キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第3章

3章1節 ①

「ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。

イスラエルの民は、エジプトを出てから四十年間を過ごした荒れ野での生活に終わりを告げようとしています。民は、ヨルダン川を渡るために川岸に野営し、最後の準備をしました。

出エジプトの時、民は葦の海を渡りました。それは水のバプテスマ(洗礼)を表し、「イエスを主」と信じる信仰の告白でした。洗礼によって、世の君主ファラオと死の支配から解放され、神の子の命を持つことができました。それは原罪からの救いでした。しかし聖書は、神の子であるだけで良しとはせず、「そこからヨルダン川を渡り、約束の地へ行け」と次の課題を与えます。それは、「聖霊に満たされ、聖霊によって歩め」との命令です。なぜならば、神の子の命を持っていても、主イエスが備えた恵みによってではなく、肉によって歩んでいるからです。

パウロは、神の子となりながら、長年肉の力に苦しみ、「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。…自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」と告白しました。しかし、肉との格闘の末、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」を知り、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを神はしてくださった」と勝利の叫びを上げました(ロマ7章13~8章11節参照)。

友よ。神はこの恵みをあなたにも与えてくださいます。川岸にとどまらず、先に進みましょう。

3章1節 ②

「ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。

ヨルダン川、それは「聖霊の満たし」を表していました。この川を渡らないと嗣業の地に入ることはできません。神はそれぞれに嗣業の地を用意しています。

人に与えられた嗣業とは、家族、職場、地域なども含みますが、何よりもそれは、「聖霊の満たし」のことです。ただし、「聖霊の満たし」(ガラ5章16~26節・エフェ5章15~20節など)と「聖霊の賜物」(Ⅰコリ12章・エフェ4章など)は最初に分けて考えねばなりません。

聖霊の満たしとは、「霊の結ぶ実」(ガラ5章22~23節)のことであり、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」(ガラ4章19節)こと、すなわち「主イエスの御人格を持つこと」です。

一方、聖霊の賜物とは「主イエスの能力を持つこと」とも言えます。聖霊の賜物は人によって異なりますが、聖霊の満たしはすべての人が得なければならない嗣業の地です。

友よ。これから行って獲るものは、さらに大きな賜物や素晴らしい出来事だ、などと考えないでください。ヨルダン川の東で持っていたのは「大きな自分と小さなキリスト」でしたが、これから獲るものは「小さな自分と大きなキリスト」です。 聖霊の賜物は時に人を大きく(高慢に)しますが、聖霊の満たしはいよいよ人を小さくし(へりくだらせ)、「キリストのみ」の信仰者にさせます。

3章3~4節

民の役人は…民に命じた。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。」

ヨシュアは、ヨルダン川を渡ろうとする時、「主の契約の箱が動き出したら後に続け」と民に命じました。最初に行くのは強靭な兵士たちではなく、契約の箱でした。

「初めに言があった、言は神と共にあった。言は神であった。…万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハ1章13節) これこそ、真理の確信です。そして、「言(存在者・神)」は、今は神の言葉として「聖書」を通して理解されています。すべてのことは、みことばを通して、みことばによって、みことばどおりになります。聖霊の満たしを得るときにも、自分の要望や体験や行いを先に持って来てはなりません。あくまでもみことばを先立て、その後に従わねば、聖霊の満たしを得ることはできません。

ある説教者が、「神の最大の恵みはみことばであり、神の最大の奇跡は、人の知識と理性が聖霊とみことばによって変えられることである」と言いました。信仰生活において、聖書全体の真理を理解することは、いやしや不思議な業を体験する以上に大事なことです。

みことばを持つ友よ。あなたはそのみことばをどこに置いていますか。後ろ(自分が神よりも先)ですか。横(神と自分が同列)ですか。それとも前(神に導かれる)ですか。今日も「言葉(聖書)」によって「言(主イエス)」の後に従ってください。

3章4節

「契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、…一度も通ったことのない道であるが…行くべき道は分かる。」

