キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第22章

22章1~4節

ヨシュアは、ルベン人、ガド人、マナセの半部族を呼び寄せ、…あなたたちは主の僕モーセから受けたヨルダン川の東側にある自分の所有地の天幕に帰るがよい。

ヨルダン川を渡る前、ルベン人、ガド人、マナセの半部族は、ヨルダン川の東側に自分たちの嗣業の地を要求しました。モーセはそれを認めましたが、カナン征服の戦いに彼らも参加することを約束させました。そして、征服が終わり、彼らがヨルダン川の東側に戻る時が来ました。

「求めよ、さらば与えられん」とは、もちろん、神の御心に適う求めに対する回答です。しかし、神は「愛なる神」であるゆえに、人の意思を否定することもできません。そこで、間違った要求をする者に対しては、「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」(ロマ1章24節)ます。そして、そのことを通して、彼らが今一度神に帰る時を待ちます。

ルベン人らは、忠実に約束を守って七年間同胞と共に戦ったことで、神からも他部族からも認めてもらったと思い、家族の待つ東側の地に意気揚々と帰ろうとしています。しかし彼らは、自分たちの中に部族を滅ぼすほどの問題が内包されていることには気づいていません。

友よ。あなたは、「私の信仰はこれで良い」と自信を持っていませんか。しかしそれは、自分の計画どおりに進んでいることを、「御心に適っているからだ」と勘違いしているからではありませんか。神の同意が「積極的同意」なのか、それともルベン人らに対するような「消極的同意」なのかを知るために、神と自分の関係の原点を見つめてください。

22章5節

…モーセが命じた戒めと教えを忠実に守り、…神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守って主を固く信頼し、心を尽くし、魂を尽くして、主に仕えなさい。」

ヨシュアは、ヨルダン川の東側に戻って行くルベン人らに対して、申命記六章にまとめられた神の最も大切な教えを送別の辞として与えました。そして、「ヨシュアが彼らを祝福して送り出すと、彼らは自分の天幕に帰って行った」と次節にあります。

「ボタンの掛け違い」という言葉があります。それは、「最初のボタンを掛け違うと、その後のボタンもすべて掛け違ってしまう」ということです。彼らは、「神の願うことを受け入れず、自分の願いを神に押しつける」という、最初のボタンの掛け違いをしています。そして、「カナンを征服するまで一緒に戦い、それまでは東側に戻らない」という第二のボタンを正しく掛けたつもりでしたが、それが実は掛け違っている(間違っている)とは気づいていません。

それでは、掛け違ったボタンはどうすれば直せるのでしょうか。それには「謙遜」という方法しかありません。ところが人は、プライドを捨てて過去を反故することができません。そこで、掛け違いを認めず、「モーセが許したのだから」と、モーセに責任転嫁することすらあります。

友よ。掛け違いを直す方法があります。それこそ、ヨシュアが語った祝福の原点に帰ることです。それは人にはできませんが、神にはできます。神は「掛け違い」という人の間違い(罪)を、御自分が十字架で引き受けて、新しくやり直させます。それが復活です。

22章7~8節

マナセの残る半部族には…ヨルダン川の西側に所有地を与えた。…「多くの財宝、多数の家畜、金、銀、銅…敵から分捕った物は、兄弟たちと分け合いなさい。」

マナセ族はヨルダン川の東側と西側に分かれることになりました。聖書はその理由を記していませんが、おそらく彼らの中で「信仰の違い」が生じてこうなった、と察することができます。

同じく、神の子たちにも違いがあります。ただし、教団、聖書理解の強調点、教会、牧会者、信仰の経験などの違いは小さなことです。根本的な違いは、教団も教会も関係なく、「神に従う神の子」であるか、それとも「自分の願いを優先する神の子」であるか、ということです。ヨルダン川の東側を選んだ半部族は、神のくださる富よりも世の富を選んだ人々であり、西側を求めた半部族は、神こそが富であると信じた人々である、と言えます。

世の富は自分の働きで得ることができるので見えやすいものですが、神から受け取る富は見えにくく、時間が経たないと実感できません。しかし、ヨルダン川の西側を選んだ半部族には「多くの財宝、家畜、金銀…」が与えられました。それらは敵から奪った戦利品でした。これこそ、彼らの働きではなく、キリストが十字架と復活によって勝ち取った「もろもろの霊の祝福」です。

友よ。あなたはヨルダン川の東と西のどちらにいて、誰の祝福を求めていますか。「この世の有様は過ぎ去る」(Ⅰコリ7章31節)ものですが、「神の賜物は,私たちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」。「過ぎ去る」ものと「永遠」、どちらを選びますか。

