キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第10章

10章5節

アモリ人の五人の王、すなわちエルサレム、…エグロンの王たちとその全軍勢は連合して攻め上り、…ギブオンに向かって陣を敷き、戦いを仕掛けた。

ヨルダン川を渡り、エリコとアイを打ち破り、ギブオン人を仲間に加え……、しかし、一息つく暇もなく、次の敵たちが連合して戦いを挑んできました。

カナンの地については、「乳と蜜の流れる土地である」(レビ20章24節)と何度も約束されていました。イスラエルの人々は、「エジプトから出さえすれば自由になれる」「ヨルダン川を渡ってカナンに入りさえすれば乳と蜜が待っている」と考えていたでしょう。ところが実際には、そこは乳と蜜の流れる楽園どころか、争いが絶えず、常に命を賭けねばならない戦場でした。 

なぜ戦いなのでしょうか。その理由を、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」(ヨハ16章33節)との主の言葉が教えています。主の約束は「平安」ではなく「平和」でした。「平安」とは、世にあって敵(貧しさ、病気、不和……)が無い状態のことであり、「平和」とは、人が神と正しい関係にある状態のことです。

友よ。あなたは「平安」と「平和」のどちらを求めますか。何事もない「平安」は、神への思いを稀薄にします。人生の戦いは、それが大きいほど、人に神を求めさせます。息つく暇もない戦いは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(同)と真の神を求めさせます。豊かな命は、「平安」にではなく、主と一つとなる「平和」にあります。

10章6節

ギブオンの人々はギルガルの陣営にいるヨシュアに…「あなたの僕から手を引かず、早く上って来て、わたしたちを救い、助けてください。」

ギブオン人の裏切りを知った周辺の国々は、連合軍を組織して討伐にかかろうとします。彼らはイスラエルを狙う前にギブオンに矛先を向けました。

ギブオン人は、自分の足で葦の海を歩いたことも、荒れ野で律法を受けたことも、ヨルダン川を渡ったこともありません。神の国に入ってはいても、信仰の弱い人々でした。敵が神の兵士たちより先にギブオン人を狙ったのは、サタンの手口とも似ています。

教会の中でも、誰もが救いが明確で(葦の海を渡り)、聖霊に満たされている(ヨルダン川を渡った)わけではありません。信仰の弱い者もいます。パウロは、「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」(Ⅰテサ5章14節)と言いました。

この敵の攻撃を前にしたギブオン人は、「助けてください」と素直に叫び、それに応えてヨシュアは「兵士全員、すべての勇士を率いてギルガルから出陣」(7節)しました。

キリストの体の中で、自分は弱いと思う友よ。信仰の助けを求めることは、恥ではなく栄誉であり、皆の喜びです。神の家族の中の柱である友よ。あなたが今まで受けた恵みは神のものですから、惜しむことなく皆に与えてください。すると、すべての者が神を見ることができます。

10章8節

主はヨシュアに言われた。「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない。」

カナンに入って以来、次々と現れる敵を見る時、荒れ野にいた時と現在とどこが違うのか、と疑問に思う者が出てきそうです。

荒れ野でもカナンでも、生きる上で起こる問題は変わりません。それは、この世が悪に支配され、自分自身の肉も同じように働くからです。しかし、荒れ野とカナンでは明らかな違いがあります。

荒れ野での戦いは、律法を守ることで罪に打ち勝とうとする、「律法」との戦いでした。一方カナンでの戦いは、「聖霊の満たし」による戦いです。自分の力で律法を守るのではなく、主によって生きるために、自分の肉を明け渡し、神の霊に生きる戦いです。 

荒れ野では自分で戦いましたが、カナンでは、「わたしは既に彼らをあなたの手に渡した」(8節)と神は言われ、さらに「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦う」(42節)とあります。聖霊に満たされる経験とは、自分ではなく主に戦っていただく術を心得ることであって、自分自身が強くされることではありません。

