キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

エレミヤ書聖書講解文 第十二回「戦われる神」

エレミヤ書20章

  • 主の神殿の最高監督者である祭司、イメルの子パシュフルは、エレミヤが預言してこれらの言葉を語るのを聞いた。
  • パシュフルは預言者エレミヤを打たせ、主の家の上のベニヤミン門に拘留した。
  • 翌日、パシュフルがエレミヤの拘留を解いたとき、エレミヤは彼に言った。「主はお前の名をパシュフルではなく、『恐怖が四方から迫る』と呼ばれる。
  • 主はこう言われる。見よ、わたしはお前を『恐怖』に引き渡す。お前も、お前の親しい者も皆。彼らは敵の剣に倒れ、お前は自分の目でそれを見る。わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す。彼は彼らを捕囚としてバビロンに連れ去り、また剣にかけて殺す。
  • わたしはこの都に蓄えられている物、労して得た物、高価な物、ユダの王たちの宝物をすべて敵の手に渡す。彼らはそれを奪い取り、バビロンへ運び去る。
  • パシュフルよ、お前は一族の者と共に、捕らえられて行き、バビロンに行って死に、そこに葬られる。お前も、お前の偽りの預言を聞いた親しい者らも共に。」
  • 主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ 人が皆、わたしを嘲ります。
  • わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中 恥とそしりを受けねばなりません。
  • 主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
  • わたしには聞こえています 多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆 わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて 我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
  • しかし主は、恐るべき勇士として わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき 勝つことを得ず、成功することなく 甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない とこしえの恥辱である。
  • 万軍の主よ 正義をもって人のはらわたと心を究め 見抜かれる方よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け お任せします。
  • 主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を 悪事を謀る(たばかる)者の手から助け出される。
  • 呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。
  • 呪われよ、父に良い知らせをもたらし あなたに男の子が生まれたと言って 大いに喜ばせた人は。
  • その人は、憐れみを受けることなく 主に滅ぼされる町のように 朝には助けを求める叫びを聞き 昼には鬨(とき)の声を聞くであろう。
  • その日は、わたしを母の胎内で殺さず 母をわたしの墓とせず はらんだその胎を そのままにしておかなかったから。
  • なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い 生涯を恥の中に終わらねばならないのか。

ユダを取り巻く世界

紀元前12世紀アッシリアは、ヒッタイト、古バビロニア、エーゲ文明などの衰亡をうけ、強大な軍事国家となります。そして、紀元前7世紀前半には、オリエントの主要国を征服し、世界で最初の帝国にまで昇り詰めます。しかし、紀元前612年、首都ニネベの陥落により、その長い歴史に幕が下ろされます。その主な原因は、新バビロニア帝国の勢力拡大にありました。そして、アッシリア帝国滅亡後のオリエントは、新バビロニア、メディア、リディア、エジプトの4国分立の時代になります。ユダ周辺の地域では、アッシリアの滅亡により、勢力を助長させたエジプトと新バビロニアの二大勢力が覇権争いを続けていました。

紀元前609年、ネコ2世率いるエジプト軍は、アッシリア王国の残存勢力を支援し、バビロンとの戦いに向かうため、ユダ通過の許可をヨシヤ王に要請します。しかし、ヨシヤ王はその許可を与えず、ネコ2世の前に立ちはだかり(メギドの戦い)戦死してしまいます。ヨシヤ王の死により、その息子ヨアハズが王位に就きますが、3か月後、ネコ2世によりエジプトに連行されます。そして、ヨアハズの異母兄弟エルヤキムがネコ2世により、ヨヤキムと改名されユダの王位に就きます。ユダ王国の完全独立は、ヨシヤの敗北により再び失われ、エジプトの従属国となります。

