キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第42章

42章1節

ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」

エジプトの飢饉は、カナン地方にも及びました。エジプトに食料があると聞いたヤコブは、息子たちに食料の買出しに行くよう催促しますが、彼らは顔を見合わせるだけです。

兄たちがエジプト行きに二の足を踏むのは、十数年前のヨセフ事件でした。あの時は、皆の怒りの勢いで、ヨセフがいなくなれば自分の問題も消せると考えました。

しかし、問題がなくなるどころか、ヨセフを売った(外側の問題を取る)ことは、心の傷と痛みを作り、さらに潜行して魂の病(罪責感)となりました。罪によって(ヨセフを売って)罪(怒り・妬み)を解決しようとした結果、体(外面)も心(内面)も霊(命)も痛めつけられました。

罪責感は、「弟の血の声…」(創4章10節)を消さないように神が介入しているからです。それは、人を苦しめるのではなく、神が罪に介入したいからです。

ある詩人が、「神は、片手に光を持ち人の内側(罪)を照らし、もう一方の手に救いを持っている」と言いました。

友よ。神の聖霊の光に罪を照らされたら、もう一方の手に自分を委ねましょう。神の左手(断罪)も、右手(救い)もどちらも愛の手ですから!

42章3節

そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。

ついにヤコブ一族の食料も底を尽き、兄たちはエジプトに買い出しに出かけます。彼らの足取りは重く、先に進みませんでした。実に、罪の解決へ向かう人の足取りも重く遅いものです。

人生に災いが起こらず、何事も順調に進むとしたら、その行き先は霊的な死の谷です。人生の障害物は、人を何度も立ち止まらせ、時には穴に落とします。そこで、自分が何者であるかを考え、自分の力を超えたお方を意識し、待ち望ませます。

神は、兄たちをかつての罪の現場に後戻りさせるためにも飢饉を備えました。彼らは、過去の罪に戻って、罪と向き合い、それから神に引き戻されることになります。

パウロはそのことを、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ロマ11章22節・新共同訳)と言いました。神の厳しさは、慈しみから出ています。神は、兄たちを罰しているのでなく、力ずくでご自分に引き寄せようとしています。しかし、「神の力ずく」は、人には「苦しみ・痛み・悲しみ」となります。

友よ。自分で抵抗できない力を感じたら、神の御手として受け取り、自分を任せてください。それは、神の良い計画の始まりです。

42章4節

しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。

ヤコブは、エジプトに行く兄たちにベニヤミンを同行させません。それは、年少だからというよりも、ヨセフ事件の真相を察していたからです。彼は、「兄たちが…ヨセフを…」と知りつつも、一言も言わずただ耐えていたのでした(42章32節参照)。

この家族は、20年も親子同士の不信のなかにいました。不信ほど人に多くのストレスを与えるものはありません。人を生かす「いのち」は、「信頼し合う」ところに満ちます。「人は、信仰によって生きる」(ロマ1章17節参照)のです。

互いが信頼し合えるための基礎は、「神の前に正しい」ことです。不信の上に成り立つ人間関係は、砂の上に建てた家です。ヤコブが「イスラエル」になる前、彼は自信満々でしたが、神に正されてからは、子どもたちの中に見る自分の罪に泣き通しです。

友よ。あなたも神を信じる前よりも、神の子とされてから、より泣いていますか。しかし主は、「悲しむものは幸いです」(マタイ5章4節)と言われます。

ヤコブのように、自分の罪の結果を見て主に泣く者は幸いです。「その人は慰められるからです」(同節)。

42章6節

ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。

背に腹は代えられません。兄たちは、しぶしぶエジプトに食料の買い出しに来ました。そこで、顔を地につけて食料を売る権力者に挨拶しましたが、この権力者が弟ヨセフであることを彼らは知るすべもありません。

かつて、弟を殺そうとまでした原因が、「私の束が立ち上がり…あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました」(37章7節)というあの夢でした。同じ神の預言の言葉は今も語られています…「私たち(兄たち)の罪が主イエス(ヨセフ)を売りましたが(十字架につけた)、やがて主イエス(ヨセフ)に罪人(兄たち)がひざまずき、裁き(神の審判)を受ける」…もその一つです。人は、自分が「罪人、神の御前にひれ伏し、裁かれる」と聞くと兄たちのように怒ります。

友よ。私たちの知るべきことは、「主イエスと自分の関係」です。そのために、「ヨセフの夢・牢獄・宰相・豊作・飢饉・買い出し・出会い…」などが必要でした。出来事のすべてを、「神と自分の関係」を知ることに焦点を合わせるなら、出会う出来事のそれぞれの意味がわかり、人生の恐れは消えます。

42章7節

ヨセフは兄弟たちを見て、それとわかったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「あなたがたは、どこから来たのか。」

兄たちとヨセフの出会いの場面は、殺人未遂犯と被害者の出会いそのものです。ただ、加害者は被害者の顔がわからず、被害者は加害者を知っている!

