キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第7章

7章1節 ①

イスラエルの人々は、滅ぼし尽くしてささげるべきことに対して不誠実であった。…アカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。

民はエリコを落とす大勝利を得ますが、その中に、いいえ、大勝利ゆえに得る敗北も同時に体験していました。信仰生活には、勝利したから得る敗北があり、敗北したから得る勝利があります。

神に用いられ名声を得たゆえに、高慢という敗北があります。聖霊の豊かな油を受け、種々の賜物を持ったゆえに、神のものを私物化するという敗北があります。エフェソ教会は、祝福されて多くの枝教会を生みましたが、そのような目に見える大きな教会の現実が、主への初めの愛を失わせるという敗北を経験しました(黙2章)。

「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と自分に敗北したパウロは、「私たちの主キリスト・イエスを通して神に感謝します」と、その時から勝利者になっていました(ロマ7章参照)。族長ヤコブは、父にも兄にも叔父ラバンにも勝利していた時期は、実際には敗北者でした。しかし、ヤボクの渡しで何者かに敗北させられた時、彼は勝利者になっていました。

友よ。目に見える勝利や敗北を得た時、その出来事を通して神を見上げるか、それとも神以外のもの(自分も含む)を見つめるかが問題となります。勝利しても敗北しても、神を見上げるなら勝利を得ることができます。一方、勝利の中にいても敗北の中にいても、神から目を離したなら敗北します。勝利は神のもの、敗北は人のもの、鍵は「誰を見つめるか」です。

7章1節 ②

…アカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った。主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた。

城壁に入った神の民はヨシュアの指示に従って、聖絶の戦いに邁進(まいしん)していました。しかし、兵士の一人アカンは、聖絶せずに金や銀を盗み取りました。このことが、後にイスラエル全体に大きな災いをもたらしました。

キリスト者の生活は、勝利から勝利へ、と常には行かず、時に敗北もするものです。その時、小さな敗北が大きな損失につながることがあります。事実、アカン一人の罪が、民族全体の敗北につながりました。それは、一人の神の子の中にある聖絶されていない小さなことが、その人全体を敗北させるのと似ています。

なぜこの小さなことが大きな敗北となるのでしょうか。それは、霊の戦いが、人の能力を超えた、神にしかできない戦いだからです。神が敵と戦ってくださるか否か、それが勝敗の決め手です。神が戦えなくなるのは、その人が盗人だからではなく、神に対して不従順だからです。結果として人は敗北を味わいます。アカンの罪とは、盗みの罪ではなく、神への不従順の罪です。

罪に気づき、神の前に出られないと悩む友よ。その罪は、神の働きを妨げる本当の原因ではありません。神の働きを止めるのは、神への不従順です。不従順とは、神に顔を向けないことです。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」(Ⅱコリ3章16節)。主に顔を向けて下さい。

7章3節

「アイを撃つのに全軍が出撃するには及びません。二、三千人が行けばいいでしょう。取るに足りぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません。」

エリコで大勝利を治めた兵士たちは、「今度は二、三千人も行けば勝てる」と信じ、意気揚々とアイに向かって進軍して行きました。しかし、彼らはアカンの罪に気づいていません。

サムソンはナジル人(献身者=髪の毛を切らない=神の権威の下にいる者)でした。彼の怪力は、彼が髪の毛を切らない(献身する)ところに働く神の御業でした。サムソンは、一人の女デリラという罪を持ったままの時も、なおペリシテを倒し続けました。しかし、髪の毛を切った時(献身を捨てた時)、彼の力は消失しました。

「アイを撃つのには二~三千人が行けばいい」との判断は妥当に見えましたが、結果は敗北でした。それは、「主がすでに離れている」という計算が彼らにできなかったからでした。士師記で繰り返す民の信仰の浮き沈みの原因は、ただ一言、「そのころイスラエルには王がなく」(士21章25節)と、何度も繰り返される言葉で表されていました。

