キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第41章

41章1節

それから二年の後、パロは夢を見た。見ると、彼はナイルのほとりに立っていた。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道3章1節)との「時」は、単なる時間の経過ではありません。「時」には、始まり(計画)と明確な目的(完成)があります。その「目的」を達成するお方が「時計」の所有者、神です。

パロといえども神の御手に握られ、神の目的を果たすために用いられます。パロが見た夢は、神がヨセフを囚人から首相に引き上げ、彼の兄弟たちを救い、ひいては全世界の救済を始められる未来の始まりでした。

同じく、あなたも未来の姿を神から受け取ろうとしています。そのとき、自分の時計(時間・計画・目的)によって生きる人の時計は、必ず壊れ止まります(実現しない)。神の時計(時間・計画・目的)で進むなら、ヨセフのように神の永遠の御計画が実現されます。

友よ。「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です」(ロマ14章4節)。今日から、今までの自分の時計を捨て、神の腕時計をはめて出かけましょう。すると、「主がヨセフ(あなた)と共におられ…幸運な人となり…成功させてくださる」(創39章2~3節)。

41章4節

そして醜い細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。そのとき、パロは目がさめた。

エジプト王パロが見た夢は、醜い牛が肥えた牛を食い尽くす、という不吉の前兆をしめす夢でした。今日も、天候不順・温暖化・地震・社会秩序と家族崩壊、諸々の宗教など、不可解で不吉なことが数多く起こっています。

パロが見た不吉な夢は、眠りの中で見た夢ではなく、「神の啓示」としての夢でした。彼は、その夢の意味を知るために真剣に取り組みます。

パロの謙虚さは、後に一人の奴隷(ヨセフ)を登用して国を治めさせ、自分と国を救い、繁栄させることになりました。「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである」(箴言22章4節)。聖書は、「そのとき、パロは目がさめた」と記します。この目覚めこそ、謙遜を表します。謙遜は、「自己陶酔(自己中心)の夢」から目覚め、現象の背後に秘められた、神の御心を見る(知る)ことです。

友よ。あなたは自分の夢(自己陶酔・世間の価値観・流行)から目が覚め、神の夢(神の御心の啓示)を見つめていますか。そのためには、自分で聖書を読むこと。聖書全体の真理としてのメッセージを聞き続けること。出来事を真剣に受け止めて、祈ることが必要です。

41章5~7節

彼はまた眠って、また夢を見た。…東風に焼けた、しなびた七つの穂が、あの肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまった。

先に見た夢と、再び眠りについてから見た夢は、牛と穂の違いこそあれ、二重写しでした。この夢の内容は、昔も今も変わらない善と悪の現実を示唆していると言えます。

「悪貨は良貨を駆逐す」のように、いつでも善よりも悪の力が勝るものです。パロの夢の牛も穂もそうでした。

悪とは、神の御心に服さない自己中心のことです。犯罪者に関する統計に…厳し過ぎる育てられ方をした人よりも、甘やかされて我ままに育った人の方が、より多く犯罪者となり、しかも重罪を犯している…とありました。

神の国とは、「神の支配」のことです。そこは、神の基準で人が正され、制約され、服従を求められるので人々は嫌います。

しかし、神の支配を拒むなら、人が持つ良いものも、悪いものに飲み込まれます。反対に、神に服従するなら、現在の出来事の一つ一つ、過去の失敗や傷、たとえ以前は罪であったものすらも、神によって聖く有益なものにとって代えられます。

人にとって一番必要な支配と従順こそ、主イエスへの信仰です。「ひとり(イエス)の従順によって多くの人(私たち)が義人とされるのです」(ロマ5章19節)。

41章8節

パロは彼らに夢のことを話したが、それをパロに解き明かすことのできる者はいなかった。

見た夢を恐れた王は、エジプト中の呪法師や知者たちを集め、夢を解き明かさせようとしますが、誰も解き明かすことができませんでした。

何かを理解するには、同じ能力、同じ経験、同じ次元、の三つの条件が揃ってこそ可能です。「能力」や「経験」の違いだけで、物事の理解が大きく違ってきますが、「次元」の違いはそれ以上です。