主イエスと私たちの係わりも、彼らの関係と同じです。イエスを十字架につけた加害者は私たちです。しかも、日々被害者イエスと出会っていますが、そのお方がイエスだとわかりません。

一方、主イエスは一人ひとりのことを全て知っています。主は私たちに、十字架につけて殺した加害者が自分であることを知ってほしいと願っています。それは、御自分の悲しみや傷を憐れんで、あなたに謝って欲しい、というのではありません。主は、自分のことより、私たちに本当の赦しを得て自由になって欲しいと願っているのです。

主が知って欲しいことは、「最も大事なこと、…キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、…三日目によみがえったこと」(Ⅰコリ15章3~4節)です。

友よ。主の願いは、罪赦されて復活の命を持ち、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛し、あなたが喜んで生きることです。

42章9節

ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して、彼らに言った。「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいにきたのだろう。」

ヨセフは20年ぶりに会った兄たちへの情に負けず、むしろ荒々しく対応しています。それどころか、頭ごしに「あなたがたは間者(スパイ)」と断定しました。なぜ、彼はそこまで強く出る必要があったのでしょうか。

それは、「夢を思い出し」たからだと書かれています。ヨセフは、兄たちが自分に頭を下げている夢の本質をとらえていました。重要なのは、兄たちが自分に頭を下げることではなく、彼らが神に頭を下げること、すなわちまことの神を礼拝することです。そのためには、兄たちを荒々しく取り扱うことで、過去の罪を思い起こさせ、悔い改めに導くことが最善だと考えたようです。

救いには悔い改めが必要ですが、それは自分の罪に直面することから始まります。それには、自分が相手に与えた同じ苦痛を自分で経験することです。同時に、聖霊によってのみ悔い改めることができるので、神との接点を切ってもなりません。

ヨセフは、兄たちに悔い改め抜きの、「安価な恵み」を与えようとはしませんでした。主も、真実な悔い改めが伴う、「高価な恵み」を与えるためにあなたの痛みを手軽に取り除かないのです。

42章11節

「私たちはみな、同じひとりの人の子で、私たちは正直者でございます。しもべどもは間者ではございません。」

ヨセフは、彼らを「間者」と断定しました。当時、この罪ほど大きなものはなく、「間者」の判決は、死刑の宣告と同じです。ですから兄たちは、自分たちが兄弟同士であり、正直者だと必死に弁明し、命乞いしています。

「間者」が「死」と同義語であるように、「罪」と「死」も同義語です。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ロマ3章23節)どころか、「罪からくる報酬は死」(同6章23節)と定められています。

ヨセフが兄たちを間者と断定したのは、弟ヨセフを殺そうとした罪を知らせるため、かつて自分が兄たちに宣告されたと同じ立場に、彼らを置く必要があったからです。

神が人に最初に問う罪は、「誕生後に犯した罪々」でなく、生まれる前から持つ「存在の罪」です。それは、「悪い木(人)」そのもののようです。同じ太陽と環境に育ち、根から同じ養分を吸っても、「木の命(リンゴ・梨…)」以上の実を結ぶことはできません。

「人は罪人(悪い木・原罪)だから、罪(悪い実・罪々)を犯す」のです。母の胎に宿った時からの罪は、人の理解を超え、聖霊だけが教えることができます。

42章13節

彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地に住んでいるひとりの人の子でございます。末の弟は、今、父と一緒にいますが、もうひとりはいなくなりました。」

兄たちに対するヨセフの追及は厳しさを増します。兄たちは、家族のことや郷里カナンのことなどを説明し、スパイでないことを必死に訴えます。その会話に、「一人はいなくなりました」と、彼らの口から告白されました。しかし、その告白はいなくなった原因を隠しているので、半分は本当で半分は偽りです。

