キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第48章

48章1節

ヨセフに「あなたの父上は病気です。」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子マナセとエフライムを連れて行った。

ヤコブには、自己中心に生きたかつてのヤコブ(肉の人)の面影はなく、今はイスラエルの中のイスラエルです。彼こそ、神の霊に支配された「霊の人」です。

筆者は、中国へ聖書を届ける奉仕に、2人の子どもを連れて行ったことがあります。そこで、毛沢東の文化大革命前まで中国の大伝道者でしたが、迫害で24年の牢獄生活を通ってきた主の忠実なしもべ、王明道(ワン・ミンタオ、故人)師にお会いできました。その時、老師は子どもたちの頭をなでてくださいました。その霊の祝福の経験は、子どもたちのよき思い出となりました。ヨセフは、父の臨終が近いのを知り、2人の子を「イスラエル(霊の人)」の所に連れて行きました。

友よ。あなたは子どもをどこに連れて行きますか。学校、塾、運動クラブ、習い事ですか。それらも成長には必要です。ところで、主が臨在する場所には連れて行きましたか。「その子を私のところに連れて来なさい」(マルコ9章19節)と言われる主の御許へ連れ出すことは、全てに勝る、よい場所です。

48章2節

あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです。」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。

体力が衰え、床に伏したままのイスラエルでしたが、ヨセフの訪問と聞き、起きて床の上に座りました。彼は、体を起こしたというよりも、子孫に神の祝福の言葉を伝える預言者として起き上ったのです。

あなたは、いつどんな時に起き上りますか。「子どもに神の権威をもってかかわるため・家長として妻子を守るため・だれかに福音を伝えるため」ですか、それとも「自分の趣味・怒りの爆発・自己中心を貫くため・貪欲のため」ですか。

兄弟諸君。私たちは頭として神に造られました。「男は…どこででもきよい手を上げて祈るように」(Ⅰテモ2章8節)と命じられています。

主の姉妹たちが祈り会や学び会に多く集っても、兄弟たちの姿が少ないのは残念です。私たちこそ、先頭に立ち、家族の救いと導きを求め、教会の柱となって祝福を祈るために立ち上がるべきです。

信仰の弱さ、愛の少なさ、仕事の忙しさに負けてはなりません。イスラエルが、神から委ねられた「使命という床」に座ったように、私たちも神のみことばの座布団の上に正座することから始めましょう。

48章3節

ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、私に仰せられた。『私はあなたに多くの子を与えよう…。永久の所有としよう。』」

ヤコブには、神から授かった言葉を伝える責任がありました。それは、父の家から逃げる途中のルズ(後にベテル)で、神から語りかけられた約束のみことばでした。

過去も、現在も、未来も、事あるごとに立ち返るところはみことばです。それは、「真理の帯」(エペ6章14節)です。帯(真理・みことば)は、何枚もの着物(複雑に重なり絡み合った人生)をまとめ、身を守り、活動的にします。

無理に自分で神の御心(みことば)を作り出してはなりませんが、遠慮してもなりません。遠慮とは、「神は自分には語ってくださらない」という消極的信仰です。

みことばには、「ロゴス(普遍的真理としてのみことば・全ての人への約束)」と「レーマ(個人に語られる言葉)」があります。ロゴスを信じると、レーマ(私個人への神の約束の言葉)になります。

友よ。信仰によって、神とヤコブの関係を神と自分の関係にするとき、聖霊は聖書の言葉を自分への言葉にしてくださいます。この体験(証し)が四千年の年月、時代、人種、国、民族、文化、老若男女を超えて事実だからこそ、聖書は今も「生ける神の言葉」なのです。

48章5節

「今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれた、あなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。」

ヨセフの2人の子、マナセとエフライムを祖父ヤコブの子にするとは、ヨセフに2つの部族の権利を与えることを意味します。それは、ヨセフが他の兄弟たちの2倍の祝福を受けることです。ここから、マナセ族とエフライム族が始まり、イスラエルでユダ族に次いで中心的な部族となっていきます。

神の子には、2倍、いや3倍の祝福が用意されています。それは、「御子を持つ者はいのちをもつ」(Ⅰヨハ5章11節)と言われる「神の子のいのちの祝福」です。さらに、「…心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」(エペソ4章23・24節)といわれる「聖別の祝福」です。さらに、栄光へと主と同じ姿に変えられ、御国では霊の体をもつ「栄化の祝福」です(Ⅰコリ15章44節)。

