キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第23章

23章1節

主が周囲のすべての敵を退け、イスラエルに安住の地を与えてから長い年月が流れ、ヨシュアは多くの日を重ね、老人となった。

ヨシュアは「信仰の勇者」と言われます。世間一般には、若い時に勇者と言われる人は多くいます。しかしヨシュアは、年齢を重ねるごとに勇者と呼ばれるにふさわしい人物になっていったように見えます。

ヨシュアはエジプトで生まれ、四十歳頃にモーセと出会いました。それ以後、「モーセの従者」として四十年間、荒れ野での困難な年月を過ごしました。モーセの後を引き継いだのは八十歳ごろ、その後約二十五年間、カナン征服のためにリーダーとして神に仕え、「多くの日を重ね、老人となった」と記されるこの時は、百五歳前後と思われます。 

人間には、「肉体的・精神的・霊的」の三つの年齢があります。「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず(肉体的・精神的年齢)、活力も失せてはいなかった(霊的年齢)」(申34章7節)。

友よ。肉体的・精神的な年齢と、霊的な年齢の数え方は違います。肉体的年齢と精神的年齢は足し算ですが、霊的年齢は引き算です。なぜなら人は、肉体と精神である「肉の命」が死ぬ(引き算される)ごとに霊的に成長するからです。霊的成長とは、自分に頼らずに「アバ・父よ」と父を信頼しきる信仰です。それは、肉(肉体・精神)に死んで、主に近づき、主の中に生きることです。

23章2節

ヨシュアは、長老…役人を含む全イスラエルを呼び寄せて、言った。「わたしは年を重ね、老人となった。

自分の使命を果たし終えたことを自覚したヨシュアは、全イスラエルに対して告別説教ともいうべき言葉を告げます。まず言ったのは「わたしは年を重ね、老人となった」でした。 

「老人となった」とは、神の子たちには重い言葉です。前項から、「霊的年齢」が高い人とは、自分(肉)が小さくなり、「キリストのみ」になる、成熟した人のことでした。しかし、信仰の成熟は、痛みや悲しみなど、人生の試練を通してつくられるものです。

「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザ46章4節)とあるように、「霊的老人(成熟した信仰者)」は自分の努力によってではなく、主によって実現されます。神を主として歩み成熟した信仰者は、「白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方。御もとには不正がない」(詩92篇15~16節)と確信します。

主に背負われている友よ。青く小さなミカンの実も同じミカンですが、成熟せねばなりません。神の子も最初は小さな青い粒ですが、熟した実(成熟した神の子)になれます。神が導き守ってくださった人生を、「わたしは年を重ね、老人となった」と、ヨシュアのように誇りたいものです。「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(箴16章31節)。

23章3節

…神、主が…、これらすべての国々に行われたことを、ことごとく、あなたたちは見てきた。あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった。

ヨシュアの告別説教の最初は、「神は自らあなたたちのために戦われた」でした。

世にはびこっているもろもろの信仰は、自分の中に目的があり、それを首尾よく実現するために神の存在を持ってくる、すなわち神を利用する信仰です。

聖書の伝える信仰は、神の側に人に対する目的があり、人がそれを知って従うと、人の中に神の御心が神によって成就されることです。

事実、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は、自らエジプトと戦ったから解放されたのではありませんでした。神の中に民を解放する目的があり、だから解放の八十年前からモーセを選び訓練し、エジプトに遣わし、神自ら戦って民を解放しました。

自らが屠られた過越の小羊となって罪を赦し、葦の海を二つに分けて通らせ(復活)、荒れ野で養い、ヨルダン川上流の水をせき止めて渡らせたのも神でした。

友よ。ヨシュアが成熟した信仰の老人となった証しは、「神御自身が私たちのために戦われる」ことを彼が確信していることです。すなわちそれは、神が御子を送り、十字架で罪を赦し、復活の命を与え、昇天してあらゆる権威に勝利し、聖霊を遣わす……という、主イエス・キリストの御業を受け取って生きることです。

23章4節

見よ、わたしはヨルダン川から、太陽の沈む大海に至る全域、すなわち未征服の国々も、既に征服し…くじによって…嗣業の土地として分け与えた。

ヨシュアの最初のメッセージは、「神自らあなたたちのために戦われる」でした。そして次に、「あなたは必ず神の約束を得ることが出来る」と続きました。

ヨルダン川を渡りカナンに入った後、「主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので、彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ。…主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何一つたがわず、すべて実現した」(21章43~45節)とのみことばは、主イエスにおいて成就します。公生涯に歩まれた時の主の最初の言葉は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1章15節)でした。そして、「わたしが来たのは、律法や預言者…を完成するためである」(マタ5章17節)とも言われました。