人は、心の奥底で罪を知りつつ、その罪の周辺的なことを取り上げ、その場逃れしますが、それは通じません。なぜなら、兄たちの罪は、他の誰かに対するものでなく、目の前のヨセフ本人に対してのものだからです。当事者を相手に、嘘偽りはまかり通りません。

友よ。私たちの罪は、だれ彼に対するものでなく、主イエス御自身へのものです。主は、ヨセフ以上に私たちの全てをご存知です。「主よ、あなたは私を探り、私を知っておられます。…すわるのも…立つのも…私の道をことごとく知っておられます」(詩139)。

だから、自分の罪を弁護せず、「御自分の民を弁護するあなたの神、主」(イザヤ51章22節)に正直に告白して、赦しをいただきましょう。

42章15節

「このことで、あなたがたをためそう。パロの命にかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない…。」

ヨセフは、「弟を連れて来い」と兄たちに強要します。まだスパイの証拠も見つかっていませんし、さらに、末の弟ベニヤミンはヨセフ殺しの罪に加担してもいません。彼はこの事件の部外者なのに、なぜヨセフは無理難題を突き付けるのでしょうか。

これを現実に照らし合わせるならば、テレビなどで犯罪者の報道を見ると、「私は彼らとは違う」と思い、自分を犯罪者と分けます。それは、「兄たちは殺人未遂の罪を犯したけれど、私はそこにいなかったベニヤミンだから関係ない」と言うのと同じです。

ここで、ヨセフがベニヤミンも来るように強要するのは、実弟の顔見たさ以上に、彼にも主の前で罪人であることを知らせ、兄たちと共に悔い改めさせて救いたいからです。でも、兄たちにヨセフの言行は理解できていません。

自分に対して神がなされることで、今わからないことが多々あります。しかし、友よ。主イエス(ヨセフ)の行動は、あなた(兄弟たち)に罪を知らせ、あなたを祝福するために行われています。どうか、全能者と争ってしまったヨブにならないで(ヨブ記40章)、主イエスを信頼して歩んでください。

42章17節

こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れておいた。

ヨセフは、兄たちの罪についての確固たる証拠や証言もないままに、監禁所に3日間も拘留しました。訳のわからない彼らは、どれほど戸惑い恐れた3日間だったでしょうか。

兄たちは、ヨセフを同じように扱い、殺さないまでも奴隷に売りました。人は、自分が他者に与えた害は忘れますが、同じ恐怖と戸惑いを経験してそれを思い出します。

自分の知識と経験を超える不条理には、人生の深い意味が隠されています。その意味がわかるなら、人生はさらに深く豊かになります。

その意味とは、「原罪(存在の罪)」です。人間の、社会の、歴史の矛盾と解決を見いだせます。人生の矛盾の根本は「原罪から」、人生悪や歴史悪の解決は「原罪の解決から」です。

原罪は、人の根本的弱さです。自分で自分を傷つける矛盾です。他者を傷つける元凶です。原罪を理解するなら自分と他者への許しと愛、悲しみ、慈しみなどが出てきます。ヨセフ(イエス)が兄たち(私たち)に起こしている事の意味を知るなら、恐れはなくなります。

友よ。愛していない人には誰も係わりません。主は、あなたを愛しているからこそ、あなたにとって迷惑と思うほどに深く係わるのです。

42章18節

ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。」

ヨセフは、兄たちに復讐しているのでなく、むしろ彼らを救おうとしていることが右の言葉でわかります。彼らに、「次のようにして、生きよ」と忠告を与えたその要は、「私も神を恐れる」の告白です。彼は、「神を恐(畏)れる」ことが生きることだと兄弟たちに教えます。

漢字の、「恐れ」は人格と人格の隔たりを作り、「畏れ」は融合を作ります。神と人の関係には、罪を持つゆえに神を「恐れ」る罪意識と、罪を十字架で贖ってくださるお方への感謝と敬服の「畏れ」の両方が必要です。

主イエスは父なる神を心から「畏れ」、私たちは主イエスに対し「恐れ」と「畏れ」の両方を持つのが正しいのです。ヨセフは兄たちに、まず「恐れ(罪意識)」を、そして今、神への「畏れ」を持たせようとしています。