パロが見た夢は、神からの啓示ですから、人の経験や能力を超えています。理解するには、同じ霊の次元に立ち、そこから知恵(啓示)を得ることです。「主と交われば、一つ霊となる」(Ⅰコリ6章17節)。

主イエスは、御自身の御心を伝えるために、御霊の神を遣わされました。「御霊は私の栄光を現します。私のものを受けて、あなたがたに知らせるからです」(ヨハネ16章14節)。

賢い友よ。あらゆる知識を持つことよりも、あらゆる知識を持つお方と共にいる方が賢い人です。「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」(Ⅰコリ1章27節)ました。神が選ぶ「愚かな者」とは、自分の知恵により頼まず、「聖霊の解き明かし」を求める人のことです。

41章9節

献酌官長がパロに告げて言った。「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。」

パロの見た夢のことで、エジプト中が騒ぎ立ちました。この騒動は献酌官長にヨセフの記憶をよみがえらせ、獄中体験を王に話す機会をつくりました。まさに、「神のなさることは、すべて時に適って美しい」です。

もし献酌官長が、出獄した二年前に王にヨセフのことを話したら、珍しいヘブル人奴隷が、と聞き流されたことでしょう。また、あの時にヨセフが出獄したら、犯罪歴ある奴隷として、別の主人の奴隷となっていたことでしょう。

ヨセフが献酌官に味わった失望は、「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるため」(Ⅱコリ1章9節)に必要でした。さらに、彼が2年忘れられなければならなかった理由は、再び奴隷になるのではなく、王の夢を解くことで、王の側近になるためでした。

人々と神から忘れられた、と思うと悲しくなります。しかし、ヨセフが味わったような失望は、神がこれからのあなたに必要だと判断したからです。神は、「私の目には、あなたは高価で貴い」(イザヤ43章4節)と言っておられます。貴いあなたを忘れることなどありえません。

友よ。今日も心を強くしてください。

41章13節

「彼が私たちに解き明かしたとおりになり、パロは私をもとの地位に戻され、彼を木につるされました。」

献酌官は、ヨセフという奴隷が獄にいて、二年前に自分の夢を解き、その通り実現していることなどをパロ王に報告しました。

彼がヨセフを思い出したのは、「解き明かした通り」実現した「事実」があったからです。「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(Ⅰコリ4章20節)とパウロは言いました。

神の国について、言葉で語りますが、力で語っているでしょうか。「力で」とは、だれの目にも見え、手で触れられる、「神の国の現実・事実・みことばの成就」のことです。

教会もクリスチャンも、知識の言葉だけで「イエスは主」と語っても力はありません。全てをささげ、主の奴隷となり、体で「イエスは主」と語り、「私たちの教会に来て見よ。神の国はここにあります」と語る主のしもべになりたいものです。体で主を語ることは、「愛の実践」以外ありません。「あの牧師が語ったメッセージの一つ一つは覚えていないが、彼がどのように生きたかは覚えている」とは、全ての神の子に当てはまります。

「解き明かした(みことば)とおり(実践)」は重い課題です。だから祈りましょう、「御心がこの身になりますように」と。

41章14節

パロは使いをやってヨセフを呼び寄せたので、人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。彼はひげをそり、着物を着替えてから、パロの前に出た。

決して許されない罪を負わされた獄中の外国人奴隷が、超大国の王の前に夢を解くため呼び出されました。このことで、だれより驚いているのはヨセフ自身です。 

彼は、献酌官長に推薦されたというよりも、神に推薦された人です。推薦してくださる神は、この時のために何年も彼を待たせ、小さくしました。全ては「この時」のため、そして「これからのため」でした。

