を気難しく、悲観的に見ようとしない」とは、英国の信仰深い紳士の言葉です。「過去の正しい情報」こそ、聖書の中に詰まっている、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフなどの神とつながった人生体験です。

友よ。私たちは彼らの経験を自分の経験とできるのです。ヨセフの監獄も、その中の生活も、他者との関係も、全部自分の経験とすることが出来る、恵みの中にいるのです。

40章5節

さて、監獄に監禁されているエジプト王の献酌官と調理官とは、ふたりとも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはおのおの意味があった。

献酌官は、王の食事のお世話や話し相手になる高い位の人です。調理官も王の健康に直結する重要な位です。2人が獄に入れられたのは、謀反の疑いをかけられたからでした。

彼らは、同じ夜に同じ夢を見ましたが、その意味を理解できません。人生に起こる大事な出来事の前に夢(啓示)を見せられるのに、それを理解できないまま出来事に直面し、痛い目に合うものです。

啓示を理解できないのは、美しい刺繍を裏側からながめるように、起こる出来事に対して下(自分)から上を見るからです。

神の御心を、自分の目や経験や知識で知ろうとせず、上(神の御心)から下(自分・出来事)を見るならば理解は難しくありません。「…栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を」(エペ1章17節)与えてくださるからです。

友よ。自分の人生は、割に合わず苦労だけ、と思っていませんか。ヨセフの人生もそのように見えましたが、彼は自分を上(神の御心)から見る(聖書の知識・信仰者の経験によって)ことができました。 苦難が大きく深いほど、多くの糸が織り合わせられ複雑ですが、それだけ深みのある美しい人生刺繍となるでしょう。希望を捨てないでください。

40章8節 ①

ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」

献酌官と料理長が見た夢は、重大かつ深刻な意味がありそうですが、それを解き明かす人がいません。今日、「夢」を解き明かす人とは、いったいどのような人でしょうか。

それは「教会」です。「神はいっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1章22~23節)。

主イエスこそ、神の御心を完全に満たしているお方であり、教会の頭(かしら)なるお方です。教会は、神の御心を解き明かす使命を与えられています。特に、聖書を正しく解き明かすことにおいて、現代の最大の預言者といえます。

教会は、神の御心を、全ての人にみことばをもって解き明かす使命を与えられています。それと同時に、一人ひとりが頭なるキリストの指示に従い、一つの体とされ、一人のキリストとなり、キリストの御業(教え・執り成しの祈り・癒し・奉仕…)を行う使命も与えられています。神の夢は、「夏草や…夢の跡」のようなものでなく、必ず実現される夢(御計画・御心)です。

友よ。あなたも解き明かす大事な一人に選ばれているのです。

40章8節 ②

ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」

献酌官と料理長は、自分たちが見た夢のことで困惑していました。ヨセフは、「夢を解き明かすのは神である」と彼らに答えます。

人が見る夢は、深層心理から出てくると言われます。しかし、それだけではありません。神は、「主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」(民数記12章6節)と言われました。さらに、人間の深層心理の部分であっても、「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」(詩139・1節)とも言われますから、全てを知るのは神です。

ヨセフは、神が全てのことの道理や意味を知っていると信じています。だから、神は、人が解らないことでも、必ず教えてくださると確信していました。

友よ。あなたは、「今直面している問題や悩みを、正しく理解し、教え導くのは、神である」と知っています。しかし、実際には、神に聞く前に自分の判断で行動します。今いちど原点である、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」(箴言3章5~6節)に立ち返り、さらに時間をかけて御心を祈ってください。

40章13節

「三日のうちに、パロはあなたを呼び出し、あなたをもとの地位に戻すでしょう。」

献酌官が見た夢は、ぶどうの木のつる3本が芽を出し、花を咲かせ果実を実らせ、その実を摘んでパロにしぼって飲ませたというものでした。この夢をあなたならどのように解釈するでしょうか。

聖書のみことばを理解するのに、3通りの立場があります。

  1. みことばの「上に立つ」…みことばを自分の知識や経験によって解釈する
  2. みことばの「横に立つ」…聖書を自分と対等な立場に置く
  3. みことばの「下に立つ」…みことばに自分を解釈させる

ヨセフは3.の人でした。「聖書は全て、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモテ3章16節)。

自分の知恵や経験で聖書を解釈すると、人が神を理解する自由主義神学的になり、人が主体となります。みことばを自分と対等の立場に置くと、自分の都合でみことばを使い分ける信仰者になります。

聖書に自分を解釈させると、自分の罪、心の奥深いところの姿、他者に対する思いなどを、神が主体となって教え、戒め、矯正し、育んでくださいます。これが、聖書を正しく学ぶ一番大切な姿勢です。

40章10~11節

「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるように…。」

エジプトに来る途上で、「我生くるにあらず、キリスト我が内に生くる」(ガラ2章20節参照)の信仰に立ったヨセフでした。その後、ポティファルの家、入獄、それから何年…? 「主が共にいる」とはいえ、あまりに過酷な境遇に、彼も人の好意に頼りたくなりました。

