キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第6章

6章1節 ①

エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、誰も出入りすることはできなかった。

川を渡ったすぐ目の前を、エリコの城壁が塞いでいました。ここから、エジプトから出る戦いとも、荒れ野からヨルダン川を渡ってカナンに入るための戦いとも違う、新たな戦いが始まります。

エジプトから出る戦いは、世の支配から脱出する、ファラオから真の神を主とする、死から命へ移る戦いでした。荒れ野からカナンに入る戦いは、アマレク(肉)に代表される古い人・肉との戦いでした(出17章参照)。どちらの戦いも、「水の中(葦の海・ヨルダン川)を通る=主イエスの十字架につく死」によって勝利できました。それでは、これからは何によって戦うのでしょうか。

それをパウロは、「主に依り頼み、その偉大な力によって」と言い、そのために、「真理の帯…正義の胸当て…平和の福音の履物…信仰の盾…救いの兜…霊の剣」(エフェ6章10~17節参照)といった神の武具を身に着け、神の武器をもって戦うのだ、と教えます。

ところで、友よ。勘違いしないでください。これらの武具や武器であなたが戦うのではありません。あなたには何の力もありません。真理の帯・正義の胸当て・福音の履物・信仰の盾・救いの兜・霊の剣なるみことばなどの、神が備え与えてくださるものに力があるのです。エジプトでも荒れ野でも、自分に死ぬことがポイントでした。しかしこれからは、主の中に入ること、主の命で生きることによって、戦い、勝利を得るのです。

6章1節 ②

エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、誰も出入りすることはできなかった。

頑丈な城壁を持つエリコの人々は、四十年間も荒れ野で過ごしたイスラエルの民を恐れていました。彼らが本当に恐れていたのはイスラエル民族ではなく、その背後にいる神でした。

「福音を全世界に宣べ伝えよ」との大宣教命令は、今日の教会にも、一人の神の子にも与えられています。では、教会も神の子も、もっとこの世に出て行くべきでしょうか。その答えは、「物理的には『然り』、霊的には『否』」です。なぜなら、クリスチャンはこの世で生きる者ですが、この世を自分の中に入れてはならないからです。現実的に、この世を持った神の子はこの世の人々に受け入れられ、神を持った神の子は、エリコの人々が城門を閉ざしたように、世から拒まれます。

世の君サタンが主に出会った時も、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(マコ5章7節)と叫びました。神の子がこの世的であれば、この世の人々は心を開きますが、彼らが変わることはありません。神の子が聖霊に支配されているならば、この世の人々は心を閉ざしますが、彼らは脅威を感じつつも、神の子の様子をうかがい続けます。

友よ。福音宣教は、「神が人々に働けるか否か」であり、神が働かなければ何も起こりません。ですから、「神があなたを用いることができるか否か」が重要です。世の人々に心を閉ざされるほど、あなたは神の中に入ってください。そうすると、神はあなたによって外の人に働かれます。

6章2節

そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。

やっとヨルダン川を渡ったのですから、少しぐらい休みが欲しいところです。しかし主は、次の課題・エリコの城の攻略を命じました。

神の子たちには、ヨルダン川を渡った時から次の戦いが待っていました。なぜなら、ヨルダン川を渡った者でなければ、カナンを支配しているもろもろの敵と戦うことはできないからです。内部の敵(肉の力)に勝利した者(聖霊に支配された者)こそが、外部の敵(サタンと世)に勝利できます。

聖霊の満たしは、一人ひとりの神の子に求められていますが、それは個人的必要を超えて周りの人々のためにも必要です。未信者の中に住むもろもろの偶像を滅ぼし、不信仰に陥っている神の子の不信仰を追い出せるのは、聖霊に満たされた人です。したがって、あなたが満たされると、人々も満たされ、人々の満たしが、あなたへの祝福として回って帰って来ます。

友よ。良きものは良きものを生み出し、悪しきものは悪しきものを生み出します。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(マコ4章25節)。これは信仰の法則です。聖霊に満たされる量とは、「神がその人を通して働ける量」とも表現できます。霊の戦いとは、人の戦いではなく、「見よ、わたしはエリコを…あなたの手に渡す」と言われる神の戦いです。また、その神に人が用いられることが霊の戦いです。

