キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第7章

7章4節

あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ…消し去るからである。

聖書は数字に関して、3・4・7・12・24などを多く用いています。そのいずれも3と4から構成されますから「3・4」が聖書の基本となっている数字といえます。

3は「神の数」
父・御子・聖霊の三位一体や3日後の復活をあらわします。
4は「人に関する数」、「試みを表す数」
4は「人に関する数」として受け取れますが、人は不完全なので40日の試みや40年の荒野など、「試み」を表す数でもあります。大雨も「7日後」の「40日40夜」です。特に「7(3+4)」と「12(3×4)」は重要で、自然界も1週は7日、1年は12ヶ月、1日は24時間で7と12が基本です。
7と12は「神と人の関係を表す数字」
「7」と「12」は、神と人の関係ではさらに重要です。それは、神(3)と人(4)が「+・×」されて「7・12」の完全数になります。4なる人は不完全ですが、3なる神は完全なお方です。不完全な人が完全な神と交わり一体となる(+足され・×掛けられる=信仰)と全き者にされます。

しかし、人が神と一体となるためには、試みられる40日40夜・荒野の40年、ラザロの4日が必要です。完全数は、神だけで完成せず、「神と人」でつくりだすものです。神にあなたが必要です。

7章10~11節

それから七日たって大洪水の大水が地の上に起こった。巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。

「120」と、さらに「7日」の数字に、「神の御心の完全さ」を見ます。同時に、神が120年待ち、さらに7日待ったことに、裁きを遅らせようとする神の心が見えます。

ある者は、「先祖たちが眠った時から…何事も創造の初めからのままではないか」(Ⅱペテロ3章4節)と、神の忍耐と寛容を逆手にとって自己弁明します。しかし、「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(同15節)に目をとめるべきです。

神の裁きが、罪を犯した者への罰ならば、御子を世に送る必要はありませんでした。神は、あなたの身代わりに御子を洪水(裁き)で溺死(十字架)させたのです。それにより、裁きは終わりました。神が準備を完了して、「それから七日」さらに待った理由のもう一つは、後で駆けつける「だれか」を待つためだったのでは?

愛する友よ。救いの舟は完成し、残す日数は「7日」だけになりましたが、まだ多くの者が「救いの門」に到着していません。「裁きの門」が開く前に、神が待つ「だれか」があなたの周りにいます。その人の手を握って、舟に引き入れることを忘れないでください。

7章11節

ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日…天の水門が開かれた。

人々は、年を追うごとに巨大な舟が完成する様子を見ていました。ノアの家族だけでは不可能なことが現実になり、だれもが神の御業だと認めたでしょう。しかし、彼らの目は、神ではなく、なおも飲み食いに注がれました。

「時」には、アイオーン(くり返される時)とカイロス(定められた時)があります。人類は、「産まれ、生き、死ぬ」を繰り返しますが、それは「アイオーン」です。しかし、私の死は一度きりで、繰り返しませんから「カイロス」です。

ノアの600歳がカイロスでした。あなたはどんな時計を持っていますか。この「時計」とは「基準」のことです。どんな時計とは、「自分の時計」「世間の時計」あるいは「神の時計」か、という意味です。

自分と世間を時計=基準として生きるなら、洪水は「死刑執行の日」となり、神の時計(基準)で生きるなら「永遠の救いの日」となります。輪廻転生のように、繰り返される時と一度きりの時をごまかす教えや宗教に気をつけてください。

神は永遠(アイオーン)のお方ですが、その中で今日のこの時(カイロス)を定めています。神に与えられた、今日を大切にしてください。

7章16節

それから、主は、彼の後ろの戸を閉ざされた。

ノアは義の宣教者ですから(Ⅱペテロ2章5節)、自分と家族8人だけが救われようとしたのではないでしょう。しかし、だれもノアが語る神のことばに耳を傾けません。結局、舟に入ったのは彼と家族7人だけでした。

舟は、信仰告白によって入る教会です。だれもが期待をもって入りますが、入ってから部屋の狭さや嫌いな動物(嫌いな人?)も混じり、最初考えた理想的な所ではないことに気づきます。そこで、信仰を持って教会生活に足を踏み入れたことを嘆き、以前の生活を慕います。

教会は完全な人の集まりではなく、「主イエスの御かたち」(ガラ4章19節参照)にされたい人の集まる所で、問題もあり、規則もあり、不自由もあります。

しかし、この不自由の中にこそ、本当の自由があります。外の広い世界は裁きと死の世界ですが、狭くて不自由と思えた船内にはいのちがあります。

教会とはそのようなところです。何よりも、「後ろの戸を閉ざした」のは神です。それは、内側から開けられないように施錠したのです。神はあなたを「死の牢獄」に閉じ込めたのでなく、主と共に住む「いのち牢獄・永遠の御国」に閉じ込めたのです。

7章18節

水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。

死の世界といのちの世界の明暗が浮かび上がっています。箱舟は、水が増せば増すほど高く浮かび上がり、家も丘も山も山脈も危険を与えず、進路妨害もできません。「主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された」(Ⅱサム22章20節)ダビデのようです。

一方、舟の外は水かさが増し、家の二階へ、小高い丘へ、高い山へと人々が逃げ回りますが、裁きの洪水は「死の綱は私を取り巻く」(詩18・4節)ようにどこまでも追いかけてきます。しかし驚くことに、大水に飲み込まれている者たちは、自分が裁かれ、死の世界にいると気づきません。それは、魚が水中にいることを意識しないように、「信じない者は…すでにさばかれている」(ヨハネ3章18節)ことに気づいていません。

主に贖われた友よ。「彼らの目を開け、死の世界にいることを見させてください」と主に祈りましょう。死の世界を知らせるには、いのちの世界を見せる以外にありません。「あなた(未信者)」と「私(神の子)」の違いを現す意外にありません。今日一日も、主の使徒(遣わされた者)の自覚をもって歩んでください。

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