しかし、多くの人は、神によって、神の時に推薦されるのを待つことができず、自分の力と世の方法にすがって行動します。「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」(Ⅱコリ10章18節)。

ある人が、ダマスコ途上で光に打たれたサウロに語られた主の言葉を、「あなたにして欲しいことがある」(使徒9章6節)と意訳(そこの意味を重視した訳)しました。主によって待たされ、小さくされ、泣き続けた者に、「して欲しいことがある」と大きな期待を寄せるお方がいます。

友よ。主があなたを地下牢から連れ出して用いる時がきます。だから、獄中でも、王の前であっても、最も大事なこと、「神の御前」で生きることを止めないでください。

41章16節

ヨセフは答えて言った。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」

王の前に出たヨセフは、奴隷の着物を脱ぎ、体を洗い、王宮に入るにふさわしい服を着け、かしこみつつ王に申し上げました。しかし、彼の態度に緊張や恐れは感じられません。それは、「私ではありません。神が…」と思っているからです。「私ではなく神が」と生きる人は、どこでも、だれの前でも恐れず、正々堂々としていることができます。

そのような人は、自分の判断や経験を超えた、神の「目」と「評価」を大切にします。「神がそれをどのようにご覧になり、どう判断されるか」を基準とします。ヨセフは、夢を解く特別な賜物を与えられていますが、それを自分の目(考え)で自分のために使わず、あくまでも「神の基準」で用います。

聖霊の賜物は、豊かな神の恵みを人に分け与えてくださいますが、それは諸刃の剣でもあります。個人的な感情や利害がからむと、真理を切り裂く剣となり混乱を引き起こすからです。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」(ガラ5章1節)の「解放」は、なによりも自分自身から必要です。

「私が」、こそ混乱の元凶です。今日の全てが、「私ではなく神が」となりますように。

41章25節

ヨセフはパロに言った。「パロの夢は一つです。神がなさろうとすることをパロに示されたのです。」

エジプトのパロ王は、自分が見た夢を奴隷のヨセフに話しました。これは、自分の悩みを一人の奴隷に打ち明けていることになります。物怖じしないヨセフもさることながら、王のその謙遜さに心を打たれます。 

人は、誰かに自分の悩みを打ち明け、あるいは相手の悩みを聞く時もあります。その場合、聞いてもらう時は、「自分を正しい」と認めてもらうため。相手の悩みを聞く時は、「自分が嫌われないために相手を正しい」としがちです。いずれも、大事なのは「自分」を守ることです。

ヨセフは、王の期待を満足させ、自分が奴隷から解放されることを目論んでいません。彼は、「神がなさろうとすること」を、相手の立場と自分の利害を超えて告げました。

友よ。神の御心を告げてくれるヨセフを持っていますか。とくに、教会で語るメッセンジャーがヨセフであって欲しいものです。聖書の真理を語る本もヨセフです。自分のことを忘れて忠告し、神に押し出してくれる友もヨセフです。そして、主イエスこそ、最も素晴らしいヨセフです。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9章7節)。

41章26~27節

「七頭のりっぱな雌牛は七年のことで、七つのりっぱな穂も七年のことです。…七頭のやせた醜い牛は七年のことで、しなびた七つの穂もそうです。それはききんの七年です。」

パロの見た夢には、七頭の牛と七つの穂が出てきます。すべて「七」に関係しています。聖書において、「三」は神を、「四」は人を表す数字と言えます。そして、「三(神)」と「四(人)」が足された「七」と、「三」と「四」が掛け算された「十二」が完全数となります。

七頭の肥えた牛とやせた牛、七つの実のある穂としなびた穂、それは七年の豊作と七年の不作を表す啓示でした。それ以上に「七」は、豊作も飢饉も年月も、神が支配しているとの啓示です。したがって、物事の意味を考える時、「七」…全て神の支配にあることを信じる。次に、「肥えた牛・穂と痩せた牛・穂」…具体的なことで神に祈って教えていただく、ことです。

