キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第45章

45章1節

ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「みなを、私のところから出しなさい。」と叫んだ。

ヨセフは、兄たちに真実を明かすために、エジプトの役人たちを部屋から出しました。彼は、この場に「兄たちだけ」と共に居て、「兄たちだけ」に向き合いたかったのです。

主イエスも、あなたと「二人だけ」の所で、「あなたにだけ」語りたいことをお持ちです。他人を追い出してまで、あなたとだけ話すのは、愛の告白だからです。

愛は「あなた」と「私」だけの関係でのみ成立します。第三者を入れることはできません。また、愛は「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず」(Ⅰコリ13章5節)です。ヨセフは、かつて兄たちが自分を殺そうとした殺人未遂者であることを、他者に隠すためにも、人々を退出させました。

ヨセフにとっての兄たちは、悪人でなく愛する兄弟です。それ以上に、主イエスにとっての私たちは、「花嫁」です。花婿が花嫁を愛することの最大の表現は、「守る」ことです。主は、過去の罪を問わず、人々に聞かせず、全く純潔な花嫁として接してくださいます。

だから友よ。あなたも、真正面から向き合って、もっと真心から主に語りかけてください。

45章2節

しかし、ヨセフが声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞いた。

ヨセフは、自分が兄弟ヨセフであることを話す前に大声で泣き出しました。ヨセフがここまで我慢していたものが、一気に噴き出しました。時に、愛することは声をあげて泣くほど強い感情が伴うものです。

それと同時に、愛することのもう一方、「理知的・意志的」を失ってはなりません。ヨセフは、兄たちを愛しましたが、感情がほとばしり出る前の彼の愛は、理知的で、意思的でした。

理知的な愛とは、「相手を、神が望むような人にするために仕える愛」です。これは、一見冷たく見えますが、その人を神の御前に押し出す強い愛です。

ヨセフの今までの行動は、復讐でも、気まぐれでもなく、神の御前に兄たちを押し出すためでした。飢饉で引き寄せ、スパイ扱いし、シメオンを人質に取ってベニヤミンを引き寄せ、銀の杯を入れて罪を知らせるなど、全てはそのためでした。

友よ。あなたの今日一日の行動の目的は何ですか。あなた自身が神の御前に出るため、と自覚していますか。さらに、あなたの家族、友人知人を、主の前に押し出すためであることも忘れず、一日を始めてください。

45章3節 ①

ヨセフは兄弟たちに言った。「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」兄弟たちはヨセフを前にして驚きのあまり、答えることができなかった。

兄たちの驚きは、晴天の霹靂(へきれき)を超え、罪人が神の前に立ち、「私は、あなたが十字架につけたイエスです」と言われたかのようです。また、最後の審判に臨み、罪を暴かれ、死の宣告を受ける時のようです。

殺そうとして殺し切れず、奴隷として異国へ売り飛ばした弟が、全権力を持つ宰相であるとは想像だにできませんでした。

ヨセフ以上に不思議なのは、神なのに、ベツレヘムの馬小屋で産まれ、エジプトに逃げ、ナザレで大工として成長し、人々に神の国を説いたが、十字架刑で殺され、よみがえり、昇天し、全ての権力を持つ王の王、主の主である主・イエスの存在です。

イザヤも、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたか」(イザヤ53章1節)と人々の戸惑いを預言していました。

友よ。これは確かに驚きですが、その出所は、あまりに高く、深く、広い、神の愛です。これは、偶然の重なりからくる驚きではなく、ち密に計画された神の愛に対する驚きです。神は、何としてでも、あなたを救いたかったのです。

45章3節 ②

「私はヨセフです。」

兄たちの驚きには、奴隷として売った弟が宰相になっている事と共に、これまでの不可解な出来事が、全て解かれた驚きがありました。そして、この再会は、ヨセフ事件後のことを超え、生まれてから今に至る人生についても、明確に理解することになりました。