友よ。恐れは、罪と律法(自分の行い)によって戦う者に出てきます。力は、自分の肉に死に、聖霊によって生きる者に与えられます。まさに、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2章20節)。

10章9節

ヨシュアはギルガルから夜通し軍を進め、彼らを急襲した。

主の兵士はエリコとアイを滅ぼし、カナンの中央のエバル山で祭壇を築きました。しかし彼らは、エバル山付近に駐留するのではなく、ギルガルに戻り、そこから再び戦いに出ていたのでした。

神の子たちにおける戦いも、またキリストの体としての戦いも、次のことを忘れてはなりません。それは、「私はイエスにあって罪に対して死んでいるが、罪が私に対して死んでいるわけではない」ということです。罪は、主イエスに対しては無力ですが、私自身に対しては強力です。

同じく忘れてはならないのは、「敵(サタン)はイエスにあって滅ぼされているが、敵は私に対して死んではおらず、無力でもない」ということです。罪もサタンも、私よりもはるかに強力です。

そこから、私が主イエスに継がっている時、罪には働く余地がありません。それは、私がキリストによって死んでいるからです。しかし、私自身が生きていると、罪は働く機会を得て、肉の実(ガラ5章19節)を結ばせます。「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(同16節)。

主の兵士なる友よ。イスラエルは、自分の肉に死んだ記念の場所・ギルガルの地に戻りました。キリストに結ばれてあなたが死んでいる状態こそ、聖霊に支配された状態です。あなたが罪に支配されているとすれば、それはあなたがあなたを支配している状態だからです。自分の十字架を負う(主と一体となる)ことこそ、勝利の秘訣です。

10章12節

「ヨシュアはイスラエルの人々の前で…「日よとどまれギブオンの上に、月よとどまれアヤロンの谷に。」日はとどまり、月は動きを止めた。民が敵を打ち破るまで。

ヨシュアはギブオンの要請に応えて全軍を率いて行軍し、五人の王たちを急襲しました。敵は混乱し、敗走しました。逃げた敵軍が彼らの町に入り、砦に立てこもってしまうと、戦況は難しくなります。そこでヨシュアは、「主なる神よ。太陽も月もあなたのものです。それらはあなたが命じられたことを行うはずです。どうか、願いを聞き、太陽と月を停止させてください」と叫び、神はそれに見事に応えてくださいました。

太陽と月の運行を止めるとは、時間を止めることです。ここには、物理的な事実を超えたメッセージが啓示されています。それは、神は「時の支配者」であり、事実として太陽を止めたこと以上に、「日を止める」ことができるお方だということです。聖書の歴史の中で、神は何度も日(時)をとどめ、あるいは早めました。北イスラエルの「偶像礼拝の罪を繰り返す日々」を止めるためにアッシリアを招き、南ユダの「罪の日々」を止めるために彼らをバビロンの捕囚としました。

友よ。かつてのあのことがとどめられたのは、神があなたの日を止めたからではありませんか。何よりも、自分は罪の中にあって滅ぼされるべき存在なのに、神が「裁きの日」をとどめ、今日まで保ってくださったことも思い出してください。「神はすべて時宜にかなうように」(コへ3章11節)される、「時の管理者」です。

10章13節

日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。…日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。

神は、ヨシュアの大胆な祈りに応え、太陽を何時間かとどめました。万物の創造者に不可能はありません。

聖書は、「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る」(マラ3章20節)と、神を「義の太陽」にたとえています。この戦いの中で日がとどまったために、イスラエルは太陽の恵みを受け、敵を滅ぼし尽くす時間を与えられました。一方の連合軍は太陽の災いを受け、日没が来ないために、夜闇にまぎれて逃げることができず、攻撃され続けました。

霊の世界における義の太陽を、この世の人々は嫌い、神の子たちは愛します。世の人々が義の太陽を嫌うのは、それが罪人の罪を照らし出し、あらわにするからです。彼らは太陽よりも月(夜・闇)を愛します。