「神を『恐れ・畏れ』ることは、人の知恵の初めです」(箴言9章10節)。そして、その知恵とは主イエス御自身であり(Ⅰコリ24章10節)、さらにそれは、神を信じない人には愚かと思われている十字架です(同1章18節)。

友よ。ヨセフの忠告に喜んで従い、神を「恐れ、畏れ」て今日も歩んでください。

42章19節

もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。」

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道3章11節)のみことばを、「神のなさることは全てにバランスがよい」と言い変えることもできそうです。

ヨセフは、兄の一人を監禁して、他の兄たちには食物を持たせて帰すようにしました。そこには、「厳しさと慈しみ・束縛と自由・罰と救い」がバランスよく盛り合わせられています。

兄たちは、人質を取られたことで、必ずヨセフの元に戻らねばなりません。しかも、ベニヤミンもヨセフ(主イエスを表す型として)の前に連れられて来なければならなくなります。

ヨセフが一人を監禁しながら、一方でたくさんの食料を彼らに与えて帰らせたように、主は試練と同時に脱出の道も備えると約束されました(Ⅰコリ10章13節参照)。危機から逃れることだけが救いではなく、時には危機の中に留まる時間も、救いのための大事な時間です。

友よ。その場の危機から解放されることだけが救いではありません。考えてみてください。もし、兄弟全員が解放されても、再び食糧不足に陥り、元に戻ります。どこかに弱さ(シメオンの監禁・痛み・引け目…)が残っていることも、その弱さのゆえに、主の御前にあなたを戻らせる恵みとなることもあります。

42章21節

彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。…それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

父を殺して王位を奪った叔父の仕業を、舞台で演じて見せて罪を暴いたシェイクスピアのハムレットは有名です。

兄たちに接するヨセフの行動も、兄たちを役者に仕立て、彼らの罪を自分たちで演じさせているようです。当初不可解でしたが、度重なるうちに、兄たちにも本筋が少しわかり始めたようです。しかし、彼らの考えはまだ因果応報の域です。

因果応報には、問題の真の解決がありません。なぜなら、善と悪の絶対的基準がないからです。善と悪、幸福と不幸、富と貧、すべて比較と相対の世界です。

しかし、聖書の世界には、いのちと死、善と悪、聖と俗などに絶対の基準があります。その基準とは、神が「よい=善」とするか、「否=悪」となさるかです。

兄たちは、「罰を受けているのだなあ」程度の意識ですが、これは確かに神からの罰です。しかし、神が許す罰は、御自分を罪人に知らせ、悔い改めさせ、罪を赦し、自由にするためです。

友よ。「神は罰しない」という薄くて軽い福音に気をつけてください。神の罰は、罪の価の支払いではなく、罪人を主の十字架まで引っ張ってくるために必要な恵みの御業です。

42章22節

ルベンが…言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

ヨセフの厳しい取り扱いを受けたルベンは、過去を振り返って言います。あの時、ルベンは確かに殺すなと止めました。彼らは、眠らせたはずの魂と良心が覚まされ、忘れたはずの罪を思い出させられています。

罪を、「忘れた」と「消された」は表面的には似ていても、忘れた罪は消えたのでなく、心の底に残っています。残っているので、記憶にあるとないとにかかわらず、そこからの不安や恐れが自己防衛と他者批判という実を結びます。

一方、消された罪は、記憶からなくなることではありません。それは、思い出されることがあっても、悪い影響を与えないということです。消された罪は、むしろ良い影響を与えることも多くあります。

「主の御告げーわたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」(エレ31章34節)と言われる赦しは消された罪です。消された部分は、怒りや憎しみや自己否定などです。と同時に、罪への痛み、自己受容、主への感謝などの良き人格を作ります。罪を消すことができるのは、主の十字架の愛です。

42章23節

彼らは、ヨセフが聞いていたとは知らなかった。彼と彼らの間には通訳者がいたからである。

「壁に耳あり、障子に目あり」どころか、いちばん話を聞かれたくない相手が目の前にいました。彼らの会話は、17歳までヨセフが使っていた言葉であり、ルベンの告白もすべての会話がヨセフに聞かれていました。

人の会話のすべては、主イエスの耳に聞こえています。なぜなら、人間の言葉を作ったお方だからです。それゆえ主は、人の口に出る言葉も、心の中の思いもことごとく知っておられます(詩139・1~4節参照)。

主には何一つ隠せません。むしろ、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」(箴言28章13節)のです。

