キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第9章

9章1~2節

「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。…わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」

ノアの箱舟の物語は、一人ひとりに対する神の「再創造による救い」の出来事を啓示しています。 「わずか八人の人々が…水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです」(Ⅰペテロ3章20・21節)。

イエスを主と信じたことは、水(信仰告白)を通り、「朽ちない種」(同1章23節)による再創造でした。

神はノアと同じく私たちにも、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われます。それには、
  1. 受けたいのちを「保つ(つながり続ける)」こと
  2. 内側にいのちを「増やす(聖別・剪定)」こと
  3. 第三に、自分の隣人たちを「愛する(伝道)」こと

そして、「繋がり…剪定(せんてい)され…愛する」(ヨハネ15章参照)ことで「生み・増え・地に満ち」ていきます。神は、それを「あなたがたに委ねて」おられます。

友よ。神は人に重荷を負わせましたが、御自分が楽するために委ねたのではなく、祝福するために委ねたのです。祝福は、何もせずに受けるだけのところにはありません。祝福は…素晴らしいお方と共に考え・計画し・食べ・行動し・汗を流し・悩み・泣き・笑い…一緒に生きるところにあります。

9章6節

「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」

ユダヤ教徒たちが、今も血抜きしない肉を食べないのは、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」(同4節)の言葉に従っているからだそうです。

レビ記にも、「血はいのち」とあります。字義的にこの言葉を理解するか、あるいは、血はいのちを表しますから、「人のいのち(血)を、人が殺し(流す)てはならない」と理解することもできそうです。ここでの禁止理由は、人は「神のかたち」=「永遠に生きるもの」だからです。そのことから、殺人とは肉体の命を奪うとともに、「霊のいのち」の殺人も含みます。それが、「ばか者」(マタイ5章22節)呼ばわりが殺人罪になる理由です。

人のいのちは、神との「繋がり」と「交わり」で、「断絶」と「孤独」が人の死です。「ばか者」と、相手の人格を否定する一つの言葉で、霊的殺人を犯すことができます。

神の子である友よ。特にクリスチャンの言葉は、神の言葉の代弁ですから、隣人を神に近づける(救う)ことも、離す(殺す)こともできます。口は小さな器官ですが、多くの人を生かし、殺しもします(ヤコブ3章5~12節)。

9章11節

「わたしはあなた方と契約を立てる」

聖書は、神と人との契約書で、旧約聖書は古い契約、新約聖書は新しい契約のことです。契約書ですから、「契約」という言葉に聖書を解く鍵があります。

契約には、下記のものがあげられます。
  1. 双務の契約(商取引など、ギブ&テイク)
  2. 信頼関係の契約(結婚など)
  3. 主従の契約?(主人と奴隷のように、一方の独断と権威が行使される)

聖書は、神と人との信頼による②の契約と思いがちですが、じつはⅲの主従の契約です。なぜならば、人は神との約束ⅰを守れませんし、神を信頼ⅱし続けることもできません。従って、ⅰⅱでは救われません。神の契約は、神が一方的に人に何か(救い・愛)を成就してしまう主従関係ⅲの契約です。

神は、人の同意を待っていては(ⅰとⅱには同意と行いが必要)人を救うことができません。ただし、世の為政者が権力で人々を支配するのとは違います。それは、親が子を守るために、子の同意がなくても一方的に行動するように、主イエスは一方的に、「神の御姿を捨て…仕える者になり…十字架の死までも従われた」(ピリピ2章6~8節)愛の独断者です。だからこそ、私たちは救われました。 

9章13節

「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。わたしと地との契約の…しるしとなる。」

虹の契約!なんとロマンチックなものでしょう。しかし、一見そのように見える虹の契約ですが、実は神にとっては、痛みと苦しみの涙が空中に飛び散ってできた虹です。

虹は、天と地をつなぐ懸け橋です。この橋を通って天国へ行けそうな気がしませんか?この虹は、父である神と私たちを繋ぐ「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)と言われたイエスを表わします。