神の子たちは、義の太陽に罪を照らされることを避けません。なぜなら、あらわにされた罪を義の太陽の前に差し出せば、その光なる十字架で焼き滅ぼしていただけるからです。さらに、義の太陽が持つ命の力をいただいて、その人も輝きます。

友よ。聖書は、「その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように踊り出て跳び回る」(同節)と続けます。義の太陽を敵としてはなりません。常に義の太陽を味方につけてください。そして、主の自由の翼に覆われ、子牛のように力強く今日を歩みましょう。

10章7~15節 ①

ヨシュアは兵士全員、すべての勇士を率いてギルガルから出陣した。…ヨシュアは、その後、全イスラエルを率いてギルガルの陣営に戻った。

イスラエル軍はギルガルから戦いに出て、ギルガルに帰りました。ギルガルは橋頭堡(河川を渡河した所に造られる陣地)です。イスラエルの勝利は、ここあってこその勝利でした。

「ギルガル」とは「転がし去る」という意味でした。それは、「ヨルダン川を渡り(自分の十字架を負い)、荒れ野で肉に負け続けた屈辱を転がり去らせた」という意味であり、ギルガルを「聖霊の満たしの地」と呼ぶこともできます。

霊の法則で知らねばならない事の一つ、「私はイエスにあって罪に死んでいるが、罪は私に対して死んではいない」こと、そして同じく「敵はイエスにあって滅ぼされているが、敵が私に対して死んではいない」ことを思い出してください。

すると、私の勝利の道は一つだけです。それは、「あらゆることの勝利者なる主イエスと一つになり、主イエスに支配され続ける」ことです。ヨシュアと兵士たちがギルガルから出て行きギルガルに戻ったのは、彼らが、常に勝利の主に繋がり続けるために「日々自分の十字架を負って」いたことを示します。

ヨルダン川を渡った友よ。橋頭堡ギルガルを離れてはなりません。信仰者には、発展はなく成長があります。発展(ギルガルから出て戻らない)は、むしろ信仰の後退を意味します。

10章7・15節 ②

ヨシュアは兵士全員、すべての勇士を率いてギルガルから出陣した。…ヨシュアは、その後、全イスラエルを率いてギルガルの陣営に戻った。

イスラエルの兵士たちが次々と勝利を得ることができたのには、二つの理由がありました。一つ目は、ギルガルから出てギルガルに戻ったこと。二つ目は、「すべての勇士・全イスラエルを率いて」(29・31・34・36・38・43節)とあるように、全員で戦ったことでした。

全世界にあるキリストの教会が一致して敵と戦うことができるならば、もっと主の栄光を顕せるのに、と考えます。しかし、外面的組織の一致で進むならば、むしろ霊的レベルの低下を生み出します。

聖書は神の子たちに、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(エフェ4章3節)と勧めています。もちろん、「体は一つ、霊は一つ、…主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、…父は唯一…」(同4~5節)ですが、重要なのは「ギルガルにおける一致」です。それは、人間的一致ではなく、「肉に死んで霊に生きる」霊の人となることによる一致です。

主の兵士である友よ。ヨシュアと兵士全員が一致して戦えたのは、彼らがギルガルに戻ったからでした。聖霊を持っているだけでは、まだ自分が主人のままです。私たちが聖霊に支配されて(満たされて)こそ、イエスが主人となり、思いのままに一人ひとりを動かしてくださいます。神の子たちの人間的一致は霊的貧困を生みますが、聖霊に支配された人々の一致は敵を打ち破ります。

10章42節 ①

ヨシュアがただ一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。

神の軍隊は、次々と敵を滅ぼしていきました。それは、何年かけてでも、何十回戦ってでもなく、「一回の出撃で」とあります。この「一回の出撃」に、大事なメッセージがあります。