敗北の中にいる友よ。アイでの敗北もサムソンの敗北も、その原因は彼らの力不足ではなく主イエスの不在でした。罪を自ら清めて強くなるのではなく、自分では罪を清められないからこそ主を見上げ、「主に依り頼み、その偉大な力によって強く」(エフェ6章10節)なるのです。デリラ(罪々)をすぐに切れなくても、髪の毛(献身)を切ってはなりません。

7章4~5節

民のうちから約三千の兵がアイに攻め上ったが、彼らはアイの兵士の前に敗退した。…アイの兵士は…彼らを撃ち、…民の心は挫け、水のようになった。

三千の兵を差し向ければ勝利間違いなし、と思ったヨシュアの計算は完全に狂い、神の軍隊は見事に敗北し、民の心は挫けてしまいました。

この敗北の出来事に、今日の教会の姿を見る思いがします。霊の戦いの基礎は、「聖霊に満たされる=肉に死に、霊に生きる」ヨルダン川を渡ることでした。次に大切なことは、この経験を保ち続けることです。「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはない」(ガラ5章17節)。イスラエルは、神の勝利を自分のものとして、自分の力に頼りました。

教会は、ヨルダン川を渡る聖霊降臨から始まりました。しかし教会は、それを過去のものとし、知識や組織によって神の子を生み出し、キリストの体を造ろうとする、そんなアイでの敗北を繰り返していないでしょうか。

友よ。教会は一人一人の霊性以上になることはありません。大事なのは、神と一人一人との正しい関係(聖霊に支配され、支配され続けること)です。教会の最初の使命は、一人一人が聖霊に満たされるために全力でみことばを語り、祈り仕えることです。霊の人が多くなるにしたがって、神の命がさらに豊かに教会に満ちます。「命(聖霊)が形(神の子・教会)を造る」、これに徹して、みことばを聞くことから始めましょう。

7章6節

ヨシュアは衣服を引き裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭に塵をかぶった。

ヨシュアはじめ長老たちは、あまりの大敗北に頭を抱え、塵をかぶって契約の箱の前に座り込みました。この敗北によってイスラエルが得たものは何でしょうか。

神の御名が汚された(9節参照)
主の祈りの中の「御名を崇めさせたまえ」とは、「私の行いによって神が素晴らしいお方とされますように」ということです。しかしここでは、周りの人々に無力な神を見せつけることになりました。
三十六人の犠牲者が出た(5節)
教会が敗北したとき、三十六人が信仰を失い、あるいは教会から離れた、とも理解できます。教会内の罪や争いは、多くの犠牲者を出すものです。
民の心が冷たくなった(5節)
選ばれた三千人は勇士たちでしたが、その中の一人が罪を犯したことで民の心は冷えました。特に、教会の中の働き人の罪は全体の信仰の熱を冷まします。

自分こそアカンであると思い、心沈む友よ。そこからの解放の道は、「頭に塵をかぶる」ことです。ある大統領が戦争責任を認めた時に引用したみことばが、「塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない」(哀3章29節)でした。それは、「アカンを処刑したアコルの谷へ行け」ということでもあります。そこは罪を処刑する場所、ゴルゴタの丘ですが、同時に、「アコルの谷を希望の門とする」(ホセ2章17節)とも宣言された、復活へとつながる十字架の立つ場所でもあります。

7章7節

ヨシュアは神に言った。「ああ、わが神、主よ。なぜ、あなたはこの民にヨルダン川を渡らせたのですか。…私たちヨルダン川の向こうに…満足していたのです。

かつて神に「強く、雄々しくあれ」と二度声をかけられたヨシュアですが、今は嘆きしか出てきません。せっかくヨルダン川を渡ったのに、荒れ野に戻ってしまったかのようです。ここで彼らに必要なことは、「クリスチャンの悔い改め」です。

神を信じない者が悔い改める罪は「不信仰の罪」です。クリスチャンが悔い改める罪は「不従順の罪」です。不従順の罪とは、「神を信じているが、神の御心に従って歩まない」というものです。