「なぜ・どうして・わからない」という不可解や不信は、人を疲れさせます。「理解・納得・秩序・立場」などが明確になると、生きる活力が湧きます。

人生の根本的な、「活力」と「疲れ」の決め手は、「キリストに出会う」か「キリストを知らないか」に関係します。兄たちは、宰相が「ヨセフ」であると知るまで、疲れの連続でしたが、分かった時から、まことの光が魂に差し込み、過去・現在・未来が見えるようになりました。

人生は出会いで決まる、とは事実です。出会いは、人の「いのち」の質を決めるからです。「永遠のいのちの神」に出会えば、「神の子のいのち」を持ち、「人間(土に帰る命)」との出会いならば、いつまでも「滅びるいのちを持つ人」です。

友よ。ヨセフ(イエス)が自分を啓示したのは、これからあなたと共に歩み、あなたの疲れを取り除きたいからです(マタイ11章28節)。

45章3節 ③

「私はヨセフです。父上はお元気ですか。」

ヨセフの関心は、「父上はお元気ですか」と最初に聞いたように、父でした。彼は、心から父を敬っていました。「父と母を敬え」の戒めを、子たちに喜んで自然に従ってもらうには、どうしたらよいでしょうか。

子が敬える親とは、「人生で一番大切なことを、自己犠牲を惜しまず教え、訓練してくれた親」です。父ヤコブは、人生で一番大切な「神」をヨセフに教えました。

ヨセフが教えられた神は、奴隷に売られた時も、侍従長の家でも、牢獄の中でも、彼を救いました。宰相になってからも、知恵とへりくだりを与えて導きました。人生の困難と順風の両方で彼を守ったのは、「父から聞いた神」でした。彼に一番必要なものを与えたのは、父でした。ですから、彼は父を心から愛する者となりました。

あなたが子に神を伝えれば、子から尊敬されます。しかし、子に神を教えないなら、子は最期の審判に臨んで行く末を知り、「死を願うが、死が彼らから逃げて行く…」(黙9章6節)ので、自らの命を厭(いと)い、出生を恨み、生みの親を憎みます。

友よ。あきらめず、忍耐強く、子の救いを主に祈りましょう。

45章4節

ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」

かつて自分を苦しめた敵が、弱い立場で目の前に現れると、仕返しをしてから捨てるのが人の常です。しかし、ヨセフはむしろ、「私に近寄って」と言いました。

生きる力は、人生のマイナス面(憎しみ・恨み・劣等感・痛み・傷など)と、プラス面(愛・親切・寛容・柔和・自制など)の両面から作られます。

短期間で見ると、マイナス面から出るものは大きなエネルギーを持ち、一見強く激しく、影響も大きいものです。一方、プラス面からのものは、一見弱々しく、与える影響もすぐに見られません。しかし、両者を長期間で比べると、マイナス面から出たものは爆発的な働きをしても、短期間で消え、破壊的です。プラス面から出たものは、目立たなくても、長く続き、建設的なよい実を結びます。ヨセフを支えた力は、人生のプラス面から出たものでした。そして、このプラス面の本質は、「神の愛」です。御霊の実は「愛」です。その愛の内容が、「喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」です(ガラ5章22節)。

友よ。主イエスに近寄ってください。このお方は、どんなあなたでも、決して退けません。

45章5~9節

神は…」(5節)「神は…」(7節)「神なのです。神は…」(8節)「神は」(9節)

ヨセフは兄たちを側に呼んで、今までの全ての出来事を話し出します。その中で彼は、話す出来事全てに「神」を、主語・主客として用いています。このことは、彼の「人生の主役が誰か」をはっきりさせます。

マイナスから始まった彼の人生を、プラスに変えたお方は、「神」でした。彼は、自分の人生の主語を、「自分」や「兄」や「父」にはしません。

もし、主語・主客を兄にするならば、「兄たちから奴隷に売られ、私は苦しみ続けた」となり、自分にすれば、「私の力で頑張り…私の努力でエジプトの宰相になり…私がお前たちを救い…」となり、父にすれば、「私が父の面倒を見てやる」となります。