6章3節

あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。

ここから、エリコを初めとするもろもろの敵との戦いが始まります。神は戦いに先立ち、ヨシュアに戦い方を教えました。

このエリコの戦いは、神の子たちに戦いの基本を啓示します。「わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡す」(2節)とありますから、「霊の戦いは、神の子が戦うのではなく、神御自身が戦われる」ということが何よりも重要です。

そして、神が授ける作戦は人の考えとは違いました。「最新の武器を仕入れ、隊を三つに分け、一斉攻撃せよ」などといったものではありませんでした。それは、「一日に一回城壁の周囲を回り、六日間同じことを繰り返し、七日目には七周せよ」でした。何事にも、結論とプロセスの整合性がとれていればこそ、確信と希望をもって立ち向かえますが、意味不明では力が出てきません。

神のなさることを「不可解」とするか、それとも「不思議」とするかが重要です。「不可解」とするのは、「これは自分の考えとは違う」ということであり、自己中心からくる傲慢です。「不思議」とするのは、「今の自分にはまだ分からない」とすることであり、神を中心に置く謙遜です。

神の思いが分からない、と言う友よ。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という」(士13章18節)と神は答えました。勝利の道を知っているのは神です。信仰とは、神の計画を信じることではなく、神御自身を信じることです。

6章4節

七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。

神がヨシュアに示した戦法は、「祭司たちが契約の箱を担いで先頭に立ち、エリコの城壁の周りを六日間一周ずつ回り、七日目は七周して角笛を吹き鳴らし、鬨(とき)の声を上げよ」でした。

神の子たちの戦いは、戦争や商売やスポーツなどとは違います。一般的な戦いや競争では、戦った先に勝利がありますが、信仰の戦いでは、勝利は後ろにあります。

人が戦わねばならない敵は、罪と死と、それに導くサタンです。それらと戦えるお方は主イエスのみです。イエスは、罪との戦いでは、十字架で代価を払い、「成し遂げられた」(ヨハ19章30節)と勝利を宣言しました。

死に対しては、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マコ16章6節)と言われたとおりの空っぽの墓が勝利のしるしでした。後ろにある(完了された)救いを受け取らずに、勝利を前に置くとき、その人は律法主義・行いによって救いをつくろうとする敗北者になります。

友よ。罪と死に勝利された、十字架と復活をお持ちである主イエス、このお方と継がり交わるための戦いこそ、信仰の戦いです。あなたの行いによる勝利ではなく、主イエスによって完成している救いを求めましょう。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義(罪と死からの勝利者)とされるのです」(ロマ3章24節)。

(注)( )内は筆者

6章6節

ヌンの子ヨシュアは、まず祭司たちを呼び集め、「契約の箱を担げ。七人は、各自雄羊の角笛を携えて主の箱を先導せよ」と命じ、

ヨシュアはエリコ攻撃に先立ち、まず祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、角笛を吹きながら先頭に立て」と指示しました。

神の前に立つ基本は「神と自分」であり、これを万人祭司制とも言います。しかし、皆が同じ歩調で進めるかというと、そうはなりません。皆に先立つ者、すなわち牧師や伝道師や献身者たちといった、民に先立って契約の箱を担ぎ、角笛を吹いて進む者たちが必要です。

先立つ人とは誰でしょうか。まずは、「契約の箱を担ぐ」者です。箱の中には「十の神の言葉=十戒」があります。みことばを掲げる人は、みことばに支配される人です。さらに、「雄羊の角笛を吹く」者です。雄羊こそは贖いの雄羊・主イエスであり、角笛は神の権威と御臨在を表しました。みことばと聖霊に支配された者たちが必要です。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(Ⅰコリ11章1節)。

友よ。「学ぶ」とは「真似ぶ」ことだそうです。主に倣ったパウロと先人たちに、私たちも倣いましょう。それは、契約の箱=みことばを担ぎ(みことばに支配され)、主の御臨在を告げる角笛を吹くことです。家族の中で、隣人の間で、契約の箱を担ぎ、角笛を吹く人は、他の誰かではなくあなたです。あなたが先に進んでこそ、皆も後について来るようになります。