22章10節

ルベンとガドの人々…マナセの半部族は、カナンの土地にあるヨルダン川のゲリロトに着いた…そこに一つの祭壇を築いた。それは目立って大きい祭壇であった。

ヨルダン川の東側を選んだ人々は約束どおり共同体と共に七年間戦い、やっと願いかなって家族のもとに帰れたことを喜んだことでしょう。しかし、最初のボタンを掛け違えていた(神の御心に従わず、自分の願いを優先した)彼らは、やはり次のボタンも掛け違えることになりました。

彼らは早速ヨルダン川の東側に、礼拝する場所を造りました。それは、「私たちは信仰深く生活します」との表明だったのではないでしょうか。そこでその祭壇を、「目立って大きい」ものに造りましたが、それは「目立って大きな愚かさ」を表しているようにさえ見えてきます。なぜならそれは、第一のボタンが外れたかのように、「礼拝も自分たちの方法でやります」と言っていることを証しするものとなったからです。

礼拝とは、神のエルサレム(神のところ)に人が行くことであって、自分のエルサレム(自分のところ)に神を引き出すことではありません。前者は神に自分を合わせることですが、後者は自分に神を合わせようとすることです。

神の御心の中に生きようとする友よ。それはまた、神の声を聴くことであって、自分の願いを通すことではありません。そして、その聴かねばならない神の声とは、「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハ21章22節)とのみことばに集約されています。

22章12節

これを聞いたイスラエルの人々は、シロで、イスラエルの人々の共同体全体の集まりを開き、彼らに対して軍を差し向けることにした。

ヨルダン川の東側の人々が祭壇を築いたことを知ったイスラエルの共同体は、彼らを懲らしめるために軍隊を派遣しようとしています。

原因は祭壇にありました。西側の人々は、「東側に祭壇を造ったことは偶像礼拝に当たる」と判断しました。東側の人々は、「偶像礼拝などではなく、自分たちの信仰を西側の人々に認めてもらうために祭壇を造った」と主張しました。同じ神を礼拝する者なのに、なぜ不一致が起こるのでしょか。

このような「クリスチャンの不一致」は、キリスト教会の初めから、というよりも、ヨシュアの時から繰り返し出てきた問題です。カトリックとプロテスタント、聖母マリア礼拝、幼児洗礼、洗礼の形式など、不一致の問題を数え上げるときりがありません。

最も根本的な間違いはヨルダン川の東側に祭壇を造ったことにありますが、それは表面的な現象であって、問題の本質は、彼らが、「神の国と神の義を第一に求めなさい」との掟に反したことでした。ただし、東側の人々のような、神を第一とできていない人々がいても、それを責めて殺してよいわけではありません。各自の達した信仰を認めねばなりません(フィリ3章16節参照)。

友よ。相手を認めねばなりませんが、それは「真理」として認めるのではなく、「愛」によって認めるのです。愛は真理を呼び覚まさしますが、真理が愛に先立つと裁きになり、相手を殺します。

22章13~14節

イスラエルの人々はまず、…ルベンとガドの人々…のもとに祭司エルアザルの子ピネハスを遣わした。…イスラエルの各部族から…部隊の家系の長であった。

西側の共同体は、東側の人々にすぐに制裁を加えることはせず、指導者たちを遣わして相手の真意を聞くことにしました。ここで今一度、東側の人々が神の道から外れた原因を探ってみると、

神は、彼らの場所に祭壇を造るようにとは指示していない
彼らは、自分たちの心情を先立てていました。人の心情・気持ちは大切ですが、神の御心より優先してはなりません
一致することを、外面的な形や行動によって得ようとした
共同の信条を作り、皆が同じ行動をし、同じ集合体の中に入ることで一致を作ることは、律法によって命を造ろうとすることに等しく、むしろ内側の命を弱らせ死に至らせることです。「愛(命)は律法(外側)を全うする(完成する)」(ロマ13章10節)のです。

教会がクリスチャンをつくるのではなく、主の御霊の命に生きる者が集められて教会となるのです。「霊による一致を保つように努めなさい」(エフェ4章3節)。

友よ。イスラエルの共同体は、冷静に互いの言い分を聞くために時間をかけ、不一致を解決しようとしました。まさに、「愛に根ざして真理を語り」(同15節)の実行でした。不一致を避けるためには、「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間に」(13節)なることが大切です。