紀元前605年、ヨヤキム王の時代(前609~598)、バビロン帝国率いる連合軍とエジプト率いる同盟軍(アッシリア帝国亡命政権)は、カルケミシュ(現在のトルコ・シリア国境)で一戦を交えます。このカルケミシュの戦いでエジプト率いる同盟軍は大敗を喫することになります。そして、この戦い以降、アッシリアは歴史上から独立国としての姿を消し、エジプトはオリエント世界で大国として再び浮上することはなくなります。

エジプトの従属国であったユダは、エジプトの力の衰えと共に勢力を強めていったバビロンの属国となります。ヨヤキム王は、バビロンの王ネブカドネツァルに3年間仕えますが、その後に反逆し税を納めなくなります。これに激怒したネブカドネツァルは、首都エルサレムに正規軍を派遣しますが、ヨヤキム王はその直前に急死します。その為、まだ18才の息子ヨヤキンが急遽王位を継ぐことになります。紀元前598年、エルサレムに侵攻してきたバビロンに、彼は降伏する道を選択し、王族や宦官、軍の高官、戦士、技術者など約8000人と共に捕囚としてバビロンに連行(第一次バビロン捕囚)されていきます。

第一次バビロン捕囚後、バビロンの王ネブカドネツァルにより、ヨヤキムの叔父ゼデキヤが王位(前597~587)に就けられます。これによりユダは、完全にバビロンの従属国となります。しかし、エジプトが再びパレスチナ地方に侵入(前589)したことを機に、ゼデキヤはエジプトを頼り、バビロンに反旗を翻します。ネブカドネツァルは、恩を仇で返したゼデキヤに激怒し、紀元前587年エルサレムを包囲します。そして、翌586年エルサレムは陥落し(ユダ王国滅亡)、ゼデキヤは目の前で子供を虐殺され、両眼を抉り取られ、青銅の足かせをはめられ、バビロンに連行されます(第二次バビロン捕囚)。

迫害

エレミヤは、この激動の時代に、神さまの言葉を語り続けます。それは、「ユダは砕かれ、再び元の姿に回復することはない」(19章参照)というものでした。

この言葉を聞いた神殿の最高監督者(祭司)の息子パシュフルは、エレミヤを打ち、ベニヤミン門の足かせにつなぎ、神殿に礼拝に来る人々の晒し者にしました。人々は、そんなエレミヤの姿を見て笑い者にし、罵声を浴びせます。翌日、解放されたエレミヤは、そんな迫害に怯むことなく、パシュフルに「神があなたを裁かれるであろう」と告げます。ユダの指導者たちにとってエレミヤは、直ちに消してしまいたい存在になっていました。

昔も今も、宗教家は「神の御旨を伝える」こと以上に、「それを聞く人々の反応」を想像し、「どのように伝えるべきか…」と考える誘惑に駆られます。なぜなら、「人々に好意を持たれる」ということは、「多くの人々が集う教会になる」ということを意味し、しいては「献金」に結びつくことにもなるからです。神さまに仕える者は、「神を喜ばす」ことに意識を集中し、そこに力を向ける必要があります。そして、このことは、すべてのクリスチャンにも言えることです。「神の子」として、「自分は神に喜ばれようとしているのか」あるいは「人に喜ばれようとしているのか」、それを自分自身に問いかけ、再確認する必要があります。パウロは、このことを以下のように述べています。

「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。」

Ⅰテサロニケ2章3~5節

現実に即した信仰と神から受け取る信仰

ユダの指導者たちの信仰は、周りの状況を分析し、その結果を現実の事態に合わせ整えたもの(現実に即した信仰)であり、それを「神の御心」と称し、人々に告げ知らせてきました。

ヨヤキム王治世のユダは、バビロンの支配下にありましたが、その政治的締め付けは、余り厳しいものではありませんでした。そんな中、紀元前601年、エジプトがシリア地方とパレスチナ地方への介入を再開し、反バビロニア勢力の拡充を図っているのを知ったヨヤキム王は、エジプトに頼ればバビロンの支配から独立できそうだと考えます。すると、「神の名」を使い「神は、われわれをバビロンの手から守ってくださる」と人々に語りますが、彼らの本心が言うところの「神」とは、エジプトのことでした。これが、「現実に即した信仰」の正体です。