自然環境や人間関係、すべてに神の知恵が必要です。「知恵の欠けた人がいるなら…神に願いなさい(ヤコブ1書5節)」。

友よ。神から送られている聖霊に助けられて、「天国を学んだ学者」(マタイ13章53節)は私たちです。みことばを学んでください。祈ってください。そして行動してください。

41章29~30節

今すぐ、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れます。それから、そのあと、七年間のききんが起こり、エジプトの豊作はみな忘れられます。ききんが地を荒れ果てさせ、」

七年の豊作は、後の飢饉に備えるためでした。豊作(健康・能力・財・賜物)を今だけの満足のために使うなら、恵みを無駄にすることになり、後の困難を乗り越えられません。

七年間も大豊作が続くと、恵みに慣れ、平和にあぐらをかき、自分が正しい良い人間だからと、傲慢な者となりがちです。それは、自己過信であり、神から委ねられたものを自分の物のようにすることです(Ⅰコリ4章7節参照)。

恵みは神からの賜物ですから、与え主の御心に従って用いると生かされ、自己中心に用いると自分を苦しめることになります。今の恵みは、後の「飢饉」への備えです。

友よ。あなたはどれほど多くの恵みをいただいていますか。健康、能力、家族、財…病気や貧しさも、主からの恵みとして受け取っている人もいます。恵みの日に多く蓄える者が、試練の時に恵みを用いることができます。天からのマナを日々集め蓄えてください。後に必ず、必要になります。 しかし、目に見える恵み以上に大切なことは、恵みの与え主なるお方との交わりです。恵みを蓄えるとは、「主イエスとの親しい交わりを多く保つ」ということです。

41章33節

それゆえ、今、パロは、聡くて知恵のある人を見つけ、その者をエジプトの国の上に置かれますように。

知恵のある人を得て、その人に治めてもらうことは、パロ王のみならず、全ての人に必要です。自分の愚かさを知り、知恵のある人を探す人こそ本当に賢い人です。

箴言に、「知恵」という言葉が100回以上でてきます。そして、人に最も必要なのは、財産や健康や名誉でなく、「知恵」であると語ります。それでは、「知恵」とは何でしょうか。

それは第一に、「神を理解できる」ことです。第二は、「神によってこの世界(政治・経済・人間関係・自然界…)を見ることができる」ことです。そして、それは「イエス・キリスト御自身」に行きつきます。「召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」(Ⅰコリ1章24節)。

冒頭のヨセフの提案は、あなたは「知恵ある人(イエス)を見つけ(信じ)、エジプトの(あなたの)上に置いて(主として)、治めてもらいなさい」です。

友よ。有史以来の国々、王たち、文化、建造物、思想は、全て変化し消滅しました。しかし、聖書だけが変化も消滅もせず、今も残り影響を与え続けています。それは知恵の根源なる、主イエスが今も生きて働いているからなのです。

41章35節

「彼らにこれらの豊作の年のすべての食糧を集めさせ、パロの権威のもとに、町々に穀物をたくわえ、保管させるためです。」

ヨセフは、1.賢い知者を捜して治めさせよ 2.豊作の時に蓄えよ 3.飢饉の時にそれを売れ、とパロに提案します。当然すぎることですが、豊作も飢饉もまだ来ない時の提案です。ヨセフは、神の知恵によって、事前に豊作と飢饉を予測し、正しい提案をすることができました。

神は、これからの世界と人々に起こる出来事を予測し、ヨセフと同様の提案をしておられます。

  1. まことの神を主としてお迎えせよ 
  2. その方の恵みを蓄えよ
  3. 困難の時にはそれを用いよ

イエスは、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父」(イザヤ9章6節)と呼ばれるキリストです。そして、「今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリ6章2節)と告げますが、同時に、やがて来る飢饉についても語っておられました。

