キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第5章

5章1節

ヨルダン川の西側にいる…王たちは皆、…主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸らして、彼らを渡らせたと聞いて、心が挫け、…

ヨルダン川西岸の人々は、荒れ野に四十年もいたイスラエルの民が川を越えてやって来たことを聞き、心が挫けました。ヨルダン川の水かさの多い時期に、男ばかりか女子供まで渡れるとは、彼らには信じ難いことだったのでしょう。そして彼らは、イスラエル人が川を渡れたのは彼らの神の御業だと信じ、神を恐れました。

聖書全体のメッセージは、「神は唯一の神である。その神は今も生きている」です。それをエレミヤは、「『わたしは生きている』と主は言われる」(エレ22章24節・46章18節)と一言で表しました。

それでは、唯一の主が生きていることを、未信者はどこに見るのでしょうか。その最初は、神を信じない者が葦の海を渡り、神の子となった姿です。次は、その者がヨルダン川を渡った姿です。前者は人が新しい命を持った姿であり、後者はその命によって生きている姿です。前者は一時の出来事ですが、後者はその後の継続した歩みです。特に、自我から解放され、神の命によって愛に生きる姿によって、神が生きていることを人々は見ます。

友よ。現象としての奇跡もありますが、それはさらに内にある霊の奇跡を表す手段です。最大の奇跡は、あなたの自我が砕かれ、主の霊で生きるようになることです。自己中心の人から愛の人に変えられることです。ヨルダン川を渡った証こそが、人々に主を畏れさせます。

5章2節

そのとき、主はヨシュアに、火打ち石の刃物を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施せ、とお命じになった。

ヨルダン川を渡って敵地に入り、今は戦いの準備に集中せねばならない時なのに、ヨシュアは民に、もう一度割礼を施すよう命じました。エジプトを出た後に生まれた者たちは、無割礼のままだったからです。

割礼は、「あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取る」(創17章10節)という契約でした。「肉体的しるし」が大事なのではなく、「霊的しるし」を表現するために、割礼が必要でした。それをパウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく〝霊〟によって心に施された割礼こそ割礼なのです」(ロマ2章28~29節)と明言しました。

男の子の包皮を切り取る割礼の意味はなんでしょうか。それは、「肉の命を伝えない(切る・死ぬ)」ことであり、「私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ2章19~20節)ということを表します。

友よ。霊の割礼は、老若男女すべての者への命令です。戦うための最大の備えは、「最速(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(文語訳)という、「肉(自分)に死に、霊(神)に生きる信仰」という割礼です。

5章5節

出て来た民は皆、割礼を受けていたが、エジプトを出た後、途中の荒れ野で生まれた者は一人も割礼を受けていなかったからである。

割礼は、信仰の告白であり、献身の告白でもありました。出エジプトの時、民は家の門柱に血を塗り、過越の食事をしましたが、これこそ霊的割礼でした。荒れ野での四十年間に多くの子供が生まれましたが、彼らの信仰は親の信仰に便乗した「習慣信仰」になっていました。

クリスチャン二世は、神の財産を受け継ぐ「長所」を持ちますが、人(親)の罪を見る「短所」に戸惑います。イサクは典型的な信仰二世でした。彼は、掘った井戸をめぐって他民族との間に争いが生じる度に、そこから離れて別の井戸を掘り当てました。彼はどこに水(神の命)があるかを知り、その掘り方(信仰)を見て育ったゆえの長所(恵み)を持っていました。

ヤコブの子供たちは、神と出会いながらも多くの妻を持つ父の姿に、神を知っているだけに一層厳しい裁きの目を向けました。やがて父への反発から、兄たちは弟殺しを計画するまでになりました。彼らは、クリスチャンなのに罪に生きる親の姿に失望して神を退けるという短所(罪)を身に着けました。

しかし友よ。親がどうであれ、最終的には個人個人の責任に行き着きます。親の罪の中に自分の罪を隠してはなりません。さあ、今日、今からでも、すべての事情をおいて、「自分はイエスを主としているか」を問い、ここから歩き始めてください。