6章10節

ヨシュアは…「わたしが鬨の声をあげよと命じる日までは、叫んではならない。声を聞かれないようにせよ。口から言葉を発してはならない…」と命じた。

エリコの城壁の周囲を回る間、祭司たちが角笛を吹くことだけは許されましたが、兵士たちは静かに、しかも声を聞かれないように行進しました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マコ16章15節)とのみことばは、勇ましい宣教をイメージさせます。その一方で、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタ12章18~20節)とのみことばは、エリコへ向かう民の姿を思わせます。

「多くの議論、少ない服従」となっていないでしょうか。「人から見た神」について主張する者たちの間には多くの議論が生まれますが、「神から見た人」を知る者には服従がおこされます。主イエスは父なる神の御心に服従し、静かに十字架へ進まれました。その結果、だれよりも力強く大声で叫ぶ者となりました。そして、「異邦人は彼の名に望みをかける」(同21節)ようになりました。

友よ。叫ばずに服従しましょう。あなたが服従して歩むとき、主が叫んでくださいます。信仰の先人の言葉、「聖霊は、求める者にではなく、従う者に与えられる」(アンドリュー・マーレー)に耳を傾けましょう。

6章14~15節

彼らは二日目も、町を一度回って宿営に戻った。同じことを、彼らは六日間繰り返したが、七日目は朝早く、夜明けとともに起き、同じようにして町を七度回った。

民は、エリコの城壁を、一日目から六日目までは一度ずつ回り、七日目には七度回りました。

相手を攻略するという結果は分かっていても、そのために城壁を回ることの意味が分からないと、行動する力が出てこないものです。なぜ、回ることが必要なのでしょうか。

考えられる理由は、
  1. 城壁の弱点を探り、作戦を立てるため
  2. 敵を威嚇し、戦意を失わせるため
  3. 自分の無力を知るため

もちろん、答えは3です。1と2では、さらに自分の力に頼り、虚勢を張らねばなりませんが、3では、むしろ神に頼る以外なくなります。十戒も主の祈りも、完璧な神の子の生き方を教えます。完璧ゆえに、人はその教えを守れない自分に失望せねばなりません。そして、本当に失望した者だけが、「主よ、私にはできませんから、助けてください」と祈ることができます。

荒れ野に四十年もいて、十分な武器さえ持っていない者が、頑丈な城壁を打ち破れるわけがありません。神はそれを知らせ、だからこそ人が助けを求めて御自分に叫ぶようにされます。

友よ。あなたは真剣に神の助けを祈っていますか。それができないと言うならば、それはまだ自分に失望していないからか、あるいは神ではなく人に助けを求めているからではありませんか。それはまた、熱くもなく冷たくもない場所に身を置いているからではありませんか。

6章15節

…彼らは六日間繰り返したが、七日目には朝早く、夜明けとともに起き、同じように町を七度回った。

一日目から六日目まで一日一度ずつ城壁を回っても、敵の隙を見つけることはできません。そして、七日目はその日だけで七度も城壁を回らねばなりませんでした。

戦いには体力が必要なのに、一日に七度も町を回れば、疲労の極みに達し、戦う力は失われます。一般の戦術から大きく外れていますが、これが神の霊の戦いの戦法でした。

一個の「点」は一次元、点が集まり「平面」になり二次元 、平面が集まり「物質(立体)」になると三次元です。一次元は二次元に、二次元は三次元に含まれます。四次元には「時間と空間(人の行動)」が加わり、三次元をコントロールします。霊の世界は四次元より上で時間と空間を超えますから、四次元(人の霊的領域)は五次元にコントロールされます。

もろもろの罪とサタンは霊的なもの(四次元を超えた存在)なので、人の力では太刀打ちできませんが、霊なる神はそれらに勝利できます。したがって、人の勝利の法則は、徹底的に神に依存することです。神がイスラエル人を振り回しているのは、彼らを疲れさせ、彼ら自身の力を失わせ、彼らが自分に絶望するための、緻密な愛の計画でした。

友よ。あなたのエリコは崩れましたか。まだ崩れていない理由は、神の指示した回数どおりにエリコを回らない(不従順)からか、七度回ってもまだ疲れず(降参せず)、自分の力で回り続けているからか、どちらかではありませんか。「自分が負けて、主によって勝つ」のが霊の戦いです。