それは、世界における政治経済、自然現象の異変、人間同士の困難と試練であり、霊的な「主のことばを聞くことのききん」(アモス8章11節)でもあります。

友よ。パロがヨセフの提案に本気で応えたように、あなたも今日の恵み(聖書のみことばを読めるこの時)を蓄え、困難の日に備えてください。

41章36節

「その食料は、エジプトの国に起こる七年のききんのための、国のたくわえとなさいますように。この地が飢ききんで滅びないためです。」

恵みの時に蓄え、飢饉(晩年)のときに用いた人をここに紹介します。

私は私自身の中に未来の生命を感ずる。私は一再ならず切り倒された森林である。新しい芽は以前よりもいきいきとしている。…あなたがたは、魂は肉体の能力の合成物に他ならないと言う。はたしてそうであれば、肉体の能力が失われ始めたのに、私の霊が更によく輝いているのはなぜか。私の頭上には冬が来たのに、私の心には永遠の春が来た。私は20才の時のように…今呼吸している。私は生涯の終りに近づけば近づくほど、私を招いている世界の不朽の交響曲を周囲に聞いている(ビクトリア・ユーゴーのことば。カウマン夫人著『荒野のいずみ』より)。

神の子どもにとっての晩年は、人生の終息ではなく、天国への新しい命の芽吹きに備える日々です。それは、地上での日々において天のいのちを蓄えた者に与えられる恵みです。

愛する友よ。あなたの日々は何のためですか。肉体の終わる日まで、ですか。それとも、その先の永遠の世界に続くためですか。

41章38節

パロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、他に見つけることができようか。」

ヨセフは、国中の知者たちが解けない王の夢を解いたのみか、今後のエジプトを救う政策までも具体的に提案しました。パロは、ヨセフの知恵が人間を超えた神の霊によることを見抜き、ヨセフをすぐに登用し、国政を委ねました。

主は「あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(ヨハネ20章23節)と語りました。

これは、クリスチャンに罪の赦しの権限がある、と言うのではありません。誰かの罪を赦すには、まず自分が赦される以外ありません。また、他者の罪を赦すとは、「福音を伝える」ことです。その人が福音を受け入れるなら、主から罪の赦しを受け取り、伝えられなければ赦されず罪は残る、と言っているのです。

神の霊の宿っているクリスチャンは、「罪と義と贖い(救い)」(Ⅰコリ1章30節)を人々に指し示せます。

友よ。あなたにもヨセフと同じ神の霊が宿っていますから(同3章16節)、「イエスをキリスト(神)と信じて、罪から救っていただきなさい」と大胆に福音を語ってください。

41章40節

「あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは、王位だけだ。」

当時の世界の大国エジプト王から右の言葉を聞くとは、一体なにが起こったのでしょうか。それは、王の抱えている不安が大きかったからです。そして王の心に、ヨセフを通して、将来の希望が湧いてきたからです。

人生を飛行機による旅にたとえてみると、離陸して空を飛び始めたころは青少年のころでした。水平飛行は30~50代です。やがて60を過ぎる頃から、どこに着陸すればよいか分からない不安の雲の中を飛び続けます。能力や体力のあった若い時は、着陸するところを考えず飛んでいましたが、年と共にエンジンや機体に何かの異常を感じるようにもなります。それ以上に、燃料計の針が0(ゼロ)に近づいていくことに不安は増します。

友よ。羊が羊飼いに導かれるように…これが「正しい道」です、この道は「真理」です、これを通って「永遠の国」に着陸できます、と導いてくださるパイロットが必要です。主イエスこそ、そのお方です(ヨハネ14章6節参照)。しかも主は、管制塔から指示されるお方でなく、「あなたの飛行機」の中に乗り込み、共に着陸してくださる! お方です。 

41章41節

パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」

大きな国家であるエジプトを支配し治めることは、とても難しいことです。広大な土地、他国との勢力争い、国内の内部抗争など、政治経済などどれも手を抜けません。

エジプト以上に治めるのが難しい国があります。それが「私自身」です。聖書で用いられている「国」という言葉の原意は「支配」です。神に支配されてこそ、神の国となります。神が「私自身」を支配されるためには、それまで自分の支配者である王が退けられなければなりません。その王こそ、「私自身」です。