22章16節

「主の共同体全体はこう言う。…イスラエルの神、主に背いたこの背信の行為は何事か。お前たちは、今日、自分たちのために祭壇を築いて、主に逆らっている。」

自分たちの土地に祭壇を造った東側の人々に対して、西側の共同体が持っている思いが右の言葉です。その中で言われている、「自分たちのために」がキーポイントです。

東側の人々の信仰は「自分なりの信仰」でした。「年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない」(出34章23節)のが戒めでしたから、彼らはシロ(この時神の幕屋があった場所)に行って礼拝すべきでした。神の子たちの中にも、「神の戒めに従いたくはないが、自分なりに礼拝をします」と言う人がいます。確かに、教会によらず自分で礼拝することもできます。しかし、「自分なり」では真実な礼拝がわからなくなるのもまた然りです。

「彼らは使徒の教え(聖書)、相互の交わり(キリスト中心の交わり)、パンを裂くこと(礼拝・聖餐式)、祈ること(互いのための祈り)に熱心であった」(使2章42節)との記事は、正しい信仰生活に必要な自動車の四輪を示しており、その命は「キリスト中心」というエンジンです。

友よ。あなたは、「自分なりに信仰して生きていきます」などと言っていませんか。それは、教会にあるもろもろの問題や兄弟姉妹との関係に疲れたからではありませんか。しかし友よ。そこには、教会に命を求めたあなたの間違いもあったのではありませんか。今一度、「主のみ」に帰り、主の方法に従って正しい命を得てください。

22章17節

かつてペオルで犯したあの罪は、…ささいなことであっただろうか。あのとき、主の共同体に災害がくだり、今日に至ってもまだ清められていないではないか。

イスラエルの共同体の人々が、東側のグループに対して厳しく言わねばならない理由が記されています。イスラエルは、かつて荒れ野に居た時、モアブの娘たちを愛してペオルのバアル礼拝に走り、主の裁きを受けた経験がありました。彼らはそれを恐れていました。

人の行動心理の一つに、「悪いことへの反応は速く、良いことへの反応は遅い」があります。それは、「裁きは早く、悔い改めは遅い」でもあります。

「神の子は刃物では人を殺さないが、塩で殺す」と言った人がいます。神の子は、「あなた方は地の塩」と言われたように、社会や家族や人々に溶け込んで(自分を殺して)相手を生かします。一方、「相手を自分に(塩漬けに)してしまい、相手の人格を殺す」ことが、「塩で殺す」の意味のようです。共同体の言うかつての偶像礼拝の裁きは真理(溶け込む塩)でしたが、愛の無い真理(溶けない塊の塩)は殺人へ走らせます。 

友よ。次の言葉を注意深く聞いてください。「もし、私が私を支配するならば、私の考えが絶えず自分自身をめぐって動くだけであるならば、自分のことで頭が一杯になり、『己れに捕われてないゆったりした心』を持つことがほとんどできないならば、その時、私はカルバリの愛をまったく知らない」(エミー・カーマイケル著より)。

22章18節

それなのに、お前たちは今日、主に背こうとしている。今日、主に逆らうなら、明日、イスラエルの共同体全体に御怒りが下るであろう。

東側の人々は、主の指示がないのに祭壇を造り、外面的なことで一つになろうとする間違いの中にいました。一方の西側の人々は、性急過ぎ、相手を正す方法は打ち負かすことと考えていました。

人は「人間(人の間)」であるゆえに、自分と他者を分けることが難しくなります。他者の罪を見過ごしにできないのは、自分の命が他者に依存しているからです。

それでは、他者が罪を犯すことに干渉すべきではないのでしょうか。それも違います。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴27章5~6節・新改訳)と聖書は記しています。

西側の人々の言葉は正しいのですが、実のところ、「お前たちのために、私たちに災いが下されてはたまらない」が本心のようです。パウロは、「わたしは…すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」(Ⅰコリ9章19節)と言いました。彼は、自分を他者にではなくキリストに合わせたので、そのように言えました。

友よ。クリスチャンの一致を、しかも真理による一致を主に求めましょう。そのためには、相手を正そうと責めるよりも、まずあなた自分がだれよりも「イエスを主」とすることです。それが、相手を愛することにもなります。

22章23節

もし、わたしたちが主に背いて祭壇を築き、その上で、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物をささげたとすれば、主御自身が罰してくださるでしょう。

ヨルダン川の東側の人々は、自分たちの立場を説明し、西側の人々の理解を得ようとしています。彼らの心意気は分かりますが、それは真理とは違っていました。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4章24節)。このみことばはとても重要ですが、実行できていないことが多いものです。

神は、礼拝する場所として「幕屋」を備えました。幕屋の中の一つひとつ(至聖所の契約の箱・聖所の香壇・燭台・パンの机・幕屋の庭の洗盤・祭壇)は、神の姿と「礼拝(神と人の交わり)」について見える形で表し、教えるものでした。神を礼拝するときに人が犯す間違いとは、「霊と真理」によってではなく「肉と自分の思い」によって礼拝することです。「霊と真理をもって」とは、「神御自身と神の方法によって」とも理解できます。