神の子の罪の悔い改めは、神がモーセとヨシュアに言われた、「足から履物を脱ぎなさい(出3章5節・ヨシ5章15節)」が教えています。足から履物を脱ぐ理由は、「ここは聖なる場所だから」でした。足の履物は、世を自分で生きて来た姿です。聖なる場所とは、神の場所です。神の子の悔い改めとは、罪の黒い服を脱いで神に近づくことではなく、黒い服のまま主の前に立つこと、すなわち、履物(自分)を脱ぎ、神の場所に立つことです。

神に向かって嘆く友よ。エリコとの戦いの時のイスラエルの民は、自分(肉)から神(霊)に場所を移した(疲れと無力から神に祈った)ので、大勝利を得ました。しかし、アイとの戦いでは、神から自分へ立ち位置を戻したために敗北しました。あれやこれを悔いることではなく、イエスを主とすることこそが、履物を脱ぐ悔い改めです。

7章8~9節

主よ、イスラエルが敵に背を向けて逃げ帰った今となって、私は何と言えば…。あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか。」

ヨシュアの嘆きは大きく、「どうしてヨルダン川を渡らせたのですか。川の向こうにとどまることで満足だったのに」とまで言わねばならないほどでした。

このつぶやきとも思える嘆きは、不信仰でしょうか、あるいは神への祈りでしょうか。その区別は、神以外のものにつぶやくならば不信仰で、神に向けるならば神への期待です。カインが神に罪を咎められて顔を背けたのは不信仰で、そこで顔を上げれば祈りとなったはずです(創4章参照)。

ヨシュアは、敗北の原因がアカンの罪であるとは気づいていません。原因は人には分からないもので、それを知っているのは神です。カインがあの時、神に顔を上げたならば、「カインよ。あなたが私のところに来るためには、罪が清められねばならない。そのために羊(神の小羊イエス)が必要なのだ。私が備えた小羊(イエス)を持ってきて欲しかった」と、神の声を聞くことができたはずです。ヨシュアは、顔を神に向けて嘆きつぶやいたので、「あなた方の中に罪があったからだ」と神から原因を教えていただけました(11節)。

友よ。たとえ自分の罪の結果敗北したとしても、神の約束にしがみつく他ありません。「主よ、御名のゆえに…」と、ヨシュアのように神ににじり寄ってください。神は次に何をするべきかを教えてくださいます。

7章10~12節

主はヨシュアに言われた。「立ちなさい。なぜ…ひれ伏しているのか…。イスラエルは罪を犯し…。滅ぼし尽くすものを一掃し…。明日に備えて自分を聖別せよ。」

意気消沈したヨシュアが神に顔を上げた時、「立ちなさい。なぜ…ひれ伏すのか」と神に言われました。それと同時に、敗北から立ち上がる道も示されました。

神はヨシュアを叱っているのでも、激励しているのでもなく、彼を立ち上がらせようとしているのです。

そのために、
  1. 原因を知らせ…「罪を犯し」
  2. 解決方法を示し…「滅ぼし尽くすものを一掃し」
  3. 正しい状態に戻す……「自分を聖別せよ」
と、明確に教えます。

問題解決の順序は、罪を見分けることから始まります。彼らの罪は、「三千人もいれば十分」という「自負心」であり、それが「祈り(神の働き)」を失わせました。神と人との根本的な罪の現れが、アカンの罪でした。アカンを除くことが罪の解決ではありません。アカンに罪を犯させた罪(神に依存しない)こそ、最初に解決されねばなりません。それがないと、外科手術が必要なのに湿布で済ませるような対症療法の域から出られません。

神に責められていると思う友よ。叱責と思える言葉こそ、あなたを立ち直らせる言葉です。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられるのです」(ヘブ12章11節)。だから、「萎えた手(祝福を求める信仰)と弱くなった膝(祈り)をまっすぐにしなさい」(12節)。神はあなたを愛するからこそ、愛にあって真理を告げます。

7章12節

「もし、あなたたちの間から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしは、もはやあなたたちと共にいない。」

ヨシュアは神に向かって嘆きました。神はそれに応え、民の中に罪があることを教え、それを取り除き聖別せねばならないことを教えます。それは、具体的な罪の切除でした。

神の子の悔い改めは、不従順を悔い改め、神に対する方向を正すことでした。しかし神は、それだけでは終わらせず、具体的な罪の切除も求めました。方向を神に向けた時に、すべての罪が赦されたのでは? もし神が行いを求めるのであれば、行いによる救いに戻るのでしょうか?