聖書は神と人との関係を、羊飼いと羊にたとえます(ヨハネ10章参照)。とくに、乾燥した砂漠で羊が生きていけるのは、羊の能力ではなく、羊飼いの能力によります。

草や水を得るのも、野獣やもろもろの寄生虫などから守るのも、すべて羊飼いです。パロがヨセフにエジプト全土の支配を委ねたように、父なる神は、主イエスを、人間の羊飼いとして任命されました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩23・1節)。

父なる神が、あなたの支配者として主イエスを任命したのは、あなたを守るためなのです。

41章42節

パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。

ヨセフに寄せるパロ王の信頼は絶大です。それ以上に、父なる神の御子イエスへの信頼はさらに絶大です。そして、主イエスの私たち神の子への信頼も絶大なものです。しかし、それは人の能力や正しさに期待するものではなく、御自分が成し遂げたことのゆえです。

主イエスは、神の国をつくるために来られました。神が人となり、人にまことの神を示されました。そして、「天の御国が近づいた」と最初に語られ、教えと御業により神の国を示しました。

十字架は罪への勝利、復活は死への勝利、昇天は世の権力とこの世の君・サタンに対する勝利でした。そのお方が私たちに、「御名を知らせ」(ヨハネ17章26節)、「私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」(同14章13節)と約束されました。

友よ。パロがヨセフに、エジプト全土を治める権限を委ねるしるしに、指輪と首飾りを与えたように、主は、御自分の「御名」を私たちに与えてくださいました。それは、御自分が成し遂げられた全ての御業を、私たちが用いて、この世界を神の国にするためです。

41章44節

パロはヨセフに言った。「私はパロだ。しかし、あなたの許しなくしては、エジプト中でだれも手足を上げることもできない。」

ヨセフは、パロに継ぐ第2の権力者に任命されました。以後、彼に逆らって、もの言える者は王を除いてだれもいません。全ての人は、ヨセフにひざまずかねばなりません。

主イエスの生涯で、十字架と復活は多く取り上げられますが、昇天についてはわずかです。昇天は、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加え…た」(コロ2章15節)出来事でした。

「十字架」と「復活」と「昇天」は、「罪」と「死」と「サタン」に対する勝利です。ですから、キリストに「手足を上げる」ことのできる者はだれもいません。その権威ある御名により、病をいやし悪霊を退けよ、と主は言われました。

主の御名の焼印(ガラテヤ6章17節)を帯びている私たちに、だれも(罪・サタン・死)手を上げることはできません。主は、私たちを御自分に次ぐ権威者と任命されました。

友よ。主の権威を帯びて今日も歩もうではありませんか。ただし、神の国の権威が、「愛」であることを忘れずに。

41章46節

ヨセフがエジプトの王パロに仕えるようになったときは三十歳であった。ヨセフは、パロの前を去ってエジプト全土を巡り歩いた。

聖書で、主イエスに最も似ている人物はヨセフです。主イエスが公生涯を始められたのも、ヨセフが皆に自分を現したのも共に30歳でした。その時から、主はイスラエルを巡り、ヨセフもエジプト全土を巡り始めました。

30歳は、人生の大事な年です。誕生から12歳位までは、親が「主」で、子が「従」の関係。それ以後20歳位までは、親主体から子ども主体への移行期。移行期には、肉体的にも精神的にも脱皮する戦いの時で、親子の軋轢(あつれき)も起きます。その後の10年間は自己確立の時。

そして自己確立のできた者が、人々に仕える(隣人を愛する)30歳として、大人として歩み出せます。他者を愛する人は、他者から愛を受ける人でもあります。主もヨセフも、神と人に愛されました。