強い信仰の人でも、孤独には勝てません。バプテスマのヨハネですらも、牢獄から弟子を遣わして、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」(マタイ11章3節)と主イエスに尋ねさせました。

「孤独」と「無目的」は人を弱らせます。神は、ヨセフと共にいて、大きな御計画を持っていますが、本人は、まだ知りません。彼は、日々、「孤独」「無目的」と戦っていました。しかし主は、「あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14章18節)と断言されます。

友よ。神はあなたと共におられ、あなたに素晴らしいことを計画しておられます。まだわからないので人に頼りたくなったとしても、もう少し祈りつつ待ってください。

40章15節

実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。

ヨセフは、献酌官がパロの側近であるから、夢が実現した暁には、力になってもらえると信じ、自分の境遇と無実を主張しました。ヨセフはとても弱気になっていますが、彼を笑うことのできる者は一人もいません。

信仰生活を送る中で、自分の不遇、誤解、弱さ、などを自己弁護することがあります。また、自分の気持ちを信仰の友に打ち明ける時もあります。しかし、一時の慰めや励ましを得ても、問題はたやすく解決しません。すると、さらに聞いてもらえる人、励ましてくれる人を捜します。結局、自分を認め、考えに同意してくれる人を探しているだけです。

友よ。本当の友とは、あなたを理解し、励まし、同意してくれる人ではなく、「主イエスへ押し出してくれる人」です。人間的な次元での理解者は、真理を見えなくし、自分をさらに弱くすることもあります。弱さや境遇は、あなたの罪ではありませんが、それに負けると罪になります。負けるとは、人に救いを求め、神に求めないことです。今、ヨセフは少し負けています。ヨセフ(あなた)よ頑張れ!負けるな!

40章21~22節

献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をパロの手に献げた。しかしパロは、ヨセフが解き明かしたように、調理官長を木につるした。

王に対する謀反を企てた張本人は、料理役でした。献酌官は元の職に戻され、調理役は木につるされて殺されました。

今日の日本では、「生かされる」「殺される」ということをほとんど考えず生きています。戦時中は、「召集され」「…へ送られ」と、自分の意思を超えて「生死」が決められました。その世界では、「生と死」が、常に第一に考えねばならない問題でした。

神がヨセフに2人の運命を知らせたように、神は人の「生と死」について明示しておられます。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって…語られました」(ヘブル1章1~2節)。

今は、神の御子が直接、「私が道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)と語ります。時代が平和でも戦時中でも、「いのちの戦い」に変わりはありません。それは、「役に戻し(天国へ)」、「木につるし(地獄へ)」の二つの道です。

平和という麻薬に、いのちへの真剣さが麻痺させられてはなりません。

40章23節 ①

ところが…、彼のことを忘れてしまった。

ここに、「ところが」とありますが、聖書では、「ところが」の使い方に特徴があります。それは、人と人の関係に「ところが」と出てくるとその後が「暗く」なり、神と人の関係だとその後が「明るく」なります。

「ところが…忘れた」(右の個所)…のち暗くなる。「ところが、アナニヤと…妻のサッピラは」(使徒5章1節)…のち暗くなる。「ところが、夜、主の使いが…彼らを連れ出し」(使徒5章19節)…のち明るくなる。ほかにも同じような関係を探すことができます。

この明暗の分かれ目は、「人との関係」に土台を置いて生きているか、「神との関係」に土台を置いて生きているかの違いです。人との関係に土台を置くと、どんなに首尾よく進んでも、後で必ず暗くなります。反対に、神との関係で生きるならば、今がどんなに暗くても、後で必ず明るくなります。

聖書の中に、目が見えない人(自分に失望し、神を求めている人)が…イエスとの関係で…見えるようになり(ヨハネ9章39~41節参照)ます。反対に、自分の信仰は健康だと自負する者(自分を神としている人)が…イエスとの関係で…罪人にされます(ルカ5章31・32節参照)。

「ところが」は、神が人の価値観を変える妙薬です。

40章23節 ②

ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。

強い信仰者でも、孤独の中に長く置かれると、神に忘れられたように思い、信仰も弱ります。すると、自分の手の届くところにある救いに手を伸ばす誘惑にかられます。 

ヨセフは、牢獄から出て行く献酌官長に、「私を思い出してください」(14節)と頼み、彼は「お前のことは、絶対忘れず王に申し上げる」と約束しつつ、獄を出たことでしょう。

しかし非情にも、献酌官長はヨセフを思い出しません。「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」(イザヤ2章22節)のみことばが見事に当てはまりました。しかし、献酌官長にヨセフのことを忘れさせ、後に思い出させるのも、神です。

人々は、「主は私を見捨てられた。私の主は私を忘れられた」と言います。しかし神は、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49章14~15節)と宣言します。

友よ。神はあなたを決して忘れてはいません。ただ、解放する、最も良い時を待っておられるだけです。

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