遠藤周作氏が若い頃、ヨーロッパで学んだキリスト教は、「論理的で厳しい神」でした。そして次第に「日本人は、こんな『論理的で厳しい神』を理解しないのではないか…」という思いを強く持つようになり、聖書に書かれている「父なる神」をまるで「母なる神」のように表現するに至ります。聖書に書かれている「父なる神」とは、「まず、子の罪を罰し(御子を十字架にかけ)、それからその子を受け入れる神」であり、「母なる神」とは、「罪を持ったままの子を受け入れる神」というニュアンスで捉えることができます。

「父なる神」
・罪を徹底的に憎み、罪に「死」という処分を与え、完全に罪を消し去らないと人を受け入れることができない神
・人に対し厳しく、近寄りがたい印象を与える
・人のわがままを受け入れてくれそうにない神
「母なる神」
・罪を包み隠してしまう神
・人を優しく包み込むような、愛に満ちた印象を与える
・人のわがままも受け入れてくれそうな神

たとえば「母なる神」は、罪から離れられない子に対し、「あなたは、悪い子じゃないのよ。ただ弱いだけなの。だから、罪から離れられないのね。お母さんもね、とても弱いのよ、だからどうすることもできないけれど…。でもね、お母さんは、あなたを信じているから、大丈夫よ」と言って、そっと子供を抱きしめます。子は、「自分は弱いんだ…そして母も…。でも、そんな母は、自分を抱き締め、共に泣いてくれた。だから、自分は頑張ってこれからも生きていこう…」と思うようになります。如何にも「母なる神」には優しい愛があり、厳しく融通の効かない「父なる神」より、人の心を掴みやすそうに思えますが…。

今日でも「父なる神」を「母なる神」のように、「人の『罪』や『肉』をそのまま受け入れる神」として、カウンセリング的メッセージをする牧師たちが、人々の人気を得ています。このようなメッセージは、人を暖かく包み愛に満たされるような感覚を与えますが、「神の子」として霊的な成長を促すことはできません。なぜなら、その愛は「神の愛」ではなく、「人が作りだした愛」であり、「神の愛」とは似て非なるものだからです。すべての人の罪は、「神の御子」が人となり、人の罪を引き受け、自らが裁きの場に立ち「死ぬ」ことにより贖われました。ここには、「母の神」があらわす「感傷的で曖昧な罪の処理」ではなく、「真実な愛(アガペー)」による「罪の完全な贖い」があります。

「現実」とは、「罪と肉」にまみれた世界です。この「現実」に立ち「現実」に即して発せられるメッセージは、「罪と肉」を容認することから始められるので、「罪と肉」を完全に取り去ることはできません。

「母なる神」という表現は、作者がつくったものであり、遠藤氏が用いているものではありません。

現実に神を入れる信仰、神の中に現実を入れる信仰

会堂長ヤイロは、娘の病気を癒してもらうため、イエスの足元にひれ伏し「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(マルコによる福音書5章23節)と願います。そこでイエスは、ヤイロの家に向かいますが、その途中で12年間、長血で苦しんでいる女を癒します。その後、ヤイロの家に到着した時には、すでに娘は死に人々は泣いていました。しかし、イエスは「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言うと、人々はイエスをあざ笑います(39~40節参照)。

人々は、現実に立ちイエスを見ていますが、イエスは神の側から現実を捉えています。現実の世界において、「死」を取り除くことはできません。なぜなら、「死」は「罪」からきているので、その「罪」を消し去らない限り、「死」を取り除くことはできないからです。「…このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです…」(ローマ信徒への手紙5章12節)。たとえ「罪」を薄めても、隠しても、オブラートに包んで飲み込んだとしても、「罪」がある限り「死」から逃れることはできません。イエス・キリストの来臨の目的は、死の刺である「罪」を解決することにありました。人は、「罪」を解決することで、永遠のいのちを持つことができるのです。