愛する若者たちよ、「イエスはますます知恵が進み…神と人とに愛された」(ルカ2章52節)ように、神の愛を受け、神にあって人々に仕えてください。目標は、30歳…神に用いられる時…です。

神を信じる者は、決して小さい者ではありません。大きく用いられる30歳を迎えるために今から備えてください。

41章48節

ヨセフはエジプトの地に産した七年間の食糧をことごとく集め、その食料を町々にたくわえた。町の周囲にある畑の食糧をおのおののその町の中にたくわえた。

王が見た夢は現実となり、豊作の年が7年続きました。豊作貧乏があるように、穀物はただ同然の値でパロの倉庫に買い集められ、やがて来る飢饉のために蓄えられます。彼らは、恵みの時に蓄え、苦難の時に用いました。

人生の苦難や飢饉を乗り越える霊的蓄えが必要です。「蟻は力のない種族だが、夏のうちに食糧を確保する」(箴言30章25節)。

人の夏とは、「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリ6章2節)という淡々と過ごす日々が、「恵みの時」です。この時に、「絵に描いた餅」ではなく、「命ある穀物」を集めなくてはなりません。絵は「知識」で、命は「みことばの受肉」です。

みことばの受肉は、ヨセフの言葉にエジプト人が従ったように、日頃から、主のみことばに「聴き従う」ことです。「あの人は大きな試練に会ったので信仰が成長したが、私にはなにもないので、信仰が成長しない」という評価は間違いです。日ごろ蓄えたから、苦難(飢饉)の時に神はそれを用いて働けるのです。

友よ。今日もみことばを蓄える大切な「恵みの日」です。

41章51節

ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が私のすべての労苦と私の父の全家とを忘れさせた」からである。

ヨセフは、エジプトの祭司の娘アセナテを妻としました。生まれた子どもたちに、「マナセ」と「エフライム」と名づけました。彼らの名が、当時のヨセフの心情を表していました。

ヨセフには、兄たちから殺されずとも奴隷に売られた過去が、今なお心の深みに癒しがたい傷となっていました。そこで彼は、長男に「マナセ(忘れさせる者)」と名づけました。兄たちに売られた存在否定の傷、家族から強制的に離された孤独の傷、見知らぬ地で奴隷として自分を押し殺した傷、それら全てを長男がマナセ(忘れさせる者)となって欲しい…と。

しかし、ヨセフの傷は、「神が…すべてを忘れさせた(癒した)」のでした。人の傷は、人格の傷、交わりの傷です。「交わり」が「命」ですから、「命の傷」でもあります。

傷を癒すのは、高い位や財産や知識ではなく、より良い人格との出会いと交わりです。彼は、妻や子どもを得ても十分ではありませんでした。彼の癒しは、神との出会いと交わりにありました。

友よ。あなたの癒し主はあなたのすぐ側にいます。その方に抱きついてください。

41章52節

また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が私の苦しみの地で私を実り多い者とされた」からである。

ヨセフは、長男に「マナセ」、次男に「エフライム」と名づけました。ここでも、命名に彼の心情を知ることができます。だれでも心の傷を消し去りたいものですが、ヨセフはその傷が恵みであったことを子どもの名に表しました。その傷が今の恵みを作ったと考えることができるならば、それは痛みではなく祝福に変わります。

兄たちから奴隷として隊商に売られ、エジプトに来たからこそ今の恵みを得た、と信じています。そこで次男を、「エフライム(実り多い土地)」と名づけました。これは、「兄たちに売られて良かった」とさえ聞こえます。

痛んでいる友よ。「過去の事実を変えることはできないが、意味を変えることはできる」の言葉に目を留めてください。「罪の(傷の)増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ロマ5章20節)は、ヨセフの経験です。

神が傷を癒すとは、傷が「痛まない・忘れる・塞がる」以上に、それが「自分に必要なもの」になることです。それは、あなたの傷口から主が入って、あなたと一体になり、あなた自身を背負われるからです。