主語を「神」としたことは、人生を、「神の御心」として受け止めて生きていることを表します。

友よ。あなたが「イエスは主」(Ⅰコリ12章3節)と告白したことは、人生の主人を「私」から、「主イエス」に変えたことの決意表明でした。それは、今も信仰生活の最も大事なキー・ポイントです。「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴3章6節)。

45章5節

「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。。神はいのちを救うために…」

「私を売ったことで」と、罪をあらわにされた兄たちの心は痛みました。しかし、「悔いのない、救いに至る悔い改め」(Ⅱコリ7章10節)には、この痛みを避けて通ることはできません。痛みを通過しての、揺るぎない救いの確信です。

イエスの十字架を信じることは、綺麗ごとでは済まされません。罪の赦しを感謝しても、主イエスの苦しみを心に刻まない救いは、綺麗ごとになります。綺麗ごとの十字架の赦しは、内蔵疾患に対する塗り薬のようで、根本治療にはなりません。罪の患部は、メスで肉体が切られ、血が流れ、患部を切り出し、縫い合わせてふさぎます。そのどの作業にも、激しい痛みが伴い、多くの血が流れます。

綺麗ごとではない十字架の赦しとは、私がイエスを十字架で苦しませ、陰府に売った痛みが伴う信仰です。「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(イエス)に負わせた」(イザヤ53章6節)。

友よ。お店で買う、血のにじまないペンダント十字架でなく、茨の十字架(痛みの伴う)を、心の素肌につけてみようではありませんか。主イエスと一体化された恵みは、そこで受け取るものではないでしょうか。

45章5節

「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」

だれが、右の言葉を本心から言えるでしょうか。「過去の事実は変えられないが、意味を変えることはできる」と言われますが、神によって過去の意味を変えられたヨセフだからこそ、心からこのように言えました。

ヨセフの過去は、暗く悲しい消し去りたい傷の過去でした。神は、彼の過去の出来事を消したのでなく、憎しみ、恨み、怒り、争い、などを生む傷を消されました。傷が消されるとは、それらのことが、「自分が今の幸福を得るために、必要不可欠であった」と確信できることです。

ヨセフの過去の辛さは、「神と自分がより深く交わり」、「家族も神に救われる」ために必要な恵みだったのです。

出生の時から親に存在否定され、傷から流れる血が止まらない中を生きて来た姉妹が、その悲しみから主イエスに出会いました。そして、「私はもう一度、その過去を歩んでもよいと思うほど、イエス様の救いの恵みをいただいています」と言いました。

友よ。私たちの救いのために、最も先に遣わされたお方は、主イエスです。しかも、彼が遣わされたところは、十字架であり、その先の地獄でした。

45章7節

「…神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、…大いなる救いによって、あなたがたを生きながらえさせるためだったのです。」

ヨセフは、神があなた方の先に私を遣わされたのは、あなた方を救って生きながらえさせるためだったと言います。

世の中には、自分も救われていないのに、他人を救おうとする人がいるものです。しかし、自分に救いがなく、他人を救うことができるでしょうか。救われていない人が他者を救うことは、他人によって自分自身を救おうとする(共依存的な)、見えない自己中心ではないでしょうか。ヨセフは、救いの確信に満ちていたので、巻頭の言葉を言えたのです。

ある人が、「家族伝道とは、自分自身への伝道である」と言いました。ヨセフが、「あなた方(家族)より先に」と言ったように、あなた自身の救いを、まず確立してください。

「全ての悪意、全てのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、全ての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(Ⅰペテロ2章1~2節)。

友よ。あなたの救いの確立は、家族の救いの前に準備される恵みです。

45章8節 ①

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」

上の言葉は一朝一夕に言えるものではなく、奴隷として生き、獄に送られ、宰相になり、家族を持ちつつも、長年苦しんだ中で、神から得た結論です。ここに至る20年近く、「主よ、なぜ?」と問い続けたことでしょう。御心の確信を得るには、長い時間が必要です。

誰にも、「主よ、なぜ?」と問い続けることがあります。全て割り切れるのが信仰ではありません。なぜなら、信仰とは「人の中で理解すること」ではなく、「神の中で理解されること」だからです。だから、「主よ。なぜ」と問います。