友よ。ヤコブが試練を乗り越えて、ヨセフ、マナセ、エフライムという3つ(3人)の祝福を得たように、あなたにも「いのち・聖別・栄化」の祝福が備えられていますから、小さな試練に負けてはなりません。

48章7節

「その途上カナンの地で、悲しいことにラケルが死んだ。私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」

ヤコブとヨセフは、愛する妻であり母であるラケルへの想いに耽っています。ベニヤミンを産んだラケルは、子の命と引き換えに神の元に先立って行ったのでした。

ラケルは、ベテルを発って間もなく召天しました。旅の途中のヤコブは、愛する妻をベツレヘムへ通じる道の側に葬りました。それには、ヤコブの感情や諸事情を超えた、もっと大きな理由があったからです。

ベツレヘムは、後に主イエス・キリストが人となって降臨される希望の地です。「ベツレヘムへの道」を歩むことこそ、アブラハム、イサク、ヤコブ…と続く選民家族(証しの家族)に委ねられた使命でした。

旧約聖書全体の目的は、神の御子が人となって誕生するその日へ向かって進むことでした。

パウロは、自分の切なる祈りと願いは「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです」(ピリピ1章20節)と言いました。

希望の友よ。生きるも、死ぬも、子孫や係わる人々に対しての「ベツレヘムへの道」=「主イエスへ通じる道・主イエスを指し示す道」としての人生となりますように。

48章8節

イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」

ヤコブは、ヨセフに彼の母のことを語り終えた時、ヨセフの側にいる2人の若者に気づきました。ヤコブは、「これはだれか」と問い、孫であることを確認した後、祝福しました。

ヤコブの「これはだれか」は、「私が祝福する人はだれか」と聞こえます。一人の人生は、その人だけのものでなく、だれかを祝福するためでもあります。神が私を祝福されたのは、神を愛し、隣人を愛するためでした。

愛するとは、神の祝福を与えることです。祝福すべき人は、伴侶や子や両親などの家族と隣人たちです。しかし、祝福する(与える)ことよりも、祝福される(受ける)ことを求めているのが人の実情ではないでしょうか。

友よ。「受けるよりも、与えるが幸い」(使徒20章35節)です。相手に按手できなくても、面と向かって声に出して祝福できなくても、主に相手の祝福を祈り求めてください。あなたが家族や隣人へ、神の祝福の手(祈り)を差し伸べなければ、他の誰の手が届くでしょうか。神は、あなたが祝福する人を待っておられます。「あなたを祝福する者をわたしは祝福する」(創12章3節)。

48章9節

ヨセフは父に、「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。わたしは彼らを祝福しよう」と言った。

ヤコブには、神の代理人として祝福を与える権威がありました。その権威は、神と共に生きる人に与えられる霊の力に基づくものです。「神の国は…力です」(Ⅰコリ4章20節)と言われる「力」こそ「権威」です。

カリスマによりセクト化した宗教的権威に、反発と嫌悪感を持つのは当然です。しかし、神は御自分の権威を神の子に賦与し、権威をよりどころとして御自分を現わされます。

それは、教会における立場(牧師・役員)や組織(教会・教団)、社会的地位も超えて、「聖別から生み出される人格」です。これこそ「神の権威」です。アブラハム・ヤコブ・ヨセフ・モーセ・預言者たち・使徒たち…、彼らの権威は、「信仰によって=神によって」(ヘブル11章)与えられました。

友よ。愚直でも、一途に神と共に生きることこそ、人々を引きつける「力」であり、祝福する「権威」です。かつてのヤコブは、子どもたちから嫌われ、侮辱されるダメ親父でした。しかし今では、「彼らを私の所に連れてきなさい。…彼らを祝福しよう」と、神の「力と権威」を身に帯びています。

今日もひたすら、愚直に、一途に、主と共に歩んでください。

48章10節

イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。

ヤコブの目は老齢のために視力を失っています。かつてはずる賢い目を持ち、目が利き過ぎるあまり、人生を自分の力で開き、その分だけ罪を犯し続けたヤコブでした。

主は、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」(ヨハネ9章41節)と言われました。

主は、「見える」基準が「私」であることに注意を促されたのです。聖書は、彼の父イサクの時も、「イサクは年をとり、視力が衰えて良く見えなくなった」(27章1節)と言っていますが、それは「霊の視力」の衰えで、ここでのヤコブの目の衰えは、霊の視力がいよいよ鋭く増し、この世を見る必要がなくなった、とも受け取れます。彼の目(心・霊)は、この世ではなく、神に向けられています。

友よ。私たちの目は、神と、この世のどちらに多く向けられているでしょうか。世に向く目がかすむことを願おうではありませんか。そして、いつも神に目を向け、神の光で見るべきものを見つつ、歩んで行こうではありませんか。