現実に神を取り込む信仰
「現実」という有限の器の中に、神さまを取り込むことになり、神さまは現実より小さい存在になる
神の中に現実を取り込む信仰
「神」の中に現実を取り込むことになり、その人の現実がどんなに大きく困難なものであったとしても、有限の世界にない「神」においては全く問題にならない

エレミヤは、「神の側」から現実を見て語りましたが、パシュフルらユダの宗教的指導者は、「現実」から神さまを見て語っていました。この違いが「エレミヤへの迫害」という形で、あらわれていたのです。

エレミヤの独白

エレミヤ書20章7節からは、エレミヤが自分の正直な気持ちを吐露しています。

エレミヤは、「自分は神に惑わされ、惑わし捕らえたあなた(神)の勝ちです」、そして「その結果、わたしはいつも人々の笑い者にされ、嘲られている」(同・7~8節参照)と語ります。これは、単なる皮肉を込めているだけではなく、神さまの偉大さを認め脱帽している者の言葉です。

「そこでわたしは、あなたに反抗し、預言の言葉を語らないようにしようと思うのですが、そうするとあなたの言葉がわたしの心の中、骨の中で燃え上がり、苦しくなり疲れてしまうのです。結局、神さま、あなたの勝ちです」(同・9節参照)。ここで、自分には「語る」以外道がないことを認めています。

次に「主は恐るべき勇士で私と共にいて下さいます。どうか正義をもって、わたしを迫害する者の心を見極めてください。あなたにお任せします」(同・11~12節参照)と訴え、「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される」(同・13節)と神さまを賛美します。ところが、賛美していた筈のエレミヤが、突如として変わります。

「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。呪われよ、父に良い知らせをもたらし あなたに男の子が生まれたと言って 大いに喜ばせた人は」

エレミヤ書20章14~15節

「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い 生涯を恥の中に終わらねばならないのか」

エレミヤ書20章18節

この箇所について、説教者であるF.B.マイヤー氏は、下記のように述べています。

あなたが遣わそうとしている者を、私の代わりに遣わして下さい。あなたの使命を、もっと勇ましく強い人物に授けてください。この私を、人里離れた所にもどし、故郷の村で卑しい労働につかせてください。(p.118) F.B.マイヤー著『涙の預言者 エレミヤ』いのちのことば社より

ここから、エレミヤの「人としての自分」、そして「預言者としての自分」、二つのエレミヤの心が読み取れます。「人」としてのエレミヤは、神さまと出会い救われたことに満足し、感謝しきれない気持ちで溢れています。しかし、「預言者」としての自分は、誤解され鞭打たれ晒し者にされる、辛く苦しい時を生きなくてはなりません。14節の「呪われよ、わたしの生まれた日は…」に始まるエレミヤの嘆きは、エレミヤ書1章5節の「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」に関係しています。エレミヤは、「神の子」であることを心から感謝していますが、「預言者」としての人生は避けたいのです。つまり、「生まれた日は呪われよ」とは、「自分が預言者になるために生まれた日など、なければ良かった…」と言っているのです。

エレミヤは、神さまに抵抗できない自分に降参しています。なぜなら、自分を降参させた神さまに、苦しさを訴え文句を言ったとしても、神さまが何たるかを彼自身が誰よりも知っているからです。それは、9節の「主の言葉は…火のように燃え上がります」にあらわされています。同じことをパウロは、下記のように述べています。