クリスチャン生活は霊の戦いの日々ですが、ここにある「一回の出撃」は、信仰の戦いの勝利の秘訣です。長年神の子とされながら、今も「荒れ野での四十年」から抜け出せないのは、この「一回」がないからです。さらに、信仰に確信を持てないのも、この「一回」がないからです。一回の経験は、一回で終わることなく、それがその後のキーポイントになるものです。

この「一回」は、「ヨルダン川を渡る・聖霊に支配される・肉に死に、霊に生きる」経験です。すなわち、「自分の十字架を負って主に従う」経験です。一度この経験を持てば今後敵に遭遇してもすべて勝利できる、というわけではありません。しかし、この経験は次の敵に遭遇する度に勝利の道を教えてくれます。

友よ。救いの初めは、主が「あなたの罪のために十字架を負った」ことです。次は、あなたが「自分の十字架を負う」ことです。それは人生の重荷を負うことではなく、「自分を主に明け渡す」ことです。すると、あなたの戦いは主の戦いになります。信仰とは、主が獲得された勝利をあなたが受け取ることです。

10章42節 ②

…これらの地域を占領し、すべての王を捕らえることができたのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。

イスラエルが勝利に次ぐ勝利をおさめることができた理由は、「ギルガルから出てギルガルに戻った」ことも、「共同体が一致した」こともそうですが、一番の理由は「主が戦われたから」です。

教会では、「主があなたの罪のために十字架で死なれた」とは語られますが、「あなたも主のために死ぬべきである」とは語られません。そのことを、ボンヘッファー師は、「主の十字架(犠牲)について語っても、自分の十字架(服従)を語らないことは、安価な恵みである。服従を伴ってこそ高価な恵みとなる」と言いました(『キリストに従う』より)。

主に無条件で備えられている神の命を持つことはできても、その命が豊かになるのは、互いに自分を相手に与え合う時です。それは、主イエスが私に自分を与え、私が主に自分を与える(服従する)ことです。「自分の十字架を負う」ことは、病や家族などの重荷を負うこととは違います。

友よ。あなたが自分の考えを持つのは当然ですが、それが主の考えと違うことが分かったらどうしますか。その時に、自分の考えの上に主の考えを置き、服従することが、「自分の十字架を負う」ことです。 それは、主があなたに働きかける許可書となります。すると、「主があなたのために戦われ」、あなたは勝利することができます。

10章43節

ヨシュアは全イスラエルを率いてギルガルの陣営に凱旋した。

ヨシュアと兵士たちはギルガルに凱旋しました。そこで家族と再会し、神の御業をたたえ合ったに違いありません。彼らには帰る場所がありました。

クリスチャンは、罪の中に閉じ込められたエジプトから出発し、信仰告白の葦の海を渡り、教会生活である荒れ野に入りました。そこから、ヨルダン川を渡って乳と蜜の流れる地(聖霊に満たされた地)に入り、そして世界宣教の戦いが始まりました。

カナンの地に入り、戦いが続きますが、神の子たちが戻るホームタウンは、エジプトでも荒れ野でもありません。それは、ヨルダン川の中に十二個の石を積み上げた(4章9節)所であり、主イエスと自分が一体となるところです。そこはキリストの花嫁の場所です。花嫁は夫と財産を共有するだけでなく、痛みや悲しみもすべて共有します。そこが地上の至聖所です。

友よ。あなたが戻る家はどこですか。家には愛する人(自分と命を共有している人)がいますが、そこに至る道は孤独です。そこは、世から離れ、自分自身から離れるところでもあります。そこでのみ、キリストと一体となれます。

「まさに自分の命を失う者がそれを得るのです。時と永遠、天国と地上にとって必要なものはすべて満ち足りた三位一体の神、父・子・聖霊なる神の内に存在しているのです」(『聖所の光に至る道』バシレア・シュリンク著)。

ページトップへ