6章20節 ①

角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、…その場から町に突入し、この町を占領した。

エリコの城壁は、剣によらず、民の叫び声によって崩れ落ちました。ある人いわく、「それは、民の声が合わさり、特殊な周波数となって城壁を崩したからだ」(?)と。

七度も回った民には、もはや城壁を壊す力は残っていませんが、力を失った分だけ、叫ぶ力が強くなりました。これは、自分に対する絶望が、神への激しい求めに変えられたことを意味する、「絶望から叫ぶ祈り」でした。

祈りは、自分に対する絶望と神への信頼から出てきます。ただし、世への絶望は祈りになりません。神の基準で罪や弱さを知る者には聖なる絶望が生まれ、それゆえに神を切に望みます。聖なる絶望と恵みの神への信頼は、どちらもみことばへの服従から生まれます。

この時までヨシュアが沈黙を命じていたのは、民が神以外のものに訴えるのを防ぐため、とも理解できます。神に祈り叫ぶ前に、人々に救いを求める者のなんと多いことでしょうか。霊の必要は、人々によって満たされることはなく、神によってのみ満たされます。

愛する友よ。「神のみことばは、神によって満たされる」とは、「神は御自分の語った言葉を、御自分で満たす」ということです。ですから、神が人に求めるのは祈りです。あなたが自分自身に絶望して神に信頼するのを、神は待っておられます。今日も、「アバ・父よ」と祈りましょう。

6章20節 ②

民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると城壁が崩れ落ち…この町を占領した。

神の民の一斉に叫ぶ声によって、ついに堅固な城壁が崩れ落ちました。このことが起きるまでに、六日間で六回、七日目には七回、角笛が鳴り響きました。

聖書の救済史は、①エデンの時代…追放の裁き ②救済宣言の時代…大洪水の裁き ③信仰の選民時代…エジプトの奴隷 ④律法と預言の時代…バビロン捕囚 ⑤待望と救済の時代…亡国の裁き(AD70) ⑥世界宣教の時代…再臨・千年王国 ⑦救済完成の時代……と、七つに区分できます。そして⑦について、黙示録によれば、七人の御使いが七つのラッパを吹くごとに災いが来ました。六つの時代と最後の時の七つの災いに、エリコの陥落までの日数と角笛の鳴った数が重なります。

エリコの城壁の中に住む人々には、六日間の角笛と七日目の七回の角笛の響きが聞こえていましたが、堅く戸を閉ざし続けました。もしも彼らが、七日間のいずれかの時に城門を開けていたなら、徹底的に滅ぼされることはなかったかもしれません。

友よ。あなたの心の城壁はどうなっていますか。エリコの人々のように城門を固く閉め続けていませんか。それとも、主の軍隊に明け渡し、支配していただいていますか。エリコの陥落も世界の終末も、そしてあなたの人生も、神の救いの法則を示す聖書の中に啓示されています。イスラエルの民が戦って勝利する姿も、エリコの滅びに至る頑固な姿も、あなた自身への神の愛の啓示です。

6章17節

町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。

エリコの町で心の城壁を開いていたのは遊女ラハブだけでした。彼女は神の使者を受けいれ、裁きの日に備えていました。「時が良くても悪くても福音を伝えねばなりません」(Ⅱテモ4章2節)。

《…証し…》

アメリカの森林地帯の木こりに福音を伝えるように頼まれた人がいたが、その場所に行っても誰一人いなかった。しかし、時間になったので、森に向かって力を込めて説教をした。彼は失望して母国へ戻った。数年後、彼がロンドン橋を渡っていた時、一人の男に呼び止められた。その男は、あの時、木こりの道具を忘れたので戻り、木の間から彼の説教を聞いて救われた人であった。みことばを聞いた男は後に献身し、三名の宣教師を遣わす大きな教会の牧師になった……。

人々は、神があまりにも大きな忍耐をもって接してくださるので、本当の命である魂の生死への危機感を忘れ、「神は無能だ」とさえ言うものです。

聖書の真理の啓示を受け取った友よ。誰かがエリコの城壁に忍び込み、待っているラハブに神の救いと世の滅びを伝えねばなりません。私たちは、三年実のならないいちじくを管理する園丁になって、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます」(ルカ13章6~9節)と言えるほどの熱意をもって、福音を伝えたいものです。