主イエスの、

① 来臨、② 教え(神の国について)、③ 力ある業(奇跡や癒しなど)、④ 十字架(罪の赦し)、⑤ 復活(神の子の命)、⑥ 昇天(もろもろの権威を打ち破り「主の主、王の王」である事を証明)、⑦ 再臨

神の国はこれら七つのことを通して完成されます。

友よ。主は再臨を残しすべてを実現しました。再臨の主は、罪を赦すためではなく、罪を取り除くために来られます。それまでの間、あなたに分けられた嗣業を信仰の戦いによって守らねばなりません。主は明日にでも来られ、完成されます。「マラナ・タ(主よ、来てください)、アーメン」。

23章6節

だから、右にも左にもそれることなく、モーセの…書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい。

ヨシュアは確信をもって、「神が戦い、神が約束を成就する」と語りました。しかしだからといって、人は指をくわえて見ていれば良いわけではありません。神の約束が実現するためには「従順」と「分離」が必要だとヨシュアは教えます。「従順」とは、まさに冒頭のみことば、「神の言葉に、右にも左にも外れずに従うこと」です。

クリスチャン生活を、空を飛ぶグライダーに例えることが出来ます。グライダーには自分で舞い上がる力もなければ進む動力もありません。グライダーは最初に他力によって空に揚げてもらわねばなりません。そうしてくれるものこそ、主の十字架と復活の恵みです。舞い上がったグライダーは、大空(霊の世界)を聖霊の風の力によって飛ぶことができます。

ただし、そのまま飛び続けるためには、聖霊の風に信頼して羽を伸ばし続ける(信じ続ける)こと、そして風の方向に機体を向けること、すなわち神の導きに対してまっすぐに向かうことが必要です。それは、神のみことばに対して「右にも左にも外れずに」、全身全霊をゆだねることです。

友よ。グライダー同様に、人の中には何の力もありません。神が、罪と肉とサタンの引力から高く引き上げてくださるから、大空を飛ぶ自由を得るのです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザ40章31節)。

23章7節

あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。

ヨシュアは、神の恵みの中を歩むためには「服従と分離」が必要だと言います。愛することには積極面と消極面の両方が必要です。積極面は「服従」で、消極面は「分離」です。

モーセの十戒の、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない(第一戒)」は愛の積極面を、「あなたはいかなる偶像も造ってはならない(第二戒)」は愛の消極面を教えます。

夫婦関係について、ある人いわく、「『相手が望むことをやり、望まないことをやらない』のが良い夫婦。『相手が望むことも望まないこともやる』のが普通の夫婦。『相手が望むことをやらず、望まないことをやる』のが最悪の夫婦」、だそうです。

神は、エネルギーでも法則でもなく、「神(人)格」を持つお方です。一方、人は「人格」を持ちます(ペルソナ=独立した自由意思を持つ者)。自由意思を持つ者同士が愛し合って生きるためには、「服従と分離」が必要です。積極的に神を愛すること(服従)と、神以外のものに消極的になること(分離)、それは一体です。

友よ。あなたは、「服従しても分離せず」あるいは「分離しても服従せず」となっていませんか。服従と分離は一体であり、切り離すことはできません。「愛には偽りがあってはなりません」(ロマ12章9節)。モーセの十戒の第一戒と第二戒は、「神を愛する」という一つの戒めです。

23章8節

今日までしてきたように、ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ。

ここまで声高に語っていたヨシュアは、ここで声を低め、今までの自分と神との関係に確信を得て、「ただあなたたちの神、主を固く信頼せよ」と言ったのでは。これこそ彼が伝えたかったことでした。

「あなたの隣人を愛せよ」とありますが、愛の本質は「排他的」です。なぜなら、「私とあなた」の間には誰も入れることができないからです。夫婦関係は、大きな病気によっては壊れなくても、小さな姦淫によって崩壊するものです。それは、「私とあなた」の間に他者が入ったからです。

「私とあなた」という排他的愛であるからこそ、他者を受け入れられます。一体となった夫婦が子供を真実に愛することができるのは、互いの間に命があるので、子に命を求めないからです。親が子供を命とすることは、子を愛することではなく、子に命を要求することであり、本当の愛とは言えません。

父と御子イエスは愛にあって一つだったので、御子は自分を捨てることができました。それは、父なる神の中に自分の命があったからです。愛するとは、求めないで与えることです。