48章11節

イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」

ヤコブは、死んだはずのヨセフと再会できたばかりか、2人の孫にも会えました。彼はそのことをヨセフに感謝する以上に、「見させてくださった」と神に感謝を捧げます。

だれでも、子や孫に会うことは嬉しいことです。しかし、日ごろ家族の顔を見て過ごせても、天国に移された時に顔を見ることができなかったらどうでしょう。

当時、ヤコブの目はかすんでいたので、孫たちの目鼻立ちをはっきり見ることは実際にはできませんでした。ヤコブが見て感謝したのは、孫たちに宿っている天国のいのちだったと言えます。ヤコブは、孫たちに同じ天国のいのちを見て喜び、神に感謝を捧げました。

自分が天に帰り、やがて伴侶や子どもたちが遅れてやってきます。さらに遅れて孫たちの顔もそこで見るならば、「神は見させてくださった」と神に深く感謝するでしょう。信仰の継承こそ、人生の最も祝福された一大事です。信仰の報いは、天においてさらに大きく増幅します。

友よ。地上のスケールをはるかに超えて働かれる神へ、大いに期待して歩みましょう。

48章12節

ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。

ヤコブとヨセフの会見は、臨終の会見になりました。ここでは、世間話も人のうわさもお金も名誉も肩書きも通じません。さらに、肉親であることも通じません。ここで必要なのは、真実なこと、本当のいのちだけです。聖霊は真理の御霊です。そのお方の前では、うわべの繕いや建前は通じません。

ヨセフが「顔を地につけて、伏し拝んだ」のは、父ヤコブを礼拝したのではなく、あまりに不思議な神の摂理と、聖霊のご支配の厳粛さに、その場で神を礼拝せずにはいられなかったからです。

人生の節目に、家族や兄弟姉妹と共に、神の御前に伏し、鳥肌が立つほど厳粛な雰囲気に包まれて神を礼拝したいものです。

親も子も不完全な者同士です。しかし、互いに不完全であっても、神にあって完全な親子、夫婦、兄弟姉妹となることができます。それは、「二つのものを御自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現する」(エペソ2章15節)お方がおられるからです。

家族を自分のなにかによって一つにすることはできません。唯一、神を礼拝する事によってのみ可能となります。

48章14節

すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。

ヨセフは、父と会うのはこれが最後とわかり、2人の子の祝福を父に願いました。長男のマナセを父の右手に、弟エフライムを左手に向かわせました。ところが、イスラエルは手を交差して弟エフライムの頭に右手を、兄マナセの頭に左手を置きました。

聖書では右手が祝福のシンボルですから、弟が兄よりも祝福されることになります。ヨセフが周到に段取りしたようには進まず、イスラエルの手はヨセフの思いを超えて動きました。

しかし、それはイスラエルの考えをも超えている神の御手でした。主の弟子たちも、イスカリオテのユダ亡き後に、くじでマッテヤを十二使徒の一人に選びましたが、聖霊の選びは迫害者サウロでした(使徒1章23節)。自分の願いと違う出会い、出来事、病に遭遇し、「神よ。それは違います」と叫び、もがき、泣き、叫び、沈み込む時があります。 

しかし、友よ。自分が願わない神の左手であったとしても、自分の計画通りの、世からも認められる最高の右手よりも、何倍も確かで祝福に満ちているのです。左手を退けず、その中の祝福を受け取ってください。

48章15節 ①

それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。」

ヤコブが神を知ったのは父イサクを通し、イサクはその父アブラハムを通し…このように次世代に信仰が引き継がれました。信仰の継承は神の恵みですが、恵みだから何もしなくてよい、という無責任ではいけません。ヤコブは、「先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ(導かれた)神」と言い表しています。

子への信仰継承は、牧師と教会に任せるだけではできません。子どもたちは、進化論を根底にした授業を1日5時間、5日間授けられています。一方、教会で創造主について教えるのは1週間の中でわずか1時間です。その比率は30対1にも及びません。これでは教会に勝ち目はありません。だからこそ、日々、家族で礼拝し、聖書を読むことが必要です。

友よ。「アブラハム…ヤコブ」について語るとき、そこに自分も含め、「私を導いた神」として語ってください。「言葉にも、態度にも、愛にも、信仰にも…模範になりなさい」(Ⅰテモ12節)とありますが、ヤコブは人生の失敗を通して、より多く神を語っています。だから、私たちも自分の失敗を通しても、神の素晴らしさについて語ることができるのです。