6章21節

彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。

城壁の中に入った神の軍隊は、ラハブの家の者以外は全て滅ぼし尽くさねばなりませんでした。

「殺してはならない」と命じる神が「滅ぼし尽くせ」と言うことに、つまずきを覚える人もいます。聖書にはその他にも、「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもロバも殺せ」(サム上15章3節・新改訳)ともあります。

「聖絶」なる聖書の主張は、「罪は徹底的に裁かれねばならない。そこに哀れみ・妥協・曖昧さ・人間的許しなどはあり得ない」ことを示しています。これはヒューマニズムとは合致も融和もしません。神は、「自由を持ち、自由を与えると共に、徹底的に責任を持つ」お方ですが、人は、「自分の自由は欲しても他者には与えないし、徹底的に責任逃れをする」者です。神は自分を犠牲にして人を救いますが、人は他者を犠牲にして自分を救おうとします。ヒューマニズムの正体は自己中心と自己至上主義ですから、それは神を徹底的に嫌います。

友よ。罪に対する神の厳しさは、人に完全な救い(全き義)を備えるためです。聖絶は、神の奥義であり、人間の知性では理解できない聖書の真理です。ただしこれは、十字架を見上げ続ける者に聖霊が教えてくださる、聖書の奥義です。

6章18~21節

…ただ滅ぼし尽くすべきものを欲しがらないように気をつけ、滅ぼし尽すべきものの一部でもかすめ取って、イスラエルの宿営全体を滅ぼすような…。

神の厳しい言葉ですが、その裏には愛があります。むしろ、人を本当の愛の中に入れるために、この厳しさがあります。

聖書に、アマレクという民族が出てきます。彼らは、出エジプトして間もないイスラエルの民に戦いを挑みました(出17章)。また後には、サウル王の時代にも登場します。サウル王は彼らを「聖絶」することを怠り、やがて神から退けられることになります(サム上15章)。アマレクは、「人間の肉」の代名詞でした。双子の兄弟エサウとヤコブのうち、エサウは肉を命として生き、その子孫がアマレクとなります。一方ヤコブは、肉の人が霊の人に変えられ、イスラエルになりました。そして、肉の人(古い人)が霊の人(神によって生まれた人)を攻撃するようになります。

本来の人間の姿が回復されねば、人の幸福はあり得ません。本来の人間に戻すことを妨げるものが罪であり、肉です。そして、それを解決できるのは、立派な人になることでも、人間同士が愛し合うことでもありません。ただただ、神に償っていただき、聖めていただかねばなりません。最高のヒューマニズムではなく、アガペーの愛だけがそれを成就してくれます。

友よ。罪に対して戦われたのが十字架のイエスでした。小さな罪も見逃さず、妥協もせず、一つの汚れのためにも血潮の代価を払って下さいました。聖絶はイエスの十字架上で行われました。

6章22節

ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。

ラハブは二人の斥候の言葉に従って、家の窓に赤いひものしるしを付けていました。彼女とその家の者たちは裁きを免れ、救い出されました。

神の民は、過越の祭りによってエジプトを出ました。「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ」(出11章)と神は言われました。そして、それから逃れるために、家の入り口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗れ、と命じました。その夜、神はすべての家を訪ね、血が塗られたイスラエル人の家は過ぎ越しましたが、塗られていないエジプト人の家では長子(永遠の跡取り=永遠の命)を殺さねばなりませんでした。

両者の違いは、聖絶を受け取るか拒むかです。イスラエルの人々は主の聖絶、罪の罰をイエスの血によって払い(柱と鴨居に小羊の血を塗り)ましたが、エジプトの人々はイエスの贖いを受け取らなかったので、自分で罪の価を払わねばなりませんでした。ラハブは遊女であったが救われた、とあります。それは彼女が、彼女の身代わりに聖絶を受け入れたイエスの贖いを信じたからです。

神は厳しい、と言う友よ。決してそうではありません。神はすべての人に自由を与え、責任ある者として立たせておられます。自由には責任が伴いますが、神は人の自由の責任を十字架で引き受けられたのです。だから、神は愛(アガペー・自己犠牲愛)です。

6章23~25節

彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。…ヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。