神は、異邦人の庭にいた罪人を招き、罪を焼き(祭壇)、清め(洗盤)、キリストとの交わりの場(聖所)に導き、主の光で照らし(燭台)、パンで養い(パンの机)、とりなし(香壇)、至聖所の三位一体(契約の箱)の中に入れて下さいました。これが救いです。

友よ。礼拝することに熱心であっても、神の方法から外れてはなりません。神の喜ばれる礼拝は、主イエスを受け取り、主イエスに自分を献げることです。

22章27節

あなたたちとわたしたち、更にわたしたちの子孫との間柄を示す証拠とするためです。…後日、あなたたちの子供がわたしたちの子供に向かい、『あなたたちには、主の割り当てはない』と言わないためです。

東側の人々は、「エジプトから導き出してくださった神を皆さんと共に礼拝したいからこそ、祭壇を造りました」と弁明します。彼らの礼拝は、神にではなく人々に受け入れてもらうための礼拝でした。

「二人の人が祈るために神殿に上った。ファリサイ派の人は…『神様、わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』…ところが、徴税人は…胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、ファリサイ派の人ではない」と主は言われました(ルカ18章9~14節参照)。 

ここで、「義とされて」を「正しい礼拝をして」と言い換えることもできます。ファリサイ派の人の礼拝は熱心でしたが、それは人に向けたものでした。しかし、徴税人の礼拝は神に向けたものだったので、神に受け入れられました。

礼拝を大切にしている友よ。あなたの礼拝は、ファリサイ派の人と徴税人のどちらのようですか。礼拝の時、神よりも牧師や兄弟姉妹の方が大きな存在になっていませんか。「この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」(ロマ10章2節)と言われないようにしてください。

22章29節

「今日、主に逆らい、主に背いて、主の幕屋の前にあるわたしたちの神、主の祭壇とは別に祭壇を築き、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物をささげるつもりなど、全くありません。」

ヨルダン川の東側の人々が自分たちの土地に祭壇を造ったのは、神を礼拝するためではなく、人に認めてもらうためでした。現実に、そのようになってしまった神の子たちも多いのでは?

本当の祭壇と礼拝については、パウロの次の言葉が教えています。「その一人の方(イエス)はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(Ⅱコリ5章15節)。

主イエスは、ご自分を十字架に差し出して罪人を救い出してくださいました。それに対し、救われた人はどのように応えるべきでしょうか。それは、自分の命を主イエスに差し出すことです。「自分の体を聖なるいけにえとして献げなさい」(ロマ12章1節)。すなわち、「命には命を…償わねばならない(応えねばならない)」(出21章23~24節参照)のです。

友よ。あなたの「礼拝」は、「神の命とあなたの命の継がりと交わり」になっていますか。ヨルダン川の東側の人々のように、教会や牧師や兄弟姉妹を意識した礼拝になっていませんか。「愛には偽りがあってはなりません」(ロマ12章9節)とあるように、神とあなたの愛が真実でありますように。

22章31節

エルアザルの子である祭司ピネハスは、ルベン、ガド、マナセの人々に告げた。「わたしたちは今日、主がわたしたちの中におられることを知った。…」

祭壇のことで起きた西側と東側の間の風雲は一件落着したかに見えますが、どうなのでしょうか。 彼らの同意は「真理」にではなく互いの「思い」に基づいたものでした。西側の人々は、自分たちに捨てられないために東側の人々が祭壇を造ったことを知って満足し、東側の人々も、西側の人々に受け入れられたことに満足しました。

「愛」と「真理」の関係は、「愛が真理を作る」です。神が御子を遣わされた愛の中に真理があります。「神を愛し、隣人を愛する」ことに人を導き入れるのが真理の働きです。それが逆転し、真理が愛に先行すると、律法主義に陥りやすくなります。

一方、西側の人々が東側の人々の弱さを包んだことは愛ですが、それは真理(神の御心)に沿ったものではなく、お互いの自己満足でした。愛は、神の基準である真理に到達するために仕えるものであることを忘れてはなりません。愛が真理を作りますが、真理がない愛は貧しいものです。

友よ。あなたが誰かを受け入れた愛は、神の御心に適った真理からですか。それとも、自分にとっての都合や利益のための妥協からですか。真理なき妥協という自己愛は、本当の和解と一致を作ることはできません。自分を基準とする妥協の中にではなく、神の愛と真理の中に歩みましょう。

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