ヨルダン川を渡るために契約の箱が先立ちますが、契約の箱とそれについて行く民の間に二千アンマの距離をおくように、と命じられました(一アンマは大人の肘から中指の先まで。約四十五センチメートル)。契約の箱はもっとも大事な神の御臨在のしるしですから、民の真ん中に置くべきなのに、九百メートルも先を進むことになります。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言います。箱根の山道は人の努力で越えられますが、大雨で増水した大井川には人の能力は通じません。イスラエル人がヨルダン川を渡ってカナンを征服することも同じです。パウロが、「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、『霊』によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(ガラ3章3節)と言ったように、律法の行いも道徳も、知恵や知識も健康も役には立ちません。それは、神の御業によってのみ可能です。

契約の箱から九百メートルも離れてついて行くことは、カナン征服が徹底的に神の御業であること、そして神に先立っていただく以外に勝利する方法はないことを教えています。

友よ。人生の困難に立ち向かうことは、「一度も通ったことのない道」の経験です。しかし、自分が先に進むのではなく、主に先に進んでいただくことができます。主はここで、「私をあなたの先に立てよ。私があなたの道を開き整えるから」と言っているかのようです。

3章5節

「ヨシュアは民に…「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」

イスラエルの民がカナンに入るのは、聖霊に支配され聖別された者になるためでした。しかしヨシュアは、今この時に自分を聖別せよ、と言います。ここで彼が語る聖別とは何のことでしょうか。

神はダビデを選び、ダビデは神に応え祝福を得ました。しかし、神に選ばれた人すべてがダビデのように祝福されるわけではありません。その違いは、「自分自身を聖別せよ」の中にあります。ただし、人が自分で自分を聖別することは不可能であり、聖別する力は聖霊にのみあります。

ダビデは王になってからも数々の罪を犯し、主に責められますが、それでも祝福の場に戻されました。彼は過去を振り返り、「私は主に対して無垢(潔[きよ]い者)であろうとし、罪から身を守る。主は私の正しさ(潔さ)に応じて返してくださる。御目に私は清い(潔い)」(サム下22章参照)と言いました。

彼が祝福されたのは、彼が「聖(きよ)い者」になったからではなく、「潔(きよ)い者」になれたからでした。潔い者とは、「私は常に主を私の前に置く」(詩16・8 口語訳)人のことです。

友よ。神の祝福は「潔(きよ)さ」に応じて与えられます。この潔さとは、神を主として生きる潔(いさぎよ)い決意のことです。ヨシュアが、「あなた方はこれから神によってのみ進むことを決意せよ」と言ったのは、「潔(きよ)い者になって生きよ」という意味でもありました。「潔い者」になって、神に「聖い者」にしていただいてください。

(注)(  )内は筆者加筆

3章8節

「あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」

契約の箱を担いだ祭司たちは川の中に入り、川の中にとどまらねばなりませんでした。その理由は、ヨルダン川の水流をせき止めるためだと後で分かります。

出エジプトの時は、葦の海の海底を歩きました。今回は水が止まったヨルダン川の川底を歩いて渡ります。海と川の底を通ることは、物理的な現象を超え、「水の中」を通ること、すなわち「死」を意味しました。「…知らないのですか。

キリスト・イエスに結ばれて洗礼を受けたわたしたちは皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(ロマ6章3~4節)。かつて葦の海を渡ったのは、アダム以来の神から離れている罪(原罪)に、主の十字架によって死ぬためでした。そして、これからヨルダン川を渡るのは、神の子となってもなお肉に生きている古い自分が死んで聖別されるためです。

葦の海を渡り終え、ヨルダン川と向き合う友よ。先に川に入ってその中にとどまるのは、あなたではなく祭司たちであり、大祭司キリスト御自身です。それは、神に遣わされてゴルゴタの十字架につかれた主の姿です。主は今も、あなたの肉の力を無力にするために十字架上にとどまり、肉の激流をせき止めてくださっています。十字架はただの二千年前の出来事ではありません。主は今なお十字架上にとどまって、罪と肉の力を無力にしてくださっています。

3章10節

「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人…ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださる…」

ヨシュアは、不安を持つ民に向かって、「これから入って行くカナンには七つの民族が住んでいるが、それを神は完全に追い払ってくださる」と言いました。

イスラエルの民の敵である7つの民族とは、現代においてはどのような敵なのでしょうか。それは、「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴…」(ガラ5章19~21節)と言われるものです。

神を信じる者は、神の子の命と肉の命を持ちます。それは、自由の女(福音・主イエス)から生まれた子(神の子)と、奴隷の女(律法・両親)から生まれた子(人の子)とも表現されます(同4章21~31節)。両者は自分が跡継ぎになろうと争います。そして両者が戦う時、勝利するのは肉の子です。神の子の命が勝利する方法はただ一つ、肉の命を小さくすることです。これが霊の戦いです。