48章15節 ②

「きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。」

羊は、自分の命と幸福を、自分で造り出すことはできません。羊の命と幸福は、羊飼いにかかっています。水も草も、敵からの守りも、仲間同士で争う関係を治めるのも、すべて羊飼いに頼らなければなりません。

ヤコブの人生の苦しみは、羊飼いと羊の関係に気づかず、青春時代から壮年期までを過ごしてしまったことでした。このことに早く気づくようにと、「あなたの若い日に、造り主を知れ」(伝道12章1節)と聖書は言います。

不幸な人生を過ごした一人の姉妹が、「私は、不幸であった年月と出来事をもう一度通っても(経験しても)よい」と言いました。それは、苦しい出来事を通して、主イエスに出会えた恵みがあまりに素晴らしかったからでした。 

人生の不幸とはなんですか。独身であること・離婚したこと・家族を失ったこと・病であること・貧しいこと・能力がないこと…ですか。いいえ、本当の不幸は、神(羊飼い)の子(羊)であるアイデンティティーを持てないことです。神は「ずーっとヤコブの羊飼い」でした。友よ。あなた(ヤコブ)が自己中心であった過去も、現在も、未来も、変わることなく神はあなたの羊飼いです。

48章16節 ①

「すべてのわざわいから私を贖われた御使い。この子どもたちを祝福してください。」

御使いに祝福を頼んでいる聖書の箇所はわずかです。御使いは、聖霊とは違い被造物(詩148・2・5)ですが、単なるエネルギーや物質や法則ではなく、神を崇める人格を持った天使としての存在です。

御使いは、神を崇める存在であると共に、「仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために遣わされ(ヘブル1章14節)」ています。また、神の子たちには「彼らの天の御使い」(マタイ18章10節)が神の御顔を見ながらついているともあります。

事実、ヤコブは彼の人生を分ける大事な時、二度ほど御使いと出会いました(28章・32章)。彼は、子孫が救われ、選民である彼らが使命を果たすための祝福を、神に求めるているのと共に、御使いにも祝福を求めています。

ヤコブのように、実際に天使に出会った経験を持つ者はほとんどいませんが、大自然・季節・草花・食物・人々…などから神の声(啓示)を聞き、慰めと励ましを受けることは多くあります(それらも天使の働きの一部?)。

神の御業は、私たちを守り祝福するための天使の群れのようです。天使礼拝は困りますが、恵みの一つひとつに、天使の働きがあることは事実です。

48章16節 ②

「また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」

「私の子孫が人々の中で中心的な人物になり、偉くなるように」と祈るならば高慢です。反対に、「私の子孫が人々の奴隷になるように」であれば謙遜でしょうか。否、両者とも「人々の中での子孫の立場」を考えているため正しくありません。

上のヤコブの祈りは、自己本位でなく、神の約束「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される」(28章14節)が、実現するためでした。世間に子孫を自慢するためでなく、子孫が神から授かった使命を果たせるように祈ったのです。

神の御心に沿って生きる人が謙遜な人です。罪の赦し・復活のいのち・神の子の特権・召命に伴う必要・受けた使命に対する導き…などを神に祈り求めるのは神の子の責任です。「地のまなかで、豊かにふえますように」とのヤコブの祈りは、なんと御心に適う祈りでしょう。

友よ。神の子たちは、世界に対して特別な使命を授けられています。ヤコブのように、「子孫が地のまなかで、クリスチャンとしての使命を果たせますように」と祈るのは、先に救われた私たちの祈りの課題です。

48章17節 ①

「私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。」

彼の大胆な要求は、アブラハムや父イサクと肩を並べることでしょうか。子孫に、いつまでも覚えて欲しいとの願いでしょうか。いいえ、彼の願いは、自分も偉大な先祖の一人であることを覚えられることではありません。彼が「私の名が」と言う名とは、「ヤコブ」ではなく「イスラエル」の方です。自己中心の「ヤコブ」を「イスラエル」に変えた偉大な神の存在を知って欲しいのです。

それは、「子たちよ。私(ヤコブ)は、自我が強く神に逆らう愚か者だった。しかし、神は私をイスラエルに造り変えてくださった。だから、お前たちがどんなに自分に失望しそうになっても、神に祈り、叫んで欲しい。こんな私さえ作り変えた神は、必ずお前たちを救い出し、造り変えることが出来る」とのメッセージです。

友よ。自分が神を愛する神の子に変えられたことを語り続けましょう。そして子孫が、「神は、アブラハムやイサクやヤコブのように、私の祖父母や父母を救い、私をも神を愛する人(イスラエル)にしてくださった」と、語られるような先祖になりたいものです。