友よ。罪を隠すことは損失です。罪は隠されても生き続ける魔物で、必ず芽を出し、実を結び、刈り取らせます。罪を隠すなら、主はその罪に介入できなくなり、反対にサタンは喜んでその罪を用い、苦い実を結ばせます。主に告白すれば、主が罪を取り扱い、完全に殺して消してくださいます。主に隠すことを止め、「主よ、実は、私は……な者です」と自分から罪を告白してください。

42章24節

ヨセフは彼らから離れて、泣いた。それから彼らのところに帰ってきて、彼らに語った。そして彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛った。

孤独の中にいたヨセフは、肉親と会えた感情の高まりや、父と弟の消息を聞いた安堵に泣きました。しかし、さらに深い理由は、兄たちの罪の姿に対する悲しみだと考えられます。

主イエスも、ユダヤ人の宗教指導者たちから受けた数々の迫害と不理解に心を痛められました。しかし、主の涙は御自分の痛みのためではなく、人々の罪の姿に対する悲しみの涙でした。(ルカ19章41節参照)。

しかしヨセフは、ここで罪に対して安易な解決をしようとはしません。別室で泣き終えて帰ったヨセフは、シメオンを縛り上げます。なぜシメオンなのか? たぶん、ヨセフを殺そうと最も強く主張したのが彼だったからだと思えます。しかし、そうであったとしても、彼を縛るのはあくまでも兄たちを悔い改めに導いて救い出すためです。

友よ。神の御手による罪の解決は人間的には厳しく見えますが、真実な解決はこのお方の御手の中にだけあります。主が縛るのは、兄たち(私)の中のシメオン(罪)です。自分で縄を切らないで、主の十字架のナイフで切られるまで待ってください。

42章25節

ヨセフは、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食料を彼らに与えるように命じた。

兄弟の一人、シメオンは獄に入れられ、他の者たちは沢山の食料を与えられました。さらに、袋の中には差し出した銀が返されていました。一方で死まであと一歩の荒々しい取り扱い、もう一方では理解を超えた優しい配慮、あまりの極端さに兄たちはただ戸惑うばかりです。

主も人に対し、片方で「人質」、片方に「恵み」という取り扱いをなさいます。人は弱いので、荒々しいだけの取り扱いでは逃げだします。優しいだけなら、箱舟から放たれたカラスのように出たり入ったりで定まりません(創8章7節参照)。

どちらか片方だけなら、神から離れてしまうのが人です。ヨセフがこのようなやり方をしたのは、彼らを自分の所に必ず戻らせ、しかもベニヤミンも引き寄せる深い考えからでした。

主も私たちに、恵みと試練の両方を与えられます。それは、御自分のところに、さらに近く引き寄せるためです。

友よ。試練と恵みは表裏一体です。しかも、表と裏をくっつけている接着材は、あなたの罪のために泣く主の「涙」と、罪をいのちに変えるために流す「十字架の血潮」です。

42章27節

宿泊所で、そのうちのひとりが、自分の…袋をあけると、自分の銀を見つけた。しかも、見よ。それは自分の袋の口にあった。

兄たちがエジプトの食料を買うために差し出した銀が、袋にそのまま返されていました。あまりの不思議さに、彼らは身を震わせ、「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう」(28節)と言い合いました。

神は士師サムソンが生まれる前、両親に「あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という」(士師13章18節)と言われました。彼らには、なぜ自分たちに主が現れ、不思議なことを言われるのかわかりませんでした。しかし、自ら「不思議」と名乗るお方には、何も不思議ではありません。ただあなたが今、不思議に思うだけです。兄たちが身を震わせるほどの不思議も、すべてヨセフの計画の中にあることでした。

友よ。あなたの身にも不思議なことが多くあるでしょう。それらすべては、主の御計画の中の出来事です。不思議だからこそ、主の深い御計画であり、主があなたに働いておられる証拠です。自分ですぐに結論を出さずに、今しばらく不思議なことを見つめ続け、祈ってください。すると「不思議なお方(神)」が見えてきます。そのとき、その事は不思議でなくなります。

42章29節

彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて彼に告げて言った。

家に帰って、息せき切って次々と父に報告している兄たちの姿が見えるようです。ヨセフがいなくなって20数年が経ちましたが、忘れたはずの家族関係が、神の光に照らされ、あらわにされ、見え始めてきました。