友よ。救われる前のあなたの中に狼(肉の人)が住んでいました。救われた時、羊(神の子)も同時に住み始めました。霊の戦いとは、あなたが狼と羊のどちらにエサを与えるかです。狼にエサを与えると肉の命が強くなって羊が弱り、羊にエサを与えると神の子の命が強くなって狼が弱ります。エサを与えるとは、同意することです。神の小羊イエスへの信仰(エサを与える)によって、小羊が勝利を収めてくださいます。

3章13節

「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」

この時のヨルダン川は、一年で最も水かさの多い時期でしたが、「祭司たちが川に足を入れれば水はせき止められる」と言います。その逆巻く大水は、どこでせき止められたのでしょうか。それは、「はるか遠くの…隣町アダムで壁のように立った」(16節)と記されています。アダムと呼ばれる町、その場所こそゴルゴタでした。

罪に落ちた人類(アダム)に、神は救いの最初の宣言をなさいました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創3章15節)。

これは、「人類が何代も経過したある時、アダムの子孫のイエス(彼)が現れてサタン(お前)と戦う。イエスはサタンを完全に打ちのめし(頭を砕き)、サタンはイエスにしばし立てないほどのダメージを与える( かかとを砕く)」という意味だと理解できます。神の国の自由に入ろうとする者を阻む激流こそ、神の子に挑む肉の力です。

友よ。霊に生きようとするあなたを襲う「肉」の激流は、ゴルゴタの主イエスの十字架によってせき止められています。と言うより、これらの激流(裁き)は十字架の中に吸い込まれています。それは、主が私たちの罪と咎と肉を引き受けられたので、そこに向かって裁きと死の激流が流れ込んだからです。あなたへの裁きと死は、十字架で消されます。主に感謝せよ!

3章15~16節

箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、…隣町アダムで壁のように立った。

人が神の国へ渡ることを阻む「肉」の大洪水を、イエスが十字架上で身代わりになって飲み込まれたので、川の水は干上がりました。この激流がせき止められたのは、祭司たちがヨルダン川に足を踏み入れた時でした。

神を信じることと結婚には、「ゆだねる」という共通点があります。異性を好きになっても、結婚するまでは相手と共に生活することはできません。同じように神も、人から「あなたを信じる」と告白されるまでは、遠くからかかわる以上のことはできません。

告白とは相手に発行する許可書であり、許可されてこそ相手に深くかかわれるようになります。「結婚します・信じます」は最初の一歩ですが、次に両者に必要なのは、「従う」という行動であり、それが相手を愛することです。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」(Ⅰヨハ5章3節)。この「掟を守る」とは「従う」ことであり、「ゆだねる」ことです。

友よ。あなたが肉に死んで霊に生きる決意をしたならば、次は目の前の激流に足を踏み出しましょう。それは、「あなたの私への願いを実現してください」との許可書の発行です。「従い、ゆだねます」と、あなたの信仰の足を一歩踏み出してください。パウロは、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していた…」(ロマ4章21節)と言い、さらに、「偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました」(テト1章2節)とも言いました。

3章17節

主の契約の箱を担いだ祭司たちが…川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

祭司たちが川に足を踏み入れた時、ヨルダン川の水は干上がり、彼らが川の真ん中にとどまっている間に、人々は川を渡り終えることができました。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コへ3章1節)と伝道者は言いました。たしかに、祭司たちが「川床に立ち止まって」いた時に川底を渡れたのであって、契約の箱が陸に上がってからでは遅すぎます。それでは、神は一定の期間だけ川床に立たれ、時が過ぎれば川床からいなくなってしまうのでしょうか。

「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブ13章8節)から、主が十字架(川床)から離れられることはありません。ただし、私たちがイエスから離れることはいつでも可能です。

「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」、さらに、「今日という日のうちに、日々励まし合いなさい。わたしたちは、最初の確信を最後までしっかり持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」(ヘブ章7~15節参照)と聖書は教えます。

友よ。ヨルダン川を渡ることは、人の業ではなく主の御業です。それは、みことばを示された時、精一杯応えようと生きることです。その時、あなたは川床を歩いて(十字架について)いるのです。

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