5章6節

イスラエルの人々は荒れ野を四十年さまよい歩き、その間にエジプトを出て来た民、戦士たちはすべて死に絶えた。彼らが主の御声に聞き従わなかったため、

民は、エジプトを出て荒れ野で四十年生活し、ヨルダン川を渡りカナンに入りました。しかしこの時、出エジプト時に成人していた者は荒れ野の四十年の間に皆死んだことが記されています。

荒れ野で死んだ人々を、「彼らは神の子になったが、肉に生き、聖別の生活に失敗した(死んだ)」と読んでみてはどうでしょうか。それらのことを、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、…『霊』によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(ガラ3章1~3節)「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」(ヘブ6章2節)と、聖書のみことばが教えています。肉から霊に、初歩から成熟に進めなかった者たち。彼らは「肉と初歩」で生きてしまい、「霊と成熟」には死んだ状態でした。

 「…あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別だ」(民14章30節)とモーセは誓いました。この例外の二人は、霊によって歩む成熟した者たちでした。

主に贖われ、神の子となった友よ。多くの信仰の友人たちは、聖霊に支配されて生きるカナンに入れず、肉に従って生きる、荒れ野にとどまったままの死者のようです。あなたはすでに「原罪」の罪と死に打ち勝っているのですから、この世の勝利者にもなってください。

5章7節

ヨシュアが割礼を施したのは、神がその代わりにお立てになった彼らの息子たちであって、途中で割礼を受ける折がなく、無割礼だったからである。

ヨルダン川を渡った歴史は、単なる史実を超え、神の子の大事な霊的成長の歴史でもあります。

聖書には、水のバプテスマ(洗礼)と聖霊のバプテスマが記されています。水のバプテスマは「信仰告白」を表し、聖霊のバプテスマは「聖霊の満たし」を強調します。「聖霊のバプテスマ」と聞いて、「聖霊の賜物」と同一視してはなりません。「聖霊の賜物」とは「神の能力」のことですが、「聖霊のバプテスマ」は、「浸す・満たす・支配する」の意です。「賜物」は神の能力にかかわり、「満たし」は、神によって作られる人格を表します。

聖書が教える、ヨルダン川を渡ったことの表現や霊的立場は、「聖霊のバプテスマを受けた」がより正確です。それは、「肉に死に、霊に生きる」、すなわち「聖霊に満たされ=聖霊に支配される」ことだからです。

友よ。あなたは信仰告白(水のバプテスマ)を終えました。それでは、ヨルダン川を渡る「聖霊のバプテスマ」の体験はありますか。それは、異言や預言やいやしなどの「聖霊の賜物」を持つことではなく、聖霊に支配されることです。「満たされ、支配される」とは、神に自分を明け渡す「献身」のことです。献身は、特定の人だけでなく老若男女だれにでも求められることであり、だれにでもできることです。献身とは、「イエスを主として今日を生きる」ことです。

5章9節

主はヨシュアに言われた。「今日、私はあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。」そのために、その場所の名はギルガルと呼ばれ…る。

民がヨルダン川を渡り宿営した所はギルガルと呼ばれました。それは、エジプトでの恥辱から完全に解放されたことの記念の地ともなりました。それでは、エジプトでの恥辱とは何でしょうか。

  • 神の民なのに、人の奴隷としてファラオに支配されたこと
  • 神との関係で生きる羊飼いの人生から、この世に這いつくばって生きるレンガ作りの人生になったこと
  • エジプトで死ぬ=土に帰るだけの者になったこと

モーセに導かれて、恥辱に閉じ込められたエジプトから荒れ野へと移されましたが、しかしそこにはまだエジプトが残っていて、民を誘惑しました。

  • エジプトを慕う…神の国も、この世なるエジプトも
  • エジプトの食物を慕う…マナも、この世の食物も
  • 金の子牛を慕う…主なる神も、エジプトの御利益神も

信仰の成長は、赤ちゃんから一気に大人に、とはなりません。必ず通らねばならない過程があります。霊的成長過程は省けませんが、速く通り過ぎることはできます。子供から大人になる時に必ず通る霊の過程の大事なポイントは、ヨルダン川を越す経験を何度も積むことです。