しかしその時、「理解できなければ信じない」との思いを置いて、「今はわからないが、後にわかる」と信じることです。ヨセフは、「なぜ?」と問いつつ、なお神を信じ続けました。そして、自分の疑問に自分で結論を出さず、1年、2年、3年、そして忍耐して20年を経た今、「実に、神なのです」とわかりました。

友よ。神を信じつつも疑問を持つことは、不信仰ではありません。むしろ、目の前の苦痛(納得できないこと)から逃げるために、焦って自分の納得のいく解釈を作ることが危険です。疑問を持っても、神の愛は疑わないでください。

45章8節 ②

「あなたがたではなく、実に、神なのです。」

ヨセフから、「お兄さんたち。私はあなた方に売られ、辛く悲しいです。でも、私は挫けずに頑張って宰相になりました。それで今、私はあなた方を赦します」と言われたら、兄たちは赦された確信と喜びを持てるでしょうか。赦しは、赦す者(ヨセフ)に痛みが残る限り、本当の赦しとならないものです。残っている痛みのしるしは、「私は」「私が」です。

しかし、この時のヨセフには、兄たちから受けた傷の痛みは残っていません。それは、「私が」から「神なのです」に主客が代わっているからです。彼は、奴隷に売られたことで、神に近づき幸福になりました。自分が幸を得ずに、他者を祝福することは難しく、時に、偽りの許しと祝福になることさえあります。

十字架上の血潮したたるイエスから、「あなたを赦します」と言われても、本当に赦された気にはなれません。しかし主は、「父よ。彼らを赦したまえ。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23章34節)と神に言われました。さらに、主は復活し、過去の傷と痛みを超えられました。

罪の赦しは復活をもって完成したのです。「実に、神なのです」の中に、赦された確信が与えられます。

45章8節 ③

「神なのです。」

生きている以上は、数えきれない苦しみが付きまとうのは当たり前、と諦める他ないのでしょうか。しかし、苦しみの中にも明確な意味を見い出せたらどうでしょうか。

たとえば、子育ては大変ですが、目的があれば頑張れます。ただし、その目的が、大学に入れて不自由のない収入を得る職業に就かせ…というだけならば、やがて空しくなります。

人生の喜び、生きがいは、出会う出来事の大小、実績、人々の評価ではなく、「出来事の中に含まれる意味」を、どれほど正しく理解できるかによります。

ヨセフは、並はずれた苦難と、これ以上ない実績と評価を得ています。しかし彼は、世間の規準に左右されず、自分の過去から現在に至る人生は、「神なのです」と評価しました。「神なのです」こそ、人生のあらゆる出来事に、最高の意味を与えます。

大きな実績と評価を得たのに、空しい人生があり、目立たない静かな歩みだったのに、永遠に評価される人生があります。その要は、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」(箴言3章6節)です。

友よ。あなたの人生が、「神なのです」となっているなら、小さい・役に立たない・無意味は消され、「インマヌエル(神共にいます)」になります。

45章9節 ①

「あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。」

ヨセフと兄たちは、やっと和解できました。ヨセフは、父を安心させるため、兄たちに、急いで帰って自分たちのことを報告するように頼みました。

ヨセフは、家から引き離されて以来、父のことを考えない時はなかったでしょう。同じく、主イエスも天の父の家を離れ、人の子として地上を歩まれている間、父を忘れたことは一度もありませんでした。だからこそ、いつも朝早く祈りに行かれました(マルコ1章35節)。

主イエスが、父なる神に一番先に報告したいことは、ヨセフと同じく、「兄弟たち(私たち)と和解したこと」です。それは、私たちが主イエスを信じて、「神の子」となったことです(ヨハネ1章12節)。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(ルカ15章10節)。

その時、主イエスは父に、私たちの良いことは報告されますが、悪いことは報告しません。なぜなら、人の悪いこと(罪)は、御自分が十字架で引き受け、すでになくなっているからです。

友よ。私たちも詩篇の記者と共に、「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩136)と何度でも叫びましょう。