「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである…」

コリント人への第二の手紙5章13~14節 口語訳

パウロも、多くの人々から「お前は気が狂っている」と何度も言われましたが、彼にとってもイエス・キリストとの出会いは、無上の喜びでした。しかし、エレミヤがそうであったように、彼も使徒としての賜物を何度も「放棄したい」と思ったに違いありません。そして、また彼自身も「宣教の業」を止めることができませんでした。なぜなら、彼の心の中にも、燃えるような火が点じられ、それが彼を駆り立ててきたからです。その火とは、自分のために死んだ「神の御子イエス・キリストの十字架の愛と真実」から発せられるものでした。

エレミヤの中に、パウロの中に、「伝道者、預言者としてのスピリット」を見ることができます。そして、多くのクリスチャンが心の奥底では、「このようなスピリットを持って生きたい」と願っているのではないでしょうか。神さまは、「あなたは、わたしのために死ね」と語られ、さらに「わたしはあなたの全責任を負うから」と権威ある声で諭されます。「神の子」である喜びをより高みへといざなう、この言葉に確信を置き、日々歩む者へとされてください。

エレミヤ書21章

  • ゼデキヤ王に派遣されて、マルキヤの子パシュフルとマアセヤの子、祭司ツェファンヤが来たとき、主からエレミヤに臨んだ言葉。彼らは言った。
  • 「どうか、わたしたちのために主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルがわたしたちを攻めようとしています。主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう。」
  • エレミヤは彼らに答えた。「ゼデキヤにこう言いなさい。
  • イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、お前たちを包囲しているバビロンの王やカルデア人と、お前たちは武器を手にして戦ってきたが、わたしはその矛先を城壁の外から転じさせ、この都の真ん中に集める。
  • わたしは手を伸ばし、力ある腕をもってお前たちに敵対し、怒り、憤り、激怒して戦う。
  • そして、この都に住む者を、人も獣も撃つ。彼らは激しい疫病によって死ぬ。
  • その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、その民のうち、疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもって撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。
  • あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。
  • この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる。
  • わたしは、顔をこの都に向けて災いをくだし、幸いを与えない、と主は言われる。この都はバビロンの王の手に渡され、火で焼き払われる。」
  • ユダの王家に対して。「主の言葉を聞け。
  • ダビデの家よ、主はこう言われる。朝ごとに正しい裁きを行え。搾取されている人を虐げる者の手から救い出せ。わたしが火のような怒りを発することのないように。お前たちの悪事のゆえにその火は燃え消す者はいないであろう。
  • 谷に臨んで座する者よ、平野の岩よ 見よ、わたしはお前に向かう、と主は言われる。『誰が我々に襲いかかるであろうか 誰が我々の住まいに攻め寄せるだろうか』と 言う者よ
  • わたしはお前たちの悪事の結果に従って報いると 主は言われる。わたしは火を周囲の森に放ち 火はすべてを焼き尽くす。」

外側から内側へ

21章は、ゼデキヤ王(前597~587 第一次バビロン捕囚以降)が、エジプトのネコ2世を頼り、自らを王位につけたバビロンの王ネブカドネツァルに反抗し、その結果バビロン軍に城壁を囲まれつつある時代を背景に書かれています。

このような状況にあるゼデキヤ王は、エレミヤに2人の使者を送り(同・2節)、あたかも「エリシャがアラムの軍隊を一夜のうちに退けたようにできるでしょうか」(列王記6章)と尋ねさせます。

エレミヤは、ゼデキヤが問題の本質を全く理解せず、的外れの質問を使者に伝えさせたことを知り、「お前たちは、城壁の外にいるバビロン軍が敵であると思い戦っているが、それは大間違いだ。お前たちの本当の敵は、外ではなく内側にいる。その敵は、都の真ん中にいるのだ」(同・4節参照)と答えます。「都の真ん中」には、神殿があります。つまり、「お前たちの敵は、神殿の中にいる」ということになります。それは、神殿にある「偶像」ではなく、もちろんバビロンでもなく、神さま御自身だというのです。そのことが「わたしは手を伸ばし、力ある腕をもってお前たちに敵対し、怒り、憤り、激怒して戦う」(同・5節)にあらわされています。