神を愛している友よ。「神、主を固く信頼せよ」とは、「心から神を愛せよ」です。神の愛の中に入って、神の命に浸れば浸るほど、より隣人を愛せるようになります。それは、すでに神によって満たされているので、他者によって満たす必要がなくなり、他者に与えることができるからです。

23章11節

だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい。

ヨシュアは、「ただ、あなたたちの神、主を固く信頼せよ」と先に語り、今また、「心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」と繰り返しました。「信頼する」と「愛する」、この二つこそ、聖書でいう「信仰」を一番的確に表している言葉です。

「あなたの信仰があなたを救った」・「信仰が無くては神に喜ばれない」・「信仰によって義としてくださる」・「信仰によって得られる喜びと平和…」・「信仰によって歩んでいる」……などのみことばから、信仰が神と人を繋いでいることが分かります。

「信仰によって救われる」とありますが、「救い」とは何かを明確にすることによって、信仰の大切さが分かります。救いとは、「あなた(父)がわたし(主イエス)の内におられ、わたしがあなたの内に居るように、すべての人を一つにしてください」(ヨハ17章21節)と主イエスが言われるとおりになることです。父と御子と聖霊の三位一体の中に入ることが救いです。

救い(神との継がりと交わり)の中に入る第一段階は「知る」という作業です。次は「信じる」ことですが、「信じる」とは知的同意のことです。「あの人は良い人である」と理解するだけでは結婚できません。結婚は相手に自分を「ゆだねる」ことで成立します。救いとは「一体となる」ことであり、「ゆだねる」ことです。

友よ。信仰によって救われるとは、神に自分を「ゆだねる(=信頼する=愛する)」ことです。

23章14節

わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。

ヨシュアは、神から与えられている時を知っています。だからこそ、最後のメッセージを伝えています。神の子の最期はどのようにあるべきでしょうか。

クリスチャン作家の三浦綾子さんが、「私には死ぬという仕事が残っている」と言ったそうです。それは、肉体的生命の終りを待つ以上に、人生の総仕上げをする「死」という仕事がある、とも受け取れます。死ぬという仕事とは、罪人を救い、命を与え聖別し、生きる目的を与え、天国への道を歩ませ、そして自分を迎えてくださるお方が真実であることを証しすることではないでしょうか。

ある人は、過去と今から未来を見ます。別の人は、未来も過去も見ずに今だけを見ます(刹那的)。しかし、最も良い見方をしているのは、神によって過去・現在・未来を見ることができる人です。その人は聖書を通して万物の創造者を知り、人を知り、聖書の登場人物の生き様を見ます。そして、彼らの生き方を自分に重ね合わせて神と自分の関係を知り、彼らの行き先を見て自分の行くべきところを確信し、備えます。

友よ。死期が近づいたヨシュアに迷いはありません。そのヨシュアはあなたでもあります。「すべての者がたどる道」はすでに始まっています。最後の仕事、「死ぬという仕事」を完成するために今日を歩んでください。

23章15節

あなたたちの神、主が約束された良いことがすべて、あなたたちに実現したように、主はまた、あらゆる災いをあなたたちにくだして、主があなたたちに与えられたこの良い土地からあなたたちを滅ぼされる。

ヨシュアの告別説教には、過去の歴史、現在の姿、将来への希望や励ましが含まれています。そしてそのすべては、「『あなたがたが』ではなく『神、主が』である」と語っています。

あるクリスチャン・カウンセラーが言いました。「神なきカウンセリングのもどかしさは、『義と罪と裁き』の基準を明確にできないので曖昧になり、決定的な解決を見つけることができないことである」と。

まさに、「その方(聖霊)が来れば、罪(主を信じないこと)について、義(復活と昇天)について、裁き(世の支配者の断罪)について、世の誤りを明らかにする」(ヨハ16章8節)とあるそのことです。

教会は、人から見た神については語りますが、神から見た人について語ることには弱腰になります。それは、「福音は恵みであり、裁きではない」との先入観があるためと思われます。しかし、罪と義と裁きの三つあってこそ命の福音になり、どれかが欠けると真理から外れます。

友よ。ヨシュアは、「追い払ってくださる…、立ちはだかる者はいない…」と言いますが、同時に、神を主としないならば「この良い土地からあなたたちは滅ぼされる」と、裁きについても告げます。「愛に根ざして真理(裁きも含む)を語る」(エフェ4章)ことが、真に相手を愛することです。

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