神は、人々が罪を犯しても、「わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない」(15節)と約束されました。ただし、人が罪を犯しても黙って見過す、との約束ではありません。虹の契約とは、「主の十字架の契約」です。この契約は、「罪のないお方に、あなたの罪の代価を十字架で支払わせるから、もうあなたを裁かない」との約束です。 

ロマンチックな虹を、今一度、霊の目で見てください。この虹の色は七色でなくほとんど「赤(血)」であることに気づきませんか。そしてそれは、天の父が御子イエスを十字架につける悲しみに充血した目でもあります。

9章21節 ①

ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。

ノアは、神の御声を聞いてのち、箱舟完成までの長い年月、気を抜くこともなく、黙々と箱舟造りに身を捧げてきました。ところが、ここで失態を演じています。舟を造る長年の大仕事、洪水の襲来、舟の中の1年間、解放…そして畑の豊作。気が抜けたのでしょうか。

こんな寓話があります。

…鳥には最初は羽がありませんでした。ある時、神さまが鳥に、「これを身に着けてごらん」と言いました。しかし、鳥はそれが重そうなので拒みました。それ以後、この鳥は空中を飛べない鳥(ダチョウなど)となって地を歩き回りました。その重荷とは「羽」でした…。

ノアは、人々から愚か者と呼ばれつつも、主の重荷を負い続けました。その頃、彼は神の羽(重荷)をつけて世から離れて生活できました。しかし今、神よりも自分の生活を考えはじめました。途端に、彼の信仰の羽は落ちて世の人となり、酒(世のもの)で心を満たそう(酔う)としました。

主の重荷は、あなたの肉(自己中心)を制する恵みとなります。時には、外側(奉仕・立場など)をもって、内側(神とのつながり)を守り養うこともあります。奉仕もそのひとつです。

9章21節 ②

ノアはぶどう酒を飲んで酔い、…。

クリスチャンが酒を飲んではいけないのでしょうか。ある人はそうだと言い、別の人はそんなことはないと言います。パウロはテモテに、「少量のぶどう酒を用いなさい」(Ⅰテモテ5章23節)と語り、「酒に酔ってはいけません」(エペソ5章18節)とも言いました。

聖書全体は酒を禁じていませんが、「酔うな」と明言します。「酔う」とは「支配される」の意で、さらに酒は「この世」の代名詞として使われます。「酒に酔うな」とは、アルコールに酔う、の意味を超え、「この世に支配されるな」です。

聖書は、酒ではなく「御霊に満たされなさい」(エペソ5章18節)と勧めます。この「満たし」も、「酔う」と同じ「支配される」の意です。人は何かに支配されずにいられません。そして、人が支配されるのは、「酒(世)」か「御霊(神)」かのどちらかです。

御霊と肉の支配では、結ぶ実が違います(ガラ5章19~22節)。

友よ。各家庭で(一人で・家族で)聖餐式を行ってはどうでしょうか(聖餐式は牧師の専売特許ではなく、主を信じる者の専売特許です)。主の十字架と復活の恵みが家族を満たします(使徒2章46節)。

9章22節

カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

ノアには3人の息子がいました。セムはイスラエル民族の父、ヤペテは白人の父、ハムは黒人の父に…などと言う人もいます。とくに、ハムは父の失態を告げ口したので神の祝福を失い黒人になった…と言うのは、自分優位を信じたい人々の身勝手な差別意識です。

ハムは罪を犯しましたが、動機は酒に酔った父ノアにありました。神はノアを責めず、「のろわれよ。カナン(ハムの子孫)」(25節)とハムを責め、しかも子孫まで責めるのはなぜでしょう。

聖書は、「『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ」(エレ31章29~30)と、罪は個人の責任だと語ります。しかし、父が悪いから子が罪を犯して仕方ないとも、親の罪の影響で苦しんだから、自分がいい加減なのは仕方ないともなりません。