否、顔を神に向けたうえで、具体的な罪を切り捨てねばなりません。「もし、牛であれ、ろば…羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない」(出22章3節)と、神は厳しく命じます。なぜなら、罪は神に赦してもらえますが、罪に対する痛みを知らないと、変えた方向が元に戻ってしまうからです。「償い」が必要なのは、神の恵みをとどめるためであり、これも神の愛です。

友よ。冒頭のみことばの、「一掃しないならば、わたしは、あなたたちと共にいない」とは、「罪を捨てねばあなたを赦さない」という意味ではなく、「あなたが罪を捨てねば、あなたはわたしから離れて行き、わたしはあなたにかかわれなくなる」という意味です。あなたの神を捨てさせるアカンを生かしてはなりません。主の御名によって退けてください。

7章14節

「明日の朝、あなたたちは部族ごとに進み出なさい。主の指摘を受けた部族は、氏族ごと…、氏族は、家族ごと…。家族の男子は、一人ずつ進み出なさい。」

神は、イスラエルの敗北は罪のゆえであると指摘しました。そして、それを具体的に表そうとしています。いよいよ罪探しが始まりました。しかし、人が人の罪を探してはなりません。「主の指摘を受けた部族、氏族、家族、そして一人」の順番でした。罪とは神の前における罪であり、それを知っているのは神だけです。

過去の歴史の中で、何千万、何億という人々が有罪の判決を受け、苦しみつつ命を奪われました。そしてその判決は、強い人の基準で実行されました。

それでは、神が罪人を探すことと、人が罪人を探すことでは、どう違うのでしょうか。それは、
  • 人は罪人探しをし、神は罪探しをします
  • 人は罪人を裁いて、罪を消そうとします。しかし神は罪を裁き、罪人を赦そうとします
  • 人は他者の罪を裁き、自分を義とします。しかし神は自分を十字架につけ、罪人を赦します

神が罪人探しではなく罪探しをするのは、罪を知らなければ告白できず解放されないし、命の道に進めないからです。

友よ。人間同士の「許し」は許可し合うことであり、救いはありません。一方、神の「赦し」には、「相手を受け入れる」という意味があります。主イエスは、御自分が罪人の罪を受け入れて「赦し」を与えます。

7章15節

「…指摘されたなら、その人は財産もろとも火で焼き尽くされねばならない。彼は主の契約を破り、イスラエルにおいては愚かなことをしたからである。」

イスラエルを敗北させた罪が見つかったならば、その人も財産も全て滅ぼし尽くせ、との厳しい言葉です。イスラエルの中にあったこの罪は、今日の教会の中にもあります。

「教会は互いを許し愛し合う所であって、罪を犯している人を探して裁く所ではない」と思いがちです。しかし現実に、教会がキリストの体として成長できず、神の子たちを多く生み出せず、福音を伝えられないでいるのは、やはり滅ぼされていない罪があるからではないでしょうか。

教会の罪とは何でしょうか。それは、「愛にあって真理を語れないこと」です。「主の契約」が真理であり、「罪を滅ぼす」のが愛です。ただし、人の罪を滅ぼすのは、人によってではなく主によってです。罪人ではなく罪を滅ぼすことこそ、「愛にあって真理を語る」の言葉に含まれるものです。これはすなわち、人ではなく神を中心とすることが徹底されることであり、教職・教会の歴史・組織などを「聖書の真理」によって超えねばできないことです。

友よ。教会の中にある罪を弁護することは、自分自身の罪の弁護をすることになります。教会の中で、「愛にあって真理を語り合う」ことをしない罪は、互いを信仰の敗北へ導きます。互いの罪を指摘して(契約を守り)、許し合い(十字架へ押し出し)、解放される交わりが始まるならば、教会全体の祝福となります。