45章9節 ②

「あなたの子ヨセフがこう言いました。『神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私の所に下って来てください。』」

神は、罪を犯した人祖を、エデンの園から追放しました。それは、罪人が園に留まるならば、神の「義と聖」の基準で滅ぼさねばならないからです。エデン追放は、人を守る神の愛でした。その後、園は回る炎の剣が罪の侵入を防ぎます(創3章23・24節参照)。

主は、聖い園(御国)から、この世(エジプト)に来られ、人々をエデンに連れ帰ろうとします。罪人を引き連れたイエスは、エデンの入り口を守る回る炎の剣の前に来ると、私たちの衣(罪)をはぎ取り、御自分がまとい、火の中に飛び込み、焼かれて滅びました。それが、罪の代価の十字架でした。

ヨセフによって生き伸びて、カナン(神の国)に帰るイスラエル民族は、家の門の柱に小羊の血を塗りました。それは、イエスが罪人を背負って、回る炎の剣を通過する「過越の祭」になりました。

友よ。「あなたが…火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(イザヤ43章2節)のは、イエスの十字架のゆえです。父なる神は、「民よ(あなた)。私の愛する子・イエスと共に、わたしの所へ上って来なさい」と今日も語っておられます。

45章10節

「ゴシェンの地に住み、私の近くにいることになります。あなたも、あなたの子と孫、羊と牛、またあなたのものすべて。」

ヨセフは、家族をエジプトに招き寄せる計画を立てています。羊飼いであること、それをエジプトの人々が忌み嫌うことなども考え合わせ、ゴシェンに住ませようと考えていました。

ヨセフは、彼らを飢饉から守るために、カナンに食糧を届けることも、あるいは自分の地位を用いて新しい職業に就かせ、管理者の地位を与えることもできます。しかし、羊飼いのまま、自分の近くに引き寄せて住まわせることにしました。

神の民の居場所は、「主の羊となり、主の囲いの中で生きること」です。「主は私の羊飼い。私には、乏しいことがありません」(詩23)。ヨセフは、家族に最善の配慮をしています。

友よ。あなたはだれの傍で生きようとしていますか。ヨセフ(主イエス)の招きに従い、彼の傍に移りましたか。イエスを主と信じても、まだ自分の場所にいますか。あるいは、自分は移っても、家族は残し、生活は元のままですか。さあ、主の招きに応えて出掛けてください。「私のいのちの日の限り、主の家に住むことを」(詩27・4)。

45章11節

「ききんはあと五年続きますから、あなたも家族も、また、すべてあなたのものが困ることのないように、私はあなたをそこで養いましょう。」

ヨセフは、家族をエジプトに呼び、全ての必要を満たすと約束しました。そして、飢饉はまだ五年続くと告げました。

信仰は、見ないで信じることが求められますが、様々のことを経験して信じることも事実です。飢饉がまだ続くことも、エジプトの生活がどうなるのかも、ヤコブの家族はまだわかりません。

しかし、信仰とは、出来事(飢饉が五年続くこと・快適なエジプトの生活)を信じることではなく、「出来事を起こすお方」を信じることです。癒しや奇跡などは、神の愛を示すと共に、それらを起こす方を信じ、見せるためでした(マルコ2章10節参照)。見ないで信じ、経験して信じることは二人三脚です。兄たちはヨセフを信じてエジプトに行き、エジプトに行ってさらに信頼(信じる)できるようになります。

同じく、主の御人格を信じてみことばに従い、みことばに従うことに伴うしるし(事実)を見て、さらに信頼できるようになるのが信仰です。

友よ。恐れず主に従ってください。従わねば信じられないこともあります。信じて従う者の結果については、主が責任を取ってくださいます。

45章12節

「あなたがたも、私の弟ベニヤミンも自分の目でしかと見てください。あなたがたと話しているのは、この私の口です。」

ヨセフは、「私がヨセフ」であること、そして「私が話している」ことを、兄たちに今一度確かめさせます。ヨセフが念を押すのは、それが一番大事なことだからです。

信仰生活において大切なことは、自分が相対しているお方が、「主・イエス」であることと、「主が語られたこと」の二つです。エマオ途上の弟子たちは、「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(ルカ24章31節)ことによって、故郷に帰る足を再びエルサレムに戻し、人生を誤りませんでした。