友よ。あなたの信仰生活に、エジプトの恥辱を拭い去るギルガルはありますか。ギルガルは一度の経験ではなく、日々そこに戻り、また出発する所です。今日もギルガルに戻ってください。

5章10節

「イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。

イスラエルが川を渡りギルガルに落ち着いた時、彼らは過越の祭を執り行いました。イスラエルの歴史の中で、過越の祭は民が生きる核心でした。

ノアは箱舟を出て祭壇を築き、獣を「焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた」(創8章20~21節)。アブラハムも、「祭壇を築き、主の名を呼んだ」(12章8節)。イサクも、アビメレクの迫害を避けて井戸を掘った所で祭壇を築きました。この祭壇こそ、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは私の体である。…この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である…』」(Ⅰコリ11章23~26節)と言われた、最後の晩餐でした。

「人は、神の栄光のために生きる」とは、「人は、神を礼拝して生きる」でもあります。礼拝こそ神と人の正しい関係であり、そこで人は守られ、育まれ、満足し、愛し合い、完成されます。

友よ。初代教会では、「使徒の教え(みことば)、信徒の交わり、パン裂き(礼拝)、祈り」の四つが信仰生活の柱でした(使2章42節参照)。その礼拝の中心は、罪の赦しと復活を記念する聖餐式です。神の子の生活の中心は礼拝であり、礼拝の中心は聖餐式であり、聖餐式の核心は十字架と復活です。教会の礼拝で聖餐を毎回受けられなくても、あなたの心の中で聖餐式を毎日行うことはできます。今日も聖日(礼拝日)を守ってください。

5章12節 ①

「彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、…人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。

カナンの地に入って最初に変化したのは食物でした。四十年間食べ続けたマナから、その土地の食べ物に代わりました。食の変化は命の変化であり体の変化です。

子供には離乳食が必要ですが、大人には固い食物が必要です。神の子にも、「乳」を飲む者と「固い食物」を食べる者がいます(ヘブ5章11~14節参照)。

幼子はマナという乳を飲みます。マナは自分で働いて収穫したものではなく、毎朝集めに行くだけで食べられるものでした。それは恵みを受けるだけの信仰です。メッセージを聞くだけ、祈ってもらうだけ、証しを聞くだけ……という具合に、他者を通して神の恵みを受け取る信仰です。もちろん、信仰の初歩ではそれで十分ですが、いつまでも乳信仰(恵み信仰)では困ります。

「固い食物を食べる」とは、神の恵みを、他者を通してではなく自分の信仰によって得ることです。みことばを自分で読み、自分で祈り、自分の全存在をもって主に従おうとすることです。みことば、礼拝、集会、祈りを自分の歯で噛んで、もっと多くの栄養を取り入れれば、さらに強くされます。

友よ。あなたの食事は「乳」と「固い食物」のどちらですか。自分を認めてくれるみことば(食物)と、罪を示し服従することを求めるみことば(食物)の、どちらを求めていますか。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」(同14節)。

5章12節 ②

彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、…人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。

民が神に導かれて経験したことは、食物の変化一つとっても、歴史を超えた神の大切なメッセージです。

信仰の成長において、「荒れ野=肉の人」「マナ=乳を飲む幼子」の段階にある人は、主イエスの十字架までで止まっている人、とも表現できます。十字架は神の子にとってかけがえのない大切な恵みですが、そこまでで止まる人は、親に一方的に愛されるだけの子と同じです。その人は、真理ではなく同情を求めます。真理は神を求め、同情は人を求めます。その人は、神から愛されること(赦し・主の十字架)だけを欲し、神を愛する(神に従う・自分の十字架を負う)ことはしません。

「カナン=霊の人」「小麦や野菜=固い食物を食べる大人」の段階にある人は、十字架を受け取り、復活の命で歩む人です。肉の人はこの世からの同情という食物を求め、霊の人は神に真理の食物を求めます。聖霊に満たされた人の最大の特徴は、みことばを求めることです。

友よ。幼子と大人の差は、「十字架までか、それとも復活まで進むか」にあります。罪の赦しの十字架から、神の命に生きる復活までの間にあるのが、ヨルダン川なる「自分の十字架を負うて我に従え」に集約される言葉です(主はこの意味の言葉を四福音書で五回語られました)。原罪(悪性腫瘍)にも肉(良性腫瘍=死に直結しないが弱くする)にも、必要なのは塗り薬ではなくメスです。