ユダの人々は、自分たちの「本当の敵が誰なのか」わかっていませんでした。同様のことが、クリスチャンにも起こります。人生には、「家族、職場、学校、人間関係、経済、病気など」多くの戦いがあります。そして、問題を解決するため、懸命に戦います。しかし、戦うべき相手を間違えている間は、いくらがむしゃらに戦ったとしても、全ては徒労に終わり、問題の解決には至りません。そして、戦うべき真の相手、それが「神」であることに気付かない間は、何度も何度も同じことを繰り返し、成長なき信仰生活を送ることになります。挙句の果てには、「信仰は疲れる…」と言って、この世に戻っていくクリスチャンが後を絶ちません。

罪と戦う神

「神が人と戦う?」…なぜ、神さまは人と戦うのでしょうか。この「人」とは、「人の中にある罪」を意味しています。神さまは、ご自身と同じように「人」を愛され、大切な存在である「人」を「死」に追いやる「人の罪」と戦われます。同様に神さまは、ユダの中に巣くっている「罪」と戦われ、そのことを彼らに気付かせるため、様々な状況を造り出されていました。

神さまは、バビロンを用いて、ユダに偶像礼拝を止めさせ、彼らを「真の神」であるご自身に立ち返らせるため、バビロンをユダに攻め上らせるよう働かれます。つまり、ユダの敵はバビロンではなく、「神御自身」だったのです。

出エジプト記において、エジプト王ファラオの心が何度も覆され、エジプトに多大な犠牲を強いたのは、神さまがファラオの心を頑なにしたからでした。

「わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」 

出エジプト記7章3~5 節

神さまは、なぜファラオの心を頑なにしたのでしょう。もし、ファラオが最初に行ったモーセの奇跡を見て、「イスラエルの民よ、さっさと帰ってしまえ」と命令を下したなら、イスラエルの民全員が神さまの下に一致し、エジプトを旅立つことができたでしょうか。恐らく、そうはならなかったでしょう。民の中には、「確かに奴隷ではあるけれど、何もこれから別の土地に行かなくても、ここにいた方が良いんじゃないか…」と考える人たちもいたのではないでしょうか。イスラエルの民の心を一つにするためには、彼らにファラオ(サタン)の本性を徹底的に知らせ、それに対し力強く働かれる「神への信仰」を植え付ける必要がありました。さらに神さまは、偶像礼拝するエジプトの民に「神の救い」を与えるため、「真の神」を何度も見せ「イスラエルの神こそが『真の神』である」ことを知らしめる必要がありました。ファラオの心は、これら「神の御心」が成されるため、頑なにされていたのです。そして、これら出エジプトに起きた様々な出来事は、神さまが「人の罪」と戦うために起こされていたことでした。

ヨブ記においても、神さまがサタンにヨブへの攻撃を許されたのは、信仰熱心がもたらす「自己義認」という「ヨブの罪」と神さまが戦うためのものでした。そして神さまは、ヨブが自らの罪を悔い改めること(降伏すること)により、彼に「二倍の祝福」も用意されていました。

クリスチャンは、「すべてのことは、神の許しの下で行われている」と確信する必要があります。そうすると、周辺に起きる様々な出来事は、恐ろしいものでなくなります。なぜなら神さまの御手が、すべてのことを支配されているからです。これを伝道の書では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい…」(3章11節 口語訳)とあらわし、パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ信徒への手紙8章28節)と語っています。

自分やその周辺に何か起きた時、クリスチャンは、その戦いの場が「出来事の中」にあるのではなく、「神殿の中」にあることを思い出す必要があります。「神殿」は、神さまと人の「交わりの場、礼拝の場」です。「人の罪」は、「神と交わり」ができない状況に「人」を置きます。だから、人を愛してやまない神さまは、「交わり」を妨げる「罪」と戦われるのです。