パウロは、嵐にもまれ、沈みそうな船の中で、「全て私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています」(使徒27章25節)と言い、「主と、主の語られたことば」に固く立ち続けました。

友よ。自分が相対しているお方が、「主イエスである」ことと、「主が語られたことばである」の二つが明確ですか。明確でないなら、今一度、「あなたは誰ですか」と主に尋ねてください。主であると確信できたら、次に「これはあなたのおことばですか」と尋ねてください。「主(ヨセフ)と、主のことば」が兄たち(あなた)に生きる確信を与えました。

45章13節

「あなたがたは、エジプトでの私の全ての栄誉とあなたがたが見た一切のこととを私の父上に告げ、急いで私の父上をここにお連れしてください。」

ヨセフは、父を早く呼び寄せ、安心させたいと願っています。帰って、父に会った時に伝えることを兄弟たちに告げました。

兄たちは、ヨセフの「栄誉」と「見たこと」を伝えるように指示されました。「栄誉」とは、ヨセフが宰相であること、「見たこと」とは、ヨセフの働きの実です。

父なる神は、まだ神を知らない人々を、早く御自分のもとに引き寄せたいと願い、私たちを遣わされます。そのために主イエスを世に送り、多くの御業を行いました。それを見た弟子たちは、イエスの栄誉(イエスが主)と、主の御業(自分の救いの証・御業)を人々に伝えました。

使徒ヨハネは、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことば(イエス・キリスト)について」(Ⅰヨハ1章1節)書きました。この手紙に力といのちがあるのは、彼自身が主イエスを見て、主と触れた体験があるからです。

友よ。あなたもしっかり主を見て、主が自分にしてくださった小さなことであっても伝えてください。

45章15節 ①

彼はまた、全ての兄弟たちに口づけし、彼らを抱いて泣いた。そのあとで、兄弟たちは彼らと語り合った。

兄たちは、緊張し、恐れ、不思議がり、驚き、解き明かされ、そして今やっと光の中に入れられました。一人ひとりがヨセフと口づけし、一人の父の子どもであることを互いに確かめ、喜び合いました。家族である証しは、いのちを共有している実感です。

私たちは神の家族で、キリストを頭(かしら)とする一つの体です。いのちの正しい共有とは、互いが頭(キリスト)を通して繋がる関係です。手と足が直接かかわると、手は足に「どうして持てないの」、足は手に「どうして歩けないの」と差別し、責め合います。しかし、手は足でなく「頭」に従い、足は手でなく「頭」に従います。すると、手で持ち、足で運び、考え、目的、行動が一つとなり調和あるものとなります。

かつて、ヨセフと兄たちは互いを見て争いましたが、今は各自が神を見上げ、神によって愛し合っています。

教会は神の家族です。「今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです」(エペソ2章19節)。神の家族として、「(兄弟姉妹が)抱いて泣いた」関係を持てるなら、神の栄光はもっと現われます。

45章15節 ②

そのあとで、兄弟たちは彼らと語り合った。

兄弟たちは、家族であることを確かめ合い、心を割って語り合いました。夫婦で、親子や家族で、学校や職場で、本心から語り合うことがなかなかできません。そしてそれが、教会の中でも、と聞く時、心が痛みます。

聖書は、「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんという幸せ、なんという楽しさであろう。…主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである」(詩133)と告げます。

兄弟姉妹が神の家族として語り合うことは、永遠の祝福に通じます。しかし、ヨセフと兄たちがこのようになれたのは、長い時間と、多くの悲しい出来事を通った後でした。親たちの憎しみと怒りを引き継ぎ、解決する道として殺人を企て…しかし今、この「いのちの交わり」に入れられています。