5章13節 ①

ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。

ヨルダン川を越えた皆は一息つきますが、指導者ヨシュアは休めません。彼の頭と心は今後の戦いのことでいっぱいになっています。彼は皆から離れ、エリコの城壁の見える所に来ていました。

エリコとの戦いに勝てば民は力強くされ、その後の戦いにも勢いがつくでしょう。しかし、苦戦して長引けば、背後で見ているカナン人、ヘト人、ヒビ人たちが襲いかかってくるかもしれません。敗北すれば、民は荒れ野に追い返され、分裂し、エジプトに戻って行くことすらありえます。何よりも戦争ですから、死者や負傷者といった犠牲の大きさも考えねばなりません。

聖書は、「彼が目を上げて」と記します。困難に出会う時、ある人は「下(自分の足・自分の能力と自責)」を見て失望します。別の人は「横(人々・世間の常識)」を見て妥協します。しかし、信仰の人は「上(神・神の御心・御業)」を見ます。その人は、「抜き身の剣を手にした一人の男」を見ます。彼こそ、主イエスです。

友よ。あなたはどこに目を注ぎますか。「彼が目を上げると」とは、ヨシュアが自分から神に目を上げたことを教えています。カナンに渡ったあなたは、もっと自分から神に目を上げるべきです。神の恵みを待つ時もありますが、求めて出て行く時も必要です。主はあなたが御自分に目を上げるのを待っています。

5章13節 ②

ヨシュアが歩み寄って、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると、彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」

この剣を持つ強靭な男は、イスラエル人なのか異邦人なのか、何よりも味方か敵か、ヨシュアは最初にそれを確かめました。そのお方は「主の軍の将軍」と即答し、ヨシュアの味方をするために、しかも戦いの長として来た、と宣言しました。

しかし、「今、着いた」とも言いました。それではなぜ、エジプトを出てすぐに将軍として指揮を執ってくれず、今になって来たのでしょう。

このお方は神ですから、荒れ野の四十年間も共にいましたが、民にはこのお方が見えていませんでした。ただし、荒れ野では、彼らの味方ではなく敵でした。主が持つ剣は、民の内側にある肉に向けられる「律法」という剣でした。しかしもちろん、律法の剣は裁きの剣ではなく、肉の姿を知らせ、肉から霊に導く剣でした。

私にも同じ将軍を送ってくだされば、と思う友よ。実は、あなたのところにもすでに将軍は来ています。もちろん、そのお方は主イエスです。主は抜き身の「みことばの剣」を持っていますが、あなたが求めていた主は、優しい主、剣を持たない主だったのではありませんか。だから、剣を持つ主を見過ごしていたのでは。主の剣は、最初に人の内側(肉)に向けられます。主なる将軍は、最初にあなた自身を解放し、次に外側の敵と戦ってくださいます。

5章13節 ③

彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」

ここに現れたお方は、「主の軍の将軍」と名乗りました。すると人々は、これで百人力、いや勇気千倍、これ以上の心強い助け手はいない、と思い込むものですが、このお方はそのような助け主なのでしょうか。神と人の関係で、とても間違えやすいのがこの事です。まず、「主の軍」とは何でしょうか。

エリシャの時代に、彼のいる町がアラムの大軍に包囲されました。エリシャは、恐れる従者に、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者よりも多い」と言いました。それはイスラエル軍ではなく、主の軍隊のことでした。そしてエリシャが、「主よ。彼らの目を開いて見えるようにしてください」と祈った時、エリシャを囲んでいる「火の馬と戦車」がアラム軍に見えました。そして、主の軍隊はアラム軍をサマリアに連れ戻しました(列下6章参照)。

この将軍なるお方は、弱いイスラエル軍を助けるお方ではなく、主の軍と共に自ら戦われる将でした。もちろん、主の軍隊の将軍は、イエス・キリストです。

友よ。信仰の戦いは、あなたが神の力で強くされて戦うのではなく、神自ら戦ってくださるのです。「城門よ、頭を上げよ。とこしえの門よ、身を起せ。…強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」(詩24篇9~10節)が、自ら十字架で罪と戦い、復活の命で死の門を打ち破って、あなたを天国へ入れてくださるのです。