神は、時間と空間を超え、過去も現在も未来も同じに取り扱うことがおできになります。20数年の月日も、エジプトとカナンの距離も超え、この家族に根を下ろした深い傷を修復することがおできになります。

主イエスの来臨も二千年前、場所は日本から何千キロも離れたイスラエルですが、時間と距離を超えて、今もあなたに触れることができます。

過去の罪や過ちに失望してはなりません。そこに手を差し伸べる、「主(創造主)なる神(愛なる神)」がおられます。私たちは過去の事実を変えられませんが、そのお方は過去の意味を変えることができます。家族間の触れたくない暗部、傷、恥、などを再創造(修復)し、闇を光に、傷を感謝に、恥を栄光に変えるお方です。

友よ。父に報告した兄たちのように、全てを父なる神に報告してください。

42章36節 ①

父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。」

ヤコブは、神のわざとしか言いようのない息子たちの不思議な話に驚くと共に、ヨセフを失い、シメオンを失い、今またベニヤミンも連れて行くとの提案に、こみ上げる怒りを抑えられません。その怒りの矛先を息子たちに向けていることからも、ヨセフ事件の真相をヤコブは知っていたと思われます。

人は、かつて受けた傷と同じことが起こると、傷に塩をすり込まれたように激しく反応します。ヤコブも過去のことを持ち出したくなかったのに、「もう、私に子を失わせている」と、それまで秘めて、口にしなかった言葉を発してしまいました。ヨセフ事件は、ヤコブ家に計り知れない大きな傷を残していました。

苦しむ友よ。あなたの心の底でうずく感情を押し殺し、その反動を家族や他者にぶつけてはいないでしょうか。自己憐憫も他者攻撃も解放にはなりません。心の中のものは一度出さなければなりませんが、それは主に向かってです。ヨブのように、「私のうめき声は水のようにあふれ出る」(ヨブ3章24節)と、主に向かってうめき声を上げてください。主はそれを受け止め、御自分の中に吸収してくださいます。

42章36節 ②

父ヤコブは彼らに言った。…「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

自分と家族に次々に起る困難に、心底疲れたヤコブのため息が聞こえます。神に捉えられイスラエルになる前であれば、家族を責め、自分を正当化し、疲れることなく頑張ったでしょう。しかし、今はもうできません。

私たちが抱く失望には、神を「信じているのに・祈っているのに・礼拝に出ているのに・奉仕をしているのに」など、信仰ゆえに出てくるものがあります。これらは、自分の思い通りに事が運ばないことへの落胆です。

それでは信仰とは何でしょうか。「信仰は望んでいる事がらを保証し…」(ヘブル11章1節)のみことばの理解が重要です。大切なことは、「だれが」望んでいる事がらが保障されるのか、です。それは、「私が望むこと」でなく、「神が私に望むこと」を信じるのが信仰です。ヤコブの身に降りかかかる出来事は、彼の望みでなく、神が彼に望んでおられることでした。

奈落の底にいると思っている友よ。そこに神を認めるならば、そこは解放と癒しの跳躍台です。落ち込みが深いほど、バネ(解放の力)は強く踏まれていて、より高く神の御許へ昇る恵みになります。

42章37節

ルベンは父にこう言った。「もし私が彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、私のふたりの子を殺してもかまいません。彼を私の手に任せてください。」

シメオンを解放せねば! 食料が尽きるのも時間の問題! そのためにはベニヤミンを連れて行かねば! と兄たちも焦っています。

たしかに急を要することですが、しかし自分の子の命を賭けたルベンの提案は、親が言う言葉ではないはずです。ここまで言わねばならない背後には、互いを信用できなくなったヤコブ家の親子関係がありました。

神は、子に対しては「…両親に従いなさい」、親に対しては「子どもをおこらせてはいけません」(エペソ6章1~4節)と命じていますが、一番近い夫婦や親子関係が最も難しくなるのは、家族が自分の幸福に一番大きく影響を与えるので、他人に対してよりも自我が出るからです。

友よ。イエスこそ、「父よ。私が彼らをあなたの元に連れ帰らなかったら、私を身代りに」と実行されたお方です。ルベンは「私の子を」と言いましたが、主は「わたしを」(同2章14節)と言いました。主は、「二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き」ました。主イエスが、父なる神と私たちを和解させ、一つとしてくださったのです。

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