ラハブがかくまって逃がした斥候たちは、エリコの陥落の時、真っ先に彼女の家に向かい、彼女と家族を保護したに違いありません。愛には愛の報いが、命には命の報いがあります。「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛せよ」との主の言葉は、三つの十字架によって表すことができます。

「主の十字架」
ゴルゴタで主がついた十字架。これは神の私たちへの愛でした。
「自分の十字架」
「己が十字架を負い我に従え」と言われる十字架。神が人を愛するのは当然(!)ですが、愛は双方が与え合ってこそ豊かな命となります。自分の十字架とは、病気や家族などの人生の重荷のことではありません。「神を愛するとは、神の掟を守ること」(Ⅰヨハ5章3節)とあるとおり、主への服従のことです。
「降りない十字架」
主に贖われた者は、主の花嫁です。花嫁は夫の喜び・悲しみ・痛みを共有します。主は、救われない魂のために痛みます。主が私のために十字架から降りなかったように、私たちも主と共に、「隣人を愛する十字架」から降りてはなりません。

友よ。ラハブと彼女の家族が救われたのは、「使者を…彼女がかくまったから」と記されています。命の使者に、彼女も命を賭けました。十字架は、死であると同時に命の交わりです。そうです、自分の命を保ったままでは、相手の命に溶け込めません。十字架は命の始まりです。

6章26節 ①

ヨシュアは…誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は、主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い、城門を建てたときに末子を失う。」

先には、「男も女も滅ぼし尽くせ」と言い、ここでも「エリコの城壁を再建する者の子たちは死ぬ」と言いますが、なぜそんなに厳しいのか、と問いたくなります。

特に旧約聖書の厳しさは、命の厳しさを教えています。生物的な命は「あるか無いか」であって中間はありません。人の魂の命も同じです。「全ての人は罪の中に生まれ…その魂は死ぬ。しかし、主イエスによる罪の赦しと復活の命によって、人は新たに生まれる」。これ以外に救いはありません。「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほかに…ないのです」(使4章12節)。しかし、人が好むのは中間です。なぜなら、真理(神の命)も求めるが、自分の要求(自分の命)も通したいからです。人にはさまざまの判断がゆだねられていますが、最終的な判断を下すのは主御自身です。

後に、「ベテルの人ヒエルはエリコを再建したが、その基礎を据えたときに長子アビラムを失い、扉を取り付けたときに末子セグブを失った」とあります。その理由は、「かつて主がヌンの子ヨシュアを通してお告げになったみことば」(列上16章34節)にありました。

友よ。この厳しさは、神が命がけであなたを愛しているからこそのものです。まず自分の理由をおいて、「あなたがたは「(神の)然り」を「(あなたの)然り」とし、「(神の)否」を「(あなたの)否」としなさい」(ヤコブ5章12節)。

6章26節 ②

ヨシュアは…誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は、主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い、城門を建てたときに末子を失う。」

エリコを再建する者への警告が記されています。主の呪い、「長子と末子を失う」とは何のことでしょうか。エリコは神に対して堅く城門を閉ざしました。それこそ不信仰の表明でした。この箇所は、神に心を閉ざして生きる者の姿を教えています。

「基礎を据える」
不信仰の最初は、神以外のものを人生の基礎に据えることです。アダムとエバは自分たちの立つ基礎を園の中央(霊の世界・神の世界)から、園の間(自然界・人の世界)に移しました。この時から人は神の呪いの中に入りました。
「長子を失う」
人にとっての長子とは、長男や初子のことではありません。聖書では、それは「永遠の御国の跡継ぎ=永遠の命」を表します。神を捨てて、神以外のものを命とした時に、永遠の命(長子)は失われます。
「末子を失う」
永遠の命がないまま人生を歩むと、地上で得た家族も功績もすべて失います。長子を得て生きれば、人生の全てが聖別され、神の恵みとされ、家族もその他のことも贖われます。

友よ。エリコの城壁を築いてはなりません。私たちが再建せねばならないのは神の神殿です。私たちはイエスを土台とし、その教え・いやしやもろもろの御業・十字架・復活・聖霊の満たしなどの恵みを受け取り、それを積み重ね、主に住んでいただく神殿とならねばなりません。

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