7章16~18節

ヨシュアは早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させると、ユダ族が指摘を受けた。…ゼラの氏族が、…ザブディ家が。…カルミの子アカンが指摘を受けた。

イスラエルの罪、ユダ族の罪、ゼラ氏族、ザブディ家……そして、アカンに行き着きました。

果たして、どこまで罪を探すのでしょうか。その答えは、出エジプト記の以下のみことばの中にありそうです。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが…」(出20章5節)。厳しく見えるこのみことばを後ろから読むと、「私が罪を犯しているのは、先祖の影響である」ともとれます。

これは責任転嫁にも聞こえますが、本当の悔い改めには絶対に必要なことです。したがって、「アカン → ザブディ家 → ゼラ氏族 → ユダ族 → アダムとエバ(原罪)」とさかのぼらねばなりません。アカンと私たちが、先祖であるアダムとエバから引き継いだ原罪がはっきりする時、罪人探しではなく罪探しが行われます。そして、私たちは互いが罪人であって、私もあなたも神に赦されねばならない同士であることがわかります。これが人間同士の許しです。

自分と他者との罪の中にさまよう友よ。出エジプト記の次のみことば、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(6節)にさらに目を止め、そして、「主よ、生死にかかわるこの争いを、わたしに代わって争い、命をあがなってください」(哀3章58節)と、主の前に出て行きましょう。

7章24節

ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、…アコルの谷にそれらを運び、

ついに敗北の原因を探り当てました。アカンは、滅ぼし尽くすべきだったものの一部を盗み取り、自分の天幕の地下に隠していました。ヨシュアはそれらをアコルの谷に運び出させます。

アカンの罪は、敵に勝利したからこそ得た罪です。それは、律法を守ることで得てしまう罪にも似ています。そしてそれは、一人一人の中にあります。アカンの罪と最も激しく戦った人はパウロでした。パウロはだれよりも熱心に律法による勝利(?)を得て、迫害者になっていましたが、ダマスコ途上で主に出会いました。しかしそれから間もなく、彼はアラビアの砂漠に三年間退きました。そうしたのは、自分の肉との戦いのためであった、とローマ書七章から推測できます。

勝利して得る罪は、敗北して知る罪より見分けにくいもので、自分自身では気づかず、イスラエルの敗北のように、家族の痛みなどによって知るものです。

友よ。アカンの罪が他者からは見えなかったように、教会の奉仕などで得る高慢や行いからつくられる罪は、自分の天幕の下に隠せる罪でもあります。しかし、他者に隠せても、神に隠し続けることはできません。隠し続けるなら、「さらに息子や娘…」を巻き込むことになります。さあ、勇気を出して、隠したものを天幕から出し、「アコルの谷」に運んでください。そこは十字架がある場所(ゴルゴタ)です。罪を告白する(アコルの谷に運ぶ)ことは解放の始まりです。

7章25~26節

全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。…その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている。

アカンが犯した罪は、彼一人を死に定めるどころか、彼の家族をも巻き込んでいました。罪の特徴は、一人にとどまらず、周りをも巻き込むことです。私の罪が家族を神から退けるとするならば、それは、家族が石打ちの刑に処せられて死ぬのと同じことになります。

聖書は、アカンの罪の処刑場であったアコルの谷について、「その所で、わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき、エジプトの地から上ってきた日のように」(ホセ2章17節)と記しました。そこは罪が処断される場、ゴルゴタの丘です。そしてそこは、ぶどうの枝が幹に継がり、救いの日の感動を取り戻す場です。その代価こそ、十字架上の主イエスの最後の言葉、「すべては終わった」でした。

友よ。あなたのアカンをアコルの谷へ連れ出してください。「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」(箴28章13節)のですから。 「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。わたしは言いました、『主にわたしの背きを告白しよう』と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました」(詩32・5)。冒頭のみことば、「その場所の名はアコル…今日に至っている」とは、「ゴルゴタの十字架の恵みは今日まで続いている」ということでもあります。アーメン

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