親(ハム)が悔い改めねば、子孫(カナン)がその影響を受け続けます。だれかが罪の呪いの連鎖を断ち切らねばなりません。

友よ。親(だれか)のことで苦しんでいるのなら、今日あなたにできることは、その苦しみを兄弟(セムやヤペテ)でなく主に告げることです。 

9章22~23節

ハムは、父の裸を見て、外にいる二人の兄弟に告げた。セムとヤペテは着物を取って…うしろ向きに…覆った…。父の裸を見なかった。

神なき世界は、他者との比較で物事を判断する「相対」の世界です。反対の「絶対」とは、「相対を絶つ」の意です。神こそが絶対者ですから、すべての基準です。相対の世界は、「目には目、歯には歯」ですが、絶対の世界は、「右の頬を打つ者には、左の頬を向ける」(マタイ5章38~39節)です。

人にとって相対の世界は、「世の常識」なので理解できますが、絶対の世界はむしろ不条理に思え、理解できません。醜態を演じている父を、ハムは「世の基準」で、セムとヤペテは「神の基準」で見ました。それはまた、ハムは自分の考えや感情を基準とし、セムとヤペテは神を基準として行動したことになります。その結果、ハムは父の弱さを暴き、セムとヤペテは父の弱さを覆いました。

愛する友よ。「自分で自分を推薦する人(相対・自己主張)でなく、主に推薦される人(絶対・神を基準)」(Ⅱコリ10章18節)になりたいものです。親子が、夫婦が、隣人同士が…罪を覆う不条理に見える愛に生きることです。「私こそ、罪を覆われなければならないノアです」とへりくだって、一日を始めましょう。

9章23節

父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて父の裸を見なかった。

かつて、カインは神に対し顔を伏せました。彼は、自分を基準として生きる決意をしたので、神に顔を背けたのです(4章参照)。しかし、セムとヤペテは父の裸を覆うために、後ろ向きに進み、父の裸を見ませんでした。彼らは父の姿に心を痛め、神を探し求める以外ありませんでした。そして、必死に神に目を向けた結果、「父の裸が見えなかった」と言えば屁理屈(へりくつ)でしょうか。

カインは神から顔を背け、目を自分に落し、そして罪を犯しました。セムとヤペテのように、父の問題に悩み苦しみつつも、顔を神に向けるなら、父の罪から顔をそらし、父を裁かずに済みます。人は、他者の罪をすぐに許せなくても、顔を神に向けることで、自分に及ぶ罪の影響からは逃れられます。

「愛は多くの罪を覆う」(Ⅰペテロ4章8節)とは、「罪に悩み、苦しみ、痛み、神を見つめるので、裁く目を失う」ことでもあります。

赦された友よ。父なる神は、私たちの罪から目をそむけ、十字架のイエスに裁きの目を移されました。私たちは、「彼の受けた傷によって…癒された」(イザ53章5節)のです。今日も神に目を上げたまま歩んでください。

9章26節

ほめたたえよ。セムの神

セムとヤペテが父の裸を被った愛の行いについて、セム自身でなく、「セムの神」がほめ称えられました。パウロも、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように」(エペソ1章3節)と言いました。

彼は、全ての良きことは聖霊から、聖霊は主イエスから、イエスは父なる神から出たことを知り、父なる神をほめ称えました。人から誉められ、人を誉めるところは危険地帯です。

「セム」とは「名前」の意です。セムが父の恥を覆った行為は、彼自身からというよりも、彼が「神の名(神のいのち)」を持っていたから…神を信じる者だったからです。

犬は犬の、サルはサルの行動をするように、罪人は罪人の、神の子は神の行動を起こします。行いがいのちを作るのでなく、いのちが行動を左右します。ですから、セムでなく「セムの神」が誉め称えられたのは当然です。私たちの行いを通し、神がほめ称えられるのは、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う」(ヨハネ15章12節)ことです。

愛する友よ。信仰によって(神の愛を受け)、善い行い(隣人を愛する)ができますように。そして、神がほめ称えられますように。

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