友よ。夫婦、親子、隣人、教会の兄弟姉妹…過去から今までに悲しいことがあったとしても、あきらめてはなりません。なぜなら、悲しみと痛みがあっても、それが結論ではなく、プロセスだからです。「語り合い、いのちを共有」する結果に向かっている道中です。主に在って、あきらめてはいけません。

45章16節

ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロも家臣たちも喜んだ。

エジプトがヨセフの兄弟たちを歓待したのは、彼らがヨセフによって多大な益を受けていたからです。世は、「自分にどれだけ利益があるか」を、あらゆることの基準とします。後に支配者が変わると、イスラエルの子孫は迫害されました。

自分に利益どころか、反逆する者のために命を捨てた方は主イエスだけです。「不従順で反抗する民に対して、私は一日中、手を差し伸べた」(ロマ10章21節)。

それでは、人は神にとって何の益もない者でしょうか。否、ヨシュアが「ねたむ神」(ヨシ記24章19節)と言ったほど、神は人を愛しておられます。 

人の中には、「神のいのち」という宝が隠されています。神にとって、人は御自分のいのちです。「父と子(イエス)と人(あなた)の交わり」こそ、「神の完全ないのち」です。だから、神は人のためにいのちを捨てることを惜しみません。人を失うことは、神が御自分のいのちを失うことです。神にとっても、あなたは最高の宝(いのち)です。

友よ。自分の貴さを知ってください(イザヤ43章4節)。

45章24節 ①

「あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる。」

ヨセフの家族がエジプトに来ると聞いたパロは、最大のもてなしを申し出ます。これほどの大きな栄誉はないのですが? ここには気づきにくい信仰の罠が隠されています。

パロが与えようとしているものは、「エジプトの最良の地と最も良い食べ物」です。エジプトの「最良の地」とは、皆が羨むような地位や肩書きや報酬でしょう。また、「最良の食べ物」とは、肉体や心を満足させる食物や快楽などです。それらを十分に与えられたら、彼らの「肉」は太り、「霊」はやせて神を必要としなくなります。これこそ最悪の贈り物です。

神は、アブラハムを愛して、カナンの地と、天幕生活と、羊飼いという仕事を贈り物として与えました。そこは、神を求めずには生きられず、神と自分の関係を築くため、試練の多いところでした。パウロが味わった激しい苦難も、「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした」(Ⅱコリ1章9節)と語りました。

私たちにとっての良い食物とは、イエス御自身です(ヨハ6章34~)。良い地とは、主を求めずには生きていけない境遇です。

45章24節 ②

こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「途中で言い争わないでください。」

ヨセフは、エジプトの土産と食糧を持たせ、父を迎えに兄たちを送り出します。その時、「途中で争わないように」と加えました。

パウロも、「…争わず、柔和で、全ての人に優しい態度を示す者とならせなさい」と人々を教えるようにテトスを諭しました(テトス3章2節)。

ヤコブは争いについて、「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因」だと言い、欲しいものが与えられないのは、神に願わないか、あるいは快楽のために悪い動機で願うからだと言いました(ヤコブ4章1~3節参照)。

以上から、神から与えられるものを持つならば、正しい判断を持ち、欲望から自由になり、争いから解放されます。事実、「争うな」と言ったヨセフは、家族がここに来るまでに十分に必要な物を持たせました。

主は、私たちに争う必要がないほど多くの物を備えておられます。しかし、私たちは神に求めず、人に求めています。自分の内に争う心が起こったら、主に求めて得ていないからだ、と思い出してください。そして、幼子のように父に願い、求めてください。

45章26節 ①

彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」

ヨセフが死んだと思ってから、15年以上過ぎ、ヤコブの心からヨセフの面影もかなり消えかかっていました。

シメオンと共に食料を携えて帰った兄たちから、「ヨセフは生きている」と聞いたヤコブの衝撃は、どれほど大きなものだったでしょうか。やがて、この報告を信じて出かけたヤコブは、ヨセフに再会することになります。

今から二千年前、神が人となりこの地上に来られ、教え、いやし、力あるわざを行いましたが十字架で殺されました。しかし、三日後に復活し、「イエスは生きている」と弟子たちが語りました。