敵(神)を知り降伏せよ

自分の戦っている敵が「神」であることを「知る」と「知らない」とでは、その行動に大きな違いがあらわれます。それは、8~9節で主が「…見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」と言われたとき、自分の敵が「神」であることを知るなら、「人」である自分に残された道は、「降伏だけだ…」ということがわかります。しかし、「自分の敵はバビロンだ」と考えるなら、「降伏=己の死」となりますから、命を賭けて最後まで戦うことになります。

ユダの民は、「バビロンに降伏=神に降伏」することであり、「バビロンに降伏しない=神と戦い続けることになる」ということに気付いていません。結果的にユダは、「神の御心」を受け入れず、「神に反抗」していることになります。 このことは、「不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを表されます」(ローマ人への手紙1章18節)という状況を自らが招いてしまうことになります。

神さまは、人を愛するが故に「人の罪」に、戦いをもって臨まれます。それは、神さまが「愛する人」と「繋がり交わる」ために、必要なことだからです。「人」は、自分の「真の敵」が「神」であることに気付き、神さまに立ち返ることができたなら、神さまは放蕩息子の父のように、その人を抱きしめ祝福してくださいます。そのことが「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(ヨハネの手紙Ⅰ1章9節 口語訳)にあらわされています。しかし、この「罪」を神さまの前に告白せず、自分の中に隠す者は、なお神さまと戦い続ける者となります。

「その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける」

箴言28章13節

ヨヤキン王(降伏した王)と、ゼデキヤ王(戦った王)

ヨヤキン王は、バビロンがエルサレムに攻め込んできた時、戦わずして自ら敵陣に下り降伏を願い出ます。その結果、ヨヤキン王は、王族や宦官、軍の高官、戦士、技術者などユダの有力者たちと共にバビロンに連行されます(第一次バビロン捕囚)。彼らは、捕囚となったバビロンの地で、神さまに立ち返り、悔い改め、祈ります。その祈りは、神さまに聞き入れられ、「肉体の命」とともに「永遠の命」をも得ることになりました。そして彼らの子孫は、神の定めた時に従い、堂々とエルサレムに帰ることになります。

ヨヤキン王は、「神の御心」を知った上で、意図的に降伏したのか…それがどうであれ、結果的には、見事に神さまに降伏したことになります。そして彼は、「神の御心」に服従した者の啓示となりました。

一方のゼデキヤ王は、自分の敵が神さまであることを認めず、神さまと戦い続けた者の姿を啓示することになりました。

罪と戦って勝利した主イエス・キリスト

神さまに降参しない者は、「罪」と共存することになります。しかし、「罪の支払う報酬は死」(ローマ人への手紙6章23節)です。この「死」とは、神さまと「繋がり、交わり」ができない状態を意味します。神さまと「繋がり、交わり」のない生き方には、「不安、恐れ、怒り、憤りなど」が蔓延します。そのような愚かな生き方に、身を任せるべきではありません。

神さまに降参すると、神さま御自身が「人の罪」と戦ってくださいます。それが御子イエス・キリストが掛かってくださった十字架です。人は「十字架の贖い」により、「聖なる神の宮」とされます。「宮」とは、神さまとの「交わりの場」であり、神さまが生きて働いてくださる場所です。自分の周りの状況が、どんなに困難であったとしても、神さまが自分の内(宮)で働いてくださるので、何ごとにも勝ち得て余りある生き方ができるようになります。神さまは、すべての人をこの恵みに導き入れようと計画なさっています。

神さまは、あなたの罪と戦っておられます。自分で自分を守る者にならず、神さまによって自分を守る者としてください。

「…汝が持てるものを 主の手にことごとくささげしや 条件つけず降伏せば 勝ち得べし勝利を…」

聖歌556番 1998年8月
エレミヤ書聖書講解第十三回に続く…

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