48章17節 ②

ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。

ヨセフは、「父上。それは違います」と言って、次男エフライムに置いた父の右手を、兄マナセに移すよう導きます。しかし、父ヤコブの手の位置は、彼の視力の衰えからくる間違いではなく、神の御心でした。 

献身・結婚・奉仕・教会・献げること…など一つひとつに主の御心があるものですが、それを「主よ、それは違います」と言って、自分の常識で変えようとします。

主は、漁に出て何も捕れないペテロに、「舟の右側に網をおろしなさい」(ヨハネ21章6節)と言われました。聖書では、右は神の領域、左は人の領域です。右側(神の御心の中)でないと、魚(祝福)は捕れません。そして、右、左を決めるのは人ではなく、神の主権です。

友よ。自分の意に反することに直面すると、神の手を移したくなりますが、ここが信仰の戦いです。信仰の戦いは、サタンと大上段に渡り合うことや世の不正と戦う以上に、自分を神の側に置き続けることです。「私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている」(同15章4節・新共同訳)。

48章20節 ①

「そして彼はその日、彼らを祝福して言った。「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。」

ヤコブは、他の子ども以上に、ヨセフに特別な感情を持っていました。それは、彼によって神の御心が成就したからです。そこから、ヨセフの二人の子への思いもまた特別で、彼の子どもたちの繁栄を願っています。

主は、「あなたがたは…地の塩・世界の光」と語られ、さらに「山の上にある町は隠れる事ができません」(マタイ5章13~14節)と神の子と教会の姿を語られました。

地の塩も世の光も山の上の町も、神の子たちが命に満ち、輝いて生きている姿を表します。マナセとエフライムが繁栄することで、神の栄光が全地に輝くように…私たちと教会の姿によって、全世界は神の姿を見ることになります。

愛する神の子よ! 世の人々をキリストに導く「光」と、腐敗を防ぐ「塩」となってください。貴い教会よ! 何にも隠され、覆われることのない「山の上の町」となって輝いてください。それには、エフライムはマナセを重んじ、マナセがエフライムを尊ぶことです。互いの賜物と、選びと、導きを尊び合うことです。

友よ、教会よ。あなたも私もヨセフ(主イエス)の同じ血を受けた子ども同士です。

48章20節 ②

「神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。」

ヨセフは2つの嗣業を受け、エフライムとマナセがそれを受け継ぎます。彼らは12部族の中で、ユダ族に次ぐ力ある部族となります。しかし、彼らが特別信仰深いためではなく、父ヨセフのゆえの祝福でした。

彼らの姿に、クリスチャンホームの子たちの祝福を見ます。それは、本人の信仰の大小を超え、親の信仰のゆえに大きな祝福が約束されているからです。

信仰は個々人のものですが、周りの環境、とくに親が神を信じて生きる姿を見ることは、幼い時から神に間接的に接することになるからです。

クリスチャン家庭の祝福を詩篇128篇は、「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。…主はシオンからあなたを祝福される。…あなたの子らの子を見よ…」と。信仰の実を家族の中で見たいものです。

しかし、「我家ではまだ夫・妻・子どもたち・両親が神の恵みの中に入れず、家族伝道ができていません」と言う友よ。希望を捨てる必要はありません。聖書は、「神があなたをエフライムやマナセのようになさる」と約束されておられます。その勝利を掴むための、祈りの武器も渡されています。どうぞ、その武器を用いてください。

48章21節

イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に帰してくださる。」

信仰の法則は、「神によって自我に死に、神のいのちによって、神と共に生きる」です。彼は、間もなく地上の命を終えますが、自我に死ぬ経験はすでにヤボク川で終えていました(32章)。

彼が自我を明け渡したペヌエルの時から、彼も家族も変わり始めました。その後、ヨセフ事件の悲しみもありましたが、家族は救われて今日に至りました。

もしあの時、彼の「もものつがい」が残り、自我のままに生きていたら、今の祝福はありませんでした。ヤコブが十字架について、イスラエルに復活したことが、彼自身のみならず、家族全体に神のいのちの恵みが行き渡りました。

「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」(ルカ17章33節)の「いのち」は自分のいのちを超え、家族や周りの人々のいのちにも大きな係わりがあることがわかります。

友よ。自分を抑え、我慢し、恥と屈辱を耐えて十字架につくことは涙の池の底です。しかしその結果は、「神は…あなたがた(家族)…を先祖の地に帰す」最大の恵みになります。恐れることなくヤボク川を受け取ってください。

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