その証しは、二千年間絶えることなく、この日本にも、あなたや私の耳にも届きました。そして信じて、行って(聖書・教会・書物・祈り…)みると、そこに本当に主イエスが待っておられました。

友よ。もっと大きな声と確信を持って、「主は生きている!」と語ろう! 私たちが叫ばず、「石」に叫ばせていいだろうか(ルカ19章40節参照)。ヨセフ(イエス)から、罪を赦され、御許(天国)で生きるように招かれた私たちこそ、「イエスは神です」と語りましょう。

45章26節 ②

しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。

死んだはずの息子ヨセフが生きていて、しかもエジプトの宰相になっていることを聞かされ、ヤコブの頭は混乱しました。聖書はその理由を、「彼ら(息子たち)を信じることができなかったからである」と記しました。

ルカ24章に登場する2人の弟子も、「イエスは復活して生きておられる」と聞きましたが、失望しつつ、田舎へ向かっていました。彼らは、主の復活を伝えた人を信じ切れなかったのではなかったか、とも考えられます。

人々が信じるには、伝える人を信じることから始まります。「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです」(Ⅱコリ2章15節)。父ヤコブが、福音(ヨセフは生きているという良い知らせ)を受け取れなかったのは、息子たちの過去の行動から、彼らを信じられなかったからでした。

友よ。あなたが、日々、主と共に生きているならば、人々は「あなた」を信頼します。その人は「あなたの語ること」を信じます。神の子たちの最初の伝道は、自分自身をキリストの本物の弟子にすることからです。その思いを秘め、大胆に福音を伝えてください。

45章27節

彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。

息子たちは、ヨセフから聞いたことを残らず父に話しましたが、父は彼らの話し以上に、ヨセフが差し向けた車を見て元気づきました。すなわち、「事実」を見て信じたのです。

「イエスは主です」と人々に語っても信じません。そこを破るのは、「来て、見よ」(ヨハネ1章46節)と「神の国の現実」を示すことです。

ジョージ・ミュラーが孤児院を始めたのは、孤児を不憫に思った以上に「イエスが主であることを人々に証しするため」でした。バジレア・シュリンクが「マリア姉妹会」を始めたのも、イエスが主であることを、第二次大戦後のドイツで「神の国の現実」として証しするためでした。孤児院と、神の国の現実を見た人々の魂は、主に捕えられました。

主は、「あなたがたは、世界の光です。…あなたがたの光を人々の前で輝かせ…あなた方の良い行いを見て…父をあがめるようにしなさい」(マタイ5章14~16節)と勧めました。

友よ。信者には神の言葉が光であっても、未信者には言葉でなく「現実・事実」が光になることを忘れないようにしましょう。

45章28節

「イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」

ヤコブは、ヨセフの生存を確信しました。ヤボク川で神と出会い、もものつがいを外され、「ヤコブ」から「イスラエル」に名を変えてから、もう25年以上経ちました。

彼は、昔、家族を立て直そうとしましたが、事態はさらに悪化し、ヨセフ殺害未遂事件が起きました。それ以後、聖書は彼の名を、「ヤコブ」と呼び続けてきましたが、今、ここで再び「イスラエル」と呼び、以後この呼び方は基本的に変わりません。ヨセフが生きていることを知って、ヤコブの信仰がよみがえったしるしこそ、「イスラエル」の呼び方です。

「ペテロ((岩・霊の人)」は、信仰告白前は「シモン(葦・肉の人)」と呼ばれました。彼はまた、時々「シモン・ペテロ(肉と霊の人)」とも呼ばれました。「ヤコブ(肉の人)」は、もものつがいを外されて「イスラエル(霊の人)」と呼ばれ、ヨセフ事件後は「ヤコブ・イスラエル(肉と霊の人)」として過ごしました。

しかし今、ヤコブ(肉の人)を捨て「イスラエル(神の王子・霊の人)」として歩き出しました。

友よ。あなたにも三つの名がありますが、今は「何様」? ペテロとイスラエルですよね!

ページトップへ