41章54節

ヨセフの言ったとおり、七年のききんが来始めた。そのききんはすべての国に臨んだが、エジプト全土には食物があった。

ヨセフの預言のとおり、七年の飢饉がはじまりました。「ナイルの賜物」である豊かなエジプトさえも、全土に蓄えた穀物が、見る間に無くなって行きました。

聖書で「エジプト」は、「この世」の代名詞として用いられます。この世は、ジョン・バンヤンの「天路歴程」に出てくる「虚栄の町」のようです。無いにもかかわらず、「ある振り」をする偽りの世界です。また、霊的なまことの食物がないので、飢饉になるのは当然のことです。人々は、本当は「まことの食物の飢饉」の中にいるのに、それに気づかず、「ある振り」をして過ごしています。

しかし、彼らが「霊的飢饉」に気づかないのは、命のパンを豊かに食べている人を見たことがないからではないでしょうか。あなたが、「私が命のパンです」(ヨハネ6章35節)、「このパンを食べるなら永遠に生きます」と言われるパンを、お腹一杯食べるのを人々が見たら、自分が飢饉の中にいると気づきます。すると、「あなたのパン(イエス)を私にも分けてください」と求めてきます。

友よ。世を批判する前に、自分の倉庫の「命のパン」の備蓄は充分ですか。

41章55節

やがて、エジプト全土が飢えると、その民はパロに食物を求めて叫んだ。そこでパロは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、彼の言うとおりにせよ。」

飢饉が続き、民はパロに食物を求めて叫び始めました。周辺の国々や民が飢えても、パロの元にはヨセフの知恵と行政手腕により、何年分もの食物が備えられていました。 

豊作の時の穀物は捨て値ですが、飢饉のときは天井知らずです。わずかの投資が何十倍にもなる経済の法則は古今東西同じです。それら全ては、神がヨセフに与えた預言と知恵でした。

人々がこの世で稼ぎ消費している間に、私たちは天国の経済法則を学び、天国に投資すべきです。そうすれば、病気や失業、また老年になり、様々の飢饉(試練)に出会う時、貯蓄したものを神から受け取ることができます。

主は、地上に富を蓄えた大金持のことを、「自分のために蓄えても、神の前に富まない者は愚か者」だと言いました(ルカ12章21節)。

天に宝を積む生活とは、神のみことばに聞き従い、「小事(日々の生活)に忠実」に歩むことです。すると、試練(飢饉)の時に、「大事(霊のこと・神との関係)にも忠実」になれます(ルカ16章10節参照)。

友よ。「神との良い関係」こそ、人が蓄えるべき財宝です。

41章57節

ききんが全世界にひどくなったので、世界中が穀物を買うために、エジプトのヨセフのところに来た。

豊作と飢饉は、エジプトに限らず周辺の国々も同じ状況にありました。しかし、同じ環境の中にあって、片方は有り余る食料、もう一方は飢えで死に直面しています。

教会と個人にも同じことが言えます。同じ聖書を読んでいても、霊的に豊かな教会と兄弟姉妹がいれば、その反対に霊的飢饉に苦しむ人々もいます。それは、同じものを受けても蓄える倉庫の違い、ではないでしょうか。

主は、「新しい酒は新しい皮袋に」(マタイ9章17節)と言いました。新しいぶどう酒(みことば)を、古い皮袋(古い自分)に入れると、酒も皮袋も損ないます。エジプトの祝福は、ヨセフから得た「新しい酒(神の御心)」を「古い革袋(古い国家組織)」でなく、「新しい革袋(キリストの体・教会)」に入れたからです。

友よ。神のみことばを受け取ったら、古い革袋(自分の方法・組織・世の常識)に入れてはなりません。皮袋に酒を合わせず、酒に合わせて皮袋を変えるべきです。すると、新しい革袋(主に服従する心)の中で酒(みことば)は発酵(生きた命に変化)し、それを飲む者を聖霊に酔わせる(満たす)ことができます。

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