5章15節 ①

ヨシュアは…彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」

ヨシュアは主の軍の将軍と出会い、勇気を得ました。そこで彼は、これから自分がどうすべきかを将軍から聞こうとしました。

おそらく、彼が万軍の将から聞きたかったことは、具体的な戦略や武器のことだったのでは。それを現代の教会に当てはめるならば、どのように教会を組織化し、礼拝や祈祷会の人数を増やし、十分の一献金を履行させ、ビジョンを実現させるか……などについて尋ねるようなものです。

しかし、これらはハウツー(方法論・対症療法)であり、本質論とはほど遠いものです。これらは教会の命を活性化させるどころか、むしろ弱らせます。聖書が語る命の法則は、「命が形(組織・人数・財政・奉仕者…)を造る」であって、「形が命を造る」ではありません。

主の軍の将軍は、戦う方法も武器も教えず、本質論(「あなたの足から履物を脱げ」)を教えました。霊の戦いとは、「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」(詩20篇8節)ことであり、勝利とは、戦われる主の中にヨシュアが入ることでした。

ヨシュアなる友よ。あなたが今まで履いてきた履物(方法・経験・能力)によってではなく、むしろそれを脱ぐことによって勝利を得てください。それはあなたが、自分の命ではなく主の聖なる命の上に立つことです。

5章15節 ②

「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」

「履物を脱ぐ」行為は、聖書の中で繰り返される大事なことです。聖書に登場する多くの人物が、履物を脱ぐ(脱がされる)経験をしました。

  • モーセは、燃え尽きない柴を見たとき、「モーセよ、モーセよ。…ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。ここは聖なる土地だから」(出3章4~5節)との声を聞きました。
  • エサウとの再会を前にしたヤコブは、ヤボクの渡しにてある人と組み打ちし、腿の筋を外されました。このことは、自分の履物を脱がされ、聖なる場所に立たせられた経験でした。
  • ダビデは、息子アブサロムに王位を奪われ逃げました。それは、彼が自分の履物を脱ぎ、聖なる場所に立つために必要でした。

「あなたの履物を脱げ」とは、「今までの生き方、考え方、経験、すなわち肉に頼る歩みを捨てよ」とのメッセージです。それを履いたままでは、神の「聖なる場所」で、すなわち神の中で生きることができないからです。

自分の履物で歩こうとする友よ。「二人の主人に仕えることはできない」(マタ5章24節)とのみことばを聞いてください。先に述べたように、「履物」とは、今までの生き方、考え方、経験のことであり、その本質は「あなたの命」です。肉によってではなく霊によって生きるために、肉に死ぬ(履物を脱ぐ)ことが必要です。

5章13~15節

ヨシュアは、「目を上げて」…「歩み寄って」…「ひれ伏し」…「聞き(何をお言いつけに…)」…「そのとおりにした」。

主は、「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」(ルカ6章40節)と言われました。まさに、モーセの従者ヨシュアがそうなった人です。

① 「目を上げて」

あらゆることよりも、神に目を上げるべきです。すると神は、キリストという王の王、主の主なるイエスを示してくださいます。

② 「歩み寄って」

神は愛なるお方ですから、人の人格を重んじ、勝手に人の心の戸を開けることはしません。許可を得たうえで、御自分の御業を行われるお方です。

③ 「ひれ伏して」

神は人の同意(信仰)によって御業を行いますが、神と人は対等ではありません。イエスを主とする者が、だれよりも喜ばれます。

④ 「聞き」

信仰とは、自分の願いを神に押しつけることではなく、神が私に願うことが実現されることです。よって、信仰は、主の言葉を聞くことから始まります。

⑤ 「そのとおりに」

神は人に手紙を送り、受け取ったその手紙を信じて実行する者と共に歩まれます。神の御心に従って行動してこそ、現実の出来事となります。

友よ。モーセの従者はヨシュアであり、ヨシュアの従者はあなたであることを信じますか。「私の子テモテへ。…預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい。信仰と正しい良心をもって」